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女性装


「うーん……」


 静まり返った部屋の中、ガルムは必死になって算術の宿題と格闘していた。

 幼年学校で算術の教鞭を取る講師は、元国軍主計課だそうだ。


 兵糧や消耗品の輸送と管理だけでなく、供給や補給を一元的に管理している。

 そして、行軍する中でそれらをどう管理補給するかに頭を捻ったらしい。


 ――――諸君

 ――――算術とは世界の理だよ

 ――――この大陸の森羅万象全てを数字で示す事ができる


 講師が示したのは、かつてル・ガル西方で起きた紛争における輸送計画だった。

 その紛争は、先先帝シュサが戦死した紛争の後始末として起きたのだと言う。

 戦線がどんどん遠ざかり、輸送計画が大変厳しい戦闘の連続だった。


 ――父上が動員された戦いだ……


 ガルムは目を輝かせながら話を聞いていた。

 それは、父カリオンの青春時代そのものだった。


 糧秣や消耗品を運ぶ荷駄隊は、自らが背負った食料を消費しながら移動する。

 距離が伸びれば糧秣は食いつぶされ、現地到着の量が減る。

 その相関関係を計算する算術式を黒板に書き上げ、講師は言った。


 ――――これと同じ事が世界中で起きている

 ――――ワインを運べば樽の中から少しずつ消えてしまう

 ――――麦を運べば少しずつこぼれる

 ――――それら全てに算術が必要になる


 講師が示した算術向上の最短手は、とにかく練習問題を行なう事だった。

 ただ、休講となる安息日に出されるその宿題の量は尋常ではない。


 簡単な計算式を解く事から始めるのだが、3桁と3桁の足し算だけでも1万問。

 まるで筋力トレーニングのような基礎計算練習を行なった後、積算術を覚える。

 だが、その積算術5千問を終えたとき、次に提示されるのは乗算術だ。


 割り算の練習問題が同じく5千問ほど用意されている。

 端数が生まれ計算に注意を要する割り算は、容赦なくガルムを消耗させた。


「ふぅ……」


 孤独な勉強タイムだが、ガルムは常にこれを行なってきた。

 誰かに見られても身バレしないよう、気を使いながら城で勉強していた。

 それを思えば、この下宿は最高の環境だった。


 類稀な集中力を見せたガルムは、午前中だけで算術の宿題を終えていた。

 ここから先は自分の勉強だ。文章題として出される問題集を広げ挑戦した。


 文章問題は文章の読解力が要求されるのだ。

 これはもう数をこなして覚えるしかないこと。

 人口に膾炙するとおり、脳の筋力トレーニングそのものだ。


 ――楽だなぁ……


 自分の胸を締め付ける圧が無いだけで、ガルムはとても楽だった。

 まだ若いとはいえ、定常的に圧迫されれば、身体は辛いもの。

 自室に居る限り、ガルムは変装の必要がない。


 下宿にはいって一月が経過している。

 その間、ガルムは一日の半分以上を胸甲無しで過ごしていた。

 机に向かう時も基礎トレーニングの時も、ガルムはとにかく楽だった。


 それこそ、この解放感を味わうだけでも、下宿の価値があると思うのだ。


 だが、胸甲を外すと重力に引かれ乳房が垂れ下がり肩が凝るのには閉口した。

 城に居る時、ガルムは都度都度、母にそれを愚痴っていた。

 女って大変だとこぼす息子に、母サンドラはブラジャーを用意していた。


 ただ、それを身に付ける事をガルムはとにかく嫌がった。

 女であることを認めてしまうようだし、誰かに見られるのが苦痛だった。


 例えそれが親であってもだ。


 しかし、ここに居る限りその心配は無い。

 柔らかな肌触りで優しい風合いなシルクのブラジャーは快適だった。

 常に押しつぶされ気味だった胸の先端が傷む事も無く、肩こりも無い。


 意地を張る必要も無かったんじゃないかとすら思った。

 1人きりの部屋の中、現状を受け入れる余裕が出てきていた。


「さて……」


 算術の課題を終えたなら次は語学だ。

 例題となる書籍を読み、それに付いての考察を重ね所見を纏める課題だ。


 部屋の水差しからコップへ一杯水を汲み、それを飲み干してコップを洗う。

 城に居た時ならば常時どこかに女官が居て、言えばやってくれた事だ。

 それこそ、水ではなく果実を絞った甘いものが飲めた。


 それはそれで便利で快適だった。

 だけど、常に人の目を気にしなければいけない環境だ。

 油断して正体がばれないよう、常に気を張っていなければいけない。


「ふふふ……」


 不意に笑みなどこぼし、ガルムはウーンと背筋を伸ばした。

 ここにはそんな注意や警戒など無いのだ。

 誰にも見せられない、本物のガルムはここだけに居た。











 ――――――――帝國歴385年 5月 18日

           王都ガルディブルク ミタラス島内

           ビルタ通り221上る ガルム下宿











 ――ん?


 ガルムはふと、窓の外の喧騒に気がついた。

 若い女達の声で、何事かを相談していた。


 ――何やってんだ?


 窓辺に寄ってこっそりと下を覗けば、そこには病院に勤める女達がいた。

 幾人もの女達が集り、困ったような表情で上を見ていた。

 その視線の先は、ガルムが使っているバルコニー付きの部屋だ。


 ――寝室のほうだ……


 壁の影で耳を済ませば、どうしようか?と相談する声だった。

 割りと風が強くて、声がよく聞き取れない。

 だが、少なくとも困っているのはわかる。


 ――――どうする?

 ――――どうやって取りに行く?

 ――――院長先生にまた叱られるよ


 レースのカーテン越しに立ち、改めて下を見たガルム。

 カーテン越しならば姿は見えないはずだと思ったのだ。


 そんなガルムの見たものは、夥しい数で干される洗濯物だった。

 病院で使っているらしいその衣服は、看護婦が着る白衣だった。


 ガルムの調べた限り、この病院の看護婦は50人を越える数だ。

 彼女たちは、王立大学の医療学部にある看護婦養成学科の学生だ。

 大学派遣され、この病院で実習を行なっているのだった。


 彼女達は毎日4交代で、入院患者の面倒を見ている。

 時には医師の手伝いで治療行為も行なう。


 何より、明るく朗らかな彼女たちは病人の癒しだった。


 ――何処へ飛んだ?


 何となく嫌な予感を覚え、ガルムはバルコニー付の部屋へと向かった。

 Tシャツ一枚な上半身なので、嫌でも女が強調されていた。


 ――やっぱり……


 そのバルコニーに飛び込んでいたのは、干し紐の付いた洗濯物だ。

 肩口の飾り帯に紐を通し、裾の穴にも紐が通っている。

 洗濯物をピンと干す知恵なのだが、強い風を受ければ船の帆と同じだ。


 ――これじゃぁ……


 しばし対応を思案したガルムだが、ここへ立ち入られるのは嫌だった。

 キースを呼べば事は全て済むのだろうが、この時間は午後の診察のはずだ。


 ならば届けるしかない。

 その為には窮屈な思いをしなければいけない。


 だけとそれをしなければ、女の部分がバレてしまう。


 ――面倒だな……


 ぶつぶつと文句を言いつつ、ガルムは支度を整えた。

 ブラジャーを取ってサラシを巻き、その上から胸甲をグッと押し付ける。

 一時的な息苦しさにウンザリとするが、細身の体に黒い衣服をまとった。


 髪を整え、男の姿に見えるよう身支度を整える。


 ――やだなぁ……


 それは、学校とは違うプレッシャーだった。

 基本的に人前に出たくないガルムの本音だった。


「さて……」


 ガルムは意を決しバルコニーへと出た。

 下のほうから驚きの声が上がった。


「やぁ。困っているようだね」


 普段より一オクターブ低い声をだし、洗濯物を取り込んだ。

 その姿を見ていた看護婦の卵達は、言葉を忘れてポカンとガルムを見ていた。


「階段のところへ置いておくから、後で回収して。良いね?」


 ――――あ…… あっ…… えっと……


 ……身バレした


 ガルムは瞬間的にそれを悟った。

 恐らくは街中でガルムを見たことのある者が居たのだろう。


 ――ッチ……


 腹立たしげに舌打ちし、紐に通された洗濯物を集める。

 その全てが女性モノのワンピース状になった看護婦向けの白衣だった。

 まるで女中の着る衣装のような、動きやすそうな服だった。


 ウェスト部分がグッとくびれていて、そこにはエプロンを止めるホックがある。

 取り込んだ洗濯物の中には大きなエプロンがあり、その隣はヘッドカバーだ。


「…………………………」


 その時、ガルムの脳裏に何かが浮かんだ。

 本来ならそれは、必死で否定すべきものだった。

 それこそ、城にいる頃のガルムなら、触るのも嫌だったものだ。


「違う! 違う違う!」


 頭の中からそのイメージをたたき出し、ガルムは大雑把に洗濯物をたたんだ。

 そして、それを乱雑に抱えると、そのまま部屋を跳び出した。


 ――違うよ……


 頭を振りながら4階へと降りる階段のところへと飛び出たガルム。

 階段の下では看護学校の女学生たちが口元を抑えて並んで立っていた。


「うそ……」

「夢みたい……」

「信じられない……」


 彼女たちが口々にそう呟くのを、ガルムはこそばゆい思いで聞いていた。


「何がどう夢みたいなのかは聞かない事にしておくけど――」


 はい……と声を掛けて洗濯物の束を渡したガルム。

 それを受け取った女学生は、恋する乙女の眼差しだった。


「――色々あってここに下宿している。どうかこの件は内緒にして欲しい」


 念を押すように『いいね?』と押し込んで、ガルムは階段を上った。

 その姿が見えなくなってから、下のほうで『キャー!』と黄色い声が上がった。


 ――やばいよな……


 あの女学生たちは絶対口が軽いはずだ。

 すぐに噂は広まってしまうだろう。


 軽はずみな行為だったと思っても、もう手遅れだ。

 知らぬ存ぜぬで押し通して、キースが来るのを待つべきだった。


 だが、それを出来ない理由が部屋に残っていた。

 ガルムが起こした出来心。歳相応な興味の発露。

 なにより、城では絶対に出来ない事……


「やっちゃった……」


 寝室の寝台の上には、看護婦向けの衣装が一式残っていた。

 先ほどここで乱雑に畳んだとき、ガルムは好奇心を抑え切れなかった。


 ――着てみたい……


 その好奇心を抑えられなかったのだ。


 ――慌てちゃダメだな……


 ガルムの耳に父カリオンの言葉がリフレインする。

 それは、父が自らに馬術の指導を行なっている時だった。


 ――――良いかガルム

 ――――慌てて良い事など何も無い

 ――――常に落ち着いて冷静に対処するんだ


 改めてそれを思ったガルムは、バルコニーの扉を閉めカーテンを引いた。

 これで外から覗き込まれる事は絶対にない。

 それに続き、今度は階段へと続く扉の鍵を閉めた。


 ――これで大丈夫……


 室内で着ているモノを脱ぎ、胸甲を外し、サラシを解いた。

 途端にズシリと重みを感じるが、それはブラジャーでカバーした。


 その状態でワンピースをかぶり、袖を通す。

 首の後ろにある紐をグッと引けば、上半身がスッと締まった。


 ――あ……


 ウエストから首元に掛けてがすっきりと締まり、何とも動きやすい。

 真っ白のワンピースは思ったよりも縫製が上等で、動きやすいデザインだった。


 こうなると興味は暴走し始めるのが恒だろう。


 大き目のエプロンをつけ、ヘッドカバーを頭に載せた。

 ピンとたった耳から髪の大部分を覆うそのカバーは、顎の下で紐をとめる。


「…………………………」


 ドキドキしながらガルムは部屋の鏡の前に立った。

 ゴクリと生唾を飲み込んで、その姿に見とれてしまった。


 それは、どこにでも居そうな、まだ若い看護婦の姿そのものだった。

 ちょっと胸が大きめな、入院患者が喜びそうな、普通の看護婦だった。


「女だ……」


 ワンピースのスカート部分から見える生脚を、ガルムは凝視していた。

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