ポーシリの闘い
毎朝の体力錬成を終えたカリオンは、七時ちょうどに自室へと戻る。
疲れ果てて……と言うほどでも無いのだが、それでも部屋に戻って最初に見る光景がグチャグチャに散らかされたラックの上の毛布だと、溜息の一つも尽きたくなると言うものだ。
どれ程綺麗に片付けても、ホンの些細なミスや不注意があればこうなってしまう。フレデリック中隊長はそれを見逃さず、ラックに乗る毛布へ『指導』を入れる。将来士官として兵を率いる者は、常に最新の注意を払って居なければならない。ミスをすれば人が死ぬ。そう言う環境に送り込まれる人間を育てるのだから、容赦も配慮も一切無いのは、ある意味で当然の事だった。
落ち込んでも仕方が無いので再び丁寧に畳みなおし、ラックのシーツにしわ一つなくなるまで完璧に整え、そして最後に余計なしわが入らぬよう細心の注意を払って枕を載せる。その状態にしてから素早く着替え、士官にあるまじき醜態を見せずに廊下へと整列し室長を待つのだ。
隅々まで気を配り、兵卒を束ね指揮する士官は、常に完璧でなければならない。そんな人間を養成するなら、毎日毎朝こうやってプレッシャーを掛けるしかない。
打ち合わせから帰ったフレデリックは、チラリとカリオンを見てから部屋を確かめる。ラックや引出や洗面台や、室内のありとあらゆる部分が整っていなければならない。
片付けた部屋を中隊長が確認し、その後で寮四階の長である大隊長の検閲を受ける。カリオンは寮の四階に暮らしていて、毎朝このフロアの大隊長から検閲を受けていた。
この時点で合格が出てから寮司令となる連隊長が検閲に訪れ、複数チェックの後に寮指導教官の室内検閲を受ける事になる。
これで合格が出なければ、複数回のチェックを行った大隊長や連隊長を含め、それこそトンでもない事を越えるトンでもない事になるのだ。
四年生の大隊長は、燦然と輝く四本のテケーシェを持つ小佐だ。
四年生なら最低でも三本持ち大尉になるのだが、成績優良者表彰で線が増えていき、四本目からは少佐の上に登るのだ。
士官とは言え軍隊であるからして勤続年数だけで昇進は無い。ひたすらに試験を繰り返し学び続け、そして昇進試験を受け昇級して行く。
「中隊! 整列!」
同室に暮らす二十四名の少年が廊下に並んだ。
「大隊長少佐に 敬礼!」
士官の敬礼は美しくなければならない。
右の肘は正確に九十度持ち上げられ、肘で折り返した手は制帽のフチへ揃えられる。
左の手は指の先端まで真っ直ぐに伸ばし、ズボンの縫い目に被ってピタッと制止。
あごを引き上目遣いに真正面を見て直立不動の姿勢をとる。
警察学校で嫌と言うほどしつけられた五輪男が散々指導したのだ。
カリオンのその姿は部屋な上級生よりよほどサマになっている。
「よろしい! なおれ! 室内検閲を始める」
カリオンが暮らす学生寮4階の大隊長は、いつぞやジョンと大喧嘩をした晩遅くに酔っ払って帰って来たあの男だった。
横目でチラリとカリオンを眺めた後、フンと鼻を鳴らして部屋へと入って行く。
基本、常に不機嫌で威圧的で無駄に尊大だ。だが、この男は一切の不正や贔屓や、なにより差別を嫌う。比較的新しい慧芒種と呼ばれる一門の出である彼は、新興の名門とも。或いは、ぽっと出の新参者の御曹司とも蔑まれる事が多い。つまり、悪意に塗れた良く思われない環境で育ってきた。故に、そういう不正や不公平を酷く嫌うのだった。
「隊長はフレッドだったな」
「あぁ。俺だ」
フレデリックをチラリと見たあと、アチコチ確かめる前に大隊長は合格を出した。
「良いのかパット」
「あぁ。お前の部屋なら何も問題ないだろ」
大隊長パットの合格判断により、寮連隊長は部屋の検閲にやってきた。室内のありとあらゆる場所が綺麗に整頓して無ければならない。棚の上もラックの下も机の引き出しの中までも検査を受ける。
クローゼットに入っている制服は黒いのだから、嫌でも糸くずゴミが目立つ。使わないから清掃していませんと言う言葉は許されない。全てが整っているとは、いつでも使える状態にある事をさす。指摘を受け『後からやるつもりでした』などと言い訳など認められない。
部屋の掃除は二年生の義務でもある。自分のラックだけでなく部屋や室内にある鏡や洗面台を掃除し、採点を待つ。一年生はその二年生から、なかばイジメにも近い指導を徹底的に受ける。それは、将来自分が指揮をする軍の『命令される側』を体験する場でもあるのだ。
「パトリック少佐。よろしいか?」
「はい。問題ありません。よろしくお願いいたします」
カリオンも驚く美しいフォームで敬礼するパット。まず寮連隊長フレネル大佐が室内検閲を行い、その後に教師達が部屋を検閲する。その間、フレデリックはパトリックやフレネルと部屋の入り口で並び、直立不動の姿勢をとっていた。
「よろしい。合格とする」
指導教官の合格が出た。だがそれでこの日一日の試練が終ったわけではない。むしろカリオンの戦いはここからが本番である。
「中隊! 整列! 敬礼!」
フレデリックの号令にあわせ、カリオンたちは一斉に敬礼した。
その中を悠然と指導教官が歩き去っていった。
「全員、それぞれの課業にかかれ! 始め!」
室長の号令にあわせカリオンはとにかく暗記を始める。
まず必要なのは朝食のメニューを全部暗記する事。
何処で作られたどんな料理なのか。
それはそんな栄養があって食べる順序をどうするべきか。
それだけじゃ無い。
今朝の新聞を読み込み、どんな些細な事でも暗記する事が求められる。
世の中、知識として持っている事がいつどんな時に役に立つのかわからない。
だから士官になる者はどんな些細な事でも知識として知っている事が要求される。
『知りません』
『分かりません』
『興味ありません』
そんな回答をするのは勿論自由だし、正直に言えば済む話だ。だが将来、自らに戦闘小隊を率いて戦う時が必ず来る宿命の彼らだ。興味が無く覚えなかった事が、致命的な窮地を救うことになるかもしれない。無駄な知識が役に立って、生きるか死ぬかの境目を乗越えられるかもしれない。
全く関係がなく脈略もない複数のどうでもいい情報群をどう御するのか。見聞きし、それを整理して覚え、必要な時には素早く思い出し、その因果関係を考察しながら必要な回答を示す。
将来、一軍を率いることになる将校を育てる為に、ポーシリと呼ばれる一年生は徹底して上級生からしごかれる運命だ。決してイジメではない。愛の鞭だ。それが役に立って生きて戦地から帰ってきた時、初めてその効果と意味が解ると言う代物ではあるのだが。