勇気とは讃えるもの
~承前
夕暮れの寒気がやって来たシットサノォの河原には、夥しい数の死体が転がっていた。そのほぼ全てがネコの一団のものなのだが、その損壊は余りに凄まじく、一言でいえば余りにも異形な死ばかりだ。
凄まじい力で叩き潰され背骨が上下から圧縮された結果、両脚が完全に胴体へとめり込んでいるもの。横薙ぎの力を受け胴体が中央部で破裂したように引き裂かれたもの。まるで握り潰された泥玉の様に、内蔵を外へと溢れさせたもの。
心の弱い者が見ればそれだけで卒倒しかねない凄惨な死体ばかり。それらは無造作に河原に転がり、山並みからやって来た猛禽類の餌食になっていた……
「……上手く行ったようですな」
怜悧な口調でそう漏らしたジダーノフの主は、グローを前にして表情を変えずにそう言った。何処かで聞いた話だが、灰色の瞳をしたこのジダーノフの主には、凡そ感情と言った物が存在しないのだと言う。
最短手で。若しくは、最高効率で目的を果たす事のみを目的としている。そこに私情を挟む事は殆どなく、また、必要な戦略的目標を果たす為ならば、部下の命ですらも使い捨てにする事を厭わないとか。
だが、グローは知っていた。いや、正確に言うならば、公爵家を引き継いで理解したと言う方が正しいかも知れない部分。このジダーノフの主は一族が生き残る為の選択肢を、一族の怨嗟全てを受けつつ選ぶ事を目的として存在している……と。
誰もが選び得ぬ辛い選択を黙って選択し、死した者達の家族から恨まれる役目を黙って引き受けて居るのだと。死と隣り合わせな山岳地帯において、一族の命運を預かる男は、その辛さに黙って耐えているのだった。
「貴方のおかげだ。ウラジミール殿」
「……いや。この勝利は君の胆力と運に寄らしむるところが大きい」
100歳以上も年上だが、ウラジミールは無表情ながらも年下のグロリアを認めるようにそう言った。幼長の序を大切にするイヌの社会において、これはかなり異例の事といえる。
だが、感情らしいものを全く見せぬジダーノフの主は、素直に感嘆した。それこそ、この勝利の全ては君の努力の結果だと言わんばかりに……だ。
「ただ、遊んでいる暇はありません」
「そうですね。追撃せねば」
そう。これは戦争なのだ。
好機と見るや徹底的に叩き潰さねばならないのだ。慈悲や許容や博愛は、戦が終ってから反吐が出るほどやれば良い。今必要なのは勝利であり、絶対的有利な状態を作り出すこと。その為に……
「では、手筈通り行ないましょう」
ジダーノフを預かるボロージャは静かな口調でそう切り出した。
それは、窮地に陥ったレオン一家を救うだけでなく、ル・ガル西方地域の勢力図そのものを書き換えてしまう野心的な作戦だった。
「……そうですね。しばらくは不眠不休です」
嫌そうな顔をするグローだが、ボロージャは意に介す風でもなく動き出した。
ここから先に予定されている作戦は、一言で言えば時間との戦いだからだ。
馬に乗ったボロージャとグローは一気に西進を開始した。目指すはネコの国との国境地帯だ。ただ、その経路は主要街道の南北それぞれを大きく迂回する細い裏街道だった。
ル・ガル深部へと進軍するネコの先兵は全て殲滅した。その死体は河原に放置され、誰が見たってただ事では無い状態になっている。そうやっておけば、後続はどうしたって進軍を停止し事態を伺う事になる。
それこそがこの凄惨な戦闘の目的であり、グローとボロージャが夜の闇を突いて掛け続ける理由でもある。つまり、後続との連携を絶ち、ル・ガルに侵入したネコの軍勢を餓えさせる作戦だ。
――決して褒められた作戦では無いな……
そう自嘲したボロージャは、誰にも見えない角度で一人溜息をついた。一族の中でも指折りの鉄面皮と呼ばれる男の懊悩が零れ落ちた。必要な結果のみを集める事だけが、一族の長として与えられた公爵の称号を守る手段だ。
故に、ボロージャは勝つためなら手段を選ばない。勝たなければ意味がない。勝ったから正しいのであり、負けには何の意味も意義も無い。後世では評価されるのは、勝った側だけなのだ。つまり、今回も勝たねばならない。
ジダーノフ家を預かる男は、勝ち続ける事でのみ存在を許されるのだった。
――――――――翌日早朝
一軍を率い駆け続けたボロージャは一晩で10リーグを進んでいた。馬が潰れるギリギリの速度を維持し、水を欲せば川岸で小休止を入れた。そんな強行軍が導き出した結果は、ネコ側の輜重段列を発見せしめたことだった。
「ドミトリー! 馬は駆けられるか!」
ボロージャは側近であるドミトリーを呼んだ。携帯口糧を貪っていたドミトリーは駆け足でやってきて『問題なし』を回答した。穏やかな丘の続く地域なので、水を飲ませ草を食ませれば馬は自然と落ち着く。改めて気を入れた騎兵の一団は丘の上でネコの輜重段列を見ていた。
「レオンの一団が動いたらこちらも動く。合戦準備だ」
平原の移動に特化したレオン家の馬は15リーグを進んでいるようだ。後続の輜重集団を叩けば、その急報は前方の集団にも届くだろう。そこで浮き足立ったときこそが、絶好の攻め時だった。
「ドミトリー。あの一団は全滅させるな。後方では無く前方へ逃がせ」
ボロージャの読みは単純だ。馬では無く歩行でやってくる検非違使達の方へネコの一団を逃がす。彼らはヒトの集団を見て侮り、容赦無く手を出すだろう。だが、覚醒者の戦闘能力は凄まじいの一言だ。
「……さぞ狼狽するでしょうな」
「あぁ。おそらくトウリ卿も意図を理解されるだろう」
そう。狙うのはひとつ。恐怖の伝播だ。一口に恐怖と言っても、その威力は決して侮れない物がある。恐怖は目に見えない毒なのだ。少しずつ精神を蝕み、その影を色濃くしていくのだ。
「どの程度の生き残りを作るかによりますな」
冷徹で計算深いプーチン一門において、このボロージャとドミトリーは二人三脚で長らくやって来た。そのタンデム体制は意見の一致と意思の疎通を何よりも重視してきたのだ。
「まぁ、それはこれからだ」
明確な回答を避けたボロージャは、馬上槍のカバーを取った。
その刃が落とす光を受け、ドミトリーは目を細めた。
「ひと思いに全滅せしめたら如何でしょう」
「それも一興だが……どちらかと言えばレオンに華を持たせたい」
無表情にそう言ったボロージャ。
ドミトリーはそこにジダーノフ家の持つ微妙な心理を感じていた。
「……貸しを作るのも楽じゃ無いですな」
「あぁ……」
そんな会話をした時だった。
丘から見下ろしていたジダーノフ一門が視界に捉えたのは、遙か後方から駆けてくる騎兵だった。僅か数騎でやって来た彼らは、何事かを大声で伝えている。ただ、その会話を聞くまでも無く、そこで何が話されているのかは解った。
そしてそれは、絶好の攻め時だとも……
「ボバ」
ドミトリーは一言ポツリと呟いて槍を天に翳した。
「Открытие оперы……」
それは北方の雪深い山岳地帯に残っている神世の言葉。天より降りてきた神々が北方山岳地帯の人々に知恵を与え、世界を形作ったと言う伝承が残されていた。
その中に出て来るのは、北限の雪路を縦横無尽に掛け神々を手助けした者達が、天へと帰る神達から与えられた『ジダーノフ』の名と共に続く、神々の加護を得られる言葉だった。
「神々は見ておられる。我らの進路を遮るもの全てを打ち果たせ」
やや低めの言葉だが、ボロージャはドミトリーの言葉にそう応えた。そして、ボロージャとドミトリーが同時に馬の腹を蹴ると、山津波のような吶喊が始まった。
「1人残さず鏖殺せよ」
まるで山の斜面が崩れ落ちていくような光景は、谷間の沢筋に居たネコの輜重段列を狼狽させた。全員が一瞬だけ完全な虚脱状態に陥り、目の前の事態をそのままに飲み込む事を拒否した。
なぜならそれは、間違いなく死がやってくるものだからだ。突進してくる騎兵に対抗できる者など中々居るもんじゃない。騎兵の突撃衝力に対向できるのは騎兵だけだ。
――――にっ! 逃げろ!
ネコの輜重段列の何処かからそんな声が聞こえた。
この場合、逃げの一手を打つことのみが正解なのだ。
統制を取らずバラバラに逃げる。全方向へ分散しながら、散開しながら、間隔を広く取って逃げる。1人でも多く生き残る為にはそれしかない。ただ、騎兵の方が多い場合には、もうどうにもならないのだが……
「情け無用」
ボロージャの声が響く。その直後から沢筋に幾つもの断末魔が響いた。
世界の全てを怨むように死んでいく者達の言葉は、大概同じものになるらしい。
いわく『助けてくれ!』とか『死にたくない!』とか、その類だ。そして殆どが最期に同じ事を言う。『何で俺なんだ!』と。
まだ生きて逃げる者を羨望の眼差しで見つめ、僅かに振り返る者には怨嗟の眼差しを送る。そして、自分だけが死ぬ不条理に震えながら死ぬ。多少早いか遅いかの差でしかないが、それでも先に死ぬのは嫌なのだ。
なぜなら、多くのネコはこう考える。
自分の運が他の誰かより劣っているのは、認められない屈辱だ……と。
「ボバ!」
散り散りに逃げたネコの殆どを打ち倒したドミトリーはボロージャを呼んだ。そのボロージャは僅か5~6人だけで固まって震えているネコの男を囲んでいた。槍を突きつけられ震える彼らは、涙目になって命乞いをしている。
だが、それを聞くボロージャは驚くほどに無表情で、それはまるで仮面のようだと皆は思った。そして彼らは悟った。
――――人間は大きく2種類に分けられる
――――殺す側と殺される側だ
――――だがボバはそのどちらでも無い……
一言でいえば、彼は社会病質者だ。
フレミナとアージンの間にあって、雪深い山並みを生活の場としたジダーノフの一門は、ある意味で極限環境に生きる一族だ。その為、ジダーノフの一党は伝統的に実力主義的な傾向を強くしてきた。
つまり、一門の命脈を維持する為とあれば、ジダーノフの主は何処までもドライかつ冷酷な判断を下し、一切の逡巡や後悔無く実行し、常に最良の結果だけを求め続ける事を要求される。
そんな重責を背負ったウラジミール・ジダーノフは、後天的に二つの心理を自分の中から削除した。そう。それは『良心』と『後悔』のふたつ。それらはボバの思考回路の中に一切無いか殆ど存在しない。
一門が生き残る為とあれば、ボバは眉ひとつ動かさず如何なる事をも行なう。例えそれが人倫に悖るような、どれ程極悪非道な事であったとしても……
「1人だけ殺す。それ以外は助けると約束する。生き残った者は真っ直ぐに自分の国へと帰れ。さぁ、誰が死ぬ。前に出ろ」
それは、ネコにとっては到底受け入れられない話だ。そもそも、自己犠牲などと言うモノは彼らの社会に全く存在しない物だと言いきって良い。例えそれが最愛の者だとしても、或いはそれが実子や実母だったとしても、ネコの社会においてはまず自分が生き残る事こそが最大の努力目標なのだ。
――――ふっ! ふざけるな!
――――そうだ! なんで死ななきゃいけないんだ!
咄嗟にそう叫んだネコは、ボロージャの冷たい眼差しで口をつぐむ。動いた者から殺されるんじゃないか?と、全員が身を硬くしていたのだ。だが……
「……本当に助けるのか?」
三毛の体毛を持つ若いネコがスクリと立ち上がった。
カタカタと震える膝を隠そうともせず、震える声でそのネコは言った。
「1人だけ死ねば、残りは助けるのか?」
周りに居た仲間のネコが一瞬だけ安堵の表情を浮かべた。それをチラリと見たボロージャは、僅かな沈黙を挟んでひとつ息を吐き、ゆっくりと首肯しながら渋い声音で言った。
「あぁ…… 約束は守る。勇気ある者よ」
突きつけていた槍を引っ込めたボロージャは、腰に佩いていた短刀を抜くと、その柄をネコの側に放り投げた。
「己の喉を刺せ。ただ、心配は要らない。その血が出た瞬間、すぐにこれで楽にしてやる。苦しむ事はない」
ボロージャはその槍の穂先を見せてそう言った。
それと同時、ネコを囲んでいた騎兵たちが一斉に槍を構えた。
「……みんな、生きて帰ってくれ」
ガタガタと震えながら切っ先を喉へと当てたネコは、涙目になってそう言った。そして、目をギュッと瞑って嗚咽を漏らしながら息を止め、ひと思いに力を入れようとした。その時だった。
一瞬だけ眩い光がそこを駆け抜けた。それはボロージャが振りぬいた槍の切先だった。三毛の若者の鼻先を掠った切先がその短刀を撃ち払った。そしてそのまま、近くに居た別のネコの首を刎ねた。
「勇気ある若者よ。種族は違えどその自己犠牲の精神と高潔な勇気に敬意を送る。そして、その素晴らしい命を愚かな者達の為に散らすのは無駄なことだ」
三毛の男が『え?』と見上げた瞬間、ボロージャの周りに居た騎兵が一斉に槍を突いた。その剣先が三毛の周りに居たネコの胸や背中を貫き、一斉に血を吐きながら絶命した。
「そっ…… そんな……」
カタカタと震える三毛のところに騎兵が輜重輸送の馬を牽いてきた。
馬には鞍が乗せてあり、いつでも乗れる状態だった。
「未来ある若者よ。後ろを振り返らず真っ直ぐに祖国まで走れ。そして、自分の故郷に帰り2度と戦場に来るな。次に会うときは容赦無く死んでもらう。だが、今回だけは生かして返す。嘘ではない。さぁ行け」
ボロージャはそれだけ言うと馬を返してその場を離れた。それに従い、ジダーノフの騎兵たちが一斉に動き始めた。その流れを目で追いながら、三毛の若者は呆然としていた。
彼が持ち帰る情報こそがこの戦を左右する事になるのだが、当人は全くそれに気がつかぬ様子だった。




