遠吠え<前編>
~承前
「陛下……」
チャシのテラスで物思いに耽っていたカリオンの所へヨハンが現れた。
夕食を済ませた後、テラスで剣の稽古をしていた時だ。
思えばこの何年も碌に剣を振ってない。
かつては幾度も合戦に及んだはずなのだが。
「どうした?」
「王都からの報告が届きました」
日暮れともなれば光通信は一斉に各所へ情報を伝達し始める。
ましてや新月の晩で大気が安定している頃合いだ。
やがて、シウニノンチュは連日雪のシーズンとなる。
その頃には週に一度の報告すら難しくなるだろう。
「そうか。で、ウォークはなんと?」
剣を鞘に収め、汗を拭きながらカリオンはチャシへと入った。
油断すれば氷の張るような気温だが、汗を掻くほどの稽古で暖かい。
ただ、それは体深部の話であって、身体の表面は冷え切っている。
ヨハンはチャシのスタッフに風呂の用意を指示し、報告書を見せた。
速記したらしいその書類は少々読みにくいが、内容は読み取れた。
「……ほぉ」
王都のウォークが送って寄こした内容を要約すればこうだ。
まず、王都の蜂起は連日続いていて、今は評議会側が逃げ回っているらしい。
市民による投石と放火は評議会側の施設を痛めつけているようだ。
そして、徴発をしようにも、市民の側にもはやその蓄えが無い。
「いよいよ市民の怒りも頂点ですかな」
ヨハンは悲痛な声音でそう言った。
だが、それを聞いていたカリオンは、クククと笑いを噛み殺していた。
「違うよヨハン。違う。違うのさ」
クククと噛み殺した笑いを抑えきれず、カリオンはハハハと笑った。
左手を腰に当て、右手で額と目頭を押さえる仕草。
ヨハンはそこにゼルが立っているのだと思った。
「……そう。違うんだよ。もう、どうでもいいのさ。市民は」
それが何を意味する言葉か解らず、ヨハンは続きを待った。
カリオンは改めて速記の報告書を読みながらにんまりと笑った。
「かつて父はこう言った。人の支えるモノは何かを絶対に忘れるな……とね」
カリオンの言葉が途切れ、ヨハンはただただ絶句していた。
王を支えるゼルという男は、王の器を満たして溢れるほどの存在なのだ。
「して……それは?」
いつの間にかやって来ていたピートが言葉の続きを求めた。
ゆっくりと顔を向けたカリオンの眼差しは、もはや刃だった。
「父はこう言われた。人が絶望の淵へ転がり込む時は、必ず三段階になっているとね。まず最初は飢える。空腹に耐えかね正気を失い始める。そのひもじさのまま外に出ればこの寒さだ。ガルディブルクも寒い頃だろう――」
ピートから目を切り、カリオンは数歩前へと歩み出てテラスに出た。
夜の闇の中にチラチラと雪が舞い始めていた。
「――ひもじく、寒い。その、耐え難いふたつの辛苦に晒されると、人は正気を失う。そしてこう考える。もう死にたい……と」
その言葉にヨハンとピートは顔を見合わせ手首肯した。
あのビッグストンで学んだ士官達は、繰り返し繰り返し叩き込まれるのだ。
つまり、部下にはまず喰わせろ。人も馬も喰わせろ。
そして寝かせろ。喰って寝ていれば、大概の事は乗り越えられる……と。
「そして父はもう一つ言われた。飢えて震えた者達が死を意識しても、それを思いとどまらせるのは幸せな記憶だと。幸福な記憶とはつまり、その人間の誇りや尊厳と言ったモノと同義なのだと。その尊厳すらも失った時、人はもう手の付けられぬ獣性を発揮してしまうのだ」
小さく溜息をついたカリオンは、テラスから眼下を見た。
シウニノンチュは秋の間に蓄えた食料で、今宵も幸せな香りを街に漂わす。
「……腹一杯喰って、暖かくして眠る。これ以上の幸せが人間にあるか?」
振り返ったカリオンは静かにそう言った。
空腹から来る絶望を知る者は、まだまだル・ガルに多いのだ。
「評議会の面々は、その大切な部分を見失ったようだ。愚かな事だが、それでも仕方があるまい。己のしでかした事だ。己で責任を取らねばならない。故に……」
報告書を綺麗に整え、カリオンは小脇に挟んでチャシの中へと入った。
幾人かいるチャシのスタッフに『ワインでも貰おうか』と伝え、腰を下ろす。
改めて広げたその報告書には、近衛師団の再結集が完了したと書いてあった。
評議会によって解散させられた近衛騎兵たちは、各所で時を待っていたらしい。
「余の両翼が戻りつつある。後はガルディブルクへ戻るだけだ」
ただ、迂闊に戻るわけには行かない。
タイミングがなにより重要で、しかも説得力が要る。
あの評議会に偽者呼ばわりされないようにしなければならないのだが……
「陛下。どうぞ」
差し出されたワインを飲みつつ、顎をさすって思案に耽る。
だが、そんな王を見つめている眼差しにカリオンは気が付いた。
ワインを差し出したのは、同世代の女だった。
「……何処かで会ってるな」
「覚えていて下さいましたか」
「うーん……済まない。思い出せない」
ワインを差し出した給仕の女はスカートの裾を広げて挨拶した。
「チョウルベツ川を遡ったペンケの村の『あぁ、そうか』
その言葉でカリオンは全てを思い出した。
あの8才の初陣で訪れた上流の小さな街の中にいた娘だ。
まだ幼かったカリオンを前に、ウチの娘を小間使いにと言った父親の隣。
小娘と言うより幼女と言ったレベルの娘は、眩しそうにカリオンを見ていた。
「今はこの街に暮らすのか?」
「はい。この街の職人へ嫁ぎました」
「左様か。暮らし向きはどうだ? 家族はちゃんと食べられているか?」
そのカリオンの問いに対し、女はニコリと笑って応えた。
「王の治世で幸せです」
「そうか……」
満足そうに笑ったカリオンはグラスを差し出し、ワインをお代わりして飲んだ。
自分のやってきた事が間違っていなかったと、そう認められた気がしたのだ。
「さて……」
この幸せそうな笑みを消してはならない。
カリオンはそれを深く刻んだ。
そして、国家を争乱せしめた者達をどう処するかを思案した。
自信溢れるその姿に、ヨハンは帝王シュサを思いだしていた。
――――同じ頃
「兄貴! 雪が舞い始めやしたぜ!」
「見りゃわからぁ馬鹿たれ!」
馬上にあって雪を突く行軍中のジョニー一行。
小さな宿場町で2日を過ごしたが、僅かな晴れ間を突いて行軍を再開した。
ただ、その道中で雪が舞い始め、流石のジョニーも参り始めている。
もはや街道に宿場は無く、シウニノンチュまで指呼の間だ。
「兄貴! 先ほどの茶屋まで引き返しやしょう!」
「引き返す方が距離が有らぁ! 推して行くぞ!」
「マジッすか!」
雪を嫌がる馬を宥め、ジョニーは雪を突いて進んでいた。
この調子では本降りになりかねないと危惧している。
だが、本当に危惧しているのは違う点だ。
――足跡が残っている……
それは、雪に消えかけているものの、間違い無く蹄の跡だ。
重量のある馬がかなりの数で通過していて、ボロが残っている。
行軍中に落とす馬糞を見れば、その馬の健康状態が解るのだ。
騎兵に必須の能力だが、今はそれが疎ましい。
――良い馬だぜ……
消化の良い飼い葉を食み、しっかり水を飲んで英気を養った駿馬。
そんな馬が少なくとも20頭以上いる一行のようだ。
普段から運動している馬ならば、乾燥すれば良く燃える糞をする。
つまり、荷物輸送用の馬では無く、騎兵と考える方が正しい。
雪に埋まった蹄の深さを見れば、かなりの重量である事が解る。
「ロニー! 急行軍を行う! 縦列で走るぞ! 遅れるな!」
「へいっ!畏まりやした! 野郎共! 行くぞ!」
12騎ほどの騎兵が『ハッ!』と返事をし、ジョニーは一気に加速した。
雪の中の急行軍は馬が足を折る危険があるのだ。
だが、ジョニーは嫌な胸騒ぎを覚えていた。
この足跡はシウニノンチュへと向かっている評議会軍かも知れない。
その目的は言うまでも無く、遅れれば大変な事態になるだろう。
――間に合え!
雪を蹴散らして進むジョニーはそのまま小一時間も走り続けた。
やがて雪は密度を増し、降りしきる雪の向こうが見えなくなり始めた。
ただ、そんな雪のスクリーンでも、その向こうに灯りがチラチラと見え始める。
――シウニノンチュだ……
まだ2リーグはありそうだが、それでも街明かりは暖かく感じた。
だが、その街明かりに浮かび上がる影を、嫌でも見るのだった。
――いた……
ジョニーは腰に刺してあった剣を確かめた。
父セオドアから与えられた、レオン家の宝剣だ。
その物語は知らずとも、剣の意味は知っている。
統一王ノーリに与えられた、無骨な大太刀。
それは、ル・ガルを蚕食せんとするものを討ち果たせと言うメッセージだ。
「ロニー!」
「へい!」
「出入りの仕度だ! 喧嘩支度を整えろ!」
「合点でさぁ!」
振り返ったロニーは小隊の騎兵に合戦準備を命じた。
全員がマントを畳んで母衣を作り、太刀の抜け留めを引き抜く。
馬上弓を持つものは矢筒の蓋を取り、矢羽根を確かめて指の股に矢を挟んだ。
「兄貴! いつでも喧嘩出来ますぜ!」
「おうっ! 行くぜ野郎共!」
剣を抜き放ったジョニーは、前方にいる30騎ほどの軍勢を指し示した。
音が聞こえていないのか、後方を警戒せずにザクザクと前進していた。
「あいつらは恐らく評議会の狗だ! 王の首を取られるわけにはいかねぇ!」
頭上で2回ほど剣を回し、我に続けのサインを出した。
全員が一斉に剣を抜き、ジョニーの後に続いた。
「弓持ち! 届くと思ったら放て! 前の奴を狙え! 足を止めろ!」
3列縦隊で前進している騎兵は雪の中でも軍旗を掲げていた。
それは、間違い無く評議会軍を示すものだった。
馬の速度を落とす事無く追跡するジョニーは、もはや指呼の間まで迫っている。
そんな状態で矢を番えた弓持ちは、精一杯に引き絞って矢を放った。
雪の中をぴゅんと飛んだ矢は、縦列で進む騎兵の真ん中辺りに突き刺さった。
誰とも無く『おぉ!』と声が上がり、隊列の後半がこっちを見た。
ねじり殺してやると気合いを入れたジョニーは、頭上の剣を振り下ろした。
「行くぞ!』
そこから一気に加速し、完全な襲歩へと移行した。
襲歩とはギャロップ状態をさし、馬の全速力を意味する。
そして、速度こそは騎兵の武器であり、重要なファクターだ。
「おぉぉぉぉぉぉぉ!!!!!!!」
雄叫びを上げて後方より襲い掛かったジョニー。
騎兵の弱点は左後方で、右前方は最も手強い。
そんな状態で剣を振り下ろし襲い掛かれば、あっという間に数騎を屠った。
「反転! 反転! 敵襲! 応戦しろ!」
評議会軍は慌てて隊列を反転しようとしている。
だが、それが終わる前に襲い掛かるのが常道だ。
卑怯も糞も無い。まずは攻めるのが正しい。
――チキショウ……
――思ったより数が多い……
この時点でジョニーは悪手を知った。
評議会側騎兵は30騎どころか100騎近く居たのだ。
たかだか13騎でそれに勝とうなんて無理な話……
だが、断然攻撃あるのみだ!とジョニーは攻めて掛かった。
逃げるという選択肢は、ジョニーの頭の何処にも無かった。
「押せ! 押せ! 押し返せ! 偽の王を担ぐ不埒者ぞ! あやつら――
その直後にギョフ!と妙な声が響いた。
なんだ?と目を凝らしたとき、ジョニーは驚くより他なかった。
100騎だと思っていた評議会騎兵は、やはり30騎か多くて50騎だった。
そして、その向こう。シウニノンチュの街明かりに照らされた影が見えた。
普通の馬よりも一回り小さく足も短いがガッシリとした姿の馬。
それは、フレミナで飼育される寒立馬なる寒冷地馬だ。
その先頭の馬上には、漆黒の鎧を纏ったオクルカが座っていた。
――オクルカ殿……
それを認識した時、ジョニーの耳に遠くから遠吠えの声が聞こえ始めた。
イヌやオオカミの間に伝わる、遠くまで声を響かす技術だ。
ラッパや太鼓などで戦場に指示を飛ばす前には、遠吠えが使われた。
ただ、その遠吠えの声にジョニーは聞き覚えがあったのだ。
遠い日、ビッグストンで幾度も練習したエディの声だった。