青空教室
またちょっと遅くなりました
~承前
「ララ。馬上では胸を張れ」
ガルムの乗馬姿勢が猫背気味になっていて、カリオンはそれを咎めた。
気がつけば背を丸めてしまい、猫背になる癖がガルムにはあった。
どちらかと言えば本の虫で、何時も背中を丸めて本を読むからだ。
「……はい」
いきなり叱られて嬉しい者などあまり居ない。
若干表情の変わったガルムに対し、オクルカが素早くフォローを入れた。
「正しい乗馬姿勢になってないと余計に疲れるだけだからね」
峠を越えたカリオン一行は下り坂をユルユルと進んでいた。
上り坂では母サンドラと進んだガルムだが、下り坂ではカリオンの隣に居た。
チラリと見たカリオンの姿は堂々たるもので、貫禄ある姿は流石だと思った。
――父上……
言葉では上手く表せない感情が沸き起こり、ガルムは少しだけ鼻の高い思いだ。
フレミナ争乱の際には最大で15万に及ぶ軍を差配したらしい。
馬上にあって堂々たる姿は、まさしく王の貫禄だった。
カリオンのフレミナ行幸隊列は細く長く延びている。
フィーメ峠を越えた街道は、遠くに大きな川の流れを望んでいた。
「……父さま、アレは?」
ガルムは馬上にて遠くを指さした。
群青の空を映すように見える青い流れは、驚く程の大河だった。
「あれはね、フーレ地方を縦に貫く大河。フーレ河だよ」
ガルムを挟んでカリオンの反対側にいたオクルカが説明した。
シウニノンチュの北側を水源とする大河ガガルボルバに匹敵する流れだ。
「ララウリはフレミナ地方の歴史を聞いたかい?」
オクルカの言葉に首を振ったガルムは目を輝かせていた。
王都で籠の鳥な生活を送っている少年にしてみれば、全てが楽しいのだった。
「遠い遠い昔ね、あの河が流れていく先にはとんでも無く大きな岩があったんだ」
「……インカルウシくらいあったの?」
「そうだな。ちょうど同じくらいだ」
ガルディアラの中心にある巨石インカルウシは城の基部そのものだ。
麓から見れば見上げるような巨石で、ガルムの知るこの世で最も大きな物だ。
そんな巨石が河原にあるシーンをイメージしたガルム。
だが、それでは河の流れがせき止められてしまうと思ったときだった。
「あのフーレ河は昔は湖だったんだ。大岩が川の流れを堰き止めていて、その頃はクーリ河と呼ばれていた……」
オクルカはそこから一気呵成にフレミナの伝説を語った。
平地の男と山に暮らす女が恋をして、その叶わぬ恋に身を焼いた事。
そしてその果てに、湖へと身を投げて龍神に祈った事。
脚色を加えているとは言え、その物語は子供が喜ぶには申し分ないものだった。
「龍神はね、その大岩を何処か南の方へ飛ばしてしまって、そのまま一気に河を駆け下ったんだ」
フレミナ一門に残る巨大鉄砲水の伝説。
クーリ河を堰き止めていた巨石が失われ、下流側の地域が土石流に襲われた。
その強力な鉄砲水は間違い無く土石流なのだろう。
僅かな平地に暮らしていた一門は文字通り根刮ぎに失われたのだった。
「もしかして、その飛んでいった岩って」
「そうだ。ガルディブルクの街にあるインカルウシだよ」
目を輝かせ話を聞くガルムは、自然と笑顔になっていた。
話を聞きながら時々はカリオンを振り返り、そしてまたオクルカの話を聞く。
「父さまは知ってたの?」
「フレミナの伝承は余り良く知らなかったなぁ」
父も知らなかった話を聞いているのだから、ガルムには楽しくて仕方が無い。
そのまま坂道を下り続け、気が付けば峠の鞍部が随分と遠くなっていた。
「なるほど。分水嶺とはこういう事か」
カリオンは河の流れる向きがガガルボルバとは逆だと言う事に気付いた。
ヒューマ山脈を挟み北と南へ流れ出でる二つの大河。
どちらも最後には海へと注ぐのだが、フーレ河の河口をカリオンは知らない。
ただ、なんとなくだがカリオンは思った。
この地域で覇を争い続けたシウニンとフレミナの関係のようだと。
元を辿れば同じ山並みから端を発しているのに、注ぐ先が異なるのだ。
「ぶんすいれい?」
「そうだ、天から降る雨が流れ行く先を分ける山脈だ」
カリオンは遠くのフーレ河を指差し言った。
「ヒューマの山塊に降った雨や雪は、流れ下る際に南北へと分かれる。南に降った雨水は紅珊瑚海へと注ぐガガルボルバになる。北側へ降った雨水はあのフーレ河になって別の海へと注ぐ」
知識としてのみ知っているその河口は、遠くシロクマの国にまで至るらしい。
冬ともなれば南国系のイヌには耐えられない寒さに包まれる地域だ。
「俺も見た事が無いが、あの河の河口辺りでは海が凍るんだそうだ」
「うそっ! 見たい!」
「そりゃ無理だな。余りに寒くて死んでしまうぞ」
ハハハと笑いながらカリオンはそう言った。
北方系の寒さに強い血統ですらも、大陸北部の最果て地域は余り行かぬようだ。
「この大陸の北の果てはどうなっているのか。それは誰にもわからない」
「誰も行ったことが無いの?」
「いや……目指した者は沢山居るが、帰ってきた者は居ない」
僅かな間を開けてカリオンはそう応えた。
不思議そうな表情で『ふーん』とガルムは返答した。
「……無駄になっちゃったの?」
「いや、無駄じゃ無いさ」
「そうなの?」
「あぁ」
カリオンはガルムの頭の上に手を乗せ、笑いながら言った。
その不思議そうな顔に、カリオンは心の何処かが暖かくなる思いだ。
「例え失敗したとしても、本気で挑戦して失敗したんなら価値があるんだ」
「そうなの?」
「あぁ。どんな事でもそうだ。ただし、本気で挑戦した場合のみだがな」
空を見上げつつ、自分に言い聞かせるようにそう言ったカリオン。
ガルムはなんとなくそれがリリス伯母様の話だと直感した。
「なんでダメなのかの理由がわかる。価値の無い失敗ってのは、失敗の中から何も見いだせない時なんだよ。だからな――」
ガルムは真剣な表情でカリオンを見ていた。
何を言うんだろうか?と、集中して聞いていた。
「――今は出来ない事、知らない事でも、それに挑戦するんだ。ちょっとだけ無理な事に挑戦するんだ。去年は出来なくても、先月先週には出来なくても、昨日は出来なかったとしても、次は、今日には出来る様になるかも知れない。その進歩が歴史ってものの正体なんだよ。そしてな……」
カリオンの目がオクルカを捉えた。
オオカミはイヌの北方系亜種とも捉えられる部分がある。
凍峰種などの高地寒冷環境に適応したイヌは、どれも大柄だった。
「もしお前が極北地方へ挑むなら、今からしっかり身体を作っておけよ?」
「なんで?」
「父が教えてくれたことだが――」
カリオンの表情が僅かに変化した。
柔和で穏やかな、そして、どこかに憧憬を孕むもの。
ガルムはそれを感覚レベルで理解していた。
父カリオンは、その父ゼルが好きなんだ……という事を。
「――暑いところよりも寒いところに暮らす者の方が大きくなるんだそうだ」
「ふーん……」
父と子の青空教室が続く中、オクルカもそれを興味深そうに聞いていた。
オオカミの一門はどれも昔から巨躯大柄な者が多いのだった。
ヒトの男に育てられたと言う王の言葉は、オクルカの見識をも大きく広げる。
だが、それ以上に成長しているのは、間違い無くガルムだった。
「寒いのは服を着れば良いけど暑いと裸になっても暑いからだね! きっと!」
親から子へと受け継がれる知識や見識は、こう言った何気ない会話の中が多い。
その中に出てくる親の言葉を子は正解なのだとして受け取り覚える。
改めてカリオンは背筋の伸びる思いをしていた。
そしてその向こうにあるもの。遠い日に自らを教育したゼルを思った。
ワタラセイワオという男がヒトの世界から持ってきた知識や知恵はここに有る。
――受け継がせなければ……
余りに多くの教えを受けたカリオン自身が、未だ消化しきっていないのだ。
だが、いつかやがてこの子がル・ガルの差配を行うようになるまでに……
「父さま?」
ガルムは不思議そうにカリオンを見上げた。
「ん? なんだ?」
一瞬だけ心ここに有らずで自分の思考に沈んだカリオン。
ガルムはそれを見逃していなかった。
「……楽しい!」
ニコリと笑ったガルム。
だがそれは、子供ながらの気遣いだとカリオンは気付いていた。