狐国侵攻作戦 16
お待たせしました。再開します。
~承前
それは、山へと踏み行ってから早くも3刻が経過した頃だった。
「この声はなんだ?」
ドリーが気が付いたその声は、山並みの奥深くから微かに聞こえる、苦しげなうめき声だった。ただ、うめき声と言うよりもあえぎ声と言った方が良いのは間違い無く、ともすれば情事に耽る男女の交わりを思い出させるモノだった。
「……碌な予感がしないな」
「まったくですな」
カリオンの言葉にオクルカがそう応えた。
オクルカもララの事情は良く知っている。それ故に嫌な予感を覚えたのだ。
「さぁ行きましょう」
隊列の先頭にいるヴァルターは厳しい表情で言った。
誰もがそれに頷き、カリオン直卒となる突入軍団は再び動き始めた。
ただ、更に2刻を歩き通したあと、それを目の前にしたときにはさすがのカリオンも言葉を失った。それは、荒れた山道が辿り着いた広場の真ん中に屹立する巨大な岩の柱だ。
ただ、その柱が男性の性器その物をかたどったモノであるのは論を待たない。そして、そのご立派なサイズのソレには、何らかの呪術的な意味を持つ縄が巻かれていた。
「……異界の神の立像でしょうかね」
オクルカも苦笑するしかないのだが、概ね正鵠を射ているのは間違い無いようだと誰もが思った。どう使うのかは理解出来なくとも、そこには何らかの呪術的な意味を持つ祭壇が設置されている。
そして、イヌならば嗅ぎ分けられる臭いが、そこに蟠っていた。男と交わる女の漏らす、秘めた蜜の臭いがそこにあるのだ。言うなれば生命の神秘の臭いであり、言い換えるなら男女の情念が絡み合う愛憎の臭いだろう。
だが……
「血の臭い……も……だな……」
ヴァルターは僅かに残っていた血の臭いを嗅ぎ分けた。
その言葉を聞き、多くの者がその臭いを理解した。
イヌもオオカミも鼻だけはとにかく効くのだ。
他の種族を圧倒する驚異的な鼻の良さは、こんな時には有効だった。
「……幸せな朝と言うには、いささか……」
ドリーとて一人前の男であれば、そんな夜と朝を幾度も経験している。痛みと快楽の境目からこぼれ落ちる血潮がシーツを染める事も知っている。しかし、この血の臭いはそんな次元では無かった。
並の人間を袈裟懸けに斬り殺し、その傷口からこぼれ落ちた膨大な血液のもたらす臭い。なにより、腹を割き内臓をこぼれ落ちさせるほどの傷を受ければ、内臓の放つ臭いを嗅ぐ事になる。
ともすれば鼻が曲がるような悪臭だが、その独特な臭いは合戦場などでは割とポピュラーな臭いだ。そしてそれは、逃れ得ぬ死の臭いその物だった。
「性的な呪術の果てに殺したのでは……」
眉間を寄せてそう漏らしたヴァルターは、地面に残る黒いシミを足で擦った。
何を行ったのかはまったく理解出来ないが、少なくとも碌な事じゃ無いのはよく解る。目の前にある巨大な岩の柱がグロテスクなほどにヌラヌラと光っているのを見れば、巨人の性器だと言われても飲み込んでしまいかねない……
「で、道はどっちに?」
ドリーがそう問うとオクルカは再び鏡を覗き込んだ。
しかし、その直後に『へ?』と間抜けな声を出して首を傾げた。
「行き止まりだ……」
オクルカが覗き込んだ鏡の中には、中途半端に拡がった広場が見えるだけだ。その広場を囲むように、先ほど見た石の杖が立っているのが見える。
多くの者が幻覚としてみていた豊かな森は無く、荒れ果てた禿げ山の真ん中にあるどん詰まりの広場。その真ん中にいるオクルカは、鏡に映るその石杖を数えた。
「そこです。そこ。石杖が立っている。等間隔で幾つも……7本有りますが」
オクルカが指差した先に遠慮無く手を伸ばしたヴァルターは、それを何ら考慮する事無く抜き取りへし折ってしまった。見事な呪文の書き込まれた石杖の残骸をそこらに撒いたとき、どこからか声が聞こえた。
――――ぎゃぁぁぁぁぁぁ!!!!!!!!!!!
再び断末魔の声が響き、カリオンは辺りを見回した。その声は空から聞こえてきたのでは無く、周囲全ての空気が発した声だと思ったのだ。
「辺りを捜索せよ。石杖を全部抜け。そしてへし折れ。何かを隠している」
カリオンの脳裏に浮かんだのは、あのキツネの男の尻尾だった。
石杖は7本。あの男の尻尾も7本。そして、ここは荒れた山道のどん詰まり。
――この山自体が胎内だとでも……
そう。新たな命を生み出せる女の腹は、その奥が行き止まりになっている。そしてその穴を弄り回すように男は汗を流すモノ。ならばこの石柱が聳える小さな広場は、男女和合の象徴なのかも知れない。
ただ、別の面から見れば、それは新しい命を召喚する場で有り、また、生命の神秘たる部分。神の摂理と面を接する奇跡の顕現を見る場かも知れない。
「……………………」
無言で辺りの山を見回したカリオン。その脳裏にふと浮かび上がったのは、あのリリスの腹から身を乗り出したバケモノだった。あの時、あのバケモノが発した声は、まるであのキツネの男にダメージを与えたときの様なものだったのを思いだしたのだ。
「骨が折れますな」
鏡を覗き込んでいたオクルカがボソリと零す。
その声で我に返ったカリオンは、小さくため息をこぼしつつ言った。
「その目的さえはっきりするなら……いや、その目的がル・ガルを害するモノで無ければ協力する事もあり得るのだが……」
何とはなしにそう言葉を吐いたカリオン。
だが、ハッと我に返ってその言葉を反芻した。
――ありえんっ!
あれだけの事をしたキツネに協力などあり得ない。
だが、確かに今、自分自身でそんな事を思ったのだ。
「まぁ、聞かん坊が我が儘を並べてるだけのようなモノですからな。フレミナでは昔から『泣く子は飴をひとつ多くもらう』と言いますが、まぁ、飴玉のひとつもしゃぶらせればおとなしくなるかも知れません」
ハハハと豪快に笑ったオクルカは、広場を見回して一番近くにあった石杖に歩み寄った。その杖は他の杖よりも短く小さくあり、何となく成長途上を思わせるモノだった。
「フンッ!」
オクルカは吸魂の太刀を抜き、その石杖を一気呵成に叩き切った。恐ろしい程に滑らかな切断面を見せ、石杖がずるりと滑って上半分が下に落ちていく。だが、その切断面を見ていたカリオン達は『えっ?』と、素っ頓狂な声を漏らした。
「バカな……」
オクルカが驚いた声でそう漏らす。それは石杖の真ん中辺りからこぼれる真っ赤な血だった。いや、血の臭いこそしないが、血液を思わせる液体たこぼれ落ちたのだった。
「これは……」
そっと近くに寄ったカリオンは、鼻を鳴らして臭いを確かめた。血液特有の鉄臭さは無く、ただ単に真っ赤な液体がこぼれ落ちただけだった。だが……
「あぬしたち! 何をいたす!」
その場に突然あのキツネの男が現れた。
何も無い空間にボンッ!と白く煙が立ち、その真ん中へ突然現れたのだ。
「貴様ッ!」
カリオンはすかさず太刀を抜いて斬り掛かった。
だが、その刃が届く前に、キツネの男は両手を宙へと突き出した。
「邪魔ばかりしおって! 妾は邪魔が入るのが一番嫌じゃ!」
それは凄まじい衝撃となってカリオンを突き飛ばした。どのような魔法効果かはまったく理解出来ないが、衝撃波を受け後方へ吹き飛ばされた挙げ句、あの石柱へ後頭部をぶつけカリオンは激痛に悶えた。
「陛下!」
「貴様!」
「無礼者!」
ドリーやヴァルターだけで無く、多くの剣士が一斉に斬り掛かった。だが、キツネの男は右の腕を左側へ引き絞ってから大きく振り抜き、再び全員に衝撃波を与えた。
それを受けた全員が吹っ飛び驚いた顔になる中、狙い澄ましたようにオクルカが斬り掛かっていった。全くのノーモーションかつ無言での攻撃は、キツネの男をしてまったく対処が出来なかった。
「ギャァァァァァァ!!!!!!」
漆黒に染められた吸魂の太刀は、まるで熟れた果実を切り裂くようにキツネの男の身体へと食い込んでいった。そして、その刃が身体を一刀両断する課程で幾つもの眩い光がその身体から飛び出して行った。
「この太刀は重なりの魂を完全に破壊し吸い尽くす。貴様の魂全てを差し出せ」
完全にその身体を断ち切ったオクルカは、血糊を払って太刀を鞘に収めた。その刃が鞘に収まる時、太刀の峰がキーンと高周波を発し震えた。ただ、全てが鞘に収まって鯉口に達の鍔が当たったとき、鞘の先端からポフッと何かがこぼれた……