ナオの過去
~承前
どれ位の時間が経過したのか、タカには見当が付かなかった。
ただ、現状況は途轍もなく悪く、もはや安全な脱出は不可能だと思った。
広場を遠巻きに囲むイヌの騎兵たちは、長い槍で次々とゾンビを潰している。
どれ程に実力があっても多勢に無勢であり、槍を使って動きを封じていた。
両脚を絶たれれば身動きは出来ず、両手両脚を失って頭を潰され焼かれてた。
「極上のピンチって奴ですね」
肩で息をするタカに向かい、ナオは涼しい顔で言った。
全く疲れている素振りを見せず、涼やかな表情だった。
まだまだイヌの騎兵は夥しい数で取り囲んでいる。
こちら側の戦力はもはや幾何も無く、すり潰されていくのが目に見えていた。
「ナオさんの言っていた意味が私にも解りましたよ」
唐突に斬りだしたタカは、その場で遂に片膝を付いた。
士官は常に姿勢正しく、気勢万丈足るべし。
そう教育されてきた皇軍士官にあるまじき姿だ。
ただ、その余りにも素直な言葉にナオが『え?』と漏らす。
それ程に無防備なまでの言葉だった。
「穏健に世界に浸潤していく意味です」
常にナオが言っていたその言葉は、今のタカには痛い程わかった。
世界の歯車で良いとまで言い切ったナオの言葉に、随分反発もした。
だが、結局のところそれしか選択肢が無いのだと、認めざるを得ない。
この世界の中でヒトの置かれたポジションが、ただの動産でしかない。
それを改善しなければ、どうにもならないとナオは解っていた。
「あぁ……」
やっと解ったか?と、そんな愚痴のひとつも言いたくなる瞬間なのだろう。
しかし、当のナオは力無くニヤリと笑っただけで、静かに言った。
「まぁ、全て手遅れですけどね」
広場の中の乱戦真っ最中にナオは言った。
検非違使に街の女子供を預けて逃がそうとしたのだと。
しかし、それを街の女たちが拒否したのだという。
逃げた先に安全が無いのなら、ここで死んだ方が良い。
それに、いざとなれば……という読みもあったのかも知れない。
検非違使達が動き出せば、これ位の敵は……と、誰だってそう思う。
だが、そんな女たちにトウリは言った。
この覚醒者達を戦闘に投入することは出来ないと。
――――王の立場が悪くなるんだ
――――ばれるのが怖いのだ
――――すまないが……飲み込んでくれ
トウリは検非違使本部の中に女や子供を匿い、その入り口に座った。
いざとなれば自分がここで戦うと、そんな振る舞いだった。
その姿に絆されたのか、街の女たちは覚悟を決め建物を出た。
……捕まって殺されるなら仕方が無いさ
……イヌの王様が良くしてくれたからね
……最期は笑って死ぬよ
ヒトが見せる土壇場の強さと割り切りの速さ。
その姿にトウリは涙した。
――自らもこうあらねば……
そう思ったかどうかは解らない。
だが、トウリはナオに言った。
ここから先、イヌはヒトの振る舞いに干渉しない。
己の信念に従って行動して良い……と。
「私はどうやらあなたを勘違いしていたようだ」
タカは懺悔でもするかのように言った。
その言葉にナオは笑みを浮かべた。
「誤解が解けた様で何よりだ」
いま、ナオはまるで晴れ渡った秋空でも見上げるような顔だった。
生き残った戦力は僅か数名で、もはや組織的な抵抗は望めない。
「タカさん。今から自分が斬り込みます。一角を開けるので何とか脱出を」
「……バカなことはやめましょう。まず自分が投降します」
「論議の余地はありません。時間がないのです」
「ですから、私が投降し、その合間に生き残りを連れ脱出を」
タカが上着の中から取りだして見せたのは、数発の手榴弾だった。
これだけの数ではどうにもならないが、少なくとも驚かせることは出来る。
その間にとにかく脱出して再起を図ろうとタカは考えた。
「争乱の責任を取ります」
「いえ、それはただの逃げです。大切なのはこの先です――」
ナオは片膝をついたタカの隣にしゃがみこみ、肩をポンと叩いてから言った。
「――失敗を次の世代に教える役が必要なんです」
それは、事実上の死刑宣告だ。
次の世代に自分の失敗を喧伝しろと、ナオはそう言ったのだ。
だが、タカはそれが必要な事だと知っていた。
生きて虜囚の辱めを受けず……など、ただの画餅だと知っているのだ。
人間性の限界を見た、あのソロモン諸島の小さな島々の戦闘がそうだった。
誰かが伝えなければ、人間は同じ間違いを繰り返す。
その結果として、辿り着く結末はいつの時代も悲劇だと決まっていた……
「……わかりました」
「今日は理解して貰えて何よりです。じゃ、頼みましたよ」
もう一度ポンと背中を叩いたナオは、その場にスッと立ち上がって辺りを見た。
「あの一角、街の南出口へと通じているはず。細い路地ですが突き抜け駆けるなら、しんがりの負担は少ないでしょう」
ナオの言葉が流れた頃、イヌの騎兵たちは遂にジローを捉えていた。
既に30人以上を斬ったジローの刃は、もはや殆ど切れない状態だ。
だが、それでもジローは戦っていた。
全身の筋肉も腱も限界のようだが、痛みを感じてないかのようだ。
死人が痛みを恐れる必要は無いのだから、それは当たり前の光景かも知れない。
ただ、肉体的な疲労は速度の低下に繋がり、ジローは様々なもので殴られた。
骨を折られれば肉の身体は立つ事も能わないのだ。
その場に蹲って動かなくなったジローの上に、巨大な樽が投げつけられた。
樽の頭を突き破って被った形になれば、事実上動く事は出来なくなる。
そして、ジローの頭目掛け、油が掛けられた。
ゾンビ対策の基本は火葬してしまう事なのだ。
「……ジローさんもこれで成仏でしょうね。ま、あの世で決着は付けますが」
じゃ……
そんな感じで片手を挙げ、ナオは走り出した。
その背に向かって合掌したタカは、蹲ったまま様子を伺った。
燃えさかるジローの樽を見てイヌ達が笑っている。
そんな炎の向こうからヌッと姿を出したナオは、凄まじい勢いで斬り始めた。
――――すごい……
相変わらず凄まじい剣技だとタカは感心する。
ただ、多勢に無勢で劣勢なのは致し方ないのだろう。
ややあってナオの背に槍の穂先が突き刺さった。
血飛沫が上がり、バランスを崩した。それでもナオは剣を振って戦った。
それを見ていた誰もがもう充分だと思う程だった。
「それで……どうなったのだ」
主にタカが語り続けた茅街の紛争。
それは、その最前線にいた者達の生々しい言葉に彩られたものだった。
ドレイクやウォークも手綱をグッと握る程に入れ込んで聞いている。
ヒトの尊厳を護る闘争なのだとカリオンは思うのだが……
「私は黙って見ていることが出来ず――」
控え目に斬りだしたギンは、声を震わせながら言った。
「――思わず剣を抜いてその場に加勢に向かいました」
カリオンはウンウンと首肯し、続けろと言わんばかりにギンを見た。
そのギンは奥歯をグッと噛みつつ、思考をまとめていた。
「ナオさんを斬ったイヌは主に5人でした。私が行った時点でナオさんはもう……虫の息で……それでも……それでも……それで……」
奥歯をグッと噛んだまま、涙を浮かべたギン。
ジローと共にナオと対立したはずなのだが、その姿は痛々しい程に見えた。
「それで……どうした。ナオの最期を教えてくれ」
カリオンは優しい声で言った。昂ぶったギンの心を鎮めるようにだ。
命のやり取りを経験した者にしか解らない、恩讐を越えた感情がある。
それは、恩であったり憎悪であったりと様々だが、その芯は同じなのだ。
その対象となる人物との別離が辛い。
恨みを晴らす相手か、それとも得がたきライバルかはケースによる。
だが、相手あってこその自分だと痛感する時、感情は恩讐を越えるのだ。
「私を含め20名以上の剣士がその場に集まりました。イヌの騎兵は馬から降りて剣を抜いてました。正直に言えば、剣で負けるとは思ってません。ですが、純粋な膂力の差として圧されました。しかし――」
ギンは震える唇を噛んでから続けた。
「――あの……えっと、そうだ。リヴァノフ卿が出てきて、ナオさんには世話になったので1つ温情措置を与えると。ナオさんを埋葬し、全員おとなしく降伏すれば命は取らぬと約束すると。そして……ナオさんが……それを受け入れるべきだと」
迂闊な抵抗はよりいっそうの犠牲を生む。
ならば確実な対抗措置がとれるまで、軽はずみな事をするべきでは無い。
どれ程苦しくとも、それを乗り越えていく強さがあるのだとギンは知った。
「そうか……」
同じように、カリオンもそれを知ったのだ。
そして、思慮深く、注意深く、洞察を巡らせて対処する。
かつて見た父ゼルがそうであったように、ヒトはそれが出来るのだと知った。
「今際の際、ナオさんは虫の息で言いました。自分は雪深い地方の出身だと。冬には身の丈の3倍に達する雪が降り、夏には冷たい海風が……ヤマセが吹き込み、春も秋も冷気と戦いながら一年を暮らす……大地の民だったと」
それは、誰も知らなかったナオの過去だった。
「正直、私には分からない話でした。ですが、これだけは解ります。ナオさんは言いました。雪が溶けたら水になるってのは、雪の降らない地域の者が言う……ただの理屈だと。雪が溶けたら水になるのでは無く、雪が溶けたら春になるんだと。自分達はそうやって……耐えて耐えて、暖かな春を待つことに慣れてるから、コレが出来るのだと――」
ギンの頬に一筋の涙が流れた。
それまで、無思慮に言葉で殴ってきた男の後悔が、涙になって流れていた。
「――自分の生まれた所は、白河以北、ひとやま百文と馬鹿にされ、文化の程度が低いから高級な酒など理解出来ないと蔑まれ、多くの人間が努力したにも関わらず、もう人の住めない汚れた地だと罵られ……栄華を極めた者達の存在を意図的に消し去られた……奉ろわぬ悪者どもの巣窟と差別された地域だったと。けど……」
ひとつ大きく息をして、乱れた心を何とか座らせたギン。
その隣ではタカが肩を震わせつつ、激情を飲み込んでいた。
「おら達は……自分達は知っている。雪解けの丘に吹く南風の暖かさを。夏の日差しは山の雪を全て溶かすことを。眠っていた山々が一斉に芽吹き、生命が輪廻することを。だから、どんなに辛くても春を待つんだと……その願いを託しているんだと……だから、王を裏切っちゃならない。自分達が出来る事をして……そして」
グッと握りしめた手を奮わせ、ギンはカリオンをジッと見た。
隣で話を聞いていたナオの息子ヒデトは、青醒めた様な顔で震えていた。
「……わかった。よく解った。そうだったのか」
カリオンにはナオの気持ちが良く解った。
冬には雪に閉ざされるシウニノンチュ出身なのだ。
雪国出身者の鬱屈した精神構造や、耐えざるを得ない悔しさが解る。
その全ては、暖かな春の到来で全てが報われると知っているからなのだ。
こればかりは雪の降らない地域出身者には絶対に解らない事なのだ。
「余の生まれ育った地域もそうだった。冬場に迂闊な事をすれば、雪に埋もれて死んでしまう。雪かきも必ず余力を残しておかねばならぬ。冬は長く冷たいからな」
カリオンは控え目な声でそう言った。
その言葉にギンもタカも黙って首肯した。
「……いつだったか、ナオさんが言ったんですよ」
唐突にそう切り出したタカは、遠くを見るようにして言った。
「後先考えず、まず全力で事に当たるなんてのは、環境に恵まれた地域出身の人が考える事だって。迂闊に倒れても、そのまま死ぬ事の無い温暖な地域の人が考える事だって」
カリオンは首肯しながら『そうだな』と応えた。
ナオの言いたいことは嫌と言う程解るのだ。
それは、環境的に恵まれた温暖な地域で育った人間が見せる甘えの構造その物。
雪国はその環境が一切甘えを許してはくれず、力尽きたなら死は免れない。
感覚的な相違や価値観の違い。そして、死生観その物の乖離の根本。
どんな時にも注意深く、しっかり計画を立てて事に当たる必要性だ。
何故なら、雪の降る寒冷地は、そこに居るだけで死の危険があるのだから。
「……ナオは最期に何を言った?」
カリオンは不意にそれが気になった。
ギンは一瞬だけ虚を突かれた様になったが、すぐに我を取り戻したらしい。
「それは……地ベタの上に生えていた草を見て……ばっけだと」
「バッケ? それは何だ?」
「私にも解りません。ただ、恐らくは何らかの春の植物だと思います」
小さく『そうか』と呟いたカリオン。
思慮を巡らせその正体を思案しようとしたその矢先に伝令がやって来た。
馬で駆けてきた伝令は転げ落ちるように馬から降りると大声で報告した。
「陛下! 王都に賊徒侵入です!」
サッと表情を変えたカリオンが『城はどうなった!』と訊ねた。
伝令は苦悶の表情となって大声で応えた。
「詳細は不明です! とにかく今すぐ! 王都へお戻りを!」