ララのこれから <前編>
「ガルム」
ノックと共にその名を発したカリオン。
室内は静まり返っているようで、寝息ひとつ聞こえない。
「居るんだろ? 返事をしろ」
再びのノックと共にガルムの名を呼んだ。
ただ、やはりその室内には静けさしかない。
「……………………」
カリオンは意識を集中させ、室内に聞き耳を立てた。
全く無音の部屋からは、如何なる者の存在すらも感じ取れないでいた。
――留守か?
そんな筈は無いと首を捻るが、それでも気配は一切無かった。
サミールに命じ、ガルムを24時間監視し続けろときつく言っておいたのに。
城の大浴場へ行った気配は無いし、むしろ行ったなら行ったで大騒ぎの筈。
内情はわからないが、居ないのは間違いない。
「……入るぞ」
意を決しカリオンは扉を開けた。
室内に灯は無く、夜の闇が充満しているくらい部屋だった。
――不在……か
戸を開けてから一歩踏み入れるまでに時間を置くのは、もはや習慣だった。
もう一度室内に聞き耳を立て、音が無い事を確認する。
――――良いかエイダ
――――音と言うモノは2種類しか存在しない
――――安全な音と危険な音だ
――――聞き間違えるなよ
カリオンの心の中にセルが姿を見せた。
ゼルの姿をしたイワオは、馬上で愛用の剣を持ち、笑っていた。
――父上……
こんな時、父ならどう考えるだろう?
どう対処し、複雑に絡み合った自体をどう片付けるだろう。
まだ存命であれば、もっともっと沢山の事を学べたのに……
忸怩たる思いを頭の中から追い出し、もう一度カリオンは室内を見た。
墨を流したような暗闇に、一瞬だけ不気味さを覚える。
だが、一歩足を踏み入れて灯をつけたとき、ソレに気付いた。
――ん?
クンクンと鼻を鳴らしで臭いを確かめる。
マダラとは言え、カリオンとてイヌなのだ。
その嗅覚は鋭いし、間違いがない。
――これって……
何となく鼻に纏わり付く異臭。
臭いわけではないが、決して良い香りでもない。
生き物の内側からにじみ出てくるモノの臭い。
そして、ややもすれば酸っぱいような苦いような臭い。
――あいつめ……
苦笑しつつもカリオンは腕を組んで室内をグルリと見回した。
どこかにソレがあるはずだと、隠してある場所を探した。
恋に破れ逆上したガルムだが、逆に言えばその心が決まったのだろう。
男でも女でもあるはずだが、その心は女の側に傾き、倒れ切ったはず……
――まぁ……
――仕方ないな……
内心でそんな事を思ったカリオンは、ガルムが眠るベッドに腰掛けた。
グッと沈んだマットレスの中から、より一層にその臭いが沸き起こった。
少しは加減しろと思うものの、自分の心に正直な証だろう。
――ん?
不意に目をやった机の上には、綴じられたノートがあった。
立ち上がってそのノートを開いたカリオンは、にんまりと笑った。
そこにはガルムの……いや、ララの手慰みの痕跡があった。
最初のページにはルチアーノの横顔が描かれていた。
簡単なスケッチだが、その特徴を良く捉えていた。
そして、ページが進むとアングルが変わった。
段々とスケッチが上手くなっていて、ルチアーノの表情も変わった。
笑顔だけでなく、真面目な顔や変顔が混じった。
そして、そのスケッチが全体像になり、仕事中や街を歩く姿になった。
本気で好きだったんだと気が付いたとき、最後のページで手が止まった。
ベッドに腰掛けるルチアーノの後姿だった。
そして、そのページからはより一層に臭いが強くなった。
女の身体からにじみ出る、蜜の臭いだった。
――――――――帝國歴392年 1月 11日 深夜
ガルディブルク城 ガルム自室
「優しい男だったか?」
部屋の外に気配を感じ、カリオンは静かな声で言った。
そっと足音を殺して入ってきたガルムは、ガウン一枚だった。
「……うん」
その返事はまるで、幼い頃のリリスだと思った。
ガルムではなくララだった。ララになっていたのだ。
「とても……優しかった。優しく……シてくれた」
その一言で、カリオンはララがまた一歩進んだのだと知った。
男の子であり女の子だったガルムは、ララという『女』になっていた。
「良い背中だな」
それは祝福するべきものだとカリオンは思った。
また一つ、大人の階段を登ったのだ。
逃れる事の出来ない責任と覚悟がついて来る。
どんな幸せなときでも嬉しいときでも、それは常に後ろに居るのだ。
「……私は」
言葉を詰まらせてララは震えていた。
ただ、その身体に纏う僅かな魔力にカリオンが気付いた。
夜の闇に紛れ訪れた場所。それは、この城の地下だった。
「女になったか?」
努めて平静を装った声でカリオンはそう言った。
恥ずかしげで控え目な声音が『……うん』と響いた。
自分が普通じゃ無い事を、どうあっても受け入れるしか無い。
それは飲み込み難い屈辱であり、受け入れ難い痛みでもあった。
ただ、どんなに嫌がっても嘆いても、変わらない絶望的な現実だ。
「でもまだ……男の子だよ」
思えばララはそれ程に声変わりをしていない。
やや低めの声の女の子にも聞こえるし、キーの高い男の子にも聞こえる。
そんな声音が隠しようも無く震えているのだ。
恐怖と葛藤と屈辱。
なにより、誰にも真実を告げられない悲しみと苦しみ。
そして、それを受け入れて貰えなかった絶望。
ララの心を蝕む全ては、その身にまつわる悲劇だった。
「まぁ、これか『やめてよ!』
ララは声を荒げてカリオンの言葉を遮った。
ゆっくりと身体を捻り、カリオンはララの顔を見た。
その頬に流れる涙の筋が、窓の明かりに光っていた。
「やめてよ……気休めなんて要らないから……」
心が震えている……
それを見て取ったカリオンは、静かな口調で言った。
「そうだな。気休めなんか……何の意味もない」
ララの目がカリオンを真っ直ぐに捉えていた。
その姿には、常に一分の隙も無い緊張感があった。
国家の全責任を常に預かっている男は、その身体に余る重荷を背負っていた。
「良い男だったか?」
その問いが意味する所をララは掴み損ねた。
だが、カリオンの浮かべる笑みには、全てを許す悲壮なまでの覚悟が見えた。
逃げられない運命を背負ったマダラの男は、誹謗中傷の全てを受け容れていた。
「……あんな人だと思わなかった」
「嫌いになったか?」
ちょっと意地悪な言葉だが、ララは首を左右に振った。
そして、恥ずかしそうなはにかみを浮かべ、小さな声で言った。
「自分をもっと嫌いになった」
持って産まれた運命の産物。
それはもはやどうしようも無い事だった。
フタナリの身体で産まれたが、心は女だった。
「だけど、受け入れるしか無い」
「そうだけどさ……」
僅かに口を尖らせてララは言った。
「父上は……マダラで済んでるから……」
それが、どれ程に言葉を選んだ結果なのかを解らないカリオンでは無い。
ララはララなりに気を使い、言葉を選び、それでも自分の言いたい事を言った。
頭ごなしに否定してはいけない努力を重ね、ララはそれでも怒って見せた。
だから……
「そうだな。普通の者には理解出来ない苦労がある。お前にはそれがある」
静かに笑っているカリオンは、スッと立ち上がって上着を脱いだ。
暖房の効いた城内だが、それでもやはり肌寒い。
そんな中、カリオンは衣服を全て脱ぎさり、一糸まとわぬ姿になった。
鍛え上げられた肉体に月光が降り注ぎ、いっそう神秘的な姿に見えた。
ただ、そこから先、ララは『ヒッ!』と小さく悲鳴を上げた。
ララの私室の中に、とんでも無い姿のバケモノが姿を現した。
「ララ…… これが、お前を育てた父親の正体だ」
王の秘薬では無く、尾頭の秘薬により産まれて来た魔法生物。
ララも知っている覚醒者の姿よりも、いっそう禍々しい姿。
何より、城の地下に暮らす死の女王の相方として居る存在。
この国の全てを差配する太陽王の正体は、恐ろしい程の迫力を見せるバケモノ。
無敵の力を持ち、驚くような実力を持つ部下達を束ねる孤高の存在だった。
「誰も受け入れてくれぬと解っていても、それでも気丈に振る舞わねばならぬ時があるのだ」
カリオンは静かな口調でそう言った。
ただ、ララはスッと歩み出て、その身体にピタリと触れた。
「父上……」
この夜、カリオンとララは初めて親子になった。




