次なる災難
~承前
上手く言っている時ほど罠に落ちる。それは、軍務に限らず何事かの指導を行う者にとって本能レベルで理解している世の中の真実かも知れない。そして、そんな歓迎せざるる事態はもう一種類存在し、ある意味でもっと悲惨な事かも知れない。
晴天の霹靂
古来より言われるように、あり得ないと思っていた事態が突如として発生する事がある。千に一つ、万に一つの可能性ながら、そのごく僅かな……それこそ0.01%の可能性でしか無い事態が、前触れもなく突如として発生する。
そしてその手の事態は、往々にして一切リカバリー出来ない状態になってから始めて災難として認識されるケースが多い。『まさか!』と驚き嘆くしか出来ず、生き残る努力はより過酷なものとなる。
「……飢饉……とな」
ため息混じりに漏らしたボロージャ――ウラジミール――は、蹲っているカモシカの若者を蹴り上げながら言葉を続けた。両肘両膝を砕かれた若者は、激痛に呻きながらも憎しみの籠もった眼差しでボロージャを見上げていた。
「事態解決の手段として合戦を選んだというのか?」
再び強く蹴り上げたボロージャは、ボロボロになった膝関節を踏みつけながら、冷たい口調でそう言った。まったく感情を感じさせない醒めきった表情のまま、まるで虫でも踏み潰すかのよう……だ。
「種族繁栄は我等長年の懸案であった! 四離五散な我等の国はこの飢饉で初めて一つにまとまったのだ! 国家をまとめ、民衆を慰撫し、宗主国たる獅子国への献上に腐心したとて、民草が飢える天災ばかりはどうにもならぬ!!」
奥歯をギリギリと鳴らすほどに噛みしめながら、カモシカの若者は鼻息も荒く叫ぶように言った。見ればその若者は既に涙目であった。何がそれほど悔しいのか?とも思うが、その内情を知る事は容易ならぬのだろうし、もしそれが容易くあったとしても知るつもりなど毛頭無い。
「富める国に生きる者には到底理解し得まい! 生きることすらままならぬ国に生まれ、明日なき日々を生きる者の辛さなどわかりはしまい! 他人の足の裏をなめて生きる国の辛さなど……辛さなど……」
国家繁栄と国体護持は全ての国家にとって最重要課題と言える。国民を収めておく袋こそが国家だが、他国凶徒の鬼手より国民を鎧う護りもまた国家の真実。そして、その力をコントロールする存在たる公爵である以上、他国の民は庇護対象では無いのだ。
「だからと言って……」
腕を組んで眺めていたトウリは、呆れた様な空気を漂わせつつジッとカモシカの青年を見ていた。整った顔立ちの若者だが、その顔には血と泥と誰かの脂が残っていた。
「富める国かどうかは比較論だから致し方ない。だが、富める国に生きる者も戦っているのだぞ。負ければ誰かの養分だ。己の器量と才覚と、何より努力なくば生き残れないのは、いかなる環境でも一緒だ」
優しい口調でトウリはそう言った。そのカモシカの青年が異常に痩せているのに気がついたのだ。それこそ、肋骨が浮き出るほどに痩せたその姿は、喰うや喰わずのままに過ごした時間の長さを嫌と言うほど感じさせていた。
「そんなこと……」
トウリの言にカモシカの青年が少々混乱しているらしい。だが、トウリはそんなものを意に介さずに続けた。ル・ガルの真実であり絶望的な現実を……だ。
「確かにル・ガルは大国だろうさ。1000年をかけてイヌが築き上げたのだからな。だが大国ゆえに困った問題が起きている。我が国には才無き者では要職に就けぬし社会のなかで居場所を作ることも出来ぬ。それでも大国が良いか?」
古い国。栄える国特有の問題。それは、社会のなかで居場所を作るコストが異常に高くなると言うことだ。そして、そんな社会を維持する為に、また莫大なコストが支払われている。
能力無き者の居場所など無く、才無き者は死ぬまで底辺の生活を強いられる。才あるもの。機転の効く者。先見の明がある者。要するに、洞察力があり、変化に対応できる柔軟性を持ち、何より、生まれた家に人を育てる余力があること。
それが無くば、富める国に生まれるのは、それ自体がただの地獄だ。全てにおいて層の厚くなった社会では、下克上を行うにも相当など力が必要なのだ。そしてそれは下層にある者ほど血のにじむような努力を要する。
高階層にある者ならば、努力とは感じぬ形で経験を積み重ね為し得る事も、下層の者には果てしなく高いハードルを一つ一つ越えていかねばならないのだ……
「そんなこと言ったって……」
カモシカの青年は返答に窮した。トウリの語ったル・ガルの真実は、つまるところ世界の真実そのものだった。貧しい国が富める国と戦うならば、まともな方法では勝負にすらならない。それは、人も国も同じことだった。
「まぁいい。立つ場所によって見える景色は異なるものだ。それより……ジダーノフ殿。私の一存でこの青年を助けようと思うのだが、よろしいか」
トウリは同情したかのようにそんな事をボロージャへと言った。辺りには夥しい数の死体が転がっていて、そのどれもがまともな死に方をしていなかった。ただ、覚醒した検非違使を相手にすれば、これでもまだ良い方だろう。
まるでボロ雑巾のように徹底的に破壊され、原型を留めない状態でうち捨てられる死体は余りに多い。その戦闘力が違いすぎる以上は仕方が無い事だ。あとはただただ、痛みを感じる前に死ぬ事で救われるしか無い。
しかし、何を思ったかトウリはひとりだけ生き残りを作ろうと言った。そして、あまつさえ治療しようと言い出したのだ。ウラジミールは相も変わらず、眉一つ動かさず、冷たい眼差しのまま言った。
「王には何と申されるか?」
どう申し開きするのだ?と詰問した形だが、トウリは事も無げに応えた。幾多の経験を積んできた今のトウリならば幾らでも申し開きが出来る。そんな妙な自信だけはしっかりと持っているのだった。
「私のやらかした罪状を知らぬまでもあるまい? 今さら罪を重ねたとて、王は一笑に付される。そう言う男だよ。カリオン王とはね」
ハハハと笑いながら片膝を付いたトウリは、青年の両手両脚を伸ばしてやると懐に手を突っ込んだ。刃物でも出てくるのか?と身構えた青年は、痛みと恐怖と屈辱とをまとめて飲み込むと、凄まじい目でトウリを睨んだ。
「そう警戒するな。悪い話じゃ無いし、生き残れるんだぞ?」
そう。この場において生き残っているカモシカはごく僅かだった。数十年の単位で続いた農作物の不作は深刻な飢饉を招き、国家財政は完全に破綻した状態でカモシカの国は過ごしてきた。
だが、そこに転機が訪れたのは、唐突だった。カモシカの国内で掻き集めた精一杯の朝貢を見た獅子の国は、その返礼となる恩恵において莫大な量の食料と共に武具を送って寄こした。
そして、その場において出された獅子王たる皇帝の詔は、イヌの国を攻めよと言う事だった。南方種族の様々国家において、それぞれの王を任じ、奉書を与え、その権威を認めた獅子の天子は、どれ一つとして弱小国家の無い地域において最強たる獅子の一族を束ねる王の中の王であり、王の王、つまり皇帝を名乗っていた。
そんな皇帝から命じられた以上、カモシカの国はそれを行わぬ訳には行かないのだ。それ故に、カモシカ国内の様々な地域から一騎当千な強者が選りすぐられ、未曾有の国難を乗り越えるべく厳しい山岳地帯を越山したのだった。
「さぁ、ゆっくり飲み込め。エリクサーだ」
トウリは全部承知でカモシカの若者にエリクサーを与えた。そこにはトウリなりの計算が合ったのだ。獅子の冊封を受けるカモシカの国を開放し、あわせてル・ガルの庇護する衛星国家として独立させる。
同時にその存在が獅子の国との緩衝地帯となるように仕向け、その領土にイヌの兵を駐屯させ備えとするのだ。そうすれば、いつ何時唐突な自体が発生したとしても、多少の時間稼ぎには為るとの思惑。
その為の第一歩をトウリは行った。夥しい死体が転がる合戦場の跡地にて、たった数名の生き残りに貴重なエリクサーを施した。
「うっ! うぐっ! ごえっ!」
酷く嘔吐いたあとで妙に赤いモノを吐き出し、その後で手足をジタバタさせたカモシカの青年はスクッと立ち上がった。エリクサーの好転反応はすぐに出るものだが、相応に苦しい思いもするのだ。
ただ、その効果は絶大で、あれだけ砕かれた関節が完全に回復し、両腕も両脚も立派に戻っていた。ニヤリと笑ったトウリも立ち上がったのだが、カモシカの青年は数歩下がって露骨な警戒を見せた。
「なぜ俺を助けた!」
怒り心頭にカモシカの青年は立ち上がった。今にも斬りかかりそうな程にいきり立っているが、それをせずに抑えられたのは、ひとえに辺りにいるジダーノフ兵の構える銃の威圧力だった。
「いきなり立つとは大したもんだ」
つい今しがた銃の威力を体験したが故に自重した青年を、トウリは笑いながら見ていた。若く勢いがあり真っ直ぐだ。最近のル・ガルでは珍しくなった直情径行の気も強い。
「参考までに聞かせてくれ。なぜル・ガルに攻め入った?」
あくまで穏やかな口調のまま、トウリは静かにそう尋ねた。
決して尋問口調にならぬよう、刺激せぬよう、穏やかに、穏やかに……だ。
「それを聞いてどうするんだ?」
カモシカの青年は露骨に警戒しながらもそう言った。それに対する回答はトウリではなくボロージャが言った。相変わらず感情を感じさせない無表情さで、つかみどころの無い、抑揚の無い声音で……だ。
「……君が言うとおり我がル・ガルは大国だ。故に、この国を維持するために、我々は常に備えねばならぬのだよ。だから理由を知りたいのだ。次の犠牲を生まぬために。その次の犠牲を生まぬために。悲劇を繰り返さぬために」
大国には大国の悩みがある。カモシカの青年はそれを理解したらしい。
だが、それ以上に『だからなんだ?』と、腹を立てている部分もあった。
「……結構なことだな」
忸怩たる思いを抱えた青年はついに真実を語った。
ただそれは、ボロージャにもトウリにも決して飲み込めぬ話だった……




