始まりは何時も小さな事から・・・・
392年も年の瀬を迎えつつある12月の朔日。
かつてネコの国の地方都市だったフィエンの街は、俄に騒然としていた。
これと言った領主となる貴族を置かず、名士による自治を基本とする街。
フィエンゲンツェルブッハは、太陽王より特別な差配を許されている。
ただ、そんな街にも国軍の駐屯地は有り、街はイヌとネコが共存していた。
そんな街の中にネコの騎士がひとり、姿を現したのだ。
「世界に冠たる大帝國! この世界の支配者たる太陽王に仕えし一騎当千なル・ガルの騎士よ!」
フィエンの街中で口上を述べ始めたその騎士は、驚く程の大音声だった。
街の人間がなんだなんだと集まり始めるも、彼らは一斉に表情を引きつらせた。
口上を述べる騎士の後方には、驚く程の数で騎兵が揃っていたのだ。
磨き上げられた揃いの甲冑に身を包み、槍の穂先を剥き出しにした戦闘装備だ。
――――合戦だ!
誰かがそう囁いた時、広場の中が騒然となり始めた。
だが、そんな街の空気を無視するように、ネコの騎士は口上を続けた。
「吾はネコの国より参った東方領胸甲騎士、騎士レオニールである。誇り高きル・ガル騎兵よ! どうか静聴賜りたい!」
――――国軍だ……
ネコの市民が一斉にざわついた。
ル・ガルの為政下に入って既に50年以上が経過している。
この間、ル・ガルがこの街に投資した金額は莫大なものだった。
貧しく乏しかった街は豊かになり、色街を主力産業とした翳は何処にも無い。
人並みの暮らしが出来る様になったこの街が、再びネコの国になるかも……
その事実は、街に暮らすネコたちに複雑な感情を想起させた。
「吾は我が女王より切り取られし寸土を奪回せよとの勅命を賜り推参した。だが、この美しい街を焼いてしまうのは忍びない。聞けばこの街は帝父ゼル公の差配により発展の礎を置いたとか。ならば問う!」
レオニールは腰の剣を抜き、石畳の上に抜き身の剣と鞘を並べ10歩下がった。
「誇りに掛けて戦を望まれるなら剣を取られよ。街と住民の為に敢えて難道を征かれるなら、鞘に収めて街を立ち去られよ。吾は明日、再びここへ推参いたす。どうか懸命な措置を願う」
騎士の命とも言うべき剣を置いたままレオニールはそこを立ち去った。
遠巻きに見ていた市民の間から、ル・ガル騎兵が姿を現した。
「今の騎士はなんと?」
間に合わなかった騎士が息を切らしながらそう問うと、誰かが口上を再現した。
街を焼き払う戦を求めるのか否か。それは簡単に済む話では無い。
「承った。まずは駐屯所で協議いたす。あの剣と鞘は、どうかそのままに」
街の広場を立ち去った騎士は、駐屯所で協議を始めた。
ただ、ル・ガルの中央が余りに騒然としている事を彼は知らなかった。
王都ガルディブルクの争乱は、まだ速報としてすら届いていない。
何より、国軍が事実上崩壊し王権が停止されている現状すら把握してないのだ。
情報の拡散が足と馬でしか無い世界では、伝令が走らない限り伝達は無い。
そして、権力の簒奪を試みた者達にすれば、迂闊にクーデターを伝えられない。
なぜなら、地方に分散している地方軍の各軍団が王都に殺到しかねないからだ。
巨大国家であるル・ガルの弊害なのかも知れない。
だが、フィエンの街に駐屯し情報の入ってこない騎士は責められない。
知らない案件に恐怖は湧かないものだし、知りたいとも思わないだろう。
果たして彼らは街の住民を引き連れ、街を退去する事を選んだ。
最後の晩餐を終え、住民達は払暁にル・ガル本土へと旅に出たのだ。
広場の剣は鞘に収められ、騎兵たちはその伝統と因習に則り礼を尽くした。
ル・ガルの本土。西方領公爵レオン家に取り次ぎ、支援を仰ぐ。
その腹積もりだったのだ。ネコの国がル・ガルの政変を掴んでいる事を知らずに。
ル・ガルの崩壊は、こんな静かな一手から始まるのだった……
――――――――帝國歴392年 12月 1日
ル・ガル南西部 自治領フィエンゲンツェルブッハ
「……さて、どうしたものかな」
不機嫌そうに髭を弄るエゼキエーレは、怪訝な顔で相手を見ていた。
ネコの国の東方派遣軍団。その全てを預かる男が目の前に居たのだ。
レオニール・ロッシナ・マリオ・ウリュール
ネコの国の武力全てを預かる男。
女王ヒルダの王婿としてネコの国に雷名をとどろかす存在。
そして、実質的にネコの国の帝王であるエデュ・ウリュールの息子だ。
「ヒルダ女王はこの地を奪還したいと言い出してね……」
面倒だろ?とそう言わんばかりのレオニールは、頭を掻いた。
世間的に言われるように、ネコの女王は気分屋で御しがたい性格だと言う。
だが、それは、ネコの国の女王を選ぶシステムに問題の本質があった。
そもそもネコの国の女王は、基本的に世襲をしない。
また、王婿との間に子供も作らない。
能無き者が国家の支配者になると国がすぐに滅びる。
そんな極限状況の中でギリギリの綱渡りを続けてきたネコの国特有の問題だ。
このレオニールとて、自らの母親が誰だか解らないのだった。
「相変わらず……気まぐれなお人だな」
「その通りです」
ふたりが顔を見合わせため息をこぼすのも仕方がない。
そもそも女王ヒルダは千年に1人といわれるような才能の持ち主だ。
だが、それ故に魔道院の中に居る時から我儘一杯に育ってしまった。
実力のみが評価される環境で、周囲より一頭優秀ならばそれもやむを得ない。
だが、ヒルダは一頭どころか周囲を圧倒するレベルで優秀だった。
ヒルダの母エリザが産み落とした彼女は、父親が誰だか解らない存在だ。
そもそも、女王に求められる資質は、天の意志を探る巫告ともう一つある。
次なる女王となる魔力に長けた存在を産み落とす事だ。
その為、女王は様々な男との間に子をなす事になる。
ただ1人、ウリュール家の男だけを除いて……だ。
国難を払いのけるだけの圧倒的な実力を持つ存在を産み落とす事。
それは、太古より超越者として知られる存在――ネコマタ――への挑戦だ。
尻尾が二股に分かれた圧倒的な魔力を持つ存在を産み落とす事。
その為、ネコの国全体を蟲毒壷にしてしまうような事が平然と行なわれていた。
ただ、その全てにおいて優秀だったヒルダは、文字通りに女王だった。
全くもって我儘かつ横柄。しかも癇癪持ち。そんな状態で圧倒的魔力がある。
周囲がコントロールしがたい存在なのだから、後は好きな様にやらせるだけ。
滅びるか死ぬまでこのままなのだろうが、もうどうしようもないのだ。
「ただ、ヒルダ女王は――」
このレオニールにとって、女王ヒルダは建前上だったとしても母親の筈。
だが、そんな素振りを一切見せない辺りにネコの国の病的な実態が垣間見える。
「――イヌの国で何かが起きたと言うんですよ」
「……なん……だと?」
エゼキエーレの表情がスッと曇った。僅かではない動揺と狼狽を見せたエゼ。
そんな姿をレオニールが見ていた。
「何が起きたのか。その実態を探れとも勅命を受けています」
畳み掛けるように言うレオニール。エゼは表情を強張らせて思案していた。
「ル・ガルに太い人脈を持つクワトロ商会のエゼキエーレ殿ならば、その実もご存知だろう。実は父よりその話しを聞きまして、で、こうして推参したしだいなのですよ」
つまり、お前の知っている事を全部教えろ……と、圧力を掛けに来た。
エゼはそう解釈したのだが、実際はそれは正しいようだ。
だが、当のエゼキエーレにしたって現状では初耳だ。
実の娘の様に可愛がったアチェイロの産んだ娘。
リリスの元へ送り込んだリベラからも連絡は来ていない。
年に数度の定期連絡的な報告の手紙が今回は来ていないのだ。
もしかして死んだかも……と、エゼも心配はしている。
エゼよりも100歳程度は年嵩なリベラだ。
老衰で死ぬとは考え難いが、業の衰えで命を落とした可能性もある。
そして、それを連絡してくれるはずの存在は、公式には死んだ事になっていた。
リベラがエゼに送った手紙の中に、符丁を組み合わせた暗号を忍ばせたのだ。
故にエゼはリリスの身に起きた事を正確に把握していた。
圧倒的な実力を持つ、闇の女王として君臨している事も……
「……さて、どこから話をしたモンかな」
僅かに思案したエゼは、髭を弄りつつ、思案した。
少なくともゼロ回答では許されないだろう。
だが、手持ちの情報全てを開陳してしまうのはよろしくない。
エゼにとってカリオンは義理の息子にも等しい。
そんな存在を裏切る事を、エゼ自身が良しとしなかった。
「まず、ル・ガルの内部で何が起きているかは、正直、把握していない。手の者が王府に近い所へ潜り込んでいるが『例の細作殿ですな』然様だ」
その一言にエゼは警戒のギアを一段上げた。
少なくとも、全く無知で探りに来ているのでは無い。
この騎士は相当なところまで調べ上げていて、それを飲み込んでここに居る。
その事実にエゼは腹の底で唸るしかなかった。
「……実は、先にル・ガルへ買い付けにいった際、気になる話を聞いた」
エゼの切り出した言葉にレオニールは表情を変えた。
どんな話が出てくるか?と気を入れたのだ。
「西方地域。我々から見れば東方だが『ここはル・ガルの西方ですぞ?』
「いちいち話の腰を折るな」
「あぁ、すみません。思ったことを口にしないと収まらない性格でして」
いちいち話に割り込んでくるレオニールはそう言って笑った。
表情を固くしたエゼだが、意に介さぬ様子の若造は実に鼻につく。
「で? いったいどんな話で?」
「知るか。自分で調べたら良い。話は終わりだ」
不機嫌に席を立ったエゼ。レオニールはニヤリと笑って言った。
「よろしいのですか? この街は再びネコの国になるのですぞ?」
昔から権威や肩書きで相手を圧してくるクズは一定数いるもの。
このレオニールもまた、その類いの人間だとエゼは思った。
そして、その類の脅迫には決して屈しない意地とプライドの塊でもある。
「脅迫かね? まぁ、それも良いだろう。ただ、どうせならもう少し怖がる話にしてくれ。そうだな。既にイヌの王が死亡したとか」
吹っ掛けるような言葉を吐き、エゼはレオニールを潰しに掛かった。
お前の話はつまらないと馬鹿にして掛かったのだ。
だが、そんなレオニールは圧力などどこ吹く風だ。
もっと面白い事を言えとばかりに笑って言った。
「ならば、こんな話はどうか?――」
何とも悪意を感じさせるような悪い笑みでエゼを見たレオニール。
だが、その口から出た言葉にエゼは動きを止めた。
「――イヌの王が都を追われたという話だが?」
これ以上無い程に冷ややかな眼差しでレオニールを見たエゼ。
クワトロの奥深くで行われている懇談は一触即発だ。
「それで、なんだというのだね?」
エゼは不機嫌さを隠そうともせず、遠慮なくそう言い放った。
しかし、その裏では脳内に様々な可能性が想起されていた。
リベラの報告を総合するに、カリオンはここしばらく上手くないようだ。
少なくとも順調とはいえない難事に掛かっているのだと手紙にはあった。
その過程の中で、リベラはサンドラの関係を懸念した。
カリオンとリリスが裏の夫婦なら、サンドラとは表の夫婦。
やっと打ち解けてきて順調ではあるようだが……
「いえいえ、他意はありませんよ。ただ、エゼキエーレ殿にも知らない話の一つや二つはあるだろうと思っただけです」
こちらを験している……と、エゼはそう直感した。
理屈ではなく感覚的な問題として、それを感じる時があるのだ。
リリスの件はあの魔力オバケな女王ヒルダが察知していよう。
しかし、サンドラとトウリの間に出来た筈の息子ガルムの秘密は知るまい……
僅かでも相手より有利なポジションに立ってこそ、交渉は強気に振舞える。
長年の経験でそれを知っているエゼは、畳み掛ける事を選んだ。
「私にだって知らぬ事はあるさ。今日、街の中を歩き回っているアリの数など考えた事も無い――」
遠まわしに国家騎士をアリだと馬鹿にして掛かったエゼ。
遠慮なく踏みつけられる存在に例えたのは、鎧袖一触に蹴散らされろと同意だ。
「――それと同じく、遠く500リーグ彼方のガルディブルクに起きている事は、とてもじゃないが把握しきれない。ただまぁ、あのイヌの王が酷いヘマをするとは考え難いが……ね」
カリオンとエゼキエーレに直接面識があるのは誰だって知っている。
エデュ・ウリュールは若き日のカリオンとリリスを見ているのだから。
故にエデュは警戒しているのだろう。
その時に得た『最善の注意を要する』と言う感覚は、常に頭にある筈だ。
とてもじゃないが『侮りがたし』なんて陳腐な言葉で評し切れる人間ではない。
そんな人間が無様に王都を追われるなど、普通では考えにくい。
何か良からぬ動きをしているのでは無いだろうか……と勘ぐっているのかも。
エゼは一瞬の間にそんな事を思案していた。
「まぁ、ル・ガルへ戻ったイヌ達が何かを教えてくれるでしょう。それまでここで待たせてもらいますよ」
平然とした顔で言ったレオニールに、エゼは内心で舌打ちをしていた。
少なくとも、いますぐに手下を使ってル・ガルを調べたいのだ。
だが、表立って動けず、また尻尾を掴ませたくもない。
どうしたものかと思案するしかない現状が歯痒い限りだ。
だが、その実態は想像をはるかに飛び越えたものなのだった。