ヒデトの暴走
~承前
一瞬、ウォークは何が起きたのかを理解出来なかった。
それは、圧倒的な暴力の嵐だった。そうとしか表現出来なかった。
「えっと……」
いま、ウォークの脳内では報告書の文言が組み立てられている。
城の奥深くに残される『そこで何が起きたのか』を記した記録文書だ。
だが、いま見たその光景をどうしても事実だと受け入れられないのだ。
ヒトの女が後ろから剣で刺され、胸から血を吹き出して絶命したシーン。
問題はその後だった。
「そう……あれは……そうだ、ヒデトだ……」
死んだと聞かされたナオの息子、ヒデト。
ナオの思想や考え方の根本を色濃く受け継ぐ検非違使の1人だ。
ヒトの女が絶命した時、そのヒデトが最初に声を上げた。
――――約束が違う!
それは、広場中に響き渡る声だった。
ヒトの身体からこんな声が出るのか?と誰もが思った程の大音声だ。
ただ、そんな事は関係無く、ヒデトは激昂していた。
幾人か縄で繋がれたヒトの中にヒデトが居たのだ。
その隣にはヤスアキが見えていて、ヒデトとヤスアキの奥にはヒトの女がいた。
年齢的にまだ若い、しなやかな肢体の美しい姿だとウォークは思った。
そして、縄で縛られた手でヒデトの背に触れていた。
……ヒデトの妻か
ウォークはそう直感した。
ただ、心のどこかにいまだ独身な自分を恥じる妬心が疼いた。
そして、早く嫁をとれと盛んに囃し立てるドレイク卿を思った。
ただ、その一瞬の回想の間も事態は進行している。
ヒトに抗議されたのがそんなに気に喰わないのだろうか。
リヴァノフは一気に劇昂し、大声で叫んだ。
――――やかましい!
――――ヒト風情が楯突くな!
リヴァノフの声もまたそれなりだ。
腰に下げていた鞘を抜き払い、力一杯にヒデトを殴りつけた。
剣で斬られるよりも鞘で殴られる方が痛いと冗談で言う事がある。
それは、剣なら絶命できるが鞘で殴られれば骨が砕け激痛が走るからだ。
しかしながら、その程度の外科的な怪我で死ぬ事は稀といえる。
実際、ヒデトも鞘で顔を殴られ流血の惨事になっている。
それでも敵対心を剥き出しにした強い眼差しでリヴァノフを睨み付けた。
――――まったく!
――――躾けのなってない奴隷など獣と代わらん!
そのプライドが踏みにじられたのか、リヴァノフの劇昂は納まらなかった。
幾度も幾度も鞘でヒデトを殴りつけた。しかし、その鋭い眼差しは消えない。
ヒデトの眼差しはまだ死なずにいて、憎悪の篭った視線を向けていた。
――――奴隷など幾らでも代わりは居るんだ!
何が気に喰わぬのか、リヴァノフは鞘でヒデトを突き飛ばした。
ヒデトの後ろに居たヒトの女ごとだ。
だが、ヒデトがその女を気遣った時、リヴァノフはニヤリと笑った。
ヒデトは瞬間的に『まずい!』と険しい表情になったが、もう遅かった。
リヴァノフはヒデトを踏みつけると、その女の髪に手を伸ばして持ち上げた。
――――お前たちは黙って従えば良いのだ!
――――主に楯突くとどうなるか思い知れ!
リヴァノフの剣が一閃した。
ヒトの女を縛っていた紐が手首ごと斬りおとされた。
そしてその直後、見せしめのように斬殺した。
寝転がったヒデトの上、その目の前で袈裟懸けに斬られた女は臓物をこぼした。
内蔵の全てを頭から被ったヒデトは、悲鳴のような声で叫んだ。
――ルリ!
ヒデトの上に崩れ落ちたその女――ルリ――は、ピクピクと痙攣していた。
今すぐにでも起き上がりたいが、その身体はまだリヴァノフが踏みつけていた。
――――立ち上がりたいか? どうだ? ならば言ってみろ!
――――ご主人様立ち上がってもよろしいでしょうか?だ!
勝ち誇ったように笑ったリヴァノフは、さぁ言え!と言わんばかりにしていた。
しかし、リヴァノフはそこで根本的な間違いを犯した事に気が付いていない。
そも、警告や脅迫は、自分より弱いものにしか効果が無いのだ……
……あっ!
ウォークはヒデト達が裸に剥かれる恥辱に耐える理由を知った。
その時、二人目に斬られたヒトの女が絶命した時、恐ろしい声が響いた。
――――お前は嘘をついた……
――――それは許されぬ事だ……
瞬間的に『やばい!』と思ったウォークだが、実際にはもう手遅れだ。
全員が彫像の様に固まり、一瞬の静寂が広場を埋め尽くした。
春の暖かな風が広場を吹きぬけ、蟠った血の臭いを吹き飛ばした。
ただそれは、これから始まる惨劇の前準備に過ぎなかった……
――――なんだと?
――――まだ解ら……
何かを言いかけたリヴァノフの言葉はそこで途切れた。
ヒデトは両手首を縛っていたロープをブチリと引きちぎった。
そして、自由になった両腕で地面を叩くように広げた。
その反作用は凄まじく、ヒデトを踏みつけていたリヴァノフが吹き飛ぶ。
『ギャンッ!』と情けない声を漏らし、リヴァノフはゴロゴロと転がった。
そして、怒りと恥辱にまみれた表情のまま頭を振ってからヒデトを見た。
そこで、彼は凍りついた。
――――コロス……
リヴァノフの目の前、ヒデトはついに覚醒体の姿になった。
見上げるほどの巨躯となったヒデトの姿は、伝説にあるドラゴンだった。
――――ばっ! バカな!
転がったままのリヴァノフはその場で失禁した。
検非違使最強の実力を持つヒデトは、広場でその正体をさらした。
ヒデトは理性を失い、長年秘匿してきたものを詳らかにしてしまったのだ。
……あちゃぁ
ウォークは一瞬目眩を覚えた。
あれだけ姿をハッキリ見せてしまえば、もはやどうしようも無い。
怒りと憎しみに駆られたとはいえ、今まで積上げてきた苦労が水の泡だった。
――――奴隷に叩き潰されろ!
ヒデトはその拳を真上から振り下ろした。
巨大な握りこぶしを使ったハンマーショットだ。
イヌなど獣人の体躯がどれほど強くとも、巨石には踏み潰されるもの。
最初の一撃でリヴァノフは完全に叩き潰された。
何の声を上げる間もなく、リヴァノフは血の滴る挽肉に変わっていた。
怒りに任せ執拗にリヴァノフを叩き潰すヒデトは、全身に返り血を浴びた。
それでも叩き続け、最後にはハンバーグ状にリヴァノフを固めた。
そして……
――――出て来い!
――――アーヴェイ!
それは、この騒乱の首謀者である3人のうちの1人。
広場の一角に陣取り優雅なフリを決め込んでいた駄目貴族。
スペンサー家に連なるアーヴェイ・クリストファー・スペンサーを呼んだ。
――――次はお前の番だ
ヒデトの叫びに広場は騒然となった。
徒党を組み広場に入っていた者達もガルディブルクの市民も一斉に逃げ出した。
郊外には狼藉の限りを尽くす鼠族が居るはずだが、そんな事は些事に過ぎぬ。
当のアーヴェイまでもがパニックを起こして逃げ出していた。
『どけっ! どけと言っておろうが!』と叫びつつ、広場から脱出を試みる。
しかし、その前には別の検非違使が立ちはだかった。
――――どちらへ向かわれるのか?
名状し難いながらも、まるで巨大なサルかゴリラのような覚醒体。
ヤスアキの変身した姿は、瞬発力に優れた形状だった。
――――どけっ!
アーヴェイは長槍をヤスアキに突き立てた。
しかし、その穂先は寸ほども刺さる事無く、逆にその軸をへし折られた。
つんのめって足を止めたアーヴェイの顔に絶望の色が浮かぶ。
ヤスアキの周囲には、幾人もの検非違使が覚醒した姿で立っていた。
つい先程まで紐につながれてしたがっていたヒトの多くが検非違使だったのだ。
……そうか
アーヴェイはその時点で自らの失策を悟った。
賊徒の首領である3人組みに捕縛されたヒトは、実力がある故の余裕だった。
いつでも返り討ちに出来る自信がある故に、連行に応じたのだ。
……これほどとは
その実力差にアーヴェイは愕然とし、己の野望が潰えた事も知った。
あわよくばこの帝國を簒奪してやろうと思ったのだが……
――――我らの怒りを知れ!
ヒデトは挽肉の塊になったリヴァノフを投げつけた。
全身の肉をグチャグチャにチョップされたとはいえ、それは人1人分の質量だ。
リヴァノフだった肉塊は凄まじい速度で衝突し、アーヴェイは昏倒した。
――――伯爵!
周囲にいた者達がアーヴェイを助けようと一斉に駆け寄る。
家臣にとって最高のポイント稼ぎが出来る環境なのだ。
だが、ヒデトにしてみれば、それはもやは飛んで火に入る夏の虫でしかない。
アーヴェイに寄ってきた家来衆を片っ端から叩き潰す単純作業。
僅かな抵抗を見せた者も、その足をヒョイと摘まれで振り回された。
まるでラケットか棍棒のように振り抜き、その都度に家来達が吹き飛んだ。
完全に絶命している男の足を掴み、そのまま石畳の上に叩き付けている。
血液と脳漿とをぶちまけ、次々と賊徒一派が死んでいくのだ。
「まいったな……」
ボソリと呟いたウォークは、荒れているヒデトの脇を抜け王の元へ移動した。
カリオンもまた渋い表情ながら、するに任せていた。
「あの者達は、余がああなるように仕向けたかったのだろうな」
「……でしょうね。ですがまさか、ヒデトが検非違使だとは……」
「知らなかったのだろうな」
完全な情報封鎖状態の検非違使は、軍内部の相当な高官でも全体像を知らぬ筈。
それこそ、軍に属する者で詳細を把握しているのはジョニーくらいのものだ。
各公爵家の中で直系にほど近い者達ですらも把握しきれぬ存在。
検非違使を敵に回した事こそが、最大の不幸なのだった。
「そろそろ終わりそうだな」
カリオンは広場の中央へと出て行った。
広場の中ではヒデトやヤスアキらが残敵を掃討していた。
いや、掃討と言うよりも一方的な虐殺と言うべきだろう。
広場の各所に飛び散った様々な液体や肉片は、言葉では表現出来ない状態だ。
その凄惨なシーンに婦女子は目眩を起こし、男衆は吐き気を覚えた。
「ヒデト!」
カリオンは怯む事無くヒデトを呼んだ。
ハッと我に返ったヒデトは、摘んでいた死体を力一杯に放り投げ振り返った。
そこには厳しい表情で仁王立ちになるカリオンが居る。
広場の中で賊徒を襲っていた7人の検非違使が集まり、片膝を付いた。
「怒りも憎しみも消す事は出来まいが――」
カリオンが何を言いたいのかは皆が理解していた。
広場の中に僅かに残る市民は、バケモノの姿に腰を抜かしているのだ。
「――今は堪えてくれ。そして、街の周辺部に鼠属がいる。奴らを掃討しろ。生かして帰すな。必ず殺すのだ。このル・ガルをガルディブルクを蹂躙せんと欲した者達が、血の涙を流して後悔するようにな」
『……畏まりました』と手短に応えたヒデト。
だが、その身体からは拭いがたい悔しさが滲んでいる。
静かに振り返り、斬殺された女をジッと見るヒデト。
その身体にカリオンが触れた。
「彼女は……丁重に葬ろう」
「……宜しくお願いします」
小さく『ルリ……』と呟いたヒデトは、覚醒した姿のまま街外れへと向かった。
7人の検非違使がそれに付き従い、掃討作戦を始める形になった。
「さて……忙しくなるぞ」
腕を組みヒデトを見送ったカリオン。
その後ろ姿にウォークが漏らした。
「まずは王都の報道各社に事情を説明するようですね」
「あぁ。この際だから……あの武装集団の事を開示する。その上で――」
振り返ってウォークを見たカリオンは、深く溜息をついた。
これから迎える相当な困難を前に、覚悟を決めたと言う所だ。
「――検非違使の本来の役割について説明する事にしよう」
「宜しいのですか?」
ウォークは喰い下がるようにそう言った。
ここまで何十年とかけて仕度してきた事が全部水の泡になったのだ。
「もはや隠す事も出来ない。そして、軍の内部の反乱分子は更に息を潜めるだろうからな。まずは軍の不安を解き、市民に真実を伝え、しかる後に彼等の判断を極める事とする。まぁ、場合によっては……」
ニヤッと笑って首を振ったカリオン。
その姿には王の懊悩が滲み出ていた。
「余は引退を検討せねばならんな。全ては国民の判断だ」