古都ソティスへ
「やっと見えてきたな」
北を目指す一行の中央にあって、カリオンは彼方を見つめそう呟いた。
王都ガルディブルクを発って5日目の午後だった。
彼方に見えるのは、全てのイヌにとって心の故郷とも呼ぶべき街ソティス。
地平まで続く穀倉地帯のど真ん中に、この古の都は鎮座していた。
「かつてはあそこがイヌの本拠地だったとか」
ボソリと呟いたエルムは、彼方の塔を目に捉えていた。
天空より降り注ぐ青い光を反射し、キラキラと輝いていた。
それは、ソティス中心部に聳える聖導教会の大鐘楼だ。
鐘楼塔は地上30メートルに達する巨大な石積みの施設であり街のシンボル。
そして、目標物が余り無い中央平原地帯にあって、灯台の役割をしていた。
「凄い……奇麗だな。そう思わないか? キャリ」
カリオンのやや後方。
王の右後ろに陣取る騎兵がそう声を掛けた。
ビッグストンの野戦服に身を包んだ騎兵は、カリオンの甥に当るタロウだ。
そして、そのタロウが『キャリ』と声を掛けたのは、隣に居る王宮騎士だった。
王宮に出入りを許される印でもある赤い腰帯を巻いた騎士。
キャリと呼ばれたその騎士は、他でも無いエルムその人だ。
幼名であるエルムは真名でもあるのだから、一般にその名で呼ぶ者は居ない。
ガルムがララウリと呼ばれ、その愛称はラリーで通っているのと同じ。
真名であるエルムは秘匿され、一般にはキャリーで通っている。
「あぁ、ホントに綺麗だよな」
そんな感嘆の声を漏らしたエルムは、斜め前を歩く父カリオンの背を見た。
愛馬ギブリの鞍上で遠くを見るカリオンだが、その背は実に鷹揚としていた。
――王とはかく在るべし……
慌てず騒がず、軽はずみな振る舞いも恥ずかしい言動もしない姿。
常に鷹揚と振る舞い、周囲を睥睨し、相手を黙らせる威を備える姿。
――凄いよなぁ……
つくづくとそんな想いを噛みしめたエルムは言った。
「皆、あれを目標に進むんですよね?」
それは、ビッグストンの行軍基礎知識で教えられる地上航海技術だった。
騎兵ばかりな一行の行き足はかなり速く、休憩すら碌に挟まず北上している
そんな環境ではあるが、二人を引き連れるカリオンは、講義を挟んでいた。
「そうだ。何処まで行っても平原な所では、あの尖塔が目印になる。二人ともこの平原が中原と呼ばれているのは知っているな?」
かつてはここを縦横無尽に駆け回ったカリオンだ。
街道を整備した今では快適な交通路となっているが、その前を知っていた。
数多くの配下を率い、フレミナ王オクルカ公とやり合った所。
本気モードでの戦闘では、幾多の死者を出していた。
「もちろんです」
「ここで……フレミナ一門とやりあった訳ですよね?」
エルムもタロウも楽しそうにそう答えた。
ビッグストンの戦史教育の中で繰り返し出て来る、王の武勇伝。
かつて君臨した王の父ゼル公による、類を見ない機動戦術戦の講義だ。
「あぁ、凄まじい戦いだった」
遠い目をしながらカリオンは言った。
その眼を閉じ、瞼の裏に在りし日々を思い浮かべながら天を見上げた。
まだ父ゼルが健在で、様々な事を教えられた。
戦術や戦略だけでは無く、人としての在り方や責任在る立ち振る舞い。
部下の労い方と同時に、能無しを上手に切り捨てる方法。
思えばあの時、この世を去ったレガルド卿の一件が未だ尾を引いている。
上手に全てを丸め込んで上手く切り抜けねばならないのだが……
「父上?」
怪訝な声でカリオンを呼んだエルム。
そんなエルムを見ていたタロウも怪訝な表情だ。
「どうした?」
不安そうな2人の青年を前に、カリオンは努めて鷹揚としていた。
「やはり王都に居た方が良かったのでは……」
エルムは不安そうな声音でそう言った。
だが、そんなエルムの頭に手を伸ばし、ガシッと捕まえてカリオンは言った。
「この程度の事でル・ガルは揺るがんさ。心配するな」
そうは言っても、エルムとタロウの2人はとにかく心配だった。
なぜなら、王都ガルディブルクを出立した日、カリオンは勅命を下していた。
議会では無く王が直接下す命は、貴族院に反対の権利は無い。
だが、その勅命はこれから先の貴族の在り方を大きく変えるモノだった。
――――――――帝國歴392年 3月 7日
ボルボン家所領内 ソティスまであと3リーグ
「中原と呼ばれる前はなんだったか知っているか?」
不安に震える若者ふたりを鼓舞する様に、カリオンは更に遡った問いを発した。
それは、かつてカリオン自信が問われたものだった。
――――よくお見えになられた!
――――どうぞ。冷たいモノを用意してあってよ?
遠い遠い昔、太陽王に即位したカリオンが国内行幸に出た時の話だ。
ボルボン家を預かるジャンヌと配偶者のシャルルは、町を挙げて王を歓待した。
古都ソティスは上に下にの大騒ぎとなり、城下全ての町長が挨拶に訪れた。
その席で聞いた古い時代のイヌの話は、今もカリオンの中に脈々と息づく。
果てしない艱難辛苦を乗り越え、何処までも平原なこの地域を拓いた者達。
況んや要するにそれは、国土を開拓した農人の記憶だった。
「かつてこの平原は、全てがガガルボルバの氾濫原だった。この平原は南北の高低差が驚く程に少ない平坦な場所だ。それ故に、ガガルボルバが氾濫するのは年中行事だったそうだが……」
大陸中央部に位置し、周囲全ての地域から豊富な水が流れ込んだ地域。
この中原は、遠い遠い昔は広大な湿地帯だったという。
「一番高い所になった避難場所が今の聖導教会だとか」
タロウは確かめる様にそう言い、カリオンは黙って首肯する。
平原の中にあって僅かながら高度を持つ高台にソティスは位置していた。
「この平原全てが池になった時、ここを生活の場としていたイヌ達は少しでも高い所に上がって祈ったのだろうな。神よ!どうかお救い下さい!と」
それはもはや敬虔な祈りを通り越した、切実な願いだっただろう。
この大陸の何処に居ても底辺労働者その物な働き者だったイヌ達。
彼等がその境遇を嘆き、自然発生的にここへ集まったのは自然な流れだ。
ただ、水が引けば肥沃な地となるここは、同時に奪い合いの場でもあった。
イヌ達は団結して季節を読み、先手先手を打って畑を耕した。
その結実としての収穫を奪われぬように、イヌは更なる団結を深めた。
「創世時代の歴史講義は……どこか恐ろしいです」
率直な言葉でそう表現したエルム。
心根の優しいエルムは、争いや戦いを嫌っている部分がある。
それ自体は王として必要な資質だが、時には強く出ねばならない。
手痛い犠牲を払う事の無いように、最小限の犠牲で切り抜ける方策。
全体を殺す事無く困難をやり過ごすために、時には少数を切り捨てる。
その決断と責任を取れなくば、王は王足り得ない。
「まぁ――」
言葉を飲み込みジッとエルムを見たカリオン。
その眼差しは厳しくとも愛情があった。
幾多の試練を乗り越え、王らしく成長したマダラの男。
そんな父親をエルムはジッと見ていた。
「――この地のイヌを差配したボルボン家の者達は、その中で必死に生きてきた結果としての支持を集めているんだろう。辛い決断を背負い、その責任から逃げずに立ち向かい、そして……」
一つ息を吐いて空を見上げたカリオン。内心でハッと気が付いたのは秘密だ。
遠い日、父ゼルの言った言葉の意味を、今やっと自分の事として理解した。
――――今は俺が怒る理由を理解出来ないかもしれない
――――だが、いつか必ず意味がわかるだろう
――――だからいまは黙って聞いておけ
自分自身の経験や手痛い失敗の記憶から得られる苦い教訓。
その教訓が有ると無いとでは、受け取る言葉の意味が180度変わる時もある。
経験を積み、人間的な厚みを増した後で理解する言葉。
表面的ではなく、その深い部分における思考の積み重ねの量だ。
それが何故必要なのかと問われれば、すなわちそれは『負けの経験』に尽きる。
負け戦の中で次に繋がる何らかの手掛かりをどれだけ得られるかの能力。
つまり、転んでもただでは起きない強さと抜け目の無さ。
それら全てを兼ね備え、初めて王は王足り得る。
「……ボルボン家は今もそれら全ての責任を背負っている」
カリオンが手放しに人を褒める事はまず無いと言って良い。
それはすなわち、王の資質としての公平さと配慮の深さだ。
どんな聖人君子でも、目の前でライバルが褒められて喜ぶ者は居ない。
少しでも上を目指して出世争をする貴族ならば、微妙な鞘当ては挨拶代わりだ。
そんな中で特定の勢力だけを贔屓するわけには行かない。
公平にチャンスを与え、結果を出させ、それを評価してやる。
そして時には過当競争になった者達の手綱をグッと締めねばならない。
「……父上は後悔してるの?」
エルムは素直な言葉でそれを問うた。
何となくだが、父カリオンの姿にそれを思ったのだ。
事後処理に失敗したとか、或いは、気の巡らせ方が甘かった。
結果論として傷を深くした。若しくは、取り返しの付かない失敗をした。
そして、その最たるものといえば、王妃リリスの死去なのだろう。
僅かな機微からそこまでを読み取ったエルム。
いまだ立太子の儀を経験していないキャリだが、誰もが次期帝だと思っていた。
「そりゃ王だって後悔すんだろうよキャリー」
タロウは腕を組んで唸りながらそう言った。
実際の話としてタロウから見ればカリオンは伯父に当たる存在だ。
だが、タロウはあくまで部下だと振る舞っている。
将来の親衛隊候補として、エリート街道を驀進する彼には1つの目標があった。
その目標のために、あくまで手柄が欲しいのだった。
「かつて父がこう言ったことがある――」
カリオンは目を細めながら切り出した。
「――政治に正解は無く、どれも不正解な選択肢の中で一番ましな不正解を選び続ける事になる……とな」
父カリオンの言う父とは、肖像画でしか見たことの無いゼル公だ。
キャリは空を見上げなからポツリと漏らす。
「最良の不正解か……」
その言葉の意味は直感的に良く解る。
ビックストンで学ぶキャリにしてみれば、先輩諸兄の指導がそれだ。
何をしても細かく指導の入る状態は、とにかくストレスが溜まるのだ。
だからと言って何もしない訳にはいかない。
常に全力で当たり、前進する意思を示さねばならない。
「そうだ。最良の不正解だ。つまり……」
ニヤリと笑ったカリオンは息子エルムを見ながら言った。
「政治の本質とはそれだ。玉座など地獄だ。王は無限に与え無限に恨まれるのだ。無限に心砕き無限に心無く詰られるのだ。だからこそ……」
小さくため息をこぼし、カリオンも空を見上げた。
群青の空に小さな雲が浮いていた。
「王は野心の昼をすごし夜には諦観に泣くのだよ。自分を見る者達をよく観察すると良い。皆、王を道具としか見ていない。立身出世する為に必要な道具だ」
王の歓心を買うことが全て。
その為に手柄争いを繰り広げ、時には暴走し出すこともある。
思えばこの数年、カリオンの主な仕事は手下の貴族の暴走を抑えることだった。 ホザン・レガルドの一件以降、カリオンは全ての手を使って国内を検めた。
不平不満を持つ貴族は居ないか。経済的に行き詰まっている者は居ないか。
全体としては上手く回っていても、それは無理の積み重ねかも知れない。
かつてゼルはカリオンにこう教えた事がある。
――――湯飲みの中にポタポタと水が垂れる
――――その水は国民の不平不満だ
――――ふちギリギリまで行けば突然あふれこぼれるかも知れない
――――だからその前に水をこぼす事を忘れるな
――――全てを王は飲み込むんだ
最後の一線を越えた時、それは間違い無く国内が争乱状態となる。
ただ、コップに溜まる水であれば、それは目で見て分かるものとなる。
しかし、民衆の間にたまる不平不満は目に見えない軋轢その物だ。
王はそれを国民の声として捉えねばならないし、逃げてはいけない。
時には苦い薬を飲ませねばならないが、その後のフォローも重要だ。
「父上……」
どこかウンザリ気味のキャリは、困った様な声でそう漏らした。
飄々と困難を乗り越えて行く父カリオンの姿に、不安を覚えたのだ。
「王は逃げられない。最後の責任は王に帰結するのだ。逃げ続けても何処にもたどり着けないし、何も為し得ない。ただただ、愚直に実直に実績を積み重ねるしかないんだよ」
その哲学的な回答がカリオンの全てだった。
齢100ともなれば、イヌはそろそろ一人前扱い。大人扱いされるもの。
様々な挫折や苦労を積み重ね、人間は育って行くものなのだ。
ただ、それを言うカリオンの姿は、凡そイヌの100歳とは思えぬ姿だった。
――老いている……
誰もがそう思う姿のカリオン。
仮にその正体を知らぬ者が見れば、齢200を越えた冴えないマダラのイヌ。
または、そろそろ人生の終点を迎えつつあるヒトの男。
偽らざる本音として、誰もがそんな印象を持つだろう。
そしてある者は『太陽王の激務がこれ程とは……』と労りの言葉を吐く。
何処かに悪意ある者は『所詮マダラなどこの程度……』と吐き捨てる。
モノの表現の本質として、それを言う者の立ち位置はとても重要だ。
ただ、それら全てを飛び越え、数歩下がって全体像を見る事も大事だった。
岡目八目というように、第三者的視点となる立ち位置は大切なモノが見える。
――太陽王は普通より早く老いている
そこを見落とすと大切な事を見逃す事になるのだが……
「市井の者はこう言う。社会と言う梃子を支えるのは市民。王は梃子を押すだけだとな。だが実際には違う。立身出世を望む者も、平穏無事な暮らしを望む者も、その全てが王を梃子に使うのだ」
大量の報告書全てを読破したカリオンは、最終的にそんな結論に達した。
王はただの道具に過ぎない。王とは無理を通す為の切り札に過ぎない。
太陽王の名と権威は利用するのではなく、利用される為にあるのだ。
「俺は太陽王の知己だ。俺は太陽王の名代だ。俺は太陽王に意見できる者だ。そんな言葉で自分を飾り立て大きく見せ、自らの野望を達成する為に王の名を使う。或いは自らの安寧の為に、敵を打ち据えるために、王の権威を使う。それが……」
小さく溜息をこぼし、カリオンはジッと息子エルムを見た。
――――カリオンとは受け継がれるものと言う意味だ
それを話したカリオンに対し、検非違使の案主はそれをキャリーオンと言った。
キャリーとは持つと言う意味で、オンとは載せると言う意味。
つまり、キャリーオンとは自らにそれを乗せると言う意味です……と。
それ故に、エルムの名はキャリと呼ばれている。
名に込められた意味をタロウから聞いたエルムは、キャリの名を重いと思った。
「……太陽王なんだね」
キャリもまた溜息混じりにそう呟いた。
兄ガルムが事実上隠遁生活に入っている以上、王位は自分が継ぐ事になる。
だが、そのエルムにしてみれば、出来る事なら逃げ出したかった。
「王とは難しいんだね」
「そんな事は無いぞ?」
ウンザリ気味のエルムを察したのか、カリオンは薄く笑んで言った。
「父はこう言った。事の次第は良く知らないが、ヒトの世界にあった話だと言う」
ゼルの正体はエルムもガルムも知っている。
直接血の繋がった存在とは知らぬが、その中身がヒトである事は承知済みだ。
「良きル・ガル人であれ。ただ、己が王族である事を忘れるな」
「……良きル・ガル人」
「そうだ」
カリオンは一度遠くを眺めてから、もう一度エルムを見た。
彼方に見える尖塔は随分と大きくなっていた。
現在地を確かめたのだとエルムは思ったが、再びやって来た視線に驚いた。
どこまでも真っ直ぐな眼差しは、驚くほどの力に溢れていた。
そしてその眼差しの中に、自分への愛といたわりを感じた。
「良き王であろうとするな。ただただ、良きイヌであれ。同じイヌを信じ、国ではなくイヌの為に生きようとすれば良いのだ。この五千万余りのイヌ全てが幸せに暮らせる国を目指せばよい」
その言葉を聞いたエルムは、なぜカリオンがソティスを見たのか解った。
この世界の奴隷として、それこそ本当に泥にまみれてイヌは働いてきた。
文句を言わず黙々と働く事を美徳とし、自分以外の為に役に立つ事を選ぶ。
そんなイヌをまるで奴隷の様にこき使っていた他種族へ最初に反抗した街だ。
やがてソティスはイヌの為の街になり、ここにイヌの国が生まれたのだった。
「全てのイヌの為に……」
ボソリとそう呟いたエルムは、ソティスの尖塔を見ながら思った。
良きル・ガル人の為に生きる、良きル・ガル人でありたい。
そして、良きル・ガル国民の為に生きる、良きル・ガル国王でありたい……と。