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初潮

 その日、ガルムは自室の中でパニック状態に陥っていた。

 前もって聞いていたはずなのだが、改めてそれを突き付けられ狼狽していた。


「……ウソだよ」


 震える声でそう漏らしたガルムは、ちり紙を束にして握りしめていた。

 テーブルの上にある鈴を鳴らせばすぐに人が来る。

 だが、それをするべきかどうか、ガルムは本気で悩んでいた。


「どうしよう……どうしよう……」


 ある意味で覚悟はしていた事だ。

 この数ヶ月、自分の身体が目に見えて変化しだしたのだ。


 それを受け入れるしか無いのは解っている。

 どうやっても拒否できない事なのだと理解している。

 成長に伴う変化は、必ず残酷な現実となって突き付けられるのだ。


「……サミールさん。来てくれないかな」


 涙目になりつつ、ガルムはそんな事を呟いた。

 もはやどうしようも無いのだから、受け入れるしか無い。


 だが……

 だけど……

 でも……


「僕は男だよ……」


 そう呟いてみたところで、手の中にあるちり紙はそれを明確に否定していた。

 真っ赤に染まったその紙が、ル・ガルでは貴重なモノである事など承知の上だ。

 ちり紙とは、そこらの平民出は望むべくも無い道具なのだ。


「お手洗い……」


 ハッと気が付いたガルムはそっと部屋を出た。

 辺りに人の目が無いかを確かめ、そそくさとトイレへ向かった。


 幸いにして王の家族向けなトイレは空いていた。

 その中へと入り、便器へと腰を下ろす。

 少しばかり動いたからだろうか、腹腔部に違和感が残った。


「なんだよ……」


 涙目に成りながらガルムは祈った。

 こんな事は止めて下さいと神に祈った。

 そんなモノになんの効果も無い事など解っていてなお……だ。


 溜め水に落ちる水音が現実を突き付ける。

 ポタポタと垂れるのは、ガルムの真っ赤な涙だ。


「どうしよう……」


 殺すに殺せぬ泣き声を強引に押し殺した嗚咽がトイレの中に響いた。

 ただ、イヌの耳は鼻と同じくらい役に立つ。

 その声を聞いたらしき者がトイレのドアを開けた。


 ――――どなたですか?


 その声はガルムにとって願っていたものだった。


「……サミールさん」


 震える声が個室から響いた。

 その僅かな所作で、サミールはガルムに何が起きたのかを理解した。


 ――――大丈夫?

 ――――落ち着いて


「でも……」


 ――――大丈夫だから落ち着いて


 トイレのドアがコンコンとノックされた。

 一瞬だけ逡巡したガルムは、意を決しドアを開けた。


 ドアの向こうには漆黒のワンピースに純白をエプロンをしたサミールが居た。

 常に幾人ものスタッフを引き連れているはずなのだが、今は1人だ。


「大丈夫。誰も居ないよ」

「ホントですか?』

「えぇ。全部に仕事を命じここから離したから」


 情けない泣き顔だと思いつつもガルムにはもう、どうしようも無かった。

 ただただ、この圧倒的な現実受け入れるしか無かった。


「どうしよう……」

「それが違うのよ」

「違う?」

「そう。違うの」


 便器から立てないガルムの前で、サミールは膝を折って座った。

 懐から何か小さなモノを取りだし、それをガルムに手渡してた。


「こういう時はね、おめでとうって言うの。そしてね――」


 少しでも不安を和らげるように気を使ったサミールは花の様な笑顔だった。


「――これはみんなで祝福する事なのよ? 大人の仲間入りだって」











 ――――――――帝國歴383年5月18日

           ガルティブルク城 太陽王個人エリア











 それは凡そ一年前の事だった。


 ――――なんか変なんだ……


 ガルムは自分の身体の変化に気付いた。

 以前にも増して肌が弱くなり始め、それと同時に乳首へ僅かな違和感を覚えた。


「……そうか。もうそんな歳か」


 一緒に風呂に入っていた父カリオンは、ガルムの頭をガシッと掴んだ。


「そろそろ準備しないとダメだな」

「準備って?」

「まぁ、色々あるが――」


 カリオンは手ぬぐいでガルムの背中を擦りながら言った。


「――今までは身体が大きくなろうと頑張ってきた。産まれたばかりだと小さい身体が大きくなろうって育ってきた。だが、これからは大きくなりながら大人になろうとする」


 不思議そうな表情で『大人に?』とガルムは聞き返した。


「そうだ。身体が大人になるんだ。そして、身体が先に大人になって、今度は心を大人にしなきゃいけない。父が良く言っていた事だが、水は器の形に合わせる。人間だってそうだ。心を身体に合わせなきゃいけない。身体ばかり大人になって心が子供のままじゃダメなんだ」


 それは説教のようでいて、だが、ガルムの不安を溶かす暖かな湯だった。


「大人になると……どうなるの?」

「……そうだな」


 この時、明らかにカリオンは口籠もってどう説明しようかと考えていた。

 それはガルムにとって不安を煽る様な姿にも見えた。


「まぁ、いま言っても理解しがたいだろうから、段々と知れば良い」


 それは、決してはぐらかしたわけでは無い。

 ガルムにもそれは解った。


 ただ、だからといって不安は解消される訳では無い。

 何となくボンヤリと存在する自分への不安は、日々着実に増していった。


 朝起きて鏡の前に立った時。

 薄手の衣服を着て颯爽と歩いた時。

 風呂に入ろうと着ているもの全てを脱いだ時。


 その全てでガルムは自分の身体の変化を突き付けられた。

 明確に胸が、乳房が膨らみ始めたのだ。


 ――――女になってる


 二次性徴の始まりは明確だった。

 ガルムにも解っていた事だが、それでも狼狽えるなと言うのは無理な事だった。

 不安を吐露してから半年が経過した頃には、もはや誤魔化しきれなかった。


 母サンドラもどちらかと言えば豊かな胸を持つ存在だ。

 その遺伝を受け継いたのだろうか、ガルムもそれなりに大きな胸だった。


 ――――こりゃいくら何でもまずいな


 父カリオンが用意したのは、胸甲騎兵が使う胸当てだ。

 正確に言えば胸当ての下に挟む厚手の板だった。


 矢の直撃を受けても貫通しない強靱な素材。

 騎兵の厚い胸を覆う板状のもの。

 これで胸を押し潰し、ガルムはそれを隠していた。


 ――――しかし……

 ――――いつまでも隠せるモノではありません


 ウォークおじさんは頭を抱えるようにしている。

 いつもいつも忙しくしているのに、自分の事で手を煩わせるのが申し訳無い。

 ガルムもそんな事を考えていた。


 だが、今になって思えば、そんな事はどうでも良い事だった。

 現時点で見れば、まだ明るい笑い話だった。


「まずは垂れている部分を綺麗にしましょう」


 この日、ガルムは初潮を迎えた。

 胸の発育から約1年。思えばこの数ヶ月を下着を汚していた。

 自らの意でコントロール出来ないモノが身体から出ていた。


「まだ小さいのにしておきましょうね」


 サミールが手渡したのは経血カップだった。

 イヌの鋭い嗅覚は、月経血の臭いを簡単に嗅ぎ分ける。


 そんなイヌの社会では、生理用品と言えばカップが標準だ。

 高分子ポリマーの生理ナプキンなど無い世界故に、当然の事なのだが……


「これ、どうやって」

「じゃぁ、使い方ね」


 サミールはその小さなカップの持ち方からガルムに手ほどきした。

 本人の意思とは関係なくこぼれ落ちる生命の泉を溜めおくものだ。


「じゃぁ立ってみて。どう? 違和感ある?」

「……あまり」

「それじゃ、歩いてみようか」


 サミールに連れられトイレを出たガルムは、大人しく歩き自室へ向かった。

 慣れないモノが挟まっている違和感は確実にある。

 だが、身体の中から鮮血がこぼれ落ちた衝撃に比べれば、どうという事は無い。


「ちょっと確かめてみようね」


 サミールが手ほどきするその対処法は、大人の女のエチケットだ。

 優雅な女に必要な立ち振る舞いのひとつとも言える。


「一杯になったら捨てに行かなきゃダメよ。その時、ちゃんと綺麗に洗って……」


 真剣な表情で聞いているガルムは、これが一生続くのかと暗澹たる気持ちだ。

 今日この日まで、どこか自分には関係無いと思ってきた事。

 だが、改めて突き付けられた自分自身の正体に関する証拠。


 ガルムはふたつの性を持って生まれてきた。

 豊かな胸と命を宿す月経が先に訪れ、それにより酷く混乱した。

 だが、その股間には男性のシンボルが確実に存在し自己主張していた。


「……ガルム」


 唐突にそう呼びかけられ、ガルムは驚いて振り返った。

 部屋のドアを閉めたその前に、母サンドラが立っていた。


「ごめんなさいね……ごめんね……ごめん……」


 サンドラは泣き崩れながらガルムを抱き締めた。

 そのまま力が抜けた様に膝立ちになり、尚も抱き締めて泣いた。


「母さま……」

「あなたに苛酷な運命を背負わせてしまった」


 泣き声混じりの言葉は、ガルムの心の一番弱い部分を掻きむしった。

 もはやどうしようも無い現実に、一時的な感情の麻痺が発生していた。


「大丈夫! 大丈夫だよ! 僕は平気だ」


 母を安心させようと、ガルムは気丈な言葉を吐いた。

 その姿が余りに悲しかったのか、サンドラは尚もギュッと抱くのだった。


「……とうとう来てしまったか」


 続いて部屋にやって来たのはカリオンだった。

 鍛え上げられたその体躯に、ガルムは羨望の眼差しを向けた。


 王であり貴族の頂点だが、同時に全ての騎兵の長であり指揮官だ。

 その関係で今でもカリオンは馬術の練習を欠かず、槍術も弓術も稽古する。


 厚い胸と太く逞しい腕は、幾多の戦を経験した強者の風格だ。

 そして、砂塵舞う荒野を駆け抜けたその風貌には野性味があった。


「僕はこれから男になれるかな?」

「どうだろうな。それは俺にも解らんが……」


 カリオンは一切嘘をつく事無く正直にそう答えた。

 希望的観測に基づいた取り繕う為のウソなど、ガルムは簡単に見抜いてしまう。


 それ故、カリオンは一切嘘をつく事無く正直に答えた。

 それを聞いたガルムが酷く狼狽しても……だ。


「先の事はどうか解らないが、今の事なら良く解る。だからな――」


 カリオンは泣きじゃくるサンドラを立たせ、その身体を後から抱き締めた。

 両手で顔を覆ったまま、自分を責める言葉を吐き続けるサンドラ。

 ガルムはその姿が悲しかった。


「――自暴自棄にならず自分を大切にしろ。そして、常に自分らしくあれば良い。誰に何を言われてもな。狼狽えず、怒るな。笑ってやり過ごせば良いのさ」


 ――――常に自分らしくあれば良い。

 ――――誰に何を言われても。


 この日からそれはガルムの座右の銘となった。

 そして、後々までこの言葉がガルムを縛り、また、奮い立たせるのだった。


「とりあえず、手入れの仕方を覚えましょう」

「はい」


 サミールはガルムを連れトイレへと向かった。

 その後ろ姿は、誰が見たって年齢相応な女の子のそれだった。

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