ル・ガル存亡の危機
~承前
重い空気の張り詰める太陽王執務室。
年が明けて本来であれば新年を寿ぐ空気があるはずの室内では、報告書のページを捲る音だけが響いていた。報告書の発行者は国軍参謀本部の情報分析官で、その内容は一斉越境による各国境詰め所の被害についてだ。
「……つまり、控えめに言って我がル・ガル存亡の危機だな?」
前夜より報告書を読み込んでいたカリオンは、固い声でそう発した。室内には現時点におけるカリオン政権の中枢に加え、国軍の関係者が出席している御前会議だった。
会議の主題は国防における今後の方針に過ぎない。ただ、その内容は余りに巨大で重いものだ。ル・ガルへの越境侵入を開始したのはクマとカモシカに加え、トラの一団が本格的な侵入を開始している。
だが、それらへの対処はある意味で容易い。銃兵を組織的に運用しているル・ガルならば十分対処が出来る。ここで問題なのは、各所にウサギの姿が散見される事だ。そしてそのウサギに混じり、キツネの姿を見たと言う報告が上がっていた。
「そうです。残念ですが、地獄の釜が蓋を開けたようです」
北方への備えとしてあるボルボン家から派遣されてきた高級参謀がそう発した。
クマの越境によるフレミナ地域の惨状は論説に尽くしがたく、各集落では着の身着のままに南方への避難が続いていた。
「被害状況はどうなんだ?」
カリオンの声が普段の5割増しで固い。
そんな様子に各々が王の内心を思っていた。
「各軍団の被害は残戦力としておよそ7割で『そうではない! 民衆の被害だ!』
珍しく声を荒げたカリオンは、厳しい表情で北方から来た少将を怒鳴り付けた。
執務室から音が消え、ボルボン家に属する将は深々と頭を下げでから言った。
「申し訳ありません。小官が把握しますところ、市民の犠牲はおよそ7000ないし8000。フレミナ地方は北方にいくほど集落が焼かれております。また、行方知れずとなっている者はおよそ5000を数えるかと。いずれにせよクマ勢力圏では正確な数字が把握出来ておりません」
冷たい眼差しのまま報告を聞いたカリオンは『そうか』とだけ応え、頭を掻いていた。思案にくれるカリオンが見せるその仕草は、父ゼルがよくやっていた難問を思案する姿だ。
――どうする?
カリオンが危惧するのはフレミナとの関係だ。一衣帯水になりつつあるとはいえ、いまだ根深い対立は残っている。その為、この問題の対処を誤れば元の木阿弥になりかねないと危惧している。
ル・ガルとフレミナの融合は喫緊の課題と言って良いものだ。ル・ガルの絶対的な安定を内外に示すモノであり、また、絶対的な国力をオオカミに裂かなくても良いと言うアドバンテージそのものだ。
故にカリオンは思案に暮れる。ル・ガル市民を慰撫しつつ、フレミナ市民の安寧を確保し、ル・ガルとの対立を選ばせないようにする事が肝要だ。
「フレミナ地方市民への支援はどうだ?」
カリオンの問いに回答したのは農務行政担当大臣だった。
「食料等の難民支援は順調に推移しておりますが、最終的には地域を奪還し帰宅させることが肝要かと。現段階における不足品はそれほど深刻ではありませんが、山岳地帯のわずかな平地のみで耕作する地域ですと数年単位での収量不足が予想されます」
とかくフレミナ地域では食料に対する供給の弾力性が無い。わずかな平地を慈しむように耕される耕作地は、見事なまでの段々畑を展開している有り様だ。だが、そんな畑は用意に破壊されてしまうもの。
古来より連面と作られてきた給水体勢等も、木っ端微塵に破壊されると立ち直りは難しい。長い時間をかけて作られてきたものは、試行錯誤の末に出来上がった微妙なバランスの賜物であることが多い。
傍目には安定して見える段々畑の高度な土工も、それを一番したで支える要石ひとつを抜くことで崩れ去ってしまう。つまり、追い返したとて嫌がらせのようにそれらすべてを破壊して行かれれば、手間が増えるということだ。
「一気に奪還せねばならんのか」
破壊活動をする暇など無く、一斉に襲いかかって皆殺しにせねばならない。そもそもに力のあるクマの場合、数人でも残っていれば嫌がらせには十分だ。
「山岳地帯ゆえに騎兵による機動戦は行えません」
ボルボン家から来た将がそう言うと、執務室のなかは再び静まり返った。
「……うーん」
低い声で唸るカリオン。
率直に言えば打つ手無しの状況なのだ。
「いっそヒトの知識にある散兵戦術を使いましょうか?」
執務室のなかで話を聞いていたララはそう提案した。
ここしばらく、ビッグストンや総合大学などの教授陣を招いて城の中で特別講義を開催していたのだが、その席に参加していたララは鋭い視点で問題を見抜き大胆な戦術提案を行うようになっていた。
「……なにか良い案があるのか?」
カリオンはララに更なる考察を求めた。若者の発想は時に固定観念を飛び越えることがある。だが、それ以上にララの思考は柔軟で、尚且つ意外性に富んでいた。
「簡単です。従来は方陣や銃列を敷いて面で圧していました。騎兵段列を組み前進していたのと基本的に変わりません。ですが、散兵戦術の場合ですと銃を装備した歩兵をバラバラに前進させ暫時銃撃を加えます。これにより――」
ララは身振り手振りを交え、従来のドクトリンを完全に打破するまったく新しい戦術を考察して見せた。話は簡単だ、点と点で戦っていた騎士同士の戦闘が騎兵による面と面の接触に変わったのだから、それが更に進むだけなのだ。
「――いわば面では無く雲や霞、霧と言った不定形の陣形となり、敵を完全に包み込みます。面接触した時点で面殲滅をする必要はありません。そのまま敵陣をこちら側の雲のような陣形に取り込み、全方向から銃撃を加えます」
ララが説明したその戦術は、カリオンの脳裏にゼルを呼び起こすモノになった。
――――水の流れは理に逆らわない。
「……父上」
カリオンがボソリと呟いた時、執務室の中がスッと静かになった。
「陛下…… どうかご教示くだされ」
ボルボン家の参謀はそう言って頭を下げた。もはやカリオンを育てたゼルがヒトの影武者であったことなど周知の事実。その中でカリオンが学んだヒトの常識とでも言うべきモノは、まったく新しいドクトリンを学ぶ理由その物だった。
「これは余を育てたヒトの男の教えだ。水の流れは理に逆らわない。あっちを先にこっちを後になどとも考えない。器が四角なら水も四角に。それが円なら水も円くなる。戦いも同じ。戦も同じ。水は少しでも低ければそこへ流れ込むと言う」
カリオンはかつてゼルに教えられた事を音吐朗々に語って聞かせた。統制の取れた芸術的な戦列戦闘を教え込まれるビッグストンにおいて、カリオンは数々のピンチをこれで切り抜けていた。
「見るとは無しに全体を見る。少しでも弱い所は必ず潰す。大勝ちを欲張らず小さな勝ちを積み重ねる。全てが終った時、結果的に勝っている。勝ち方に正解など無いが、負ければ死ぬ。つまり、話は簡単だ」
しんと静まりかえった執務室の中にカリオンの声が流れる。
余りにも絶望的な、現実と言う名の絶対摂理は至極当たり前のモノだった。
「正しいから勝つんじゃない。勝ったから正しい。それを忘れれば亡国一直線だ」
その言葉を言った時、カリオンはハッとした表情になって思案に耽った。自分自身の言葉に自分自身が驚く。そんな間抜けなシーンだが、誰にでもある事でもあった。
そして同時に、何か心の中に引っかかるモノが現れて、カリオンは必死になってそれを思いだした。誰かが言った発言の中に絶対真理が隠れていた。それは、この絶望的な現実を再定義出来るモノだった。
「父上?」
ララは怪訝な表情でカリオンを呼んだ。
「あぁ、すまん。大事な事を思いだした」
ニヤリと笑いながらカリオンは天井を見上げた。何故そうしたのかを合理的に説明出来る言葉など無い。だが、少なくともカリオンの脳裏にビジョンとして新しい世界が浮かんでいた。
「かつて、ヒトの世界で参謀だった男が吐いた言葉を思い出した。ル・ガルがル・ガルであるままに、世界を背負う重責から逃れる方法だ」
カリオンの脳裏に浮かび上がったのはマサだ。ヒトの世界では突拍子も無い事をやりすぎて色々と苦労をしたらしい。ただ、その苦労話を嬉しそうに話すのだから、見ている方としてはリアクションに困るのだが。
――――ココでも物の見方を変えましょう
――――なにも世界をイヌが支配しなくとも良いのです
――――世界が法に支配される国家になれば良いのです
――――国家間の約定により安定を求める世界です
マサは明るい声でそう言った。つまり、法による支配を受けると言うヒトの世界におけるコモンセンスをこの世界に持ち込もうというのだ。つまり、この世界の全てをル・ガルが征服し、その上でル・ガルもまた法の支配を受ける存在となる。
結果的にそれが世界の平和と安定徒に繋がるし、もっと言えば多くの国家が平等で対等な存在となって共存共栄を図れるはず。少なくともヒトの世界では夥しい犠牲を払いながら世界を何度も焼くような闘争を行った結果だという。
「やはり、世界を征服しましょう」
ウォークは全てを見透かしたかのようにそう言った。そして『来週にはキャリが帰ってきますので良い機会です』と言い放った。それが何を意味するのかは分かっている。新しい時代の扉を開く準備を行おうというのだった。