父親の夢
~承前
「……楽しみに……しています」
どこか棒読み的な言葉を吐いたサンドラ。
だが、もちろんカリオンは解っている。
それが自分の感情を相手に悟らせまいとする演技だと言う事に。
僅かにほころんだその表情を恥じているのだと言う事に。
ここまで心を読み合えるようになったふたり。
その理由は、サンドラの腕に座る小さな存在だった。
「エルムも見えるか?」
ガルムは母サンドラに抱かれる弟を見た。
トウリやジョニー達に散々と嗾けられ、カリオンは遂にサンドラを抱いた。
王の夜伽係はノーリの息子トゥリの代で消失していた。
シュサは夜伽役の代わりに後宮を作ったのだ。
太陽王のプライベート空間で有り、王の個人的なコレクションの場だ。
だが、それはお気に入りの女を飼っておく為の場所では無い。
様々な理由で市井に居られなくなった複雑な立場の女を匿う場所。
そして時には、躊躇う事無く王自身が男の弱音を吐く場所。
そんな場で女を抱くのは、男の本能と言っても良かった。
だが、シュサの死と共に後宮は消失。
ノダ王は終ぞ手を出す事無く終わり、そこに居た女達は城の女官となった。
つまり、カリオンにしてみればサンドラは個人でコレクションした後宮女。
故に、そこに手を出したとて、誰も諫言はしなかった。
そして、その果てに生まれたのがエルムだった。
全身を漆黒の体毛で覆った、立派な黒耀種の姿をして……だが。
「ウォークおじちゃん達?」
ガルムとエルムの見下ろす先。
ウォークは幾人かのスタッフを引き連れ広場の中を歩いていた。
王の下賜金である小さな包みを持ち、白木の箱を抱く母親に手渡していた。
弔いをするのだって金が掛かる。
物言わぬ箱の中身となった若者は、一家の稼ぎ手かもしれない。
「違うよ。あのウォークおじさんの横だよ」
「ドレイクおじさん?」
エルムは細い手を伸ばして広場を指さした。
ウォークと共に歩くドレイクは、1人ずつに声を掛けて歩いた。
丞相の職にあるのだから、その責務として戦死者を讃えなければならない。
――ル・ガルの母よ
――そなたの吾子を私は讃える
曰く、仲間を通す為の街道で勇敢に戦ったと。
曰く、進軍するその最先端で獅子奮迅の働きだったと。
曰く、仲間が休む夜のひとときを護る為の歩哨を買って出たと。
曰く、降り続く雪の中、寒さに凍える仲間の為に薪を拾い続けていたと。
他利捨身の美しい精神は、常に自己犠牲の忍辱を孕む。
その姿勢を茶化したり嗤ったりする行為は最も嫌悪される事だ。
広場にやって来た母親達は、辛そうな表情を浮かべつつも気丈に振る舞う。
大きく泣き崩れる者は少なく、皆が静かに涙していた。
「イェルサレムの鐘を鳴らせ! 故郷へ帰りし勇者は母の胸へ戻れり!」
最後の一箱が母の胸に帰るのを見届け、カリオンはそう叫んだ。
近衛の士官が鐘楼へと駆け上り、城の大鐘楼にある鐘を鳴らした。
あのシウニノンチュにあるノーリの鐘よりも更に大きな鐘だ。
巨大都市ガガルボルバの街中に響くその鐘の音に、街中の鐘が応えた。
そして、その鐘の音が鳴り響く中、自然発生的に歌声が響いた。
城下の広場を取り囲んでいた市民達が自然に国歌を歌い始めた。
太陽王が居れば国家は安泰だと、誰もが盲目的にそれを信じていた。
「神よ…… 吾子を抱きし母の胸に、幸せな記憶だけを遺し給え……」
ボソリと呟くように言ったカリオン。
その姿を見上げるようにして見ていたガルムは思った。
父であるカリオンの王たる姿とは、こうも大きいのか……と。
そして同時に自分がこの重責に堪えられるのかと不安になった。
「父さま……」
最後の一箱が母の腕に抱かれるまで、カリオンはその場を動かなかった。
ガルムは父カリオンを見上げ、奥歯を噛みしめていた。
王族にある者のノブリスオブリージュ。
貴族たる者達が貴族で有る為の義務を、この日ガルムは学んだ。
「……ガルム。良いか。よく聞け。そして絶対に忘れるな」
カリオンは静かに切りだした。
父ゼルとワタラと共に見た、遠き日のシウニノンチュ。
あの街の高台にあって、ワタラとゼルが幼いカリオンに教えた事だ。
「人はいずれ死ぬ。誰にでも寿命があり、運命がある」
「はい」
「いつの日か私もこの世から姿を消すだろう。だが、魂はこの世に遺るのだ」
カリオンの手がガルムの頭に載せられた。
その手に自分の手を重ね、ガルムは広場を見ていた。
どう讃えられた所で、死んだ者は帰ってこない。
賞賛されずとも良いから、生きて帰ってきて欲しい。
一切の虚飾を省いた本音を言うなら、親なる生き物の本心はそこにある。
「……父さま」
父カリオンは痛惜の念に駆られている。
ガルムはそれを見て取った。
戦に行って死ぬのは自己責任な部分もある。
戦う以上は死が隣り合わせの環境なのだから。
だが……
「魂は永遠にこの国を見つめ続ける。ただ、そうなったらもはや国は動かせない」
「……はい」
「だから……その時はお前が護れ」
遠き日、ゼルとワタラに言い諭された言葉。
その言葉に込められた思いを、カリオンはガルムに言って聞かせた。
「ガルム。お前が大きくなり、王になる時にはこの国から戦が無くなっているだろう。いや、この世界かも知れない。だが、そうなっても世界には弱った人がいるはずなのだ」
カリオンの言葉に『弱った人って?』とガルムは聞き返した。
聡く鋭い心を持つガルムに、カリオンは心の中の何処かが温かくなった。
他人を思う心。労る心。痛みに寄り添う心。
全てを含む『仁』の精神をガルムはまだ失っていなかった。
「……戦で傷付いた者。打ちのめされ弱った者。人間性の限界に直面し、心神を耗弱してしまった者。そして大切な人を失った人々。そんな者達を護るのだ」
カリオンの言葉に頷いたガルム。
その姿を見ていたカリオンは、表情を緩め優しい顔になった。
「彼らは国家と国民の為に汗を流し、血を流し、ひとつしか無い命を差し出してでも平和を願ったのだ。その平和の上に我らは立っている。王の命の為に命を落とした者達を、何としてでも護れ」
ガルムは黙って頷き、『僕も父さまの役に立つ』と誓った。
その姿を傍らで見ていたサンドラは、口元を抑え涙ぐむ。
「そうだ。期待しているぞ」
「はい」
広場の中から白木の箱が無くなるまでカリオンはそこに居た。
ガルムはその傍らに立ち、同じように広場を見下ろしていた。
ノブレスオブリージュの精神は確実にガルムへと受け継がれた。
少なくともカリオンはそれを確信した。
「お前が大きくなった頃には、私もきっとあの黒い列に並んでいるだろう」
広場の中を眺めながら、カリオンはボソリと呟いた。
驚いた表情のガルムが父親を見上げる。
カリオンは王でも父でも無い、1人の悩める存在としてそこに居た。
「お前にも見えるあの黒い影のような者達。私も、誰にも見えない姿になってあの黒い行列に連なり行進しているだろうな。だが、私は、私の心はいつもお前のそばに居る。いつも、寄り添っている。お前が悩む時も苦しむ時も、必ずそこに立っている。そして見守っている」
今にも泣きそうな顔をしているガルムは、ふわっとカリオンに抱きついた。
「お前に……苛烈な運命を背負わせてしまった。一時の気の迷いだったのかも知れんが、もう後戻りは出来ない」
「父さま……」
再びガルムの頭を撫でながら、カリオンは決然とした表情になって言った。
それは、何人をも寄せ付けぬ、傲岸な支配者としての姿だった。
「この秘密は誰にも感付かせぬし、誰にも悟らせぬ」
驚いた表情のサンドラが見上げる先。
カリオンは冷徹な軍人の表情になって言った。
怜悧な政治家の姿になって、きっぱりと言い切った。
「余の全てを使って完全に封じ込めよう」
それが何を意味するのかは、まだ幼いガルムにもすぐにわかった。
カリオンとその家族を護るように立つ者が、皆胸に手を当てていた。
ネコのリベラおじさんとキツネのウィルおじさん。
父さまの友達でもあるらしいブルおじさん。
太陽王に仕える最強の側近達は、頭を下げるばかりだ。
そんな、自分の為にずっと働いてきてくれた大人達。
その存在に疑念を抱いた事など、ガルムは一度も無かった。
遊びの中で気配を殺す術をリベラおじさんから学んだ。
学問の基礎を学ぶ中で魔法術の総論をウィルおじさんから教わった。
余暇のストレス解消に、剣術をブルおじさんから習った。
今のガルムは、並の大人でも中々太刀打ちできないレベルだった。
たったひとつだけ、致命的な秘密を持っている事を除けば……だが。
「ここは、余の統べる国ぞ。誰1人として、余の命には逆らわせぬ」
その横顔には冷徹な王としての威が浮かび上がっていた。
「まずはフレミナへ行く。その後、ル・ガルに徒なす者達を根切りする。ガルムもついて来るのだ。良いな」
カリオンの言葉にウィルとリベラが反応した。
だが、そんなふたりを手で制し、カリオンは事も無げに言った。
「余の初陣は8才だった。越境窃盗団を殲滅せしめた。ソレと同じだ」
カリオンはこの日初めての笑みをガルムに見せた。
「お前にはサウリクル大公の血が流れている。馬の上に生まれ、馬の上に育ち、馬の上で死ぬと呼ばれたサウリクル大公家の血筋だ。その血筋に恥じぬ姿を見せよ」
その言葉に大きく頷いたガルム。
カリオンは満足げな表情でサンドラを見た。
やや蒼白気味となったサンドラだが、それでも首肯するしか無かった。
「なに、難しく考える事は無い。ザリーツァ一門は大幅に数を減らし、他国からの傭兵団はル・ガルを去った。だが、その残党が居るかも知れない。或いはフレミナ地方の何処かでザリーツァが匿っているかも知れない。ソレを査察に行く――」
広場の中から白木の箱が消え、市民達も三々五々と撤収を始めた。
その様子を眺めながら、カリオンは自らに言い聞かせる様に呟いた。
「――いや、査察では無いな。巡幸に行くのだ。フレミナ地方の民もル・ガル市民であると、そう伝えに行かねばならない」
カリオンはジッとガルムを見ながら言った。
「余はサウリクルとノーリクル両家の血を受け継ぐ存在だ。そして、ガルム。お前はシウニンとフレミナ両方の血を受け継いでいる。お前の代でル・ガルの一統は完成を見る。ル・ガル王家6代目となるお前の代でだ」
僅かに笑みを浮かべたカリオンは、ガルムの頭に手を乗せサンドラを見た。
まるで春風のように暖かな、優しい笑みを添えて。
「誰にも邪魔などさせん。立ちはだかる者があれば、それが如何なる存在であろうと全て焼き払ってやる。例えソレがイヌであろうと無かろうと。或いは、他の民族であろうと……だ」