帝の使者
~承前
――――帝は齢8才……
それを聞いたカリオンは、仄暗い笑み浮かべつつ続きを促した。楽しいから笑うのでは無く苛立ちからの笑みだ。つまり、怒りを噛み殺したその姿からは『だからなんだ?』と言わんばかりの空気がヒシヒシと伝わってくる。
まだ初秋の夜だというのに、妙な寒気が幕屋のなかに漂っていて、月ばかりがカンと冴えた妙に眩い夜の事だった。
「で、彼らはなんと?」
続きを促したカリオンは、マサの言葉に黙って耳を傾けた。
「はい。要約すれば帝を取り囲み支える近習衆の手で必ず九尾の居場所を突き止めるだけでなく、王の子女を必ず取り返してお届けする故、どうか帝の悲しむ事をしないで欲しいと……まぁ、虫の良い話ではありますが……」
近習衆の手で……とそういった翡翠の表情は必死だった。それを伝えるべきか否かでマサは迷った。参謀は時に情を挟まず冷徹な決断を下さねばならぬときがある事をベテラン参謀であるマサは知っているからだ。
そしてそれ以上に太陽王は判断し決断せねばならぬ時がある。国を預かり民衆を導き、そしてその幸福と安寧とを実現するために……時には泥を被る決断をし、煮え湯を飲まなければならないのだ。だからこそ……
――――ご聖断に迷われる一言を挟むべきでない……
思えば、あの大東亜戦争に至る過程で、聖上への奏上を自分は正しく行えたであろうか?と、マサは自問自答していた。どう考えても蟻と巨象の戦いに至る道だったはずだ。
陛下は昨今の欧米には明るい方であった。彼我の実力差を鑑みれば陛下は必ずや冷静なご聖断を下されていたはずだ。その、誰も口を挟めないご聖断により、あの悲劇的な戦は……大東亜戦争は回避できていたかもしれない……かもしれない……かもしれない……だが……
自らの思考に耽っていたマサは、不意に太陽王の目が自分へ来ていることに驚いき、そして自らの不明と後悔の存在を知った。もっとこうすれば……と忸怩たる思いが今のマサを突き動かしていた。
「申し訳ありません。自らの思考に沈んでおりました」
己の不始末を恥じたマサは、胸に手を当てて頭を下げた。
だが、カリオンは意外な反応を見せた。
「なにを迷っているのだ? まだ余に伝えるべき事があるのか」
マサの内面をみてとったのか、カリオンは若干の怪訝な表情だ。その懸念は疑心となり、猜疑心は判断を曇らせる。他ならぬ太陽王の判断と決断に一転の曇りもいれてはならないとマサは思った。
「いえ、太陽王のご聖断を頂くべき案件において、奏上の漏れなど僅かながらとて許されますまい。手前のお伝えするべき内容に些かの不足もないかと確信しております――」
マサは胸を張ってそういった。自信ある姿で音吐朗々にモノを言えば、それは説得力を増すものだ。ただ、参謀である以上、請われれば事をなす。そしてこの場合は……
「――ですが、さらに伝えよと御下命ならば、奏上するべき案件はいくつかございます」
マサは含みのある言い回しで太陽王の目をみた。
その眼差しに若干の憂いを感じたカリオンは、若干眉根を寄せて言った。
「うむ。そうか。申してみよ」
「さすれば……」
一つ咳払いをしたマサは、若干目を伏せて切り出した。
「翡翠と名乗ったあのキツネの貴族ですが、彼の者が申すには帝を支えるのうち、最強と呼ばれる面々を投入し、帝の悲しまれる事が無いよう、全力を尽くすと」
それを聞いたカリオンの脳裏にリベラの言葉がよみがえった。
――――中でも厄介なのは七狐機関って組織で
――――あいつらはぁ魔術妖術に長けたバケモノ揃いでさぁ
そうだった……
狐の国は表だって軍事行動をすることが少ない最大の理由。それは闇のなかで全てを片付けてしまうため。そして、キツネの恐ろしいところは、必ず上には上がいる事を鉄則としている。
――――逢難狐ってやつらが居りやしてね……
――――雪の上でも足跡がのこらねぇ正真正銘のバケモノってなありさまに
そう。彼らの舞台は夜の闇のなかであり、人の心理の影のなかだ。まさかここには居ないだろう。ここでは仕掛けてこないだろう。それこそ、彼らの思う壺なのだろう。
「余の耳にも入っているが……キツネの国には闇に紛れ荒事を行う専門集団が居るとのことだ。あの翡翠とやらは、それを使って事をなすつもりだろうか」
あれこれ思案にくれるカリオンだが、どうにもこの先の見通しが悪いことに気が付いた。率直に言えば、イヌはキツネの内情を理解していなさすぎるのだ。そんな謎多きキツネの国と退治する不幸をカリオンは噛み締めた。
そも、余りにも巨大な国家となったル・ガルは、他国よりも内政に多くのリソースを割かねばならない。通信や情報のやり取りですらも人の手を割かねばならぬ以上、他国の事まで構ってられないのが実情だ。
「で、どうされますか?」
一切の配慮無い言葉でボロージャはたずねた。
ここから先、カリオンはどんな方針で行くのか……をだ。
調べろ……とそう下命されたなら、ボロージャを頂点とするジダーノフの一門はありとあらゆる手段で調査するだろう。そして、王が必要とする情報を必ず持ち帰るのだ。
つまり、ボロージャはカリオンの命を待っていた。キツネの核心に至れる情報を探し出し、見つけ出し、ここへ持って来いと、その言葉が自らに降ってくる事を。
だが……
「明朝の総攻撃は方針を変えぬ。ただし、その場にキツネの帝が来たのであれば話は別だ。なにも対話をしないと言うことではない。我々の要求は降伏でも領土の割譲でもない。ララを返せと、それだけだ。故に『ならばその手間省きましょう』
唐突にどこかからか声が響いた。それと同時、カリオンの幕屋内部にボフッと白い煙が沸き起こった。ヴァルターとドリーは無意識レベルで煙とカリオンの間に割って入るのだが、それを両手で制止し、カリオンは椅子を家って立ち上がった。
「……何者だ?」
その煙が消え去ったとき、中から全身黒尽くめの男が出てきた。月の光ですら反射し得ない程の黒い姿は、カリオンの脳裏に有る男の姿を思い出させた。
――ワタラ……
――父上……
「手前はキツネが邦の裏舞台一切を取り仕切る巫女連の僕。七狐機関に所属します霜月と申します。どうぞお見知りおきくだされ」
カリオンの前で蹲った霜月なるキツネの男は、かの国における正しい礼儀作法として伝わる通り、幕屋の中で正座をしていた。
「……シモツキと申すか。余の幕屋へ如何なる用だ」
カリオンは傍らにあった太刀を右手に持ち替え、霜月に対し『敵意は無い』を伝えた。その姿に僅かながら気を抜いたのか、霜月は自らが被っていた頭巾を取って見せた。
リベラと同じく闇に生き闇で活動する者ならば、その素顔を晒すのは最大級の謝意であり、また、誠意の証と言える事だ。
「過分なるご配慮、まことに痛み入ります」
素直な言葉で謝意を示した霜月は、その場に両手を突き頭を下げた。キツネの国の礼儀として、両手を突き頭を下げる事は相手に敬意を示す最大級の行為そのもの。そして言い換えれば、いつでも首を刎ねられる隙を相手に見せる事に他ならない。
「うむ。良い。顔を見せよ」
スッと頭を起こした霜月は、その顔に大きな傷を残す歴戦の戦士だった。僅かに開いた口中に牙の影は無く、潜った修羅場の残滓がそこに残って居るのだと全員が感じ取った。
「畏れながら申し上げまする。巫女連を取り仕切る葛葉御前様の言伝にございますれば、どうかご静聴くださりませ」
あくまで霜月は謙った態度を崩さなかった。リベラが言う通りならば、七狐機関は荒事専門集団の筈だ。だが、この霜月は巫女連の僕と言明した。そして、カリオンの持つ知識が正しければ、巫女連は帝を支える政策集団でしかない。
国家の運営や差配は幕府なる武家組織が統轄して行っており、事実としてル・ガルと対峙した武士なる者達は、帝の直轄では無いのだという。つまり、権力の多重化と階層化が進んでいて、その実として帝には権力が無いのかも知れない。
――キツネもまた面倒を抱え込んでおるな……
そんな事を思ったカリオンは、『宜しい。聞こうじゃ無いか』と応えた。
「まことにかたじけなく……さすれば――」
1つ咳払いをした霜月は、声音を改め切り出した。
「――巫女連を取り仕切る金毛九尾の葛葉様が言われるに、かの碧毛七尾のキツネは次元の隙間に潜みこの世には滅多に出てこないとの事でございます。そして、葛葉様は我等七狐機関を使いかのキツネを必ず捉え、太陽王陛下のご才女を奪還して必ずやお返しすると……
そこまで言った霜月だが、突然喉を押さえてうめき声を上げた。決して演技や策を弄する様には見えない迫真の姿に、カリオンは思わず『どうした!』と声を荒げた。だが、霜月は言葉も無くただただ苦しんだ。そして……
――――あくまで邪魔をしようって言うんだね……
どこからか恐ろしい程に闇を感じる声が響いた。そして、その直後に幕屋の中がスッと薄暗くなり、霜月の後ろ側に全ての光りを吸い込むような、深い深い井戸の底にも似た暗闇の塊がボンヤリと浮かび上がった。




