セオドア・レオン死去
~承前
「国が荒れる…… それは口で言う程生易しいものでは無い」
セオドアの言葉がますますと刃になり始めた。
ただ、何よりも酷かった第三次祖国戦争を経験した男は遠い目をしていった。
「徐々に蝕まれる痛みは不思議と慣れてしまう。痛みが定常になるからな。だが、その痛みの元から全てが腐っていく。そして、その先にあるのは確実な……死だ」
間を一つ置いてから『死』の言葉を吐いたセオドア。
その身に漂う威圧感は、幾多の死線を潜った男だけが持つものだった。
「あの子は…… いや、それは不敬だな…… 王も立派になられた」
クククと笑みを噛み殺し、心からの愉悦を見せたセオドア。
その目は歴戦の武人からひとりの好々爺に変わっていた。
「かつてのシュサは手の付けられぬ暴れん坊だったよ。だがな、あの祖国戦争の最中に幾多の悲劇や理不尽を見て変わった。いや、育ったと言うべきなのかも知れんが……その表現の違いなど陳腐なものだ」
枯れた小枝のような手がスッと上げられ、その指が評議会をさした。
そして、スイッと全員を指さし、言葉は静かに続いた。
「お前さん方…… 聞いていれば理念だの理想だのと口上だけは立派じゃが、要するに自分自身の不平不満の解消しかない。ヒトの世界ではこれを下克上と呼び、異なる表現ではくーでたーと言うのだそうだが――」
その時、ゼピュロスだけは気付いていた。
セオドアの浮かべる好々爺の笑みの中に、獰猛な肉食獣のそれが混じった。
「――あの…… 立派に育ったカリオン王は己を勘定に入れず、まず国の為に、そして国民の為にと手を打たれている。最初に聞いた時はワシも心底驚いたよ。あの若き王は何と言ったと思うかね」
ニンマリと笑ったその笑みの意味に全員が気付いた。
これからお前らを喰ってやるという、肉食獣の歓喜の笑みだ。
「父の帰りを待つ子等に、父を無事に届ける為に……だ。お前さん方にこれが言えるか? ん?」
セオドアの顔に浮かんだ笑みに凶相が混じった。
そして、ロンバスは自分の野望の終焉を知った。
何よりも、ズザとキザに丸め込まれた己の弱さを知った。
――ここまでか……
言葉に出来ない落胆に表情がスッと曇る。
だが、その直後に想像を超える自体が発生した。
「ん? ジョニー お前はこんな所で何をやっている?」
――え?
驚いてそちらを見ると、そこにはセオドア卿の長子ジョンが立っていた。
レオン家の跡を取るに相応しい衣装姿だが、その身から溢れる空気は任侠者。
このル・ガル西方に君臨するレオン一家の伝統は、確実に受け継がれていた。
そしてそこに、自分とカリオンとの違いを知った。
確実に受け継がれる物がある。それを持ってるかどうかが重要なのだ……と。
「こっちに来い」
ジョニーを手招きしたセオドアは、家令からレオン家の宝剣を受け取った。
そして、それを手渡しすると全員が思った瞬間……
「いてっ!」
ジョニーすらも驚いて鑪を踏む。
セオドアはその剣を抜かず、鞘でジョニーを殴りつけた。
「お前はあの若王の友達だろ?」
事態を理解出来ないジョニーは『……あぁ』と応える。
そんなジョニーの頭をもう一度鞘で殴ったセオドアは驚く程の声音で言った。
「こんな所で何あぶら売ってやがるバカ息子! 友達ってぇのは損得勘定抜きで駆けつけるもんだろうが! 遠くで待ってる友の所へ何故行かねぇ! やぃロス! お前も何を教えやがった! 仁義ってモンを何も理解してねぇじゃねぇか! 揃いも揃って馬鹿面並べやがって!」
それは評議会の全員が驚く様な声だった。
齢350の男が出す声とは到底思えないほどの張りと音量だった。
「いいかよく聞け! 仁ってのはふたりの人間のことだ! 義ってなぁ正しい道のことだ! 人の心を理解出来ねぇ奴やら心に表裏がある奴にゃぁ仁義ってモンが理解出来ねぇ! 相手を思う心こそが仁義だ! 仁義もねぇ奴が一家を背負えると思うな! ましてや国を背負えると思うな! 解ったか!」
もう一度ぽかりとジョニーの頭を殴ったセオドアは、その宝剣を投げつけた。
「お前みてぇな出来損ないのバカ息子は金輪際勘当だ! 二度とこの館の敷居をまたぐんじゃねぇ! 今すぐ出て行きやがれ! 口惜しいがその剣はくれてやる! 無宿の乞食に身を落としたらてめぇの首はてめぇで切り落とせ!」
それが何を意味するのか……
評議会の面々は言葉では無く直感で全て理解した。
今この時点でレオン家は次期当主が不在になった。
何より、当主を示す宝剣が無宿者に受け継がれた。
ただ、その宝剣はノーリが与えた物だ。
――――ル・ガルを護る為の剣となれ
その刃を投げつけられ家を叩き出されたジョニーが向かうところは1つ。
ならば先回りするしかないのだが……
「ロス! て前もなにやってやがる! さっさとやらねぇか!」
その言葉が終わるやいなや、『へい! オヤジ!』の声をロスが上げた。
同時に『やれ!』の声を上げ、その声に弾かれ、極道の男達が一斉に動く。
最初に鈍き呻き声をあげたのはボリシャノフとゼピュロスだった。
「ゴフッ!」「グア!」
鈍いうめき声を漏らしたふたり。
その胸には背後から突き刺された匕首の白刃が鈍く光っていた。
後背より背骨越しに心臓を一突き。これで絶命しない生物などあり得ない。
直後にボレアスとネフェルト、そしてロンバスが頸椎を背後から刺された。
中枢神経の通う頸椎を一撃で断ち切られ、動く事も出来なくなった3人。
その全てを見ていたボリスは、観念した様に両手を合掌した。
「その御手に運命をお預けいたしま――
聖句の一節を唱えたボリス。しかし、その聖句は絶句に変わっていた。
ロスの引き抜いた長ドスの丈は1メートルを軽く越えた。
強く反ったその刃はボリスの纏っていたローブを貫いていた。
聖導教会の僧伽でありながら武力を持つ一党は、その下に胸当てを付けている。
ロスの長ドスはその胸当ての僅かな隙間に入り込み、胸腔を完全に貫いた。
「……まだ聞こえるのだろう? だからワシが引導を渡してやる」
穏やかな声に戻ったセオドアは静かに切りだした。
あの大音声が喉に堪えたのか、やや掠れた声音だった。
「レオン家はこれで終わりだ。ル・ガル西方に根を下ろした任侠一家は仁と義とを持って太陽王を支えてきた。眩い太陽の下では生きられない者もいる。夜の暗がりの中で何とか生きる者を拾うのもレオン家の仕事だった。だがあの子は、あの若き王はその明晰な頭脳と友愛の心で全てを救済して下さるのだ。それはノーリの定めた世界の――」
セオドアはそこで酷く咳き込み、食堂のテーブル上へ喀血した。
家令のクロームが慌てて駆け寄ろうとして、セオドアはそれを止めた。
「――世界のイヌを救おうとした純粋な願いの延長線上にある。そして、新しい時代は若い世代が作るのだ。ワシ等のような、ノーリの世界に生きた者では無い。今この世界の太陽がカリオンなのだ。シュサはそれを知っていたから、あの子の父親代わりにヒトの男を付けた。その男から全てを学んだあの子は……」
口の中から血を垂らしながら、セオドアは満足そうに笑った。
ハァハァと荒い息をしつつ、それでも嬉しそうに笑っていた。
「あの子は世界を救うだろう。イヌも、イヌならぬ者も、そしてヒトも、全て救うだろう。それが皆の願う世界で無かったとしても、結果として世界は救済されるであろうさ。故にこれがワシの最後の仕事だ」
震える手を伸ばし、ファサリと手を振って『やれ』の指示を出したセオドア。
ロスを含めた極道の男達が白刃を引き抜くと、評議会の全員が絶命した。
ただ、その状態でなおセオドアが見ていると、ロスはコクリと首肯した。
そして、その手にしていた長ドスでボリスの首を落とした。
「……クローム。長い間、お前には世話になったな。良く尽くしてくれた。心から感謝する。そして、余生はこの地で全うせよ。ここがそなたの臥所ぞ」
その言葉を聞いたクロームは、被っていた頭巾を取って頭を下げた。
頭巾の下からはすっかり薄くなった白髪頭が出てきた。
そして、その頭には耳が無かった……
「私も御館様に救われました。今までありがとうございます」
セオドア最後の50年を世話したのは、ヒトの男だった。
クロームと呼ばれたそのヒトの男は、胸に手を当てて頭を下げていた。
「……その首全てをズザに届けろ。そしてこう伝えろ。次はお前だと」
再び激しく喀血したセオドアは、ダラダラと血を垂らしながら笑っていた。
背もたれに身体を預け、満足げに首を眺めていた。
「神がなぜワシに50年余の余命を与え下さったのかよく解った。ワシはこの時の為に生かされていたのだ…… そうだとも、生かされていたのだ」
自分の身体を支えることも出来ず、座っている椅子に小便を漏らしたセオドア。
僅かに便臭がこぼれているのは、そっちも緩くなっている証拠だろう。
だが、満足げに笑っているセオドアに、誰も声を掛けられなかった。
「ロス…… ポールの息子を探せ。まだ幼いはずだが、レオン家はポールの一門に跡を取らせる。但し、その子が成人してからだ。それまではお前がレオン家を仕切れ。そして、これから先、レオン家の長子はポールを名乗れ。いいな」
それは、セオドアの遺言だ。
ロスはテーブルの上に三つ指をつき『へい。承りやした』と応えた。
「……あぁ。どうやら迎えが来たようだ」
ニヤリと笑ったセオドアは、そのまま布束が床に落ちるように崩れた。
部屋中の者が一斉に駆け寄る中、セオドアは満足げに笑い続けていた。
「……ダリム。今そこへ行くぞ…… もう一度…… 世界を焼き払ってしまえ」
弱々しく右手を伸ばしながらセオドアはそう呟いた。
ただ、その手がぽとりと床へ落ち、室内の男達は1つの時代の終わりを知った。
「オヤジ!」
ロスが絶叫する中、家令のクロームは落とされた首を1つずつ包み始めた。
そして、かねてより用意してあった首桶にそれを入れると、厳重に封をした。
落とされた首を検める首実検にも作法があるからだ。
幾多の喧嘩を重ねてきた任侠一家にあっては、その作法も重要だ。
驚いたまま事切れたロンバスや苦悶の表情のボレアスの表情を緩めてやる。
必ず親族の元に返るだろうから、その時の為の礼儀でもあった。
「……御館様。首級の仕度が調いましてございます。これよりこの首級を届けに参ります。多少遅くなりますので、どうぞお先にお休み下さいませ」
事切れたセオドアに向かい、クロームは再び深々と頭を下げた。
その頭を起こした時、ヒトの男は真一文字に口を結んでいた。
「ロスさま。手前はこれより王都へ参内いたしまする。大変な所を申し訳ございませんが、この後を宜しくお願いいたします」
それが何を意味する言葉か分からないロスでは無い。
クロームは殉死するつもりなのだと見抜いていた。
「……おめぇ、オヤジがそれで良いと言うとでも思ってるのか?」
「いえいえ、とんでもございません」
思わず凄んで見せたロスだが、やはりクロームは柳に風だった。
「私も病を得ておりまして、どちらにせよ長くはございません。ならば、花の王都から御館様を追わせて頂きます」
ヒトはイヌよりも長生きじゃ無い。
その現実をロスは改めて再認識した。
「そうかい…… 解ったよ。そうしてくれ。オヤジも喜ぶぁ……」
奥歯をグッと噛んだロスは遠い日を思った。
かつては任侠一家だったレオン一門も今は公爵家。
そんな堅苦しい家が嫌で、このセオドアも随分荒れたと聞く。
だが、ロスが最初に出会ったセオドアは、貫禄ある大旦那だった。
為すに為せぬしがらみのなかで、レオン家を護る為に奔走していた。
そんな家に生まれた息子を不憫に思ったのか、随分と甘やかしたらしい。
――――息子を甘やかしすぎた
そう言って息子の世話を頼んだセオドアだが、それは信頼の証拠でもあった。
このメチータの街を裏側から支えてきたエスコ一家の団結を知っていた。
何より、若くしてエスコ・カルテル一家を預かった男の苦労を知っていたのだ。
この時ロスは、セオドアに1つの願いを出した。
杯を降ろしてくだせぇ……と、願った。つまり舎弟志願だ。
だがそれは、舎弟のシノギを認めろと言うのと同義。
つまり、エスコ一家の稼ぎについてお目こぼしをと願ったのだ。
セオドアはそれを承諾し、それ以来、このふたりはメチータの中で親子だった。
歳の差や肩書きを越え、問題を共有する同志だった。
何より、仕事の関係で王都に住むセオドアの留守を預かり、メチータを護った。
箍が緩まぬよう一家をまとめ、それだけじゃ無く、街をまとめていた。
その実績があるからこそ、セオドアはレオン一家の後見役を頼んだのだ。
「……オヤジの葬式はしっかりやらして貰うぜ。エスコ一家の仕切りだ」
「委細お任せします。ポール様のご子息は居場所を掴んでおりますのでご安心下さい。では、宜しくお願いいたします」
クロームはその言葉を残し食堂を出て行った。
程なくして沈痛な顔のスタッフが集まり、セオドアの納棺が始まった。
その全てを差配しながら、ロスは窓の外を眺めた。
――あぁ……そうだ
「おぃ! 誰でも良い! 館の上の旗を降ろせ! まだあの野郎も見えてる筈だ」
ロスの舎弟が『へい!』と応えて紅朱舘最上部にはためいていた旗を降ろした。
ル・ガル西方にレオン有りと呼ばれた、深紅の大旗には牙のマークがあった。
その旗が降ろされたと言う事は、セオドアの死去を意味するのだ。
――親父……
メチータの街外れな草原で振り返ったジョニーは、父の死を知った。
散々とぶつかり合った仲だが、父は父で苦しい育ちをしたのをロスから聞いた。
――心配すんな
――上手くやるさ……あばよ!
内心でそう呟いたジョニーは、再び馬で駆け出した。
ギャロップで風を切りつつ、その瞳からは涙が零れていた。