アリバイ作り
――――短い間だったが世話になったな
威厳のある声が壁の向こうに響き、メイド達はそれに震えた。
キース医療院4階にあるスペンサー法律事務所の応接室だ。
子爵キース・スペンサーの邸宅に勤めるメイドは全部で3人居る。
住み込みはなく、全てが通いの女たちだった。
――――当家を使っていただき感謝の極みにございます
殊更に謙って言う主人キースの声を、メイド達は複雑な思いで聞いていた。
決して尊大な振る舞いをする安っぽい・薄っぺらい男では無い。
色々と言われるが、それ相応に貴族らしい威厳や言葉使いをする男だ。
子爵とは捨て扶持を貰って社会の役に立つ事を選んだ貴族家の三男坊。
医者であり弁護士であり、そして、貴族家としての肩書きを持つ男。
平民出の素性が解らない女が貴族家に取り入るなら最適の存在なのだろう。
それなりに野望を持つ年頃の女たちならば、玉の輿を狙うにちょうど良い。
貴族でなければ理解出来ないアレやコレやのしがらみも少ないはず。
城下に暮らす子爵家辺りがメイドに困らない一番の理由は、結局この辺りだ。
――――お世話になりました
――――おかげで快適な通学でした
まだ若い男の声がする。
典雅な発音と柔らかなイントネーション。
ややもすれば女の声にも聞こえる程の柔軟さだ。
「……………………」
「……………………」
「……………………」
メイド達は黙って顔を見合わせた。
夜の暗がりが街を包み始める時間帯。
キース家の病院前には、高級な馬車が止まっていた。
今夜、下宿していた人物がここを離れる。
それを聞いたメイド達は、邸宅の仕事もそこそこに、こっそりと集まっていた。
ここに下宿していたのは誰なんだろうか?
病院の看護婦達は正体を知っているらしい。
しかし、誰1人として口を割らなかった。
いつしか、城下の噂が耳に入り、それは真実のこととして通用していた。
城下のキース医療院最上階に、太陽王の王子ララウリ殿下が下宿していると。
メイド達は以下なる理由があろうとも5階への立ち入りを禁じられていた。
もちろん病院の看護婦達も入れなかったいらしい。
そんな女たちが本気で悔しがった理由は、結局のところ玉の輿でしか無い。
――――機会ございましたら……
――――拙宅へまたお立ち寄り下さい
――――殿下
キースの口から殿下の言葉が漏れた。
その言葉にメイド達がワーッと湧いた。
声を殺して居る筈なのに、それでもその空気は漏れるもの。
カリオンもガルムもそれに気が付いていてなお、黙っていた。
――――後日謝礼のものを用意しよう
その声が太陽王のモノであることは間違い無い。
メイド達の目が爛々と輝く中、キースは静かな口調で言った。
――――身に余る光栄にございます
――――陛下
ややあって馬車の扉が閉まる音が聞こえた。
御者の声が小さく聞こえ、馬車は石畳の路を走り始めた。
その音が遠くなって聞こえなくなってからキースは4階へと戻ってきた。
「……ったく! 聞き耳を立てているとは! けしからんぞ!」
やや不機嫌そうだが、それでもどこかニヤついた顔だった。
「旦那様、こちらに下宿されていたのは……」
メイドでも一番若い女、マリアンヌが最初にそう言った。
それに続きやや年上のヴェルダが言う。
「城下の噂は本当だったんですね!」
皆が何を聞きたがっているのか、キースも遂に根負けしたようだ。
「……そうだ。ここに居たのはララウリ殿下だ。君らが言う様に噂が広まってしまったので引き払ってしまわれた。実に残念だよ」
先ほどまでのニヤついた表情は消え去り、やや不機嫌な顔になっている。
それは、玉の輿を狙った女たちに緊張を思い起こさせた。
「新しい入居者は無いから5階は掃除はしなくて良い!」
不機嫌さも極まった状態でキースが言った。
殿下の滞在費用でそれなりに潤っていた筈だが、それがなくなったのだろう。
ことさら不機嫌な主人にモノを言えるほど度胸があるわけでもない。
ただ、その翌日には事態が大きく動くのだった。
――――――――帝國歴 387年 9月 2日 午前
ミタラス島内 キース医療院
「惜しい事したよねぇ~」
5階へと続く階段を掃除しながら、マリアはそうぼやいていた。
最上階の住人だった太陽王の王子は、入学式を終えて城へと引き上げて行った。
総合大学で入学式を終えた帰り道だったのだろう。
医療院の前に上等な馬車が到着したとき、キースはメイドを4階へと集めた。
そして、自分が良いと言うまで、絶対に部屋から出るな……と、念を押した。
最初は訝しがったメイド達だが、後になって気が付いたのだ。
それが、新しい人生への転機だった事に。
「千載一遇の好機だったのにねぇ」
マリアンヌのボヤキにヴェルダが相槌を打った。
そして、そんな2人の言葉にやや年嵩なミシェルが言った。
「殿下はともかく、太陽王のお手つきになったりしたらねぇ」
若い女だけで無く、年嵩な女にだって野望はある。
その内情を知らぬ者なら、華やかな王宮に上がれるだけで嬉しいものだ。
遠行して久しいサクリクル家の当主であったカウリ卿などは相当な好色だった。
サウリクル家に奉公に来ていたメイドを何人も手付きにしたそうだ。
文字通り着の身着のままで奉公に上がる女はかなりの数にのぼるもの。
どちらかと言えば貧しい出自でも、器量がよければ需要はある。
目端が利いて物覚えが良く、あとは口が堅くて床上手。
そんな女をメイドの扱いで家に入れ、事実上の妾に囲う男は多い。
何せ愛の無い貴族夫婦は多い。
政略結婚だったり双方の家の事情だったりして、顔も見たくない仲だって居る。
そんな身空の貴族当主や主人に跨がり、腰を振ってやって未来を手に入れる。
身勝手と言われても、貧しい階層の女にしてみれば一発逆転のチャンスだ。
綺麗事で腹が膨れるなら幾らでも言ってやるさと、誰だって笑うだろう。
理想だの理念だの、そんなモノは餓死する心配のない奴の戯言だ。
喰うや喰わずのガリガリ体型で拾われ、三食仕事付きで飼われるだけマシ。
そんな社会において、最高の存在がすぐそこに居たと言う事実に震えるのだ。
好機を逃した口惜しさと、教えてくれなかった悔しさとがあるだけだ。
「ま、貧乏長屋出身のバカ娘にゃ、高嶺の花ってとこだろうねぇ」
マリアは自嘲気味にそんな事を言った。
現実問題として、貴族家に奉公に上がって妾になっても、茨の道なのだ。
ならば大人しく飼われている身分の方がナンボかマシというものだろう。
だが。
「でも、悔しいモンは悔しいよね」
ヴェルダの言葉が全てだった。
如何ともしがたい不快感と無念さが残っていた。
「で、今度の住人ってのはいつ来るんだい?」
ミシェルがポツリと漏らした一言は、マリアとヴェルダの顔色を変えた。
ふたりは顔を見合わせてからハモるように言った。
「え?」
「聞いてないよ?」
不思議そうな声音で確認するようにふたりは言う。
だが、ふたりの尻尾はパタパタと揺れているのだった。
「イヌの尻尾は誤魔化せないってね」
呆れるように笑ったミシェルは、雑巾を絞ってから丁寧に窓を拭いた。
透明度を上げた窓からふと見下ろせば、医療院の玄関前にキースの姿があった。
そして、その向かいにはまだ若い女が1人、カバンを持って立っていた。
「あれ、新しいメイドかな?」
ミシェルが指差した先をマリアとヴェルダがのぞき見る。
年の頃ならまだ10代と思しき、文字通りの小娘だ。
「新人ならしっかり仕込んでやらないとな」
「まずはパンツの染み抜きからだ」
マリアもヴェルダも底意地の悪い顔になって言った。
だが、ややあって階段を上ってくる音が聞こえてきた。
――――まぁ何も心配する事はないよ
――――今までどおりだ……
……え?
聞こえてきたキースの言葉に、ミシェル以下3人が顔色を変えた。
――――陛下からは直々にね
――――君の便宜を図ってくれと言われている
――――もちろん殿下からもだ
……なんだ?
マリアンヌの顔に緊張の色が浮かんだ。
ミシェルは笑いを噛み殺した顔でいた。
「……なんだお前たち。また仕事をサボりおって」
一層不機嫌な様子でそう言ったキース。
その後ろにいた女がクスクスと笑った。
「まぁ、ちょうど良い。紹介しておくが……知らない筈だよな?」
キースが指差した先の女は、被っていた大きな縁の帽子を取って頭を下げた。
漆黒の髪が艶やかに光り、低階層の人間でない事を物語った。
「昨日までここに滞在されていた殿下の付き人をしていたララ君だ」
キースに紹介され『ララと申します。どうぞ良しなに』と丁寧に挨拶した女。
その姿にミシェルがやや浮ついた声で『どうも初めまして』と返礼した。
「殿下は大学の寮に入られたが、ララ君はここに残る事になった。大学の女学生向け寮に空きがないのだ。ついでに言えば……」
振り返ったキースがララに目配せしたが、ララは唇に指を当てていた。
口外してはいけないとジェスチャーするその姿は、どこか神秘的だ。
ただ、イヌの鼻は誤魔化せない。
ララからは明らかに男の臭いがするのだ。
そしてそれは、5階の部屋に蟠っていた臭いでもある。
――ララウリ殿下の臭いだ!
マリアンヌはヴェルダと顔を見合わせて驚いていた。
ただ、そんなふたりを他所に、キースは一方的に説明を続けた。
「……まぁ、ララ君の仕事に付いてはおいといて、この5階を当面使ってもらう事になった。実は太陽王陛下より下賜金を頂いていて、便宜を図ってくれとの事だ」
キースの言ったその言葉は、メイドの女たちに緊張と希望とを与えた。
つまり、このララなる小娘に便宜を図っておいて損は無いと言う事だ。
「そんな訳で、ララ君が引き続きここに残る事になった。君らは今までと同じように、許可無く5階へ立ち入るんじゃない。良いね?」
迫力を増した表情でそう言ったキース。
3人のメイドは頷くしかなかった。
「じゃぁ、後は好きにしてくれ。今までと同じように自由に使って良い。1階直通の階段も鍵を預けておくから――」
キースがララに手渡したのは、真ちゅう製の小さな鍵だった。
「――何かあったら遠慮なく相談して欲しい。あと、殿下や陛下がお忍びで遊びに来る時はこっそり知らせてくれたまえ。じゃぁ」
キースは用件だけ言うとララを部屋に通した。
そして返す刀でメイドたちを追い払った。
「ほら! 早く仕事に戻れ!」
「あ、良いです良いです。それより手伝ってもらえませんか」
「え?」
驚いたキースがララを見る。
ララは柔らかな笑顔で言った。
「いつでも遊びに来てください。ただ、油断してる時もあるので、出来れば先にノックしてもらえると嬉しいです。これからしばらくお世話になります」
もう一度深々と頭を下げて礼を尽くしたララ。
マリアもヴェルダも複雑な表情だった。
……でかい
そう。ララの胸に妬心がうずく。太陽王の王子から覚え目出度き側用人。
そして、その身体から殿下の臭いがするのなら、もう御手つきなのだろう。
全く異なる世界に住んでいる妖精の様な存在。
そんな風に見えるのだ。
「……まっ まぁ…… ララ君がそう言うなら……」
何とも歯切れの悪い言葉をはいたキース。
ララは笑顔になって部屋に入り、中を片付け始めた。
昨夜ここを出て行った王子の残留物を片付け、城へと送り返す支度を整える。
それが終れば自分の部屋に仕上げる模様替えだ。
髪を後ろでアップにしたララは、テキパキと作業を進め部屋を奇麗にした。
その手際のよさにメイド達が驚く。王子のお世話係は伊達では無いのだ。
「御手間をおかけしました。ありがとうございます」
丁寧に礼を述べたララは、フゥと一息付いて椅子へと腰を下ろした。
背筋を伸ばし、常に辺りへ気を配る隙の無さを見せ付けていた。
「……では、後ほど御茶でも用意いたします」
「よろしくお願いします」
いつの間にかメイド達を自在に扱っていたララ。
それは、王子では無く1人の女学生として入学する事になったガルムだった。
子爵キース・スペンサーを後見人とするララは、学生生活の第一歩を踏み出した。