それぞれの成長
~承前
「若ッ! 若ッ! 若はいずこぞ!」
ドリーは必死になって大声を張り上げていた。
一面の銀世界には風の声だけが轟々と響いていて、その声を掻き消していた。
そもそも山岳地帯にあるウサギの国だが、その中でもクマの国へと続く北部山岳地帯は、猛烈な吹雪に巻かれるとんでも無い環境だったのだ。
「オクルカ殿! 弾正殿! 若の気配は分かりませぬか!」
ドリーは涙声になっていた。北方へと逃げるウサギを追って北上を続けたル・ガル北方派遣軍団だが、ウサギの尻尾は見えそうで見えない絶妙の距離だった。
そんな状態で逃げる敵ならば、猛闘種であるスペンサー家の騎兵たちは後先考えずに追跡してしまう。それ自体が罠である可能性も考慮しているが、些少の犠牲を払って罠を食い破れるなら問題無い。
猪突猛進を画に描いたようなスペンサー軍団は、雪原に強い馬を使うフレミナ一派ですらも引き離して突進していた。そしてそこで、スペンサーの騎兵たちは致命的な失敗を知ったのだ。
「それが手前にもまったく気配が掴めませぬ」
オクルカも困り果てた様子で一面の雪原を見ていた。左右を峻険な山並みに挟まれた雪原の隘路。そこへスペンサーの一行が到達した時、ウサギは初めて強力な魔術を使った。
と言ってもそれは、火の玉だの突風だの落雷だのと言った、敵の目を眩ます一発芸では無い。左右の山並みに挟まれた隘路に重力の特異点を生み出す凄まじい空間魔術だ。
それにより左右の山並みから大量の雪が巻き上がり、雪崩となって隘路に流れ込んだのだ。そしてそれは、雪原の中で移動に難儀していた戦車の中に居たキャリとタリカを雪の下深くに埋めてしまったのだ。
「若ッ! 若ッ! いまお側に参りますぞ!」
ドリーは泣きながら雪面を掘り始めた。いくらイヌの鼻が優秀でも、吹雪に巻かれた雪原の中で雪の下の臭いを嗅ぎ分けるなど出来やしない。故にドリーは、最後にキャリの姿を見た辺りの雪原を当てずっぽうで掘り始めたのだ。
その周囲ではスペンサー家だけでなく、フレミナ一派やアッバース家の歩兵まで含めた3万人近い兵士たちがキャリを探して雪を掘り始めた。堅く締まった雪の層はスコップなどでは歯が立たず、騎兵たちは槍を使って雪をほぐし始めたのだ。
その時だった。
「ん?」
オクルカが何かの音に気が付いた。
やや離れた雪原の辺りから、何か音が聞こえたのだ。
「全員手を止めろ!」
弾正の指示が出れば、全員が手を止めるしかない。動くモノの気配が消えた雪原のど真ん中で、オクルカは目を閉じて耳に全神経を集中した。サウンドロケーションの技術は、ホワイトアウトを日常的に経験する地域の民の必須能力だ。
酷い吹雪の中、こうやって自分の座標を探し当てて目的地へと旅をする。そんな手探りの地上航海法をやって来たオクルカの耳は、確かに何か金属がぶつかる音を聞いたのだ。
「……あっ!」
それが何の音だか理解したとき、オクルカはあらん限りの大声で叫んでいた。
「全員左右へ別れろ! 大至急!」
頭上で両手を左右に広げ、散開を指示したオクルカ。その場に居た者達は一瞬だけ理解するのに時間を要したが、すぐにその場を離れ始めた。ただ、全員が離れる前にオクルカの聞き取った音の正体が到達していた。
「どこだっ!」
奥歯をグッと噛んで度胸を据えたオクルカ。そんな弾正の目と鼻の先ほどで、いきなり雪原が爆ぜて大爆発を起こした。雪や氷の塊が空中へと吹き飛び、その直後に炎が吹き出した。
そう。キャリとタリカの2人は真っ暗闇となった戦車の中で、僅かしか無い砲弾をぶっ放していたのだ。最初は破甲弾だったのかも知れない。だが3発目には榴弾を使い、5発目の時には地上へ繋がる空洞を作っていた。
「弾正殿! ちょっと手を貸して下され!」
その空洞へ迷わず飛び込んだドリーは、両手を血だらけにしながら氷の壁を砕いて前進し始めた。強い圧が掛かった雪の層は、まるで鉄板のように固くなっている。だが、ドリーは自分の両手から全て爪が剥がれ落ちているのも気が付かない。
「若ッ! 若ッ! いずこにおわしますか!」
ザクザクと掘り進めていったドリーの手が何かに触れた。すっかり冷え切って手の感触など無くなっていたのだが、それでも指先に熱を感じたのだ。
「その声はスペンサー卿。もう一発撃つのでそこをどいて下さい」
それは間違い無くキャリの声だ。
ドリーは泣きながら笑って『畏まりました!』と叫び、穴蔵から出ていった。
「全員退避!」
ドリーの声が響くと同時、再び榴弾が放たれた。穴蔵の何処かに命中した榴弾は大爆発し、その穴を大きく広げていた。全員が固唾を呑んで見守る中、ややあって雪原深くから最初に姿を現したのはララだった。
女性特有のしなやかな身体により、僅かな隙間から抜け出してきたのだ。そしてその直後、今度はタリカが姿を現した。先頭で出たララがロープを垂らし、それにそって出てきたのだ。
「父上! 手を貸して!」
タリカがそう叫ぶと、オクルカを含めたフレミナのオオカミたちが一斉に動き出した。雪中に飛び込む者や、ロープを伝って奥深くへアクセスを試みる者。そんな流れの中で、一番奥からキャリが地上へと上がってきた。
拍手と喝采が響く中、左腕を押さえて出てきたキャリは、すぐさま右手を挙げて歓声に応えた。ただ、その後の動きは全員の慮外だった。
「ちょっと手を貸して! まだ埋まってる者が居る! 死んでしまう!」
戦車の後方で弾薬輸送に当たっていた荷車組がまだ雪の下に居たのだ。すぐさま開削部隊が編成され、工兵がその任に当たった。怪我をしているはずのキャリは黙ってその作業を見守り、その近くにはドリーがついていた。
「若…… ご無事で何よりです……」
それ以上の言葉が無いドリーは、両手からダラダラと血を流しながらキャリを見ていた。ただ、当のキャリは何処か涼しい風で、衛生兵を呼び寄せドリーの手当てを命じた。
「私もまた王の試練を受けた身ですからね。運の良さは折り紙付きです。この程度で死ぬほど柔ではありません。それより……」
そう。キャリが心配しているのは戦車のサポート部隊だ。彼らが居なければ戦車は思うように戦果を上げることが出来ない。そもそも地盤の安定した場所で使う為の物なのだから、雪原に持ち込む方が間違いなのだが……
「解っております若ッ! 必ずや若の開発された新兵器を掘り起こしてご覧に入れましょう!」
ドリーは燃える眼差しで事に当たり始めた。そこまでしなくとも……と思うようなシチュエーションだが、ドリーにとってはリベンジの一環なのかも知れない。
「……そうですね」
僅かにため息を交え、キャリは自体の推移を見守った。その後方では雪の中の寒さにララが震えていて、タリカが自分の外套をララに被せ保温しようと気を使っていた。
「ウサギとかクマは寒くないのかしら……」
ララの新鮮な驚きはもっともだ。寒暖計など無い世界故に正確な温度を知るなど出来やしない。だが、それ故に全員が助かっているとも言える。現時点における気温は氷点下18℃で、油断すれば鼻毛まで凍る寒さだった。
「彼らはオオカミ以上に寒さに強いし、ことウサギに至っては男女の境なく同衾する事で暖を取り寒さを凌ぐ知恵を発揮する。まぁ、我々から見れば男ばかり5人も6人も集まって同衾など考えたくも無いがね」
笑いながらそう説明したオクルカ。同じタイミングで雪中からサポートチームの者が掘り起こされ始め、低体温となって仮死状態だった者達に治療魔術が施され始めた。
そんなシーンを見ながら、オクルカはボソリと零した。ウサギほどでは無いが、オオカミの暮らす地でも寒さに耐える季節はある。そんな状況の中で導き出された命を守る術は、遙か北方でも有効なのだ……と。
「この先に役に立つな……」
それの意味する所を理解出来ない事は無い。
更に北方へ攻め込むつもりなのだから、準備を怠る訳には行かないのだ。
「弾正どの! ちょっと来て下され!」
救出された者達が治療を受ける辺りから呼び出され、オクルカはタリカやキャリと共にその場へとやって来た。毛布の上に寝転がっている者は虫の息で、キャリは傍らへすぐに寄り、冷え切った手を握りしめた。
「死ぬな! 死なないでくれ! そなたらを失いたくない!」
必死になって呼び掛けるキャリだが、もう虫の息になっている者は半ば凍った頬を笑みに歪ませながら言った。紫の唇がパリパリと割れながら動き、シャーベット状になった血が滲んでいた。
「若の覇道を見られないのが残念です……」
その一言を呟き、ガクリと震えて動かなくなった。
キャリは小さな声で『すまない……本当にすまない……』と呟き続けた。
だが、本当に恥と憤りで震える者は、キャリの背後に居たのだった。
「全て小官の不徳のいたす所なれば……」
それ以上の言葉を吐けなかったドリーは、己の不明さを心魂より恥じた。彼自身にも学ばせたいと思ったカリオンの深謀遠慮がこの場にて結果を出したのだった。