狂言の誑狐
~承前
キツネの国の都キョウ。
広大なその都市を見下ろす高台の上で、夜明け前の風を受けながらカリオンは思案に暮れていた。空には今だ満天の星が瞬いている。だが、その心には星の光などまったく届いていなかった。
――――あのキツネめ……
奥歯をギリギリと鳴らしながらもカリオンは考え続けた。
あのシモツキと名乗ったキツネの間者の口上は、ある意味で虫の良い話だった。
――――ご息女は必ず取り返しまする
――――その為に100名以上のキツネが既に動き出しました
――――また圭聖院は必ず捕らえてご覧に入れます
――――ですからどうか……
シモツキは頭を地面に擦り付けて願い出ていた。
後になって聞けば、それはキツネの国最大の懇願方法だと言う。
己の命を差し出しても良いので聞き届けて欲しいと願う作法だ。
――――どうか帝の願いを聞き届けてくだされ
――――キツネを滅ぼさないでくだされ
――――必ずこの約束を果たすゆえ……
葛葉と名乗るキツネの要職にある者の言葉だとシモツキは言った。
どれ程に要職なのだ?とカリオンは問うた。それに対し、シモツキはハッキリと『事実上、キツネの国の最高権力者です』と応えた。
権力の二重構造であり、リスクの分散でもある。だが、その実のもっとも重要な部分は、裏側からキツネの社会を支える存在が対話を欲していると言うことだ。
「陛下」
思索に耽っていたカリオンを誰かが呼んだ。
やや驚いて振り向いた先にはあのウサギの魔導師ハクトが立っていた。
「ハクト……なぜここへ?」
「姫殿下のご差配にて」
……リリスが送り込んだ??
その意図をカリオンは一瞬だけ思案した。
だが、幾ら考えてもその意を汲むことが出来ないでいる。
「して、いかな用か?」
解らないなら聞く方が早い。
こんな時のカリオンはイヌの特性以上に素直な感情を見せるのだった。
「……城の地下にて多くの者と相談を重ねたのですが――」
ハクトの切り出したそれは、多くの魔導師の共通見解だとカリオンは思った。
そして、『ウム……続けよ』と話の続きを促した。
「――情け無用に滅ぼしては如何でしょうか?」
唐突に切り出されたその絶滅政策に、さすがのカリオンも即答を避けた。
まずは口中で良く言葉を練り、その上で次の言葉を発するべきだと考えたのだ。
「……して、その意図は?」
城の地下と言った以上、多分にリリスの意向が含まれているといって良いだろう。しかし、昨夜姿を表したリリスは、その事を一言も言っていなかった。そこにキツネの間者であるシモツキが居たからかもしれないが……
――なぜ?
そう。
カリオンは率直に『何故だ?』と考えた。
リリスの意向なのか、それとも魔導師たちの闘争か。
「……一言で言えば、キツネは信用なりません」
ハクトは真っ直ぐにカリオンを見ながらそういった。
少なくともそれは、キツネを除く全ての種族の総意だ。
……キツネは信用ならない
相手を謀り、騙し、自分達に有利なように話をねじ曲げる。
その手練手管の狡猾さ。言い換えるなら、百戦錬磨の達者ぶりはキツネを除く全ての種族にとって脅威なのだ。
「それは解る。だが、最後の一人まで滅ぼすのは現実的ではない。何より、一千万余の人口を持つのだぞ?」
そう。土台無理なのだ。
キツネを滅ぼしきる事は、ル・ガルならばある意味可能だろう。それだけの国家的実力を持っているのは、事実上イヌの国だけなのだ。だが、ここまでキツネが担ってきた社会的役割までをも負担するのは、さすがに荷が勝ちすぎる。
「すべて承知の上です。そして、それら全てを鑑みた上でもなお、私個人としても提案するものです。キツネの寿命はイヌと対して変わりません。ですがネコならばそれを越えます。そして、キツネの立場にネコが就いたなら巨万の富を生むはず」
この時点でカリオンも話の本質がついに見えた。
「イヌとネコの間に蟠る諸問題の……最終的解決ということか」
そう。これはあのドイツを牛耳ったナチ党の立案したものと一緒だ。
当時のヨーロッパ中から嫌われていたユダヤ人をどうするのか?について、かのヒトラーとスターリンが合意したと言う伝説の秘密協定。広大なシベリア地域を開拓する為に、ヨーロッパ中のユダヤ人を送り込んで土着させてしまう秘密計画。
それと同じことをハクトは提案していた。つまり、キツネを絶滅させるか、それに近い状態へと追い込み、その空いた土地へネコを移送して封じ込める。さらに東方の種族とネコを争わせその勢力を殺ぎ落とし、イヌによる支援でギリギリ存続させる。
ネコがイヌを滅ぼそうとするのは、もはや生存本能の一部になりつつあるのだろう。だが、東方種族とネコは致命的レベルで反りが合わないのだ。ならば見える結末は一緒で、ネコは際限無い闘争に巻き込まれる。
イヌはその消耗戦となったネコを支援することで、ネコから感謝される立場に回り、それだけでなくネコの国を食い物にして経済を回していけば良いのだ。
だが……
「そんなに上手く事が運ぶか?」
カリオンはそれを危惧した。プランとしては大変魅力的だが、実現性に乏しいならそれは画餅でしかない。結果的により社会的コストが増大し、国家予算を圧迫することになるだろう。
「危険性ばかりを論じていては、物事の前進はあり得ません」
ハクトはきっぱりとそう言った。カリオンの表情は曇り、何事かを思案している常態となる。その背後にある空は太陽がまさに上らんとしていた。
――――陛下!
なにかを言おうとしたカリオンだが、その前に誰かがカリオンの名を呼んだ。
身を返して声の方を向けば、そこにはヴァルターが立っていた。
「何事か?」
丘の斜面をかけ上がってきたヴァルターは、片ひざをついて言った。
「来ました。キツネの帝です」
「……なん……だと?」
ヴァルターが立ち上がって一歩身を引いたとき、丘の下から8人係りで担ぎ上げてくる座乗御輿が見えた。その周囲には幾人もの貴族が付いていて、その後方には武士と呼ばれるキツネの戦闘員が太刀を持って付き従っていた。
――――右太刀か……
左利きでない限り、通常は太刀の持ち手は左となる。右手で剣を抜き放ったあと、左手に持っていた鞘を捨てるのがキツネ戦士の基本的な戦闘スタイルだ。つまり、本来ならば剣を抜く右手で戦太刀を持っている。言外に戦う意思はないと示しているのだった。
「イヌの国を統べる太陽の地上代行者。カリオン王陛下とお見受け致しまする。手前はキツネの国の太政大臣、藤経の紫音と申しまする。どうかよしなに」
キツネの太政官制度における最高官職であり、キツネの国を取り仕切る実質的な長官の立場に当たるポジション。ル・ガルで言えば相国に当たり、キツネの国の政治機構を司る頂点だ。
「キツネの相国とな……して……」
カリオンの目が紫音の後方に注がれた。
数多の女官に助けられ、幼子が座乗席より地面に降り立った。
――――帝か……
その姿は、文字通りまだ幼い8才の少年だった。
だが、その瞳には力があり、太刀ではなくヘラ状の木片を手にしていた。
「紫音。朕の笏をもっていよ」
――――しゃく……と言うのか……
妙なところで感心していたカリオンだが、キツネの帝はキッときつい眼差しをカリオンに向けた後、その背後にいたハクトを睨み付けた。
「朕は誑かされぬぞ。そこな七尾。正体を表せ」
帝は左の袖に入っていた何かを取りだし投げつけた。
それがハクトに命中した次の瞬間『ギャァ!』と悲鳴をあげてハクトが悶えた。
だが、カリオンはその声に聞き覚えがあった……
「まさか! 貴様!」
カリオンはすかさず太刀を抜いてハクトに切りかかった。
だが、ハクトとは思えぬ身軽さを見せ、その存在はフワッと飛び上がった。
「良く見抜いたな……小癪な小僧め!」
そこに現れたのは、あのウォルドと名乗った圭聖院だった……