父と子
~承前
ハッと目を覚ましたカリオンは辺りを確かめた。
微睡みの奥底から浮き上がってきた意識は、何かの気配を捉えたのだ。
「……ガルムか?」
「はい」
微睡みの底にいたカリオンの向かいにガルムは立っていた。
その僅かな時間の睡眠を邪魔する事無く、目覚めるのを待っていた。
まだ8歳でしか無い子供な筈のガルム。
だがその気の使い様は、そこらの大人より余程上等だった。
「どうした?」
出来る限り優しい声で要件を問うたカリオン。
ガルムはモジモジとしたままだった。
「……いま」
「うん」
何かを言いかけてもう一度言葉を飲み込んだガルム。
逡巡している様にも見えるし、狼狽している様にも見える。
それは子供ながらに持っている世界の崩壊かも知れない。
自分ではどうしようも無い自体が発生し、救いを求めているのかも知れない。
椅子の上にあったカリオンは手を伸ばし、ガルムを抱き寄せて膝の上に乗せた。
8歳ともなればそれなりに育ってきているが、それでもまだ子供だった。
か細く小さいその身体は、内面の葛藤を示すように細動していた。
背中越しに語りかける事を選び、気易い調子を心掛けた。
「どうした? 言ってみろ」
カリオンは努めて父親を振る舞った。
遠い日に見たゼルの姿だ。ワタラを前にしてゼルはそう振る舞った。
この子が実子とは言いがたいのを承知の上で……だ。
――苦労したんだな……
親の気持ちは親になって初めて分かるという。
ごく当たり前過ぎて誰も顧みない部分にこそ真実はある。
エイダとの距離感に苦しんだのはワタラだけでは無い。
ゼルもまたエイダとの距離感に困惑していたのだ。
――父上……
自分を可愛がってくれたふたりの父。
その姿を思い出しながら、カリオンはふと、心のスイッチが入ったのを知った。
命のやり取りを行う現場に出た者だけが知る、勝負所の臭いだ。
――そうか……
――知ってしまったか……
カリオンはガルムの頭に手を置いて、グシャグシャと強めに撫でた。
「どうしたどうした! ズバッと言ってみろ! 男だろ!」
明るい声で告白を促したカリオン。
ガルムは不安そうな表情で振り返り、ボソリと言った。
「……母上の所に知らない人が来てる」
「知らない人?」
「番号の入ってない套を着てる黒尽くめの人だ」
不敗のヴァルター率いる親衛隊は、通し番号の入った套をまとう。
隊の内部における強さの序列でもあり、番号のない者はいない。
そして、それと全く同じデザインの套を検非違使が着ていた。
ただ、検非違使が身を包む套は朱のもの。
ナンバーが入ってない黒染めの套をまとう者はひとりしか居ない。
――兄貴……
それは検非違使の案主と呼ばれるトウリだった。
「その黒尽くめがどうかしたのか?」
カリオンは解っていた。
ガルムは聞いてはならない言葉を聞いてしまったのだ。
それは、子供のもつ小さな世界の崩壊。
自分自身の中にあった小さな確信の崩壊だ。
「……母さまが泣いてた」
「そうか……」
「父さま」
カリオンの膝に座っていたガルムは、その上でクルリと振り返った。
奥歯を噛みしめたその表情は、いっぱしの騎兵のようだとカリオンは思った。
――いい顔だな
遠い日。あの枯れ沢の底で自分を抱き締めた五輪男の顔。
ゼルのフリをしながら最期まで自分を心配した男の顔を思い出した。
――父は嬉しかったンだ……
それを確信したカリオンは、優しい表情になってガルムを見ていた。
「僕は……」
「ガルム。ここには俺しかいなんだ。はっきり言って良いぞ」
カリオンの言葉にガルムは小さく頷いた。
「父さまは僕の父じゃ無いんでしょ」
「何故そう思うんだ?」
「僕……実は……」
ガルムは項垂れつつ小さな声で言った。
「誰かが嘘をついてるのが解るんだ」
「鈴の音がするのか?」
「え?」
驚いた顔になってカリオンを見上げたガルム。
カリオンは優しく笑いながらガルムを見ていた。
「ガルム。お前は俺の血を分けた子供だ」
そっとそう呟いたカリオン。
だが、ガルムは悲しげな顔になって首を振った。
「……鈴の音がする」
「なら、それが正解だ」
「……父さま」
表情を歪ませ今にも泣き出しそうなガルム。
そんなガルムをカリオンはグッと抱き締めた。
「お前の父はトウリ・サウリクル・アージンだ。どうだ?鈴の音は聞こえるか」
カリオンの言葉を聞いたガルムは、もう一度首を横に振った。
ただ、まるで世界が終わるかのように悲しげな表情になっていた。
「僕は……裏切り者の……」
「いや、それは違うぞ。トウリ兄貴は裏切った訳じゃ無い」
一般にル・ガルの社会では、トウリ・アージンは裏切り者と呼ばれている。
王を裏切り、王妃を惨殺した愚か者だ。だが……
「鈴は聞こえるか?」
「……聞こえない」
「じゃ、それが真実だ」
「父さま……」
再びグッとガルムを抱き締めたカリオン。
その腕の中でガルムは震えた。
「……ガルムはゼルを知っているな?」
「はい」
「ゼルはヒトだったんだ」
カリオンがこぼした唐突なカミングアウトにガルムは『え?』と呟いた。
それは余りにも唐突な言葉であり、また、真意を掴みづらいモノだ。
「遠い遠い日、俺の母エイラはゼルと夫婦になった。だけど子供が出来なかったんだ。ゼルはとにかく命を狙われたから身代わりが必要だった。それで、ゼルによく似たヒトが見つけ出され、ゼルのフリをしていたんだ」
カリオンを見上げながら驚いていたガルム。
その目は一言一句聞き漏らすまいと真剣な眼差しだった。
「所がある日、このシウニノンチュの郊外に越境窃盗団がやって来て、それを討伐に行ったゼルは死んでしまったんだ。ただ、それを公に発表することは出来なかったんだよ。色々あってな」
ガルムの頭の上に手を置き、カリオンはじっくりと言い聞かせる様に続けた。
「ヒトの男はワタラと呼ばれていたが、その日からゼルになった。そしてそのヒトの男は――」
ガルムを目を真っ直ぐに見つめたカリオン。
その優しい眼差しにガルムは吸い込まれる思いだった。
「――俺の父親になった」
「父さま……」
「事ある毎に教えを受けた。お前も知ってる通り、俺は8歳で初陣を踏んだ。その出征の中で沢山のことを学んだ。その時もその後も、フレミナ紛争の中で幾度も合戦に及んだ時もだ」
真剣な眼差しで話を聞いているガルムは、コクコクと首肯していた。
ウソを見抜く鈴の音が聞こえるのであれば、何があってもウソを混ぜない事だ。
信用と信頼は少しずつ積み上げていくしか無いのだ。
「そしてな、この街から北西に行った枯れ沢の奥で夜盗の集団をまとめて処分した時、戦が終わってホッとした俺は周囲の警戒を緩めてしまった。だが、夜盗は全部死にきっていなかったんだ」
驚きの余り唖然とした表情になっているガルム。
その頭を撫でながら、カリオンは天井を見上げて懐かしい光景を思い出した。
あの朝日が差し込み眩い程の枯れ沢の底、エイダはゼルを見ていた。
首元に下げるペンダントは大きく歪み、ナイフの当たった傷があった。
「あの時、父は…… ゼルのフリをしていたヒトの男はこう言った」
――――戦が終るまで気を抜くな
――――これを残心と言う
――――俺が間に入らなければお前は死んでいたのだぞ
――――猛る若武者も良いが、全てが終るまで用心を解くんじゃない
――――いいな!
ゼルの声音を真似てカリオンはそう言った。
遠い日に聞いた父の叱責を思い出し、懐かしそうに目を細めた。
「思わずな、間髪入れずにハイッ!て大声で返事をしたよ。だが、そう言った俺をそのヒトの男は抱き締めた。驚きと戸惑いで震えていた俺をな、こうやって――」
カリオンはグッとガルムを抱き締めた。
イヌの強い膂力で抱き締めれば、胸が潰れ息も漏れるものだ。
だが、カリオンは遠慮する事無くそうしてガルムを抱き締めた。
当のガルムが驚いて見上げるほどの力で……だ。
「――力一杯抱き締めて、そしてこう言った。良い働きだった。良くやった……」
絞り出すように『父さま』と呟いたガルム。
腕の力を緩めたカリオンは嬉しそうな表情になって言った。
「私と父はあの時、本当の親子になった……」
ガルムはコクリと頷いた。
その言葉にウソが無いのだと、そう意思表示をした。
「お前のその鈴の音はリリスにも聞こえたんだ」
「リリス叔母さま」
「そうだな。そういう血筋だな」
「父さまの……」
「あぁ。最初の妻だった」
もう一度ポンとガルムの頭に手を乗せ、カリオンは言った。
「トウリもリリスもまだ死んでない。ふたりともこの世にいる。サンドラの所に来たのはトウリだよ」
「……やっぱり」
「トウリもサンドラもル・ガルの為に辛い人生を生きている。お前もだ、ガルム。皆に辛い人生を歩ませるのは、俺がだらしないからだ。だからな、母さんを余り困らせるなよ? 恨むなら俺を恨め。ただ、いつも絶対に忘れないで欲しい事が一つだけある。良いか、よく聞けよ?」
カリオンは一息ついてからガルムを真っ直ぐに見て言った。
「お前は俺の息子だ。血が繋がっていなくとも、俺の息子だ」