ララウリ殿下の影武者ララ(自称)
「……暑い」
ボソリとこぼしたガルムは、水差しの水を飲み干して窓の外を見た。
井戸水は通年通して13℃前後だが、室温に当てられぬるくなっている。
初夏のガルディブルクは連日汗ばむような陽気だった。
そもそもこの街はル・ガルで最南部に存在するのだ。
それ故か、暑さもそれなりに厳しいものだった。
「あちぃ……」
立ち上がったガルムは、長いワンピースの裾を持ってバサバサと扇いだ。
衣服の中に涼しい風が通り、僅かながらも涼を覚えた。
「やっぱこれ、便利だわ」
ノースリーブのサマードレスは風通しが良く、熱が籠もりにくいスタイルだ。
過日、あの看護婦用のワンピースを着たガルムは、その快適さに心奪われた。
発育のたいへん宜しい胸を潰す胸甲が暑いし重いしで困っていたのだ。
それ故か、一着失敬したガルムは自室ではそれで過ごしていた。
新たな洗濯物が出た時に、自ら洗濯してそこへ混ぜ込んで返却した。
もちろん、新しい一着を失敬するのも忘れていなかった。
看護婦達は干す者と取り込む者が違うのは観察で解っていた。
それ故に、そんな事をする余裕もあったのだ。
ただ、法律事務所の中で偶然にそのシーンをキースが見ていた。
そして、不思議に思ってガルムの自室を尋ねた時、彼はそれを着ていたのだ。
――――やっぱり女物の方が楽だよね?
単刀直入なキースの言葉に、ガルムはコクリと頷く。
服がサイズ的に小さいのだろうか、胸甲に潰されていない胸がパンパンだ。
――――そうですね……
――――ちょっと手を考えましょう
キースは何も言わず部屋を立ち去った。
見られた!と言う絶望感と敗北感で、ガルムは悶々としていた。
ただ、数日後に改めてガルムの部屋を尋ねたキースは、小さな袋を持っていた。
その中に入っていたのは、ガルムの髪と同じ色をしたロングのウィッグだ。
――――殿下、こちらへ
鏡の前に椅子を置き、キースはそこへガルムを座らせた。
そして、その後に立ち、ガルムの頭にウィッグを添え丈を確かめた。
――――うん
――――ちょうど良いな
ウィッグの髪は良い匂いがして、母サンドラを思い出す。
地毛とウィッグをブラシで丁寧にならしていくと、長い髪の女がそこに居た。
――――さて、次はコッチだ
キースの用意した別の袋には、女物の衣装が一式入っていた。
それは、王立大学の医学生達が着ている制服だった。
看護婦学科に進んだ貴顕の娘達が着るそれは、上等な素材の代物だった。
――――君の足は女たちが嫉妬するような綺麗さだ
――――さぁ、靴を履いて行こうか
思わず『え?どこへ?』と聞き返したガルム。
キースは事も無げに言った。
――――何処へって……
――――買い物だよ
――――夏向けの衣装を一式買っておこう
それが意味する所はガルムにだってよくわかった。
涼しくて快適で、何より楽な衣装。
そしてそれは、女の姿になっていた方が楽だというもの。
「…………………………」
一瞬返答に困ったガルムだが、キースは畳み掛けるように言った。
――――夏中そうやってこっそりやっているのかい?
――――それなら素直に女物を着ていた方が良いと思うよ
――――なに、洗濯なら問題無い
何がどう問題無いのかと訝しがったが、そこは考えないようにした。
なにより、涼しくて快適という部分で抗しがたい魅力があったのだ。
小さく首肯しながら『行きます』と言ったガルム。
キースは扉を開け手を差し出した。
――――オドオドしていると返って怪しまれる
――――堂々と過ごせば良いよ
――――だれも君には気付かないから
本当だろうか?と首を傾げたガルム。
だが、街に出てみてそれがウソでは無い事を知った。
街行く人々は、誰もガルムには気が付かなかった。
そんな無関心ッぷりが本当に快適だとガルムは思った。
なにより、建物の外がこんなに気持ち良いのかと再確認したのだった。
――――――――帝國歴385年 7月 22日
王都ガルディブルク ミタラス島内
ビルタ通り221上る ガルム下宿
「ふぅ……」
夏の課題はやってもやっても終わらない量だった。
ガルムはまだ涼しいウチに、頭を使う計算の課題を終わらせる作戦を立てた。
午後の暑い時間は課題を行う事無く、本を読むことに重点を置いた。
そして夕刻。
街に涼しい風が吹く頃、書籍考察と感想の課題をこなした。
課題として出された本は30冊を軽く越え、その全てが歴史書だった。
文章読解力を鍛えると同時にル・ガルの歴史を覚える事。
それがこの夏の課題のテーマらしい。
「それにしても暑い」
ボソリと独り言を漏らしながら、ガルムは壁際の棚を見た。
ハンガーに掛かっているのは、あの時に変装したカツラと衣装一式だ。
あの日、このカツラは何処から持ってきたのだろう?とガルムは思った。
そんな疑問を持ちつつ、ガルムはキースについて行った。
街から西へと伸びる大通りのウェスカー大橋を渡り、商店街を歩いた。
その姿はキース医院の院長と学生だろう。
――そうか……
ガルムは何となく理解した。隠そうとするからバレるのだ、
最初から堂々としていれば、案外気がつかないものだ。
そしてもうひとつ。
自分は紛れもなく王子の身分だが、顔を知る者はそんなに居ない。
よしんば居たとしても、案外気がつかないし、解らない。
ならば堂々としている方が良い。
女の姿になっていると、本当に解らないのだった。
「いっそこのまま女で過ごすか……」
ボソリと呟いて、ガルムは考え込んだ。
それは、酷く魅力的なプランにも思えたのだ。
正直に言えば、女の側に大きく振れているのだと自分自身が解っている。
この時期は、股ぐらにぶら下がった男性器が大きくいきり立つ事も無い。
生理が始まりだす頃には何をしても反応しなくなるのだ。
「……………………だよね」
裾をめくり、自分自身の身体を見ながら、ガルムはそう呟いた。
誰に相槌を求めるでもなく、ただただ、自分自身の身体と対話していた。
生理が終わって『女の時期』が終わると、途端にコイツが元気になる。
ガルムの身体が『男の時期』に突入すると、毎朝のように立派な姿になる。
そんなサイクルだった筈なのだが、ガルムは気付いていた。
身体の内側の『男の時期』が確実に短くなっている事に。
それよりも女側へ大きく振れる時期の方が長いことに。
そして、身体が女に振れている時は、心までもが影響を受けるらしい。
現に今時点でガルムの心はウキウキと沸き立っていた。
カレンダーを見れば、もうすぐ生理が始まると解っている。
心が女側にあるガルムは、キースの仕事が終わるのが待ち遠しいのだ。
今日は週に一回の買い物に出る日であり、清々と街を歩ける日だ。
「仕度しなきゃ……」
鏡の前に七つ道具を並べ、ガルムは変装を開始する。
短く刈り揃えられている髪にウィッグを付け、良く馴染ませる。
その髪を今度はアップにして、うなじを見せるようにまとめる。
ただ、この髪で屋内向けのノースリーブは流石に恥ずかしい。
袖付きのブラウスに腕を通し、コルセット入りなベスト付きスカートを履いた。
どういう訳かスタイルは母サンドラ譲りで良いのだから、やたらと似合うのだ。
そんな状態で眉頭を整えれば、誰が見たって若い女だった。
街中の何処かの店で働いている様な、ごく普通の存在。
「よしよし……」
仕度を終えて本を読み始めたガルムは、どうにも落ち着かなかった。
ソワソワとしながら、不意に笑みなど漏らしていた。
頭の中には行きたい店がグルグルと渦巻いている。
なにより、街を歩けることが楽しみで仕方が無かった。
そんなタイミングで部屋の戸がノックされ、キースがやって来た。
弁護士や医師として恥ずかしくない、紳士然とした姿だった。
「お待たせしました殿下……って、用意万端ですね」
「……そうですね」
苦笑しつつ部屋に入ってきたキースを出迎えたガルム。
その表情にキースは何かを見て取った。
「……なにやら、心変わりでもされましたかな?」
「解りますか?」
「顔付きがいつもと違いますよ」
そんなキースの言葉にウフフと笑みを返したガルム。
ちょっとした仕草も振る舞いも、完全に女になっていた。
「まぁいい。行きましょうか」
ガルムを誘いキースは外へ出ようとした。
この5階にのみ存在する、直通の階段へだ。
だが、ガルムは遠慮する事無く中央階段のほうへと向かった。
こちらを通れば病院の看護婦やスタッフたちに見つかってしまう。
キースは一瞬だけ『え?』と言う顔だったが、ガルムは立ち止まらなかった。
「あれ? お出掛けですか先生……って、あれ?」
階段を下りたガルムとキースを見つけたのは、医院の医師だった。
それは始めてみる顔で、ガルムも面識が無かった。
「あの、こちらの方は?」
「あ、申し遅れました。ララウリ殿下の付き人兼代理役をしているララです」
典雅な振る舞いで淑女の挨拶を送ったガルム。
下げた頭を上げると同時、キースをジッと見ていた。
その眼差しは『合わせろ』と言う脅迫めいたものだ。
「……諸君らも知っての通り、この5階にはララウリ殿下が下宿されてるが――」
何時ぞやの洗濯物の一件で、もはや隠しようもない状態だった。
唯一の救いは看護婦たちに緘口令を敷き、情報を封鎖出来た事だ。
ただ、それにしたって限度があるのは言うまでも無い。
「――ララ君は殿下と身体格好が似ているのでね、代理役をやっていたんだ」
「ですが、殿下は城へとお帰りになられまして、今は私のみとなっております」
なんとも微妙な表情でガルムを見たキースは、内心で舌を巻いた。
何かの覚悟を決めたらしいガルムだが、その事実上はこう来たかと驚いた。
――なかなか……
――やるじゃないか……
王の一門にあって鬼子のような存在かと思っていたキース。
だが、ガルムはやはり王の一門で一族だと舌を巻いた。
機転と度胸とが高い次元で両立しているのだ。
「まぁ、そんな訳でララ君を連れて買い物に行って来る。見ての通り、5階の掃除は一切必要ない。つまりは……彼女の部屋には一切立ち入るなと言う事だ」
病院の正面玄関を出たガルムは、キースと並んで街を歩いた。
街行く人々の目が一瞬はガルムを見るが、なんの感慨も無く視線がそれていく。
誰も自分に気付いていない。誰も自分を気に止めていない。
そんな環境にガルム自身がこの上なく満足していた。
「……これで良いのかい?」
街の中、小声でガルムに問いかけたキース。
ガルムはコケティッシュな表情で視線を返し、僅かに首肯した。
そして、楽しそうにクルリとターンしつつ、小声で言った。
「どうやらこの方が上手く行きそうです。この路線で行きます」
「そうか。わかった。王にもその旨、申し上げる」
「よろしくお願いします」
そこから先、ガルムは完全に女になりきって買い物をし始めた。
最近の王都で流行っている、衣装を幾つも買い揃えた。
それは、背中を大きく開けたサマードレスやワンピースなどだ。
靴では無くミュールやサンダル状の履き物を揃え、最後には帽子屋へと寄った。
「……これでしばらく困りません」
「だろうね。でも、なかなか良い趣味をしているよ」
「そうですか?」
大きな花柄のワンピースは、染め物職人の渾身の一着だ。
丁寧な仕事が花柄のキリッとした仕上がりに見て取れる。
いつ城に行こうかと思案に暮れたガルムだが、面倒は後回しにしようと思った。
そして今は、ただただ純粋に買い物を楽しむべきだと思っていた。