許されざる暴挙
~承前
それは、一瞬だけカリオンを凍り付かせるのに充分な言葉だった……
――――イヌですらない……
何処かからガリッと鈍い音が響いた。
誰も気に止めぬ音だったが、ウォークは口から血を滴らせていた。
「……ボルボン卿。あなたは自分で何を言っているのかお解りなのか?」
今まで聞いた事の無い声音がウォークの口から出た。
城詰めの王府官僚達が本気で震え上がる太陽王腹心の臣。
官房の長として城の全てを差配する男の、その本気の怒り。
その声音は、過去数多くの官僚がしでかした不始末を斬ってきた。
身体を斬ることはなくとも、心を斬り狼狽えさせることは出来る。
そして、一度斬られた者はその痛みを忘れずにいる。
手痛い失敗の中から学び、それを挽回して成長と成す。
その役目を負ってきたウォークは、誰よりも深い怒りを学んでいた。
「なるほど。そこいらの学士から城に入った頭でっかち共を斬るには相応な迫力もあろうが……手前らには効かぬぞ。この公爵家を差配するにあ――
クロヴィスの言葉がそこで止まった。
誰もが改めて彼を見た時、広場を挟んみ反対にいたウォークが矢を放っていた。
太陽王腹心の臣たる者は、戦場において最強のガードでなければならない。
過去幾度も共に駆けているウォークは、王の馬廻り衆のまとめ役でもある。
故にその武勇は論を待たず、武芸千万であることを以て当然と成すのだ。
そしてその矢は、クロヴィスの隣に居た男の眉間に突き刺さっていた。
「ベラベラと勝手なことを喋らなくとも良い。木偶は黙れ」
冷たい言葉を吐いたウォークがカリオンに目配せした。
長年の腹心稼業が教えこんだ以心伝心の振る舞いに、カリオンは首肯するのみ。
果たして、太陽王はただ1人衆人環視の中で堂々広場を横断した。
「サンドラ」
「……宜しくありません」
「そうか」
意識のないイヴァンは失血に苦しんでいる。
大柄な体躯を横たえ、寒さに震えていた。
「ブル、イヴァンを起こせ」
「……目を覚ましません」
「違う違う、上半身を起こすんだ」
相変わらずなブルだが『……あ、そうか』と気が付いて、その身を起こした。
カリオンは懐からエリクサーを取り出すと、封を切って口へと流し込んだ。
「さぁ、飲み込むんだ」
生理反応として流し込まれたものをイヴァンは飲み込む。
そして、直ちにそのエリクサーの効果が発揮された。
バタバタと身体を暴れさせ、灰色とも銀色とも付かないものを吐き出す。
ゼェゼェと荒い息をしていたイヴァンは、どうやら意識を取り戻したらしい。
「……ん? 我が王」
「気分はどうだ?」
口の開いたエリクサーの瓶を持ってカリオンが立っている。
それを見れば、何が起きたのかは説明されるまでもない。
「お手間をおかけしまして、面目次第もございません」
「いや、そなたが無事であれば良いのだ。ご苦労だった」
その肩にポンと手を乗せ、カリオンは首肯する。
ただ、その直後にカリオンはマントを取り、サンドラの肩に掛けた。
「して、その姿でここに居るのは何故だ?」
少なくとも、サンドラは帝妃であり国母なのだ。
常に威厳と優雅さとを兼ね備えなければならない。
だが、その肌着姿は帝妃とはほど遠いものだ。
ある意味では裸に剥かれるよりも酷い姿だ。
「それが……」
若干口籠もったサンドラは、僅かな間を置いてから言った。
「警護長が大至急下へと……」
サンドラはその眼差しをブルへと向けた。
カリオンもブルを見たのだが、その当人は平然と言った。
「自分の手に負いきれない事なので、大至急手当てして欲しいとお願いしたんだ。もう一刻を争う事態だったので、着替え中の中でお願いしたら、この姿で」
それが何か問題か?と言い出しかねない空気でブルは言った。
一瞬だけ頭痛を覚えたものの、この辺りの不器用さはもう仕方が無い。
「なる程。まぁ、市民の前だ。着替えてくると良い」
「……えぇ」
そんな気易い会話をしたカリオンは、小声で言った。
「ガルムは?」
「リベラ殿を付けて城下に逃がしました。城の中には居ません」
「そうか……」
傍目に見れば女その物のガルムなのだ。
城の中に残って居れば、万が一にも賊徒が侵入した場合に面倒が起きる。
それを思えば、サンドラの決断は勇断と言って良いだろう。
「リベラが居れば問題無いが……」
何事かを思案したカリオン。だが、その背にリヴァノフの声が飛んだ。
つい今し方、ウォークにより黙らされた筈だったのだが。
「さてさて! お集まりのガルディブルク市民諸君!――」
リヴァノフはビシッとカリオンを指さして言った。
良く通る声だと皆が思う中、まるで歌劇の俳優のように芝居がかった姿だ。
「――この偽の王は市民の命より貴族が大事らしい。この街の争乱で焼け出された市民を余所に、手駒の男の治療を優先させる偽善者だ!」
一瞬だけ広場が静まりかえった。
春らしい風が吹き抜け、圧倒的な静寂がそこにあった。
だが、その静寂を破るように、何処かからか『そうだ!』の声が飛んだ。
その直後に別の所からも『その通りだ!』の声が沸き起こった。
――やらせだ!
カリオンはそう直感した。そして、これ自体が歌劇のような虚構だと気が付く。
しかし、例えそれが虚構のやらせだったとしても、火が付きかねない事だった。
市民が僅かでも王を疑うのなら、その心が目を曇らせる。そして。
――まずい……
そう。これはまずい事だ。まずい事態だ。
王の権威を否定し、とにかく立場を悪くさせるための罠。
郊外ミッドタウンが焼かれているのは、全てが仕組まれた事なのだと直感した。
実際、なんの証拠も無い話だ。
だが、少なくとも今はピンチだろう。
「あの男が何者なのか。今ここで諸君らにもご覧に入れよう!」
リヴァノフは大袈裟な仕草で何かを後方から呼んだ。
その大業な手招きにより、一派の後方にいた者達が連れ出された。
――まさかっ!
瞬間的にカリオンは理解した。
リヴァノフが呼んだのは、素っ裸のヒトだった。
紐で繋がれたヒトの数は凡そ10人程で、老若男女バランス良く揃っていた。
「古来、ヒトはこの世の均衡を崩す呪われた存在であったはずだ! 故に神は! ヒトをして世界の僕とせよと導かれた!」
男女ともに裸に剥かれ、衆人の向ける好奇の目に晒されている。
そんなヒトの一団を広場へと押し出したリヴァノフは、更に続けた。
「ヒトは生まれながらに使役される運命を持った、咎人だったはず!」
再び広場の各所から『そうだ!』の声が上がる。
カリオンとウォークは瞬時に声の主を特定した。
何処にでも居るような灰色の雑種だった。
ヒトを除けば、このル・ガルの最底辺と呼んで差し支えない存在。
雑巾色の体毛な冴えない雑種とマダラは、ル・ガルの中で被差別対象だった。
辛く厳しい社会において、追難の鬼の役を押し付けられた石を投げる的だった。
だからこそ、雑種とマダラがヒトに向ける憎悪混じりの感情は凄まじい。
自らの不遇や無聊の憂さを晴らせる相手として、ヒトは最適の存在だった。
シュサ帝の導き出したヒトの保護政策は、その存在を格上げしてしまった。
だからこそ……
「ヒトは奴隷となるべくして生まれてくる存在だ!」
リヴァノフの叫びに彼等は『そうだ!』『その通りだ!』と呼応する。
そして、その魂の叫びは一般にも伝播していく。
広場の各所からヒトに向けた嘲笑と誹りが囀られた。
「だが! あの偽りの王はヒトをイヌと対等にしようとしている! それは許される事なのか! 本当に太陽はそう導かれるのか!」
――やられた……
カリオンはこの時点で無駄を悟った。
そして、解決する為には相当な強硬手段が必要だと理解した。
何故なら、そもそもル・ガルを蝕むのが目的なのだと解っているから。
こうやって国家を争乱状態へと追い込み、社会を不安定にするのが目的だ。
全ての国民が疑心暗鬼となり、相手を信じる心を忘れ、己の安寧のみを願う。
自らの権利の最大化こそが目的となり、ギスギスした社会にするのだろう。
――しかしまあ……
カリオンは思わずウォークと目を合わせた。
それは『狂奔』と呼ばれるものだ。
夢に向かって脇目もふらず突っ走る者は、往々にして周囲を巻き込む。
その結果、思わぬビッグウェーブとなって更に周囲を巻き込むのだ。
ただ、制御しきれぬ大きな波は、結果として自分をも飲み込む事がある。
それでも構わぬと突っ走る者にのみ、神は微笑むのだろうが……
「太陽の地上代行者を僭称するその男は本当にイヌなのか! 国民全てを裏切った者を、諸君らは王と呼びたいか!」
もう……止まらない。
市民が焚きつけられ始め、アチコチかザワザワとざわめき始めた。
カリオンのやってきた事は、誤解するなと言う方が無理な場合もある。
遡れば、リリスを救いたいと無茶を重ね始めた頃が始まりだ。
城の地下に死者の宮殿を築いた事も影響が大きいのだろう。
そして、ガルムの誕生で無茶を重ねた。
それまでのル・ガル社会では切り捨てられてきた者をカリオンは救済した。
人倫博愛の精神としては立派なのだろうが、その網から漏れた者は不満だろう。
それら全ての帰結がこれなのだ。
「さぁ! 全てのイヌを虐げヒトを優遇する偽者め! 正体を現せ!――」
リヴァノフはびしっと音を立てるようにカリオンを指さした。
もう後戻り出来ないところまで来ている事を教える様にだ。
「――お前はイヌのフリをしたヒトだろう!」
……はぁ?
一瞬の虚を突かれ、カリオンは無表情にリヴァノフを見た。
当の本人は至って真面目に言っている様子ではあるのだが……
「正体を現さぬのならこうだ! よく見ろ!」
リヴァノフはヒトを捉えていた綱を断ち切り自由を与えた。
ただ、その後に各所から悲鳴が上がった。
逃げだそうとしたヒトを後方から剣で突き刺したのだ。
紐を切られたのは若いヒトの女だった。
その背に突き刺された剣が胸から飛び出していた。
やっちまった!と、カリオンは内心で叫んでいた。