典医交代
春を迎えた昼下がりのガルディブルク。
暖かな陽気につられ、街行く人々の表情も明るい。
冬の終わりは南の海からの湿った空気により霧の朝となる事が多い。
だが、霧に包まれた朝が終わると、快晴の空が見えるのだ。
王都の人々は明るい表情で空を見上げ、春の訪いを知る。
ただ、この春の王都は抜き差しならぬ事情で登ってきた者が沢山存在した。
彼らはある意味、命を賭してここへ来た事を市民は知っていた。
王府の命により全国から人が集められる事がある。
それぞれの分野における大家や著名な存在などのエキスパートだ。
彼らはまず城下に宛がわれた専用の宿舎に入る。
そこで身辺調査を再度行い、それぞれの任地へと向かうのだ。
――――アンタは何でガルディブルクへ?
昼下がりのパブで美味そうにエールを呑む男は、胡乱な目つきでそう言った。
レオン家の所領地域からやって来た男は、医者だと自己紹介していたのだ。
身形の良い紳士が、まだ日も高いウチからエールを流し込んでいる。
壮年と成り仕事に追いかけ回されなくなったとは思えない歳だ。
「太陽王は城詰めの典医を直接切り捨てられたらしいので……ね」
遠回しな誰何を肴に、男は残っていたエールを飲み干した。
ただ、その一言はパブの中の空気を凍りつかせた。
だれもが『またか』と、そんな気持ちになった。
太陽王の乱行は段々とエスカレートしている。
その事実に城下町の者達が青褪めつつあるのだ。
「……太陽王は再び臣下を切り捨てられたそうだ。私も良く解らないが――」
誰もが息を呑み、その男の言葉が続くのを待った。
それほどに衝撃をもたらした言葉だった。
「――どうやら王の不興を買ったらしい。その実が何であるかは解らないが、少なくとも王の逆鱗に触れれば、一切容赦は無いと言う事だな」
――――じゃぁ……
――――あんたは……
誰かの声にぞんざいな仕草で応えて見せた男は、エールの追加をオーダーした。
「後任と言う事で紹介されてやって来た。まぁ、そんな訳の今生最後のエールかも知れんから、ゆっくり呑ませてくれ」
城詰めの典医といえば、シュサ帝の頃から勤める名医だ。
スペンサー家の庇護で医術を学んだ医師であり、博識な男だった。
そして、典医の肩書きで風を切るようなところのない、着飾らない男だった。
だが……
――――何でまた太陽王は典医を手に掛けたのさ
パブのカウンターに立っていたバーテンダーがポツリと漏らす。
少なくとも社会的に成熟しつつあるル・ガルでは、まず理由を聞くのが普通だ。
くだらないレッテル貼りや憶測による断罪は愚者の行為となじられる。
すなわち、まずは理由を聞き、そこに至る思考的プロセスを検証する。
そして、太陽王がなぜにその凶行に及んだかをイメージする。
少なくとも、激情に駆り立てられ軽はずみな行為をするような存在ではない。
そんな、思い込みにも近い信頼が市民の中にはまだ残っていた。
「私も良くは知らないが……と言うか、説明されてないが……」
男の説明は簡単なものだ。
まず、太陽王はかつてのサウリクル家夫人だったサンドラに手を付けた。
そして、公式に娶り帝后となったサンドラ妃が跡継ぎを出産された。
カリオン王は大変な喜びようだったらしいのだが、その席で何かがあった。
その実態は分からないが、少なくともカリオン王は怒り狂ったようだ。
周囲の者の取りなしも甲斐無く、その怒りは静まらなかった。
ただ、悪い事に典医の男にもプライドがあったようだ。
弁明することも無く、ならば斬れと申し出たらしい。
そして、太陽王カリオンはその手に掛けたのだという。
「まぁ、あくまで医者の勘だがね――」
空っぽになったグラスをバーテンへと返し、お代わりを所望した。
そして、そのエールを泡髭を付けてまで美味そうに呑んでいた。
「――産まれて来た子に何らかの問題があったかのかも知れないね」
新生児の医療はどんな時代だって相当に難しい事だ。
出生後から数え、満足に成人する者が半数に満たなくとも普通と言えるのだ。
そんな新生児に何らかの問題が発生した。
先天的な障害を持って生まれたとか、或いは、医者の見立てと違ったとか。
実態は解らずとも、その光景は手に取るように解る。
王は最初こそ冷静を装っていたが、やがては声を荒げたのだろう。
周囲の者達が必死に宥める中、王は腰の愛刀を抜いたのだろう。
「……素直に詫びれば良いのだろうが、どうにも医者という生き物はプライドが高くてね。謝れと言われてから謝るのは医者の名折れだよ」
クククと笑いを噛み殺し、エールを飲み干した後で溜息をこぼした。
「人生なんてままならんものさ」
その一言に、パブの中に居た男達が一杯ずつエールを差し出すのだった。
――――――――帝國歴371年3月22日
王都ガルディブルク城下町 パブ アドニスの寝言亭
温暖な気候のガルディブルクとはいえ、寒い時期には雪の降る事もある。
ただそれも、3月の声を聞けば酒場で出て来る笑い話に成り下がる。
王都を行く人々は春の訪いを感じ、遅霜を警戒するのが普通だ。
紅珊瑚海から吹き込む暖かな風は人々の心に季節の輪廻を教える。
人々の暮らしが代わり映えしなくとも、世界は変わって行くのだと教えていた。
ただ、そうは言ってもこの春はちょっと特別だ。
王都の感心はある一点に集中していた。
――――太陽王の御世継ぎが生まれたらしい……
王城からの公式発表はまだ無く、それは噂話でしかない事だった。
ただ、新年の初参内に出席した貴族たちは、王から予定を聴いたと言う。
後宮に入っていたサウリクル家の夫人に王が手を付けたらしい。
そして、恐らくは身籠もり、カリオン王は公式に帝后の座を与えたのだろう。
各地方から集ってくる商人たちは、それぞれの地元でそれを聞いていた。
そして、ル・ガル中の商人が集るガルディブルクでは、噂話が加速する。
曰く、それは間違いなく男の子の誕生だの……
或いは、フレミナ王が公式に恭順の意向を示しただの……
太陽王はフレミナ王の長子を人質に預かっただの……
城の広報役も聖導教会からも公式の宣下は行なわれていない。
だが、市民たちはその吉報を今か今かと待っていた。
この30年ほどがある意味で暗い時代だったのだ。
シュサ帝、ノダ帝と続いた太陽王の席にマダラの男が就いた。
そのマダラに楯突いたフレミナとの抗争が一応の決着を見た。
ただ、騒乱はそれでは終らず、ついには帝后の刃傷沙汰となった。
ル・ガルの各地からはバケモノ発生の話が飛び交い、市民は恐れおののいた。
事態の収拾に失敗した軍は、どうやら粛清の憂き目にあったらしい。
股肱右翼とも言うべき相国スペンサー卿はカリオン王がその手に掛けたとか。
なにより、その太陽王が城下に姿を見せなくなった。
これは何か悪いことの予兆かも知れない。
酷い問題が発生し、国が解け乱れた麻縄の如くになるかも知れない。
ル・ガルとガルディブルクの歴史は、そのまま戦争と闘争の歴史でもある。
だが、乱れる事は歓迎しかねるのだ。
早く明るいニュースを聞きたい。
そんな空気に埋め尽くされていた城下町のパブは、男の言葉で沸き立っていた。
――――お世継ぎが生まれたって言うのかい?
常連らしき男は、医者だと名乗った彗芒種の男に酒を勧めながら言った。
太陽王が殊更喜んだと言うなら、それは間違い無く男の子だ。
だが、その問いの返答を聞く為に静まり返るパブの中、男は溜息をこぼした。
それは、懊悩とも苦悩とも取れるような、そんな空気だった。
「いや、それがだな――」
彗芒種の男は差し出されたグラスの酒を飲み干し、酒臭い息を吐いた。
続々と集ってくるイヌの男たちが次々に酒を差し出している。
それら全てを受け入れ飲み干す男は、やはり暗い表情だった。
「――余りよろしくない兆候が出ているらしいんだ」
何処かの女が『よろしくない?』と語尾揚げで言葉を返した。
彗芒種の男は僅かに首肯を返しつつ、グラスの酒を飲み干して言った。
「恐らくは発育不良での出産なのだろう。驚くほど身体が小さいそうだ」
一般的に早産での出産は、新生児医療の弱い環境だと危険だ。
医療系魔術の未発達な世界では、イヌに限らず夭逝しかねない事態だった。
そして、その子は外でもない太陽王の長子として生まれてきた。
ル・ガルと対峙する国家にしてみれば、すぐにでも暗殺してしまいたい存在だ。
典医はその生まれたばかりの亜子を悲観したのかも知れない。
或いは、ル・ガルの未来に暗い影を見たのかも知れない。
強い存在が王で無ければならぬ。
運の強い存在が太陽王であるべき。
半ば不文律として存在するそんな認識が典医を追い詰めた。
或いは、臣下の誰かに唆され、太陽王は激怒されたのかも知れない。
――――あんたは見たわけじゃないんだろ?
念を押すように誰かが確認を求めた。
彗芒種の男は空になったグラスをバーテンへ返しつつ、大きく首肯した。
「私もレオン家の当主に指示を受け参内した次第だ。持てる限りの力を注ぐ覚悟は出来ている。だが、斬り捨てられるのは歓迎しないんだよ……」
辛そうな表情で笑った男は、手近にあった豆を摘まみながら言った。
昼下がりな店の中は、まるで冬の様に冷え切った空気だった。
――――ただまぁ、御世継ぎが生まれたってのは目出度いじゃないか!
すっかり老成し、白髪混じりとなった老人が闊達に言った。
それは、長きに渡り世を見つめてきた者の漏らす本音だ。
世の中は、大体の事がまぁ、なんとかなるように出来ている。
ことさら深刻に感じる事態でも、辛さは一瞬でしかない。
「あぁ。お子は間違いなく生まれたようだ」
彗芒種の男は首肯しながらそう呟いた。
外でもない太陽王の跡取りなのだ。
それが目出度くなくて、なにが目出度いのだ。
本来であれば国民全体が熱狂するようなニュースの筈だった。
――――今頃はアチコチの貴族が参内一番乗りを目指してるぞ?
ゲスい笑みを浮かべてそう言った老婆は、グラスに残っていた酒を飲み干す。
貴族にとっては主家となる王の歓心を買う事こそ最大の努力目標。
だが、ここでいそいそと参内すれば、同じように斬り捨てられかねない。
王府からの公式発表がない以上、勝手な参内はありえない。
この情報をどこから聞いた?と、詰問されかねないのだ。
「まぁ、いずれにしろ、王の典医として俺は城に上がる事になった」
彗芒種の男は辛そうな表情で言った。
通常、城詰め典医は1年中を城の中で過ごす事になる。
城詰め典医とは、ル・ガルにおける医者の頂点として存在するのだ。
太陽王の側近衆に加えられ、王府の者以外との接触は禁じられる。
暗殺や機密漏洩を防ぐため、死ぬまでそこを離れられない。
何一つ不自由のいない絶大な権力を持つ、座敷牢の住人。
そんなポジションへとやって来た男は、もう一度盛大に溜息を吐いた。
――ところで、アンタの名前は?
「私はダニエル。ダニエル・アンスリウム」
ダニエルと名乗った彗芒種の男は、フラリと席を立った。
「再び生きて城を出られたら、また来るよ」
幾許かの硬貨をカウンターへと並べ、ダニエルは城へと向かった。
その背には、悲壮なまでの覚悟が溢れていた。
※慧芒種=コリー犬のような容姿。≒名犬ラッシー。折れ耳