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ルチアーノとエルムとララ

~承前






 ――――兄貴だよね?


 エルムは完全に無防備な一言を吐いた。

 割と小声でそれを言ったのは僥倖だ。


「私はララと申します」


 幸いにしてレストランの関係者はまだ誰も出てきていない。

 深夜と言うにはまだ早い時間だが、それでも街は眠りかけている。


「え? ……違うの?」


 エルムは念を押すようにそれを言った。

 その言葉は、目の前に立っている女の表情を大きく歪ませた。

 押しつぶされるような気まずい沈黙が続き、エルムは鼻の頭をカラカラにした。


「……なぜお前がここに居るんだ?」


 女の口から低く轟くような声が漏れた。

 それと同時に、ビリビリと痺れるような殺気が漏れた。


「やっぱり兄貴だ。でも……」


 一度脚の先まで視線を落としたエルムは、嘗め回すような視線で兄を見ていた。


「そうか……聞かなかったのか……」

「え?」

「父上も母上もお前に言ってなかったんだな」


 ガルムは不意に振り返ってレストランの通用口を見た。

 その扉の向こうに人の気配は無く、臭いも漏れてない。


 イヌの鼻は音以上に辺りを確かめる能力を持つ。

 ガルムの鼻はヒトの顔を同じなので短いが、それでも嗅覚は鋭かった。


「俺は……男と女の中間なんだ」

「それって……ふたなり?」

「あぁ。それも完璧な……」


 ガルムはエルムの右手を取ると、自分の胸を握らせた。

 弾力のある豊かな肉感がエルムの手に伝わり、その表情を変えた。


「おいおい。女の胸くらい触った事があるだろ?」

「……いま、初めて触った」

「マジかよ……損したな」

「なんで?」

「ちゃんとした女じゃないからな」


 クククと笑ったガルムは長く伸びたスカートに手を掛けた。


「見せてやろうか? 股座にぶら下がっている余計なものも」


 僅かにその裾を持ち上げたガルム。

 エルムは慌ててその手を止めさせた。


「いや……いいよ」

「他人のイチモツなんて見ても楽しくないからな」

「そうじゃないけど……」


 エルムは今にも泣きそうな顔でガルムを見ていた。


「兄貴に会いたくてさ……父上に聞いたんだ」

「何ていってた?」

「兄貴は総合大学に行かせた。お前はビッグストンへ行けって」


 ガルムはハッと気が付いた。エルムにはビッグストンがあってないのだ。

 だが、現実には行かざるを得ないのだろう。次期帝としての教育だ。


「ビッグストンが嫌いか?」

「嫌いだよ。体力的にきついのと……あと、周りの人間が凄すぎる」

「……だろうな。けど、なんて皮肉なんだろうな」


 ガルムは表情を大きく歪めて言った。


「俺は死ぬほどビッグストンに憧れたのに、そこに行けたお前が嫌だなんて言うとはな。俺じゃ体力的に付いていけないって言うのに……」


 ガルムは自分の胸を両手で握り締め、悔しさを噛み殺して言った。

 そこに見え隠れする情念は、親への恨みと自分への落胆だった。


「まともに生まれていれば……と、何度思ったか解らない。こんな胸など要らないと何度も思った。何度も切り落としてやると思った。けどな、月に一度は生理がやってきて、俺は嫌でも女の日々を過ごす。気分的に酷く落ち込んで、何をするにもウンザリとする毎日だ――」


 黙って話を聞いていたエルムは、ガルムの迫力に飲み込まれつつあった。


「――それが終ると、今度は気分が陽気になって、何をするにも酷くはしゃいでしまう位になる。男と女を行ったり来たりしながら過ごしてるのさ」


 ガルムの言う落胆と諦観は、エルムには到底理解出来ないものだった。

 少なくとも身の上を不幸だと思っている者は、他人への共感など出来ない。


 ただひとつ、確実に感じている事がある。

 それはつまり、自分を、エルムを羨ましいと思っていることだ。


「……でも、なんで女の格好を?」

「俺が裸で歩いていたら男に見えるか」


 グッと握っていた胸を下から持ち上げ、ゆさゆさと揺すって見せたガルム。

 そのたわわに実った果実のような胸から、エルムは視線を外せなかった。


「……見えないな」

「だろ?」


 ニヤッと笑ったガルムは、今度はその胸を潰して見せた。

 左右にウミュッと広がる胸は、弾力を感じさせるものだった。


「最初は胸甲で押しつぶしていたんだけどな、そのうち息苦しくなってきて、夏場は気が狂いそうで、ある日、出来心で女物の服を着てみたら凄く快適でさ。それからは女になって生きている。まぁ、時々は男が顔を出す。朝起きた時、掛け布団を持ち上げている事もあるしな」


 何とも下品な笑みを浮かべ、ガルムは砕けた様子で笑っていた。

 ただ、その笑みの奥底に沈んでいる感情は、まだまだエルムには理解出来ない。


「兄貴は……それで良いのか?」

「それで良いって? なにが? むしろ外になにか良い手があるなら教えてくれ」


 エルムの迂闊な一言で、ガルムはやや気分を害したらしい。

 どうしようもない現状に苛立ちつつも、全てを受け入れたのだ。


 その決意と覚悟は今さらどうになるものでもない。

 だが、結果論として女の姿になっているガルムに後悔は少なかった。


「……生まれてすぐ、城の典医は俺を殺そうとしたらしい。父上はそれを一刀で切り捨てたんそうだ。可能性は無限なんだと、そう言ったそうだ。母上がそれを教えてくれた。ただな、あの時に死んでいればと思った事は数え切れるものじゃない」


 エルムは無意識レベルでコクリと頷いていた。

 その言葉は、何となく共感を覚えるものだからだ。


「この胸が膨らみ始めた時、初めて生理が来た時、俺は思ったよ。この身体の中にもう一人の人間がいるだけだって。男の身体の中に別の女がいるんだって。きっと母様の身体の中では双子だったんだろうって――」


 エルムから目を切って地面を見たガルム。

 実際の話、ガルムより背の高いエルムは、見上げるアングルなのだ。


「――だけど、それから何年も立ってわかったんだ。身体の中にいるのは、もう一人の人間じゃない。この身体を蝕んで女になりきれないように呪って、そして、苦しむさまを見て笑っている悪魔がいるんだって」


 女の身体の中に男の姿をした悪魔がいる。

 その言葉を聞いたエルムは、背筋にゾクリと寒気を覚えた。


 身のうちに潜む悪魔の存在は、エルムだって良く解っていた。

 カリオンの血を色濃く受け継いだエルムは、内なる獣と共存していた。


 父がそうであるように。茅街出身の友がそうであるように。

 覚醒と呼ばれるプロセスを経て、バケモノに変身出来たのだ。

 検非違使と呼ばれる秘密組織の一員と同じように……


「俺も……身体の内側に悪魔がいる」

「茅街の人間と同じなのか?」

「兄貴知ってるの?」


 コクリと頷いたガルムは、優しい笑顔で言った。

 それは、女性らしい柔らかな笑みだった。


「父上が一度変身して見せてくれたよ。俺もバケモノだって」


 ……あっ


 エルムの表情がスッと変わった。

 そして、長らく疑問だったことが線で繋がり、隠されてきた真実を知った。


 兄ガルムは父カリオンの子ではないと言う事。

 ビッグストンのやりかたを変えて、大学に生かせた事。

 そして、王位継承権を兄ガルムが失っている事……


「僕は……ビッグストンに行くしかないのか」

「そうだな。それが……」


 ――それが全て丸く収まる……


 そう言いかけたとき、ガルムとエルムはフッとレストランの通用口を見た。

 食用油の臭いを撒き散らす者がキッチンから出てこようとしていた。


 その臭いを感じ取ったガルムの顔がスッと変わる。

 気の強い男の顔から、どこか受け身な女の顔に変わった。

 それを見ていたエルムは、ここに居るイヌがガルムではなくララだと知った。


「良いから放って置いて」

「でも!」


 急に声音を変え、ララに変わったガルム。

 エルムはつい声を荒げてしまった。


 そして同時、通用口の向こうにいる人の気配が足を止めたのがわかった。

 間違いなく聞き耳を立てているとララは思ったのだ。


「言いたくてもいえない事があるでしょ。それと同じ。言いたく無いのに言わなきゃいけない事もあるの。だけど――」


 ララの声が切羽詰っている。

 そう思ったエルムだが、ガルムからララに変わった声音は迫真だ。


「――本当の事は誰にも言えないから、私の内側で処理しなきゃダメなのよ」


 身じろぎひとつせずに声を聞いて居るらしい存在がいる。

 通用口の扉の向こうにその気配がある。


 ララはここをどう切り抜けるかのみを考えた。

 後になって整合性を取る為の嘘を塗り重ねる時、最大限に自由を確保したい。

 ならば……


「だから、私の事はもう忘れて……ください……お願いです」


 男女の縺れと痴話喧嘩に話をすり替える事にしたララ。

 エルムもそれを見て取ったらしく、話をあわせる方向に来た。


「けど……一日も忘れた事なんてなかった。それくらい大事な――」


 エルムがそこまで言い掛けた時、通用口のドアがバンッ!と音を立てて開いた。

 ドアの向こうに立っていたのはルチアーノだった。

 コックコートを脱いだばかりのルチアーノは、全身油臭い状態だった。


 ただ、その大柄な体躯にグッと力を込めて立っていたのだ。


「それ位にしといたらどうだ?」


 ルチアーノが低く沈んだ声で言った。

 その姿はまるでマフィアかギャングだった。


 ただ、そんな事は問題じゃない。

 ララは思わず胸をときめかせていた。


「なんだと?」

「彼女……嫌がってんじゃねーかよ」

「知るかバカヤロウ。痛い目見たくなきゃすっこんでろ」


 男同士の喧嘩にそれ以上の口上は必要ない。

 次の瞬間、ルチアーノは驚くような速さで踏み込みを見せ、殴りかかっていた。


 ララが見上げるような体躯のルチアーノだ。

 その一撃は尋常ならざる威力といえる。


 事実、その一撃をフルパワーで受け止めたエルムの左頬に拳がめり込んだ。

 ズシンと鈍い音を立て、打ち込まれたそのパンチに、エルムが蹈鞴を踏む。


「痛ぇじゃねぇか!」


 沈んだ足を蹴り出し、エルムは返す刀でルチアーノに殴りかかった。

 仮にもビッグストンで鍛えられている学生なのだ。


 接近格闘術は繰り返し繰り返し訓練する事で身に付くもの。

 エルムはビッグストンのカリキュラムの中で、その戦い方を学んでいた。

 幾多の戦を生き抜いてきた者達が伝える、相手を殺すための格闘術だ。


「てめぇ! 只モンじゃねぇな!」


 普段のルチアーノでは想像もつかないような声音で襲い掛かるオオカミ。

 その拳を受け止めている黒耀種の男は、見事な身のこなしを見せた。


「テメェもな! 何でテメェがフレミナ格闘術使ってやがる!」


 足を止め両腕を絡み合わせ、ルチアーノとエルムのふたりは本気モードだ。

 鋭い踏み込みと予備モーション無しの一撃を双方が繰り出している。

 体格は互角で腕の太さも身のこなしも双方勝るとも劣らぬ様子。


 それは凄まじい迫力での戦闘だった。

 だが……


「ちょっと待って! ダメダメ! 本気になっちゃダメ!」


 ララはそれを止めに入った。

 一瞬の間を置いてふたりが距離を取ったその瞬間に割って入ったのだ。


 ただそれは、ルチアーノもエルムも、共に『え?』と呟くような鋭さだった。

 決してただの女が見せるようなモノではなかった。

 その証拠に、ふたりとも繰り出した拳を止める事が出来ない状態だった。


「あっ!」「って!」


 ふたりが同時に叫ぶ。

 ルチアーノとエルムの拳ふたつがララの頭蓋に叩き込まれた。

 ふたりは最大限に減速させたのだが、その拳はララの脳を最大効率で揺らした。


 そして……


「ララちゃん!」


 先に手を伸ばしたのはルチアーノだった。

 完全に意識を失ったララは、その腕の中に倒れこんだ。

 ある意味で、一番憧れていた腕の中へ、完全に無防備な状態で……だった。

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