ファーストキス
~承前
――あれ?
フワッと立ち上がった意識は、まだはっきりと状況を認識出来ていなかった。
ただ、少なくとも自分が何処かに寝かされている事はわかる。
そして、掛けられている薄掛けには、好きなにおいがしている。
――あ……
まだ、目を閉じたままだが、ララは状況を認識した。
自分に掛けられているのは、ルチアーノの上着だ。
獣臭さの混じる野暮な臭いだが、少なくともララは嫌いではない。
ある意味、最も認めたくない事なのだろうが、自分の心に嘘はつけない。
この臭いに、その臭いのする腕に、臭いを纏う男に抱かれたい。
ガルムではなくララの人格がそう言っている。
幸せな朝を迎えたいと、そう願っている。
それが望むべくもない、あり得ない未来だと知っているからこそ……
――ルチアーノ……
心の中で愛しい人の名を呟く。
それだけで心の内側がほんのりと熱を帯びる。
あの人が好きなんだ……と、ララはそう思った。
人を好きになるって事を、初めてちゃんと認識したのだ。
「ルッチー……」
無意識にその名を呟いたララ。
しまった!と、思ったが、もう口から出てしまった。
どうか聞かれてませんようにと願ったのだが……
「きっ! 気が付いた?? 良かった! 良かった!」
ルチアーノはララのすぐ傍らにいたらしい。
ララが寝かされていたのは、アドニスの寝言亭の入り口ソファーだった。
人気の感じられない寝言亭の店内で、ルチアーノはララに付き添っていた。
「あ……」
――聞かれた!
ララは己の悪手を呪った。
完全に無防備な状態で呟いた言葉は、しっかりと聞かれたらしい。
「良かったよぉ。目を覚まさなかったらどうしようかと思ったんだ」
今にも泣きそうな顔のルチアーノがそこに居た。
その姿が可愛くて愛しくて、ララは薄笑いで見つめていた。
「全然動かなくてさ、彼と運んだんだ。弟なんだってね。彼から聞いたよ」
――ヤバい……
瞬間的にララの中のガルムが起動した。
それは、男の人格としてのガルムではなく、太陽王の息子としてのガルムだ。
そして、すぐさまガルムは秘密が外に漏れていないかを確認せねばならない。
太陽王の息子には、他人に言えない秘密がある。
それだけで国家が危険に晒されかねないのだ。
「アイツ…… 帰ったの?」
「え? 弟くん?」
――弟くん……
エルムが名乗らなかったのか、それとも引っ掛けなのか。
普段から何処か抜けているルチアーノならば、諜報活動の可能性は低い。
ただ、かつて城の中で細作の事をガルムに教えたネコの男はこう言った。
――――いいですか若
――――本当の職人って奴ぁね
――――決して相手に気取られねぇもんです
ガルムに身の隠しかたを伝授したのは、他でもないリベラトーレだ。
そして、教えられたのは身の隠しかただけではなく、相手を見抜く方法。
必要な情報を得るための話術や、相手の心理を突いた操話術。
王子としてではなく、その従者のふりをして学校に行こうと言うのだ。
慎重に綿密に細心に振舞う術の全てをリベラは教え込んだ。
――――本当に出来る細作ってのはね
――――何処にでもいるような普通のオッサンなんですよ
――――誰が見たって違和感がないんです
――――ソレを見抜く眼力は痛い目に遭って覚える
――――それが真実ってこってす
その言葉は、まだガルムのうちに生きていた。
行動も言動もそれへの配慮で出来ていた。
絶対にボロを出さない。
その意識は、もはや、ガルムを縛る呪いのようだった。
「言わなきゃ良いのに……」
ララの裏にいるガルムは、ばれないように注意しつつそう言った。
そして、ルチアーノの対応を見れば、エルムの行った事が解ると思った。
エルムの公的な呼び名を言えば、正体を事実上明かした事になる。
そして、真名を明かしたなら、それはカモフラージュの公算が高い。
ただ、この時点でララの興味や関心は、そこには1ミリも存在しなかった。
ララの胸中に渦巻く感情はただひとつだ。
「ところでさぁ……」
「え?」
「なんで飛び出してきたの?」
エルムと言い争ったフリをしたとき、ルチアーノは扉から飛び出してきた。
そこに何の意味があるのかは、言うまでも無い事だった。
ただ、女心は時として、簡潔な明文化を好むのだ。
それは、どうしても相手に言わせたい言葉であり、聞きたい言葉でもある。
――――君が好き
言葉など風と同じで形を持たないものだ。
だがそれは、愛や恋と言った感情も同じ事だ。
それ故に、人は愛を言葉で伝え、無償の思いを伝えようと努力する。
心からの言葉が詰まったその一言は、間違い無く心の軛なのだ。
「なんでって言われても……」
「ほっといてくれれば良かったのに」
「そういう訳には行かないよ」
「なんで?」
それは、詰め将棋のようにじっくりと相手の手を削っていくもの。
リベラによって鍛えられた操話術の全てがここに帰結していた。
相手から必要な情報を聞き出す為のテクニック。
相手が隠したい情報を自分から喋らせてしまう技術。
相手の心を折り、『負けた』と思わせる為の秘策。
ララはどうしてもそれを言わせたかった。
言って欲しかったのだ。
「そりゃぁさぁ……」
……もう一押し
ララの内側にいるガルムがニヤリと笑うのを感じた。
残忍で獰猛で、そして容赦の無い黒耀種の血が騒いでいる。
相手を追い詰め噛み殺す愉悦に吼えている。
ただ、そんなガルムに邪魔をするなと胸中で呟くララ。
彼は今、完全に彼女になって人格が統一されていた。
「……弟と話をしてただけなのに」
「あの会話聞けば誰だって勘違いするよ」
「え?そう?」
「そうだよ。誰だって別れた男につきまとわれてるって――」
ララは胸中でペロリと舌を出した
「――しつこい男に困ってるって思うよ」
「それこそほっといてくれれば良かったのに」
「そういう訳には行かない。だって」
「……だって?」
チェックメイト
ララは全ての表情を噛み殺し、真顔になって聞いた。
「だって……なに?」
「だって……その……あの……まぁ……そも……」
……あー!焦れったい!
そんな事を喚きながら、ララはもう一歩踏み込む事にした。
これでチェックメイトだと、そう思った。
「……好きなの?」
「え?」
「いや、だから……?」
ほら、この甲斐性無しで気の小さい駄目男。
絶好のリード出してやったから喰い付け。
ララの表情には落胆とウンザリさが混じった。
それが演技でる事は言うまでも無い。
ただ、時にはそれが必要な事も解っている。
「気があるの?」
「そりゃ……親しくしてくれればさ……気にもなるよ。俺みたいな田舎者にゃ」
……田舎者?
ララは胸中で首を傾げた。
何故田舎者なのだ?と。
「田舎って、そういえばルッチーの出身は?」
「俺は……フレミナ地方のとんでも無い山の上にある小さな街なんだ」
「……へぇ。初めて聞いた」
ララは興味を持ったフリをするべきだと思っていた。
必要な情報を得る為の手段のひとつだからだ。
だが、そんなモノは関係無くララは前のめり気味に食い込んでいった。
「フレミナって……あの……ル・ガルの北のオオカミの国?」
「そう。ララちゃんはル・ガルの貴族出身だろ?」
「……うん」
「俺みたいな田舎モンとは住んでる世界が違いすぎる」
……ウソだ!
ララの内側にいるガルムが叫んだ。
少なくともルチアーノは素晴らしく紳士だ。
労りや思いやりの精神を持ち、相手を守る事に熱を注ぐ。
それなりの階級にあってその手の教育を受けなければ、そうは為らない。
人は教育によって形作られるのをララは知っていた。自分自身の話としてだ。
「田舎者……それって何か問題?」
「いや、問題?って改めて聞かれると困るけど……」
……あっ!
ララの脳内に凄まじい速度で手順が組み上がった。
ルチアーノを徹底的に追い詰める手段だ。
ただ、その前にルチアーノが陥落した。
身体を硬くしていた彼は、急に寛いだ空気に変わった。
「いや、正直言うとさ、もうベタぼれなのよ。ララちゃんに。けど――」
ニコリと笑ったルチアーノは、寝転がっているララを真上から見た。
今にも寝込みを襲いそうな体勢だが、まだ多少は自制心が残っていたらしい。
「――こんな田舎者じゃ嫌だろ? 田舎者な上に俺、オオカミだからさ」
「オオカミだから?」
「だから、嫌われたくなかったんだ。だって……」
グッと心を入れて覚悟を決めたルチアーノ。
その表情にララの心がグッと来ている。
「……好きな人に嫌いって言われるの、辛いし」
……やった
何と呆気ないものだろうか。
好きという言葉に何の力も無い事をララは知った。
いや、力はあるのだが、それは通り過ぎる前の話だ。
ララは最大の難関に差し掛かった事を知った。
好きだと言われた惚れた男に嫌われないようにする事。
世の女たちが最も気を揉む事だ。
「そんな事で嫌ったりしないよ。ルッチー優しいし」
「でも、ほら、俺は下賤な出身だから」
「私はそういうの嫌いなの。身分違いだとかそんなの関係無いよ。だって……」
ララはニコリと笑った。
「太陽王陛下のお后様は、フレミナの郷から嫁いだんだよ?」
ララの母サンドラはフレミナの女だ。
カリオンが手を付けた事になっているが、実態はどうでも良い。
「……そうだね」
ララを真上から覗き込んでいるルチアーノは、どうして良いのか迷っていた。
覆い被さるようにしているが、そのララは嫌そうな素振りを全く見せていない。
早鐘のように心臓がビートを刻む。その音がララにも聞こえる様だ。
ララはニコリと笑って目を閉じた。
それが何を意味するのか、色恋沙汰に疎いルチアーノだって知っている。
求められた以上、据え膳は喰うものだ。
「ララちゃん。好きだ」
ララの鼻先に自分の鼻をつけ、舌の先でチュっとキスする。
ゾクリとする衝撃が背筋を駆け抜け、ララは蕩けた。
「……もう一回」
「うん……」
もう一度舌を伸ばしたルチアーノ。その舌の先に妙な感触があった。
それが何だろうかと一瞬考えたが、自在に動くそれは考えるまでも無かった。
ララの舌が触れたのだった。
もはやこうなると男は止まらないもんだ。
ガバリとララへ覆い被さり、両腕でララの顔を押さえてルチアーノはキスした。
全く嫌がる素振りを見せる事無く、ララはその両腕に手を添えていた。
「ララちゃん…… 俺…… 俺……」
ルチアーノの腕がララの胸に触れた。
大きく豊かなその胸を揉まれたとき、ララは訳も無く悲しくなった。
この男に嫌われるのが怖くなったのだ。
自分の素性を全て知ったら、間違い無く嫌われるだろうとララは思った。
ならば、もう少し相手を焦らせる必要がある……
「ウッ……」
ララは頭を押さえた。
両手で頭を押さえて苦しそうに呻いた。
「らっ…… ララちゃん?」
「……ごめんなさい」
「大丈夫??」
頭を押さえいたがる素振りを見せて、ルチアーノを落ち着けさせたララ。
もう一押しなのは間違い無いのだから、今日はお預けが正解だ。
「……家まで送るよ」
「ごめんなさい……ありがとう……」
これで良いんだと、ララは内心で笑っていた。