エディとジョニー
翌朝午前五時四十五分。
座りっぱなしであまり寝ていないなか、カリオンとジョンは営倉から解放され、自分の部屋へ静かに戻った。お互い違う部屋だがジョンは手を挙げて別れた。
そんな僅かな事だが、カリオンは始めて友達が出来たと思った。
ただ、そんな感傷にひたれるのは、いいとこ三十秒位だ。
士官候補生の一日は、起床から就寝まで寮友との競争に終始する。
全てが競争という環境下で常にプレッシャーを与え、それを乗り越える訓練だ。
「カリオン。寝坊するなよ」
カリオンの寝台がある部屋の室長は東部出身の雑種だった。
ただ、猛烈が付くほどの勉強と努力で、ポシフコーの中でも上席の常連だ。
「ご迷惑をお掛けしました」
室長に取って同室する候補生が営倉入するのは大きな失点と言える。
管理不行き届きと指導不足だと認識されるからだ。
本人の預かり知らない所で起きた問題でも、室長は室長。つまり、監督責任者。
下級生の手本となる生き方と振る舞いを常に見せなければならない。
若き士官候補生はそうやって鍛えられていくのだが、この室長──フレデリック──に取ってしてみればカリオンは彼の手に余る存在だった。
「やってしまった事は仕方がない。カリオンは目立つし実力もあるのだから疎まれる。ただまぁ、やりすぎないようにしないと、いつか相手を殺してしまうぞ」
早朝から起き出してカリオンに説教を始めたフレデリック。
カリオンは不思議とこのフレデリックが嫌いではなかった。
ル・ガルのイヌ社会でマダラと同じく蔑まれ嫌われる存在。
雑種と呼ばれる血統のハーフ達。
フレデリックはそんな境遇を弛まぬ努力で乗り越えてきた秀才と言って良い。
口さがない者は『穢らわしい』と。或いは『節操が無い男女の子』と。
そう蔑み、あざ笑い、そして、迫害する。
血統を大事にするイヌ社会において、血統の壁を乗り越え結婚し子をなすと言うのは、愛や情熱が在れば……などと口で言うほど生やさしいものでは無い。
努力の人。フレデリックの存在は人々の底知れぬ悪意を知らない温室育ちの『エイダ』にとって、とても重要なキーマンとなっていた。
「今日は一日辛いだろうが、意地を張って乗り越えろ。どんなに辛くても笑っていろ」
「はい。了解しました」
「悪意ある連中はお前が苦しみもがく姿を見て娯楽とする。それを乗り越えた先に真の尊敬と理解があるし、それを得られるだろう。相手だけに変わる事を求めるな。まず、自分が変わるんだ。そうすれば相手は必ず変わる」
背筋を伸ばし敬礼するカリオン。
僅かに首肯し、自分のラックを整理し始めたフレデリック。
カリオンもまた自分のラックを整理し、朝一番の課業である早朝調練に備えた。
午前五時五十五分。
学生寮前の大運動場に学生自治委員会の当番が並び、起床ラッパを吹き始める。
そのラッパが鳴り始めると同時にカリオンはドアを蹴り開け、精一杯大きな声で廊下に向かって大声を張り上げる。
「おはようございます!」
同時に運動着に着替えラックを再度整理して運動場へ飛び出していく。
朝一番の運動は一時間続く。その間、フレデリックは監督下にある二十四名のルームメイトに予定されていた今日一日分の課業を全て暗記しに、打ち合わせへと出て行った。
部屋へ残った三年生と二年生は、大部屋である室内を徹底的に掃除し始める。掃除の後に予定されている室内検閲に合格せねば、部屋の使用禁止を申し渡される事もある。その場合、候補生は運動場でテント生活をせねばならない。
フレデリックの指導により繰り返される人間形成の修行は、事細かに隅々まで注意が行き届く慎重で思慮深い性格と考え方を持つようになるまで続くのだ。
「よろしくおねがいします!」
カリオン達ポーシリの一年間は、とにかく徹底的に身体を動かされる毎日が続く。
軍人に必要な能力の基礎は一に体力、二に体力、三と四は精神力で五は再び体力だ。
その錬成を行うに当たって指導教官のしごきに一切容赦は無い。
準備体操から始まり、柔軟体操、基礎筋量鍛錬と続き、最後は約五キロのランニング。
制限時間二十五分の間に走りきらねば、全体で走り直しになる。
全員揃ってゴールする事を求められるランニングは、仲間意識を醸成するのに最適だ。
「おいエディ。寝ぼけんじゃねーぜ」
「うるせージョニー お前にゃ負けねーよ」
「ぬかしやがったな!」
営倉で一晩過ごしたカリオンとジョニーがランニングの先頭を走った。
明らかなオーバーペースだが、二人とも意地で先頭を張り合う。
普通に考えれば体力に劣る筈のマダラだが、カリオンは何から何まで規格外だった。
長距離走などで大幅な強さを持つ緋耀種のジョニーが舌を出してへばる。
「エディ! てめーはいったい何モンだよ」
「知るかよそんなの。ただのマダラだよ」
「ウソつけ!」
「ほんのちょっとアージンの血が濃いんだろ」
「っざけんなボケ!」
最後の五百メートルに入ったあたりでカリオンは後ろを振り返った。
後続集団は既に無く、舌を出して苦しむ団子集団が遠くに見えた。
「このまま走りきると明日から制限時間削られるんじゃないか?」
「……だな」
突然カリオンはコースを逆走し始めた。
驚いてそれを見たジョニーだが、カリオンは最後尾の人間について背中を押し始めた。
その理由を『あぁ、そうか』と気がついたジョニーは、同じ様に最後尾へ行って背中を押し始める。
二人が余りにオーバーペースだった為、それについて行く事の出来ない最後尾グループがへばってしまい制限時間をオーバーする危険がある。だからカリオンとジョニーは責任を取ってへばっている同級生の背中を押し始めた。
「お前ら二人とも速過ぎんだよ」
「わりぃわりぃ」
ヘラヘラと笑うカリオン。
いま彼が背中を押しているのは凍峰種と呼ばれる北部山岳地帯出身の少年だった。
シウニノンチュよりも更に寒くて雪の多い地域を生活の場とする一族の出身だ。
山坂が多く雪も多く南方種では凍死しかねない寒さに適応していた。
そして、この少年もまたカリオンにとって喧嘩相手に不足なしと何度も殴り合っている男だった。勿論、当然のようにジョンとも夥しい数で決闘を繰り広げている少年だ。血統の意地に掛けて南方系血統の名門に負けるわけには行かない。だが――
「俺だって走るのは得意なんだけどな」
舌を出して苦しむ彼は、夏季ともなれば結構暑いガルディブルクの夏を乗越え、体力的に弱っている時期だった。だが、指導教官は泣き言を一切聞かない。嫌ならやめれば良いと言うのが基本スタンスだ。
真夏の一番暑い時期に勢い余って身体中の毛を短く刈ってしまうと言う暴挙に出たのだが、それでもぶ厚い皮下脂肪により暑さと上手く付き合う事が出来なかった。そして気がつけば、カリオンの押す彼が隊列の最後尾になっていた。
「おいエディ! やべぇぞ! 時間ねぇ!」
「んなこと言ったって!」
ジョニーはカリオンの隣に並んで同じく凍峰種の彼を押し始めた。
足がもつれるギリギリを維持しながら、二人掛で背中を押す。
「おぃデブ! てめぇ なんて言ったっけ?」
「あぁ! 誰がデブだって?」
「てめぇ以外に居んのかよクソデブ!」
「うるせー! 俺はアレクサンドロス」
「あれくさんどォフッ!」
走りながら慣れない発音をしたジョニーが舌を噛む。
「何やってんだよジョニー」
「うるせー! お前言ってみろ!」
「アレクサンドロスだろ?」
「チキショー!」
再び剣呑な空気になったカリオンとジョン。
アレクサンドロスと名乗った少年は、すこしだけヤバイ空気を感じている。
だが、カリオンは意に止めずゲラゲラと笑っていた。
「しかしジョニーは喧嘩っぱやいな。なんでいつも喧嘩腰なんだよ」
「おめぇだって大してかわんねーじゃネーか! このクソボンボンが!」
「売られた喧嘩は買うだけだ。オヤジにそう教育されてんだよ。俺は」
「けっ! お高く止りやがって! エディのそう言う所がきにいらねー!」
「まぁ、そうカリカリすんな。とりあえず走りきろうぜ!」
更に背中を強く押して走って行く三人。
もはや凍峰種のアレクサンドロスは言葉もでなかった。
雪原を延々と走り続ける凍峰種のプライドに掛けて、タイムオーバーでの失格など許される訳が無かった。凍った大気の中を高速で長距離走行し続ける彼らは、ある意味でロングランのスペシャリストの筈だからだ。
遠くにやっとゴールが見えてきた。
カリオンとジョンの二人が背中を押してきたので、ギリギリ二十四分での到着だった。
肩で息をして胃液を吐き出すアレクサンドロス。
膝に手をついて今にも倒れそうだった。
時間内にゴールしたとしても、地面に倒れこむなど士官には許されない。
兵卒を率いて戦場を掛ける士官は、どんな時でもクールに振舞わねばならない。
「ありがとう。助かったよ」
「良いってことよ! 礼ならあのマダラ野郎に言え」
「彼?」
「そうだ。聞いて驚くなよ?」
悪戯っぽい笑みで舌を出しているジョニー。だがふと、自らの事をダンマリ決め込んでいたエディの内心を思ったら、太陽王の孫だと喧伝されるのは迷惑じゃ無いかと思った。
アウトローを率いて無頼な遊び方をしていたジョニーにしてみれば、その出自の事や血統で色眼鏡を通されるのがどれ程迷惑だか、他人事ではない次元で深く理解できるのだ。
「あいつよ。俺と一緒に昨日の夜は営倉だったんだぜ」
「うそだろ?」
「マジだって。んで、俺もあいつにぶっちぎられた」
「すげーな マダラのクセに」
「あぁ ほんとだぜ マダラのクセによ」
到着地点で員数点呼しているカリオンを見ながら、ジョンは改めてその姿を見た。
耳も尻尾も間違いなくイヌだが、その姿はヒトのようだ。
――――レオンの恥さらしめ!
何をやっても上手く行かず、全ての面で弟達のほうが優秀だった長子ジョン。
レオン家の伝統だからと言う理由だけで長子を示すジョンの名は、彼にとっては重くて仕方が無い上に辛いだけだった。だから彼は、十五歳になるまで全く無頼な不良の生き方をしてきた。父親には無視され、母親には罵倒され、祖父からも祖母からもその存在をない者とされていた。
ただ、名門一家として優秀では無いと言う理由だけで長子を勘当する訳には行かない。だからこそジョンは子弟枠でビッグストンへ送り込まれたと考えていた。ここで落第すれば自動的に放校だ。それで故郷に帰れば、両親は遠慮なくジョンを勘当する事が出来る。また、学内で問題を起こし官憲に逮捕されれば、親は幾らでも政治力を使ってその存在を抹殺できるとジョンは考えたのだった。
だからこそ、その息苦しい幼少時代の辛さはジョンにとって他人事ではなかった。マダラと言うだけで蔑まれ、それでも役に立つのだと証明する為に、きっとエディは馬で走り続けたのだろうと、そんな風に思っていた。自分とは違う角度で辛酸を舐めたらしいマダラの少年に、ジョニーは親近感を感じ始めている。
「まぁとりあえず朝飯だな」
「あぁ」
ジョニーはアレクサンドロスの背を叩いた。
「なんだっけ。アレクサンドロ……」
「言い難かったらアレックスと呼んでくれ」
「分かった分かったアレックだな」
「……なんでも良いよ」
暑さと疲労で食欲の失せたアレックス。
ジョンも同じく余り食欲が無かった。
「どうした二人とも」
「朝飯喰えねぇかも」
「うそだろ? 俺なんか腹へって倒れそうだ」
カリオンとジョンの会話を聞いていたアレックス。
「カリオンは良く平気だな」
「鍛えられてんだ。小僧の頃から」
「たいしたもんだ」
驚いているアレクサンドロスを指さしたジョンが言う。
「このデブのニックネームはアレックスだ」
「んだとテメェ!」
「デブって言うと失礼だから、今日からアレックだな」
「朝っぱらから喧嘩売るたぁ良い度胸だぜ」
さっそく剣呑な二人だが、カリオンは笑いながら止めに入った。
「俺はエディって呼んでくれれば良い。ただ、他の奴は認めない」
胸を張ってそう言ったカリオンをジョンとアレクサンドロスは笑って見た。
「さすがル・ガル最強のボンボンは違うぜ」
「ボンボン?」
「そうだぜ。こちらのお坊ちゃまは俺達とは氏も育ちも違うのさ」
そんなジョンの胸に指を立ててカリオンは凄む。
「面倒はバラさないでくれよ?」
「わかってるって」
「おい、なんの話だよ!」
アハハと笑った三人は寮へと帰って行く。
後にル・ガルを動かすことになる三人の出会いだった。