ザリーツァの郷へ<後編>
~承前
「父さま?」
ザリーツァからの帰り道、カリオンは物思いに耽った。
その姿がややもすれば怖かったガルムは、そっと声をかけた。
「あぁ、すまんすまん。ちょっと考え事だ」
隣を歩くガルムの頭に手を乗せ、カリオンはニッと笑った。
ただ、その姿が放つ異様な緊張感は、ガルムをしてただならぬと思えた。
「何かあったのですか?」
「いや? これといって問題はなかったぞ?」
ガルムを安心させるようにカリオンはそう言った。
だが、ガルムには分かっていた。それが嘘であるという事を。
ガルムに耳には鈴の音が響いていた。
「そう悲しい顔をするな。解ってる。お前に嘘はつけない。ただな」
カリオンは何かを言いたそうにあたりを見た。
カリオンとガルムの周りには幾人もの護衛がいた。
そして、その向こうにはフレミナ側の関係者がいた。
言いたくても言えない事がある。
ましてやカリオンは王であり、この国の最高権力者だ。
迂闊な一言で様々な所へ波紋を広げてしまうことになる。
「……うん」
ガルムは小さくそう答えた。
まだ8歳の子供に理解出来るかどうかは分からなかった。
ただ、その迂闊な振る舞いをギリギリで堪えることこそ重要なのだ。
願わくば、まだ幼いガルムがそれを理解してくれ……と。
そして、ザリーツァで見たおぞましい光景がなくなる事を祈った。
「見てしまったのね」
ガルムのやや後ろにいたサンドラは、なんとも悲しそうな顔だった。
ザリーツァ出身の彼女にとって、それは心掻き毟られることだった。
「あまり大きな声では言えないが……」
言いにくそうにしているカリオンは、小さく手招きしてサンドラを呼んだ。
それに応え馬を前に出したサンドラは、カリオンと並ぶ形になっていた。
「あの仕組みは昔からなのか?」
「えぇ……少なくとも、私が物心ついた頃にはすでに」
カリオンが見たものは、ザリーツァ底辺の生活だった。
ザリーツァの府にて歓迎式典が行われている時、カリオンは気が付いた。
風に乗って流れてくる臭いに、汚物臭が混じっていた。
なんとは無しに外を見たカリオン。
その目に映ったのは、すり鉢の底へ水を汲みに来る底辺層の人々だった。
「ベルムント殿。あれは……」
まるで働き蟻の隊列のように坂道を下ってくる人々。
その姿はどれもが、ザリーツァ一門の都と言うべきこの街に似つかわしくない。
「やや! これは飛んだ失礼を!」
ベルムントは少々大げさに振舞ってカリオンへ詫びた。
「我がザリーツァは御存知の通り摺鉢地形でして、水を求める者はご覧のように摺鉢の底へ降りねばなりません。井戸は混雑防止の為に階層単位で時間分けをしておりまして――」
ベルムントは窓の外を指さしながら説明を続けた。
ただ、水を汲むのにこの臭いは無かろうと不思議な思いだ。
しかし、その疑問の答えは当のベルムントが答えた。
カリオンをして、到底信じられないと言うものなのだが……
「あの最上段に住む者たちは、一番暑い時間が指定されているのですが、先代シドム公の頃までは彼らが使える桶は一つ限りに制限されていたので、ご覧の通り……と申しましょうか、お気付きの通り、共用せざるを得ず……」
一切悪びれる様子なく、ごく普通の姿で淡々と答えたベルムント。
カリオンは思わず吐き気を催した。衛生観念の部分で信じられないのだ。
つまり、単純に言えば飲み水も汚物を捨てる際も同じ桶と言うことだ。
「これがザリーツァのやり方だったのか?」
カリオンは問い質すような口調でそう言った。
油断をすれば今にも怒りに我を忘れる状態だ。
余りにも酷い話。余りにも非人道的な話だった。
だが、ベルムントはあっさりと言ってのけた。
「先代の頃まで長く続いたことでして……」
思わず『で?』と冷たく続きを促したカリオン。
一瞬だけベルムントは戸惑った様だが……
「そもそも彼等はザリーツァの民ではなく流民だったそうです。そんな彼等がここに住み着くに当たりきつく命じられた聞きます」
ベルムントは声音を改め言った。
「礼を逸してはならぬ。忠を絶やしてはならぬ。行を尽くさねばならぬ……と」
首をかしげたカリオンは『何を意味する?』と問い質した。
ベルムントは間髪いれずに答えた。
「まず、礼を逸するとはザリーツァの府を見下すことです。ですから、彼らの家は府の建物より低く建てられています」
カリオンは思わずオクルカを見た。
そのオクルカも心底呆れた顔になっていた。
「次の忠ですが、これはつまり、言い付けをキチンと守ると言うことです。これをしてはならない、あれをしてはならない。その指示をどれだけ忠実に守れるか?を質したのです」
命令に対する忠誠心の問題か……
そんなことを思ったカリオン。
しかし、だからと言って桶が一つの意味がわからない。
「それの何処に、桶の話が絡むのだ?」
カリオンの問いは尤もだろう。
ベルムントも我が意を得たりの顔になった。
「流民のなかに桶のなかに油をいれていた者が居たのだそうです。火を灯す油ですから放火には最適でしょう。それをさせぬ為、流民の持てる桶は一つと決められました。その言い付けを守れぬものは追放されるのです」
その説明を聞きカリオンは得心した。
最下層にいる者達が困る姿を見て嗤うためのやり方だ……と。
そう気が付いてしまった。
「今も……それを守らせているのか?」
カリオンの声音が変わった。
その僅かな変化にオクルカの表情も変化した。
それは太陽王の逆鱗だとオクルカは知っていた。
立場的に有利なものが不条理を押し付ける事を極端に嫌うカリオンだ。
事と次第によっては、いまここでベルムントが斬られかねない。
どう、宥めようかとオクルカは思案した。
だが、有効な手立てを思い浮かぶ前にベルムントが答えていた。
「まさかまさか! 私は先代シドムとは違います。衛生観念の観点からも桶の使い分けを指示しました。また、新しい桶を製作し行き渡るよう配布しました。ただ」
困ったような呆れたような、そんな表情でベルムントは言った。
「長年……それこそ百年単位で続いてきたことです。残念ですが容易には変わりませんでした。彼等はこれを我々の試練だと見ています」
何処までも沈んだ声で『試練……だと?』とカリオンは言った。
いよいよその声が冷たくなり、不敗のヴァルターすら表情が変わった。
それは、やり方が手ぬるいと叱責するときの声だった。
結果が出ないならやり方を変えろ。それでもダメなら担当者を変えろ。
カリオンのやり方は至極単純でシンプルだ。
「私の代でザリーツァを変えて見せます。どうかもう暫しのご猶予を」
伏してベルムントは懇願した。
その姿にカリオンは二の句が付けなかった。
なぜなら、ベルムントの後ろに立っていた者は、五体を投地し頭を下げたのだ。
――――ザリーツァの長を見下ろしてはならない……
ベルムントが頭を下げた以上、ベルムント以下の者はそれをせざるを得ない。
その異常な社会が是正される為には、百年単位の時間が必要なのだろう。
「解った。ベルムント殿の手腕に期待する」
カリオンはそれ以上の叱責を避けた。
これ以上は口を挟むべきで無いと思ったのだ。
フレミナが恭順してまだ間が無いのだから、ル・ガルも気を使わねばならない。
――いっそ武力解放を……
内心でそんな事を思ったカリオン。
だが、それは最後の選択肢だと思っていた。
そして、それでも変わらぬだろうと気が付いていた……