新しい戦術の実験
~承前
ウサギの国の都……と言うよりも、唯一まともな都市構造を持つ街アトシャーマを後にして1週間。ル・ガル北方征伐軍はウサギとクマの国を隔てる山並みを遂に越えた。
寒立馬に跨がるフレミナ陣営を先頭とし、慎重な足取りで一行は進んでいる。スペンサーを預かるドリーはすっかり大人しくなっており、フレミナとスペンサーの間に居たキャリの近くで馬に跨がっていた。
「いよいよ……クマの国ですね」
目深に防寒フードを降ろしたキャリは、風の悲鳴の中に微かな生活臭を嗅ぎ分けていた。間違い無くここには何者かが暮らしている。それを実感しているのだが、その正体が見えてこないのだった。
「俺も……ここまで入ったのは初めてだぜ」
キャリの側近として近くにいたタリカは、やや怪訝そうな声でそう言った。フレミナを預かるオクルカ公の息子として、彼は様々な現場へと送り出されてきた。だが、その足跡はウサギの国までで、クマの国に足を踏み入れた事は無かった。
「実は私もですよ。と言うより、フレミナ地方を通り抜けた事ですら初めてです」
余所行きの言葉でそう言ったドリーは、寒さをモノともせず頭巾ひとつ被っていなかった。だが、猛闘種はそもそもに毛が少なく、またマズルが短いのが特徴だ。その為か、この寒気の中では鼻水が止まらないらしい。
「ドリーおじさん。何か被りましょう。いざという時にそれじゃ困ります」
キャリとタリカのやや後方に陣取っていたララは、背負っていた背嚢の中から大きめのショールを取り出すと、ドリーに近づいて頭の天辺から上手に巻き付けた。そのショールには上品な花の香りが残っていて、ドリーは思わず笑顔になった。
「いやいや、申し訳無い」
馬の脚が半分ほども隠れてしまう様な積雪路だが、寒立馬の大きな蹄に踏み潰されていて、スペンサーの一門が歩く頃には下手な舗装路なみになって居た。そんな状態で山を下りていくのだが、段々と風も弱くなり始めている。
――――そろそろ麓か……
そんな声があちこちから聞こえ出す頃、キャリは振り返っていま越えてきた峠道を見上げていた。険しい道のりであったが、仲間達のおかげで無事に乗り越えられたのだ。
「麓に降りたら小休止しましょう。まずは腹拵えですね」
キャリは全体像を捉えたつもりになってそう提案した。雪道を歩き続けた馬も歩兵もクタクタに疲れている。ならばまずは暖かいモノを食べて気力体力を錬成し、決戦に備えるべきだと考えたのだ。だが……
「いや、もう少し進もうぜ。ここだとまた雪崩にやられるかも知れねぇし」
タリカは雪深いフレミナ地方出身者らしい視点でそう提案し返した。一行は着々と進んでいるのだが、実際はまだ緩斜面の途中だった。
「そうですな。雪原というのは雪の下が読めないだけに怖いです」
ドリーは宿営地をどうするか?と言う視点で語ってた。雪の上ではゆっくり休めないのだから、せめて地ベタの見える所まで行きたいのだ。それが出来なければ、洞窟など雪をしのげる所が必要になる。
雪面の上では鍋を設置することすら出来ず、冷えたモノを食べねばならない。寒冷環境で冷えたモノを食べれば下痢を起こしてしまう。そして、その便臭は風に乗って遠くまで流れていき、こちらの不調を敵が知る事になる……
――――学ぶ事は多いな……
ふとそんな事を思ったキャリは、『そうですね』と素直に賛意を示して流れに任せることにした。そこには新参者の遠慮と若輩者の控え目さが溢れているが、そんなキャリの脇腹をドンと突いてララが小さな声で言った。
「もうちょっと前に出なさい。それじゃ……舐められるわよ」
女性のような言葉使いだが、何処かに黒耀種の気っ風を混ぜてあるララ。ある意味で自分には出来なかった事だけに、何処か歯がゆい想いもあるのかもしれない。
ただ、キャリは苦笑いして首を僅かに振り、『そうじゃねぇよ』と言わんばかりの貌になってララを見ていた。父カリオンとは違う統率スタイルになるのかも知れないな……と、誰もが同じ事を思った。
「ドレイク卿! 弾正殿が来て欲しいと!」
どこからともなく声が掛かり、ドリーは『御免』と一言残して馬の腹を蹴っていた。一気に隊列の先頭に出たのだが、そこには足を止めたオクルカが居た。
「弾正殿! 如何された!」
馬の脚を落としてオクルカに並んだドリー。
そんな姿を見て取ったオクルカは、ウンザリ気味の顔をして前方を指差した。
「そろそろ来る頃だとは思ってましたが、まさかこことはね」
オクルカの指の先には、全身を白い体毛で覆った巨躯の人影があった。酷寒冷地を住処としてきた北辺の民族。シロクマと呼ばれる一族だった。そしてそれだけで無く、その近くには純白の体毛を持ち赤い目をしたウサギの姿もある。
クマとウサギの連合軍は、雪原を埋めるような数で集まっていた。緩斜面のそこの辺りで待ち構えて居るのだが、兵法の常識で言えばあり得ない事だった。
「厄介な所に陣取ってやがりますね。あそこじゃ馬の脚がもたねぇ……」
ボソリと零したのはこれまた真っ白な体毛を持つ北辺地域を住処としてきたオオカミだった。凡そ200の氏族を数えるというフレミナ一門の中にあって、辺境地域を根城とする山岳系一派の長が口を挟んだのだ。
「……それは? どうしてですかな?」
控え目かつ穏やかな口調で言ったドリー。
そこにはフレミナ一門への配慮が見え隠れしてた。
「いや、ここは斜面でやしょ?」
白いオオカミは斜面を指差して言った。下り坂を駆け下りるには前脚に力が掛かるモノ。騎兵ならば下り坂の斜面では脚を折らないように注意するのが常識だ。
「あぁ…… そうか…… 斜面か……」
どうしたって前脚が沈む場所で、しかも雪原だ。雪の下に何があるのかはまったく解らない。そんな環境では騎兵の突撃など望むべくも無いし、強引に吶喊すれば大怪我では済まない。
「さてさて、どうしたものか……」
顎を擦りながら思案しているオクルカ。ドリーは『私のやり方を研究していたんですな』と漏らし、自嘲気味にせせら笑った。つまり、いつでもどこでも吶喊するドリー対策でここに陣取ったのだった。
ここならば馬は加減して走るしか無い。つまり、ドリーの得意な突衝力を減耗させ、その速度を殺し、強力な膂力で以て対抗する事が出来ると踏んだのだろう。
「あまりバカでは無い……と、言う事ですね」
唐突に口を挟んだのは、後方からやって来たキャリだった。そのワキにはタリカとララが居て、しかもそこには真っ白の布を身体に撒いたイヌがいた。アッバース家の氏族のひとつ。乾燥しきった砂漠地帯の中で、岩と瓦礫ばかりの荒れ地に暮らしてきた者達の末裔だった。
「ここならば新しい戦術を試すのに絶好の環境ですね。ドリーおじさん。ここは是非アッバース家の皆さんに力を発揮して貰いましょう」
ララは満面の笑みを浮かべてそう言った。まるで美しい華が咲いたようなララの表情に、ドリーは反対意見を言いそびれていた。それでは騎兵の面目が立ちもうさん!と声を荒げかけ、すんでの所で飲み込んでいたのだ。
「……と、言うと、いったいどんな?」
怪訝そうにそう問い返したオクルカ。ララはすぐ近くにいたアッバース家の男の背中をポンと叩き紹介した。背の高いシュッとした男だった。
「アッバース家の秘密兵器。寒冷地向けのイブラハさんです」
ララの明るい声にタリカが一瞬表情を変えた。惚れた女の明るい声に反応したのだが、その反応の内容が嫉妬なのは言うまでも無い。ララは楽しげな表情でイブラハを紹介し、当のイブラハ自身が笑顔でララを見ていた。
「姫よりご紹介に与りましたイブラハです。アッバース氏族の中でサウディ家の傍流でありますマフディ出身です。微力を尽くしますので、どうかお見知りおき下さい」
きちんと貴族の礼儀を見せたイブラハは、鼻筋の通った好青年だった。ただ、その顔にはあちこちに火傷の痕が有り、散々と銃の取り扱いや射撃を練習したことが見て取れた。
「ヒトの世界の戦術ですが、散兵戦術と言って隊列を組まずに突進し、バラバラに戦闘するというモノがあります。その要点を学んできたのですが、それをイブラハさんに実演して貰おうと思っています」
自信たっぷりにそう説明したララ。その隣ではイブラハは特性のロングバレルなマジカルファイヤ方式の銃を取りだして見せていた。
「これが上手くいけば次は騎兵と銃兵の連動戦闘です。ヒトの世界では200年掛けて進化した戦術だと言うそうですが、私達はこれを1年で実現させようと思っています。どうでしょうか」
あくまで提案の形でララは切り出した。
だが、それはドリーにもオクルカにも拒否など出来ない提案だった。
「……なるほど。で、我々騎兵は何をすればよろしいか?」
オクルカは興味深そうにそう問うた。
それに対し応えたのは、以外にもタリカだった。
「父上、例の戦車から取り外した300匁の設置を手伝ってほしい。アレで支援射撃しつつ、散兵の吶喊を行いたいんだ」
タリカの提案したそれは、野砲による突撃支援という戦術だった。ヒトの世界では当たり前な戦術だが、この世界ではあり得ない事だった。なにせまだまだ砲撃の命中精度が悪い。言い換えれば何処に行くか解らない。
それ故に、砲自体を威嚇的な使い道に固定せざるを得ないのだ。だが、逆に言えば何処に行くか解らないので敵を釘付けに出来る。それを見越したララとタリカの提案に、ドリーは驚きを飲み込むので精一杯だった。
昨今のコロナ禍により仕事が微妙な状態でして、残念ながらちょっと不定期になります。