初陣(前)
吹き抜ける風が岩肌を撫で、アチコチから虎落笛の鳴る谷間だった。
かつて川だったという涸れ沢の道は、今では真っ当な道を行けない旅人のための裏街道として使われていて、左右を切り立った崖に挟まれ足場の安定した道ということもあって馬曳きの牽引荷馬車にとって便利な道だった。
道中に茶屋の一件も無い寂しい道だが、法に触れる様々な品々で商いをする闇のビジネスマンにとっては、ここは非常に重要な表街道だ。
その切り立った断崖の上にエイダの愛馬レラの姿があった。
エイダのお目付役なヨハンはエイダの隣で戦況を見守っている。
砂塵を巻き上げ逃げてくる越境盗賊団の姿が遠くに見える。
そしてその向こうには、ゼルの率いる機動打撃騎兵団が槍を翳して追い上げて来ていた。
「順調なようですな。若」
「うん。あとは」
「追い詰めるだけです」
「父上の仕事をちょっと手伝おう」
「は?」
「ヨハン! 行くよ!」
エイダは断崖の上からレラを走らせた。
ピンポイントな足場を正確に踏んで崖を降りていく。
「わかぁぁぁ!!!!」
「一度やってみたかったんだ! 予想通りすごく楽しいぞ!」
「お待ちください!」
「我を手本とせよ! ヒトの世界の英雄の言葉だ!」
慌てふためくヨハンをよそに、腕に覚えのある騎兵達が崖を駆け下りていく。
「若に続け! 騎兵隊万歳!」
総勢二百騎に達する騎兵が越境盗賊団の前に立ちはだかった。
先頭に立つエイダが剣を抜き、そして、マントを邪魔にならぬよう腰へ巻き付けた。
「総員抜刀! 速歩接敵前進! 我に続け!」
騎兵達は一斉に声を上げて走り始めた。その先頭にいて走るエイダは高々と剣を掲げた。
「我が師ワタラの仇! 生かして逃がすものか!」
怯えや戸惑いは一切無かった。
全力で駆けるレラの背で盗賊団を見据えたエイダ。
その目に見えるものは、怯えた表情の盗賊団だった。
先頭を走る頭目の目に恐怖の色が浮かぶ。
エイダはニヤリと笑った。
耳の中には、あのノーリの鐘の音が鳴り響いていた。
────約二週間前
チャシを囲む森が色付き始める頃だった。
唐突な『ワタラの死』から早くも二ヶ月が過ぎていた。
ゼルとエイラの家族が囲む朝食の席へ、リリスが同席するようになっていた。
本当にいつの間にか、自然にそうなっていた。
エイダと並んで食事するリリスには、貴族らしいテーブルマナーが身についていた。
誰が見たって不自然さは無い。
給仕の者たちですら、それに違和感を覚えなくなっていた。
「お寛ぎの所 大変失礼致します」
朝の空気が冷たい季節だ。
屋内のテーブルへ腰掛けていたゼルファミリーのところへ近衛騎士がやってきた。
その先頭にいたのはオスカー。老いたりといえど、ますます盛んな騎士であった。
「何事か」
威厳のある声で聞いたゼルは食事の手を止めた。
「西部の公設放牧地で大規模な家畜盗賊団が活動しております。その数およそ二百少々。只今駐屯地の騎兵が向かっておりますが、盗賊団の後方に後続隊が居る公算が高いです」
黙って考え込むゼル。エイダはその横顔を、じっと見ていた。
「ノダに相談するか」
「そうね。それが良いわ」
エイラの振る舞いもまた自然だった。まるで百年の夫婦だ。
エイダはリリスと視線を絡ませてから、ジッとゼルを見ていた。
「どうした?」
ゼルはエイダの頭に手を乗せた。
「また戦ですか?」
「そうだな。市民のためには必要だからな。」
何となくモジモジとしているエイダ。
その様子をリリスが不思議そうに見ている。
「なんだ? 言ってみろ」
「僕も連れて行って」
「……は?」
さすがのゼルも呆気に取られた。
勿論、エイラとリリスもだ。
「……ワタラの仇を取りたい」
純粋で真っ直ぐな眼差しがゼルを貫いた。
腹の中で五輪男は唸った。
まだ十歳にもなって無い子供が見せた義と忠と勇。
それは間違いなくイヌの本質だ。
「おねがい!」
ゼルは黙って微笑んだ。
「解った。とりあえず待ってろ」
食事の手を止めて食堂を出て行ったゼル。
その背中をエイダは見ていた。
だが、事態がそう簡単に運ぶとは限らない。
エイダもそうだが、ゼルをここで殺してしまうわけには行かない。
さて、どうしたモンかな……
思案六方ひねりまくった五輪男は、とりあえずノダの部屋へと向かった。
案の定、カウリと二人で朝食の最中だった。
「おはよう」
ノック無しで部屋へ入れるのはゼルを含めてホンの一握りだ。
今のゼルの正体が五輪男である事をトウリはまだ知らない。
カウリもノダも用が無ければゼルとトウリを離しているからだ。
再開した時の危険が大きいとゼルは考えたのだが、当のトウリは週に数度しか顔をあわせてないにも拘らず気が付いていない。
込み入った話の時にはトウリを遠ざけてしまうノダやカウリの気遣いは、変なところで生きているのだが――
「どうした。はやいな」
「全くだ。しかも一人とはな」
ノダとカウリはゼルを歓迎した。
それから、給仕のものを一旦下がらせ、三人だけの場にして、気を使った。
「実は、今朝方にヨハンらが報告を上げてきたんだが」
「あぁ聞いているよ。オスカーが報告書を上げている」
「ワタラを殺してしまっても、効果が薄かったか」
ゼルの言葉にノダもカウリも沈痛な表情だ。
しかし、ゼルは気を取り直す。
「もう冬になる。雪が降れば取り逃す事になるだろう。この短い期間に何度も出征するのは骨が折れるのは重々承知している。だが」
ゼルの言葉にノダもカウリも黙って頷いた。
「まったくもってその通りだ。今までやってきた事が無駄に成る」
カウリの力強い言葉にノダも相槌を打った。
「痛い犠牲を払ったのだ。確かな結果を求めるのは当然の事だな」
食事を中断ノダとカウリはゼルを伴ってシウニノンチュの行政執務室へ向かう。
広域の正確な地図や地域拠点といったモノがここに全て資料として存在している。
「今回は貴族騎兵だけで行こう」
「そうだな。平民騎兵を動員すると後が面倒だ」
「その件なんだが」
話に割り込んだゼルをカウリが見た。
「なんだが?」
「どうしてもエイダが行きたいそうだ」
「なんでまた」
「……敵討ちだそうだ」
足を止めたノダも薄ら笑いでゼルを見た。
「イヌの血は争えんな」
「全くだ。俺には理解出来ない」
そんな軽口を叩いたゼル。
その旨にカウリが一本指を立てた。まるで警告するように。
「我々イヌには大事なことだ。そうだな」
「……あぁ。そうだな」
「そうだ」
ニヤリと笑ったカウリが地図の前に立った。
テーブルを囲んでノダとカウリは顔を付き合わせる。
ゼルもテーブルを見ていた。
「この辺りの公設放牧場が特に被害が多い。おそらくこっち側の沢筋から侵入していると思われる。ゆえに、東側から面で圧力を掛け、賊を沢筋へ押し込み追撃戦が良かろうかと思う。どうだろうか」
簡単な戦略提案を行ったゼルだが、ノダとカウリは驚いている。
「兵学校の戦術教官なら不合格の判子を押すだろうな」
「あぁ。だが、完璧な戦術だ。何より相手がそれを想定しないだろう」
この時代。戦闘術における最も重要な事は『犠牲を少なく』と『正々堂々』だった。
つまり、最初から『徹底殲滅』と『容赦無用』の思想は少ない。
その中でまず、敵を取りこぼさず根絶やしにする戦術は、その後の後始末の問題もあってあまり選択されないのが普通なのだ。
一方的な鏖殺を行うのはイヌの良心が咎めるということだ。
「エイダに見せてやりたいんだ。良い例と悪い例を。それに……」
まだ続くのか?と顔を向けたノダとカウリ。
一瞬気圧されたゼルだが、やや悪戯っぽい表情を浮かべた。
「常識とか定石なんてのは打ち破るためにあるんじゃないかな。大事なのは勝つ事――
スパッと言い切ったゼル。
驚くノダとカウリ。
ゼルは畳み掛ける。
――だろ? 負けたら何にもなら無い。負けて花実が咲く物かってね」
苦笑いを浮かべたノダ。
カウリは少し呆れつつも、ゼルの肩を叩いた。
「エイダを育てよう。王に成るか王佐となるかはわからない。だが、最高の頭脳を育ててやるのが大事だろうな」
そんな事を言ったカウリは、同意を求めるようにノダを見た。
苦笑いを浮かべつつも、ノダの目はゼルを見ていた。
「あぁ、その通りだ。マダラの帝も良いじゃ無いか。マダラの丞相か相国でも良い。トゥリかエイダが太陽王となるだろう。切磋琢磨するのが良い。優れた王を育てる為だ。多少の犠牲はやむを得ないな。多数の幸福のために」
そのノダの言葉に頷くカウリは、自らの仕草で同意を示した。
ル・ガルに厳然と存在するマダラ差別を改善したい。
そんな意思は回りの理解と共に本人の努力でこそなされると言って良い。
エイダだけでなく、今ここに居るゼルもその努力を果たさなければ成らない。
全てはエイダのために。自分を犠牲にする覚悟が求められている。
「……ゼル」
ノダは静かにゼルを呼んだ。
カウリもゼルを見た。
「辛いが、頼む」
「えぇ。喜んで」
満足そうに微笑んだゼル。
だが、細かい部分をカウリが突っ込む。
「えぇとは言わずあぁが正しいな」
「……そうだな」
苦笑いを浮かべたゼル。
ノダは寂しそうに笑った。
――――二日後
シウニノンチュは朝から大騒ぎだった。
街の大通りにはシウニノンチュ全ての市民が結集していた。
「わか!」
市民らの歓声にこたえるエイダ。
立派な戦衣に身を包んだ凛々しい若武者姿だ。
マダラとは言え、貴族・王族の義務を果たすべく、僅か八歳での初陣。
街中の女たちが花を手に集まってきている。
大通りは左右から物凄い勢いで花が投げ込まれ、文字通りの花道だった。
既に甲冑を纏い槍騎兵を従えたゼルがエイダのすぐ後ろを歩く。
その隣にはエイダ直属のエリードガードなヨハンが馬を進めている。
隊列の先頭を行くノダとカウリの二人は時々振り返ってエイダを見ていた。
青くなる事も震える事も無く、堂々と落ち着いた姿に大物の片鱗を見る。
「なぁノダ」
「なんだ?」
「馬鹿親としては悔しい限りだが」
ノダはカウリをチラリと見た。
「太陽王の器としてはエイダがふさわしいな」
「なんでまたそんな事を」
「トウリの初陣の時は、馬上で小便を漏らしおった。しかも十五歳だ」
「……エイダはまだ怖いもの知らずの八歳だ。その差だよ」
「そうだと良いんだがな」
街外れまでやってきたとき、そこにはエイラとリリスが護衛を付けて立っていた。
抱えるほどの花を持っていたリリスが通りへ向けて花を投げ、さらには花びらをちぎって投げる。
眩いほどの花吹雪を浴びて、エイダは出撃して行った。
「行ってくるよリリス!」
「帰ってきてね!」
「あぁ! 勿論だ!」
手を振って笑ったエイダ。
その姿に気負った所は全く無かった。
後に皆が口をそろえて言った。
大物の片鱗は、この時から確かに有った……と。