遠吠え<後編>
~承前
チャシのテラスに陣取ったカリオンは、遠い闇に向かって遠吠えしていた。
ビッグストンで教えられた、遠距離会話の練習だ。
夜間など静かな時間帯に行われるこれは、10リーグの彼方まで声が届く。
最近では教えなくなったらしいが、カリオンの世代ではまだ教育があった。
「懐かしいですな」
遠吠えの声を聞いたのか、ヨハンが姿を現した。
本来なら寝る時間なのだが、雪の中で吼えるカリオンが気になったのだ。
「私だってイヌなのだ。これ位は嗜みとして出来る様になっておかねばな」
笑みを浮かべ、カリオンはそう応えた。
そして、テラスの上で闇に向かって吼えていた。
「安否確認と歓迎ですか」
「あぁ。どうやら迎えが来たようだ」
「……迎え?」
ヨハンの怪訝な声にカリオンがニヤリと笑う。
そして再び、闇に向かって声を上げた。
…………ウオォォォォン………………
イヌに伝わるその遠吠えの技術は、遙かな昔から受け継がれてきたものだ。
まだイヌやオオカミが部族単位で暮らしていた時代の知恵かも知れない。
一族の縄張りを示す為や、はぐれた者を探す為のもの。
また、異なる一門の縄張りを通過するときの挨拶。
そして、異なる一門の思い人を口説く為の声。
イヌやオオカミにとって、それをキッチリ行える事は大人の証。
また、挨拶をキチンと行い、衝突を避ける為の知恵。
それ故、ビッグストンでもちゃんと教育が行われてきた。
「今は教えないそうだな」
「そうですね。今ではラッパなどで代用できますからな」
ヨハンの言葉に寂しそうな表情を浮かべたカリオン。
複雑な音階と和音を使い、様々な情報交換を行ってきた遠吠えなのだが……
「3人で和音を作って情報をやり取りする授業は楽しかったよ」
「……ですなぁ」
ヨハンもまたビッグストンで学んだ人間だ。
闇の中を行軍しながら、遠吠えで隊列をコントロールする事も覚えていた。
「出来るものなら、これは絶やさず未来へと繋げていきたい技術なんだが」
「その通りです。特別な道具が無くとも、これさえ使えればきっ――
その続きの言葉をパッと飲み込み、ヨハンは耳を澄ました。
同じようにカリオンも耳を澄ませ、闇へと耳を向けた。
しんしんと降る雪の向こうから、何かの音がしたのだ。
「……聞こえたか?」
「はい。間違い無いと思います」
それは、雪のカーテンが幾重にも揺らめく闇の向こうからの声だ。
微かな音でしか無いが、夜の静寂の中に、確実に遠吠えの声が聞こえた。
――――ウォオゥウォォォォォ……
複数の声がハモって響いている。
そして、複雑な音階とハモり具合を聞けば、最低でも3人が吼えている。
その音階と和音は、安全を知らせる声と、お邪魔すると言う挨拶。
来訪する一団はわりと大人数だと知らせてくるもの。
最も重要なのは、武装している武人だと言う事。
「なんか聞き覚えのある声だな……」
薄笑いで声を聞いているカリオン。
その姿を見ているヨハンは、王の孤独を見て取った。
このチャシの中で不安と孤独に苛まれていたのかも知れない。
或いは、逡巡と後悔の連続だったのかも。
今ここで動けば……と日中は憔悴し、どうせもう手遅れだと諦観の夜を越える。
それを繰り返し、カリオンは酷く消耗していた。傍目に見て分かるほどにだ。
「とりあえずお休みになってはいかがですか。この雪では近づくのも一苦労でしょうから」
「あぁ。だがな、ここで待っているのも大切では無いかと思うのだ」
この雪を突いて何者かがやって来ている。
それも、このシウニノンチュを目指してだ。
「誰が来たのかを確かめたい。その後でも遅くは無かろう」
カリオンは笑みを添えてヨハンにそう言った。
そのヨハンは『左様ですか。では暖かいものでも用意いたします』と応えた。
チャシの奥へと何事かの指示を出し、テラスの上でヨハンも耳を澄ます。
――ん?
カリオンの耳が何かを捉えた。それは、馬の嘶く声だ。
そして、かなりの団体が雪を踏む音が聞こえてくる。
雪が降ると静かになると言うが、だからこそ聞こえる音もあるのだ。
そして、その音の向こうに何事かの話し声が聞こえてきた。
明るい声と笑い声が闇の中に響いている。
――おぃおぃ……
この暗い中、あり得ない男がここに来たとカリオンは驚いた。
街外れの門を潜り、街の中へ騎兵団列が入って来た。
片方は腰の高いル・ガル騎馬で、寒さ避けの上着を被っている馬だ。
そして、もう片方は長い毛に雪を乗せた寒立馬の一行だった。
「嘘みたいだな……」
「いえ。これが若の…… いや、王の御代ですぞ」
その光景に驚いたカリオン。
だが、隣で見ていたヨハンは、言葉を失って感動していた。
「よぉ! エディ! 久しぶりだな! 暇してるって聞いて遊びに来たぞ」
チャシの下まで馬でやって来たジョニーは、遠慮する事無く階段を登ってきた。
肩にまで雪を乗せているが、その下には返り血があった。
「おいおい。何処かで押し込み強盗でもしてきたか?」
嬉しさと楽しさに声が笑い出す。
だが、ジョニーに続きオクルカが階段を上がってきたとき、カリオンは思った。
暗闇の中で、出会い頭に合戦に及んだんじゃ無いだろうな?と。
「押し込み強盗をしそうな一団がいたので手に掛け申した。いやいや、暗い夜道は物騒ですな」
ワハハと笑いながらチャシに入ったオクルカも、やはり返り血を浴びていた。
カリオンは目一杯に怪訝な顔になって居るのだが、ジョニーは笑っていた。
「いやなに、ここを目指していた評議会の狗がいやがったんでな、ちょいと揉んでやったんだけどな。所が案外数が多くてよ。そんで……」
ジョニーはヒョイと隣を指差した。
その指の先にはオクルカがいた。
「実はここを目指しているとき、手下が侵入を図っている一団を見つけたと報告してきたんで、正面衝突に蹴散らそうかと構えていたら、結果挟み撃ちになってね」
ル・ガルを支える騎兵将官と、ル・ガル北方に君臨する寒冷地戦闘専門集団。
そのふたつに挟撃されたのだから、正直たまったもんじゃないだろう。
その報告を聞いたカリオンは満足そうに笑った後でふたりを見て言った。
「じゃぁ、詳しい報告を聞こうか。ついさっきヨハンが暖かいモノを用意してくれたんでな。寒いのはもう良いだろ?」
カリオンはふたりを誘ってチャシの奥へと入った。
その途中で『ヨハン。済まないけど馬を頼む』と騎馬の手入れを命じた。
すぐにチャシのスタッフが動き始め、あっという間に騎馬の手入れを始める。
そんな光景を見ながら、カリオンは奥の間へと入った。
暖炉の火が赤々と燃える暖かい部屋だ。
「着替えを用意させようか?」
「いや、俺は持参してきた」
カリオンの気遣いにジョニーはそう返答する。
そして同じように、オクルカも『大丈夫だ』と応えた。
雪への対策を怠る者は雪に殺されるのが常識だ。
雪を被って暖かい部屋に入れば、雪が一気に解けて染みこんでしまう。
そこから凍傷を起こしてしまうと、今度は中々治らないのだった。
「で、一体どうなってるんだ?」
チャシのスタッフが用意したワインのお湯割りなどを舐めながら話が始まった。
ヨハンは今夜がル・ガルのターニングポイントなんだと感じていた。
夜が明けたとき、きっと世界は動き出す。
一面の銀世界の中、新たな歴史が紡がれるのだ。
「雪の切れ間を狙って王都へ通信を送れ」
ヨハンはチャシのスタッフにそれを命じた。
シウニノンチュへジョニーとオクルカが来た……と、報告を送ったのだ。
王都では近衛騎兵が再結集していると聞く。
これで王の手駒は揃った。後は動くだけだ。
それが解っているからこそ、王はふたりから話を聞いているのだろう。
「で、いつ動く?」
「そんなもの、善は急げと言いまする」
カリオンの言葉にオクルカは即答した。
ジョニーもまた『拙速を尊ぶ方が良いだろ』と言ってた。
まずは動く事。それをしなければ事態は動かない。
カリオンは満足げに首肯して言った。
「よし、明朝まで待って王都へ向かう。悪いが一緒に来て欲しい」
カリオンの言葉にジョニーとオクルカが揃って首肯した。
当然だと言わんばかりなその振る舞いに、カリオンは笑うのだった。
――――翌朝
「……そう」
満足そうな声音でサンドラは手短に応えた。
シウニノンチュから夜中に届いていた報告は、王を迎えに来た一団の件だった。
「レオン家を勘当されたとは言え、連隊長が居るのは心強いですよ」
ウォークの言う連隊長とはジョニーの事だ。
サンドラもそれを知っているからこそ、満足そうに頷くのだ。
そしてそれ以上に嬉しい存在がカリオンの元にいる。
フレミナ王ことオクルカだ。
「お二人が居れば王も心強いでしょうね」
「もちろんです。それに、今は恐らくアレックス閣下と検非違使別当トウリ閣下も合流してるはずですよ。個別に報告が来ていましたが、恐らくは問題無いでしょう」
ウォークの手元には幾つもの報告書があった。
まず、茅街の別当トウリからは、検非違使を引き連れ北府に入ると通達が来た。
同じタイミングで届けられた情報戦略局の報告書には北府へ向かうとあった。
太陽王の両手両足とも言うべき者達がシウニノンチュに結集し始めている。
しかも、その課程で北府へと向かった評議会の騎兵が随分と刈り取られた。
事態は好ましい方向へと転がっている。
ウォークはそんな事を思いつつ、サンドラにコーヒーをサーブした。
穏やかな朝食の時間だが、段々と人が戻りつつあるらしかった。
城の中に段々と人の気配が増え始め、賑やかさが戻り始めた。
そして……
「おやおや、朝食時だったかい?」
サンドラとガルムの朝飯時に入って来たのはヴェタラだった。
クロネコのヴェタラに続き、ネコマタのセンリが姿を現す。
「王が帰ってくるんだってね」
「どこでそれを?」
センリの言葉にウォークが驚きつつ問うた。
だが、センリはニンマリと笑って応えなかった。
「そんなもの、あの小娘はとっくに気付いているよ」
センリは今もリリスの事を小娘呼ばわりしている。
だが、ある意味でそれはやむを得ない事でもあった。
リリスの魔力がどれ程強かろうと、師であるセンリには勝てなかった。
どんなに馬力があっても、ハンドル捌きの下手な車は真っ直ぐ走らないのだ。
「そうですか。リリス様はお気づきでしたか」
「あぁ。それにね、力を貸してくれって相談されたからね」
――相談?
ウォークは一言の相談も無しにセンリを呼び寄せた事が不快だった。
ただ、魔法の何たるかを理解していないと面倒なのかとも思うのだ。
「その中身については結構です。ただ、何をするのかは教えて頂きたいですな」
「中身を知りたきゃ小娘の所に行ってきな。心を強く持ってな」
相変わらずヒヒヒと甲高い声で会話し笑うセンリ。
こんな危険な状況をのぞき見されないよう、リリスは気を配っていた。
「とりあえず、お二方にお茶を」
「畏まりました」
客人ふたりに茶を振る舞ったサンドラ。
この城へカリオンが帰ってくるかもしれない。
その期待に、サンドラは胸を熱くしていた。
「ウィルとハクトは地下に居る。あいつらも暗いところが好きだねぃ」
軽い調子でセンリは言う。だが、その言葉の裏には含みがありそうだ。
ウォークとサンドラは顔を見合わせて思案した。
だが、その中身については見えてこない。
ただ、仮にもカリオン政権の重職だった者ばかりだ。
下手な邪魔はしないだろうとウォークは思うのだった。