ふたつの夫婦の決断
~承前
どよめきがスッと納まった時、ロシリカは胸を張って言葉を続けた。
北からの使者として堂々たる立ち振る舞いだった。
「その、世紀の覇業に参加したい。フレミナの一門はオオカミでは無くル・ガルの国民として加わりたい。我が父オクルカは500年の恩讐を乗り越え未来へと一歩を踏み出すときだ……と」
ロシリカは胸に左手を当て、右の腕を大きく外へと伸ばした。
そして、大業な様子で上半身全体を倒すように頭を下げた。
大広間の中にいた者全てが息を呑む展開に言葉を失った。
最も単純な表現をするなら、フレミナの全面降伏を意味した。
つまり、オオカミはイヌを信用する……と、オクルカはそう言ったに等しい。
「これは、過日我が父が太陽王より下賜いただいた太刀の御礼ならびに、王の覇業に貢献せんとするフレミナ家からの献上品として、どうかお納めください。昨年後半より北部山岳地帯の総力を挙げ生産しました、高純度の玉鋼にございます」
玉鋼。
それは戦に使われる太刀を拵える上で不可欠な素材だ。
ル・ガルでは主に、砂鉄と木炭から生成された玉鋼を生産する
だが、フレミナでは山から掘り出される鉄鉱石を使っていた。
ただ、鉄鉱石を酸化還元するには、やはり炭が必要だ。
酸化鉄の酸素をどうやって還元するかが玉鋼生産の肝だった。
「……驚いたな」
薄笑いのカリオンはその玉鋼に目を細めた。
木炭では無く石炭を使い生産される玉鋼は、本来のものとは特性が異なる。
だが、そこにフレミナの魔法学が加わることにより、驚くべき変化を見せる。
折れず欠けず粘り強い特性を遺憾なく発揮する北方産の玉鋼。
その強靱さは、散々と太刀を合わせたカリオンがよくわかっている。
「ロシリカ。この献上の答礼に余は何を贈れば良いと思うか?」
「ならば王よ。どうかこの鋼を太刀とし、その一振りをどうか下賜ください」
ロシリカの願いは単純だ。
父と同じく、太陽王の紋章が入った太刀が欲しい。
それこそ、ロシリカが僅かに見せた、強烈な出世欲の発露だった。
ただ、それを欲と誹るのは間違いだとカリオンは知っている。
北部山岳地帯出身の若者が王都へと上がり、4年を過ごしたのだ。
明るく華やかで賑やかな王都の暮らしを思えば、山へは帰りにくいだろう。
――――ここに居たい……
その無言の要求を、カリオンは誰よりも分かっていた。
自分自身がそうだったように、ビッグストンを抜け出し街で遊んだ少年なのだ。
――懐かしいな……
目を細めたカリオンはしばし思案し、結論を案じた。
脳内にある様々な事案が動き、その歯車がカチリと噛み合わさった。
「ならばロシリカ。その太刀が出来上がるまで、この城で修行すると良い」
「はい?」
「もうすぐこの城へレオン家の跡取りがやって来る」
小さな声で『あ……』と漏らしたロシリカ。
カリオン王の企みを見抜き、ニヤリと笑った。
「では、レオン家へ修行に行って参ります」
「そうだな。しばらくはこの街に滞在するだろう」
ウンウンと大袈裟な首肯を見せ、カリオンは満足げに笑った。
思えばあのどこか頼り無げな若い王も、老練な政治家の風貌になり始めた。
侯爵家や伯爵家の貴族達は、この時点で悟った。
なぜ帝國老人倶楽部が誰1人言葉を発さないのか。
このタイミングでロシリカが献上品を持ってきたのか。
王は全て根回し済みだった。
たったそれだけの事だが、それでも全員が微妙な顔色となった。
王は何一つ事前に知らせること無く動いている。
その事実に対するそこはかと無い不快感と不満。
王の信頼を得ていないのでは無いかという不安。
忠臣中の忠臣。股肱の臣。
あのジョージ・スペンサーを斬り捨てた王。
その王の無聊を囲えば、自分自身が斬られるかも知れない。
――――くわばらくわばら……
誰もがそんな事を思ったとき、カリオンはスッとサンドラの上着を取った。
するとどうだ。ゆったりとした衣服のラインに隠れていたものが露わになった。
見事なまでに膨らんだサンドラの腹部に、皆の視線が集まった。
「典医の見立てでは、どうやら男の子らしいが……」
静かな口調でそう呟いたカリオン。
その直後、大広間にはどよめきと拍手が沸き起こった。
「……あぁ。ありがとう。ありがとう。みな、すまぬな――」
カリオンの言葉が拍手と喝采の中に流れる。
「――王の持つ義務をまた一つ、果たした気がするよ。少しだけ、ホッとした」
実際、太陽王にとって最も重要な責務はひとつしかない。
後継者を残すこと。次期王を誕生させ、王権の禅譲を成し遂げる事。
始祖帝ノーリより続く万世一系のアージン朝王権こそがル・ガル安定の礎だ。
そしてそこにオオカミとの和解が加わった。
これ以上何を望むのか……と、誰もが思うのだった。
「余の目指したル・ガルの改革は、まだまだ道半ばと言うところだ――」
おもむろにそう切り出したカリオン。
その声を聞いた諸侯らがスッと静まり返る。
王の言葉を聞こうとする体制になり、カリオンはサンドラの背に上着を掛けた。
身重の女が身体を冷やすのは宜しくない。そんな気遣いが見えた。
「――我が子には、余の考えを受け継ぎ、更に発展させる事を期待している。この30年を掛けて行なってきた国政改革への準備もほぼ終った。間もなく諸侯らが驚くような――」
サンドラの背から手を回し、そっと抱き寄せたカリオン。
それほど身長差のないカリオンとサンドラのシルエットが重なって見える。
「――大きな変革を迎える事になる。貴族と平民の関係も大きく変わるだろう。軍のあり方も大きく変わるはずだ。だが、それらの本質は些かもぶれる事はないし、余は未来への責任を果たす覚悟ぞ」
未来への責任。
その言葉を聞いた諸侯らの中に、露骨に表情を強張らせた者がいた。
それは、あのジョージ・スペンサーの遺した言葉だからだ。
太陽王は軍を解体しようとしている。
そんな危機感を持った中堅士官達が秘密結社を募っていたのは公然の秘密だ。
カリオンは検非違使と六波羅探題を使って軍の内部を探っている。
軍の下士官や王派と呼ばれる者も秘密結社を探している。
一心会と呼ばれるその組織は、驚くほど幅広く軍内部に存在していた。
ジョージ・スペンサーは『未来への責任』と言う言葉で炙り出したのだ。
一心会の首魁と呼ばれた者や支援する実力者たちを……だ。
それらを集め、一堂に会したところで焼き払って粛清した。
それで全てが終ると誰もが思ったのだが、実際はそれが全ての始まりだった。
「余の方針に沿えぬならば、それもやむを得ない。万民全てが納得でき政策など無いのだ。だが、10人のウチ8人がそれで幸せならば、余はそれが良いと思う。或いは8人ではなく7人でも6人でも良い。致命的な次元で不利益を被る者が2人程度であれば、それらを救済し、その上で過半数を幸福へ導けばよい」
それは驚くほどに合理的な発想だ。
だが、理にかなっているし、なにより前進しようとしている。
伝統とは墨守する事では無い。常に改善し続け、よきモノを求める精神だ。
カリオン王はそれを目指している。その事実を皆が飲み込んで欲しい。
そんな事をサンドラは思っているのだった。
「その一環として、余はこの女性を妻と娶る事にした」
カリオンの胸に顔を埋め、サンドラは僅かに恥ずかしそうな様子だった。
そこにあるのは紛れもない、愛ある姿だと誰もが思った。
ただそれは、実際には果てしない話し合いの結果だった。
カリオンとリリス。トウリとサンドラ。ふたつの夫婦が席を同じくしたのだ。
リリスが呼んだ夢の世界の草原で、サンドラはリリスから懇願されていた。
――――あなたと兄の子をル・ガルに下さい……
サンドラは最初、子供だけをカリオンに届けるつもりだったらしい。
だが、それに噛み付いたのはトウリだった。
どういう訳か、夢の中で火が付いたかのように怒った。
――――俺はこのまま朽ちていけば良い!
――――だが、サンドラは日の当たる場所へ救い出してくれ!
その言葉に、当のサンドラが誰よりも驚いていた。
ただ、そんな事を意に介す事無く、トウリは興奮した様子でまくし立てたのだ。
「……俺の子を連れて行くならそれでも構わない。だが、少なくともサンドラにはそれなりの待遇を与えてくれ。このまま闇に呑まれて朽ち果てさせるには余りに可哀想だ。そうだろ? なぁ? そう思うだろ? カリオン!」
トウリが何を言いたいのか。
それを最初に読み取ったのはリリスだった。
「……そうよね。そうすれば聖導教会の連中も黙らせる事が出来る。そうよ、それがいいわ。ねぇカリオン。サンドラを正式に后に迎えて上げてよ」
リリスの言葉にサンドラが慌てふためいた。
いきなり何を言い出すんだ?と、驚くばかりだった。
だが、リリスは至極真面目な顔で言った。
「私はもう二度と表舞台に立つ事が出来ないんだから、例えそれが演技だったとしても、あなたを支える人が必要よ。サンドラだってズッとその為に生きてきたんだからさ。報いて上げてよ。女が道具にされるのは、もうこりごり!」
それは、偽らざるリリスの本音だった。
ただ、それに対しサンドラは終始狼狽していた。
どう反応して良いのか解らない状態だった。
「……私は」
自分の意見よりも全体の利益。
それこそがフレミナの、いや、オオカミの社会の全てだった。
平地に降りられぬ一族は山に産まれ山に暮らし、そして、山で果てる。
そんな者達は自然と滅私奉公を強いられる事になる。
全体の利益の為に。厳しい環境で一族が生き延びる為に。
彼らは自分の心を殺してでも全体と調和する事を選んでいた。
それ故だろうか、サンドラはなんと言って良いのかわからない。
自分の心が何を考え、どう判断しているのかですら混乱を来した。
「サンドラはカリオンが嫌い?」
「決してそんな事は! でも……」
終始狼狽するサンドラは、ひとつ間を開けて言った。
「私で良いのかな?って。だって、リリスさんだってあれだけ大変な思いをしていた帝后って立場は、私に勤まるかどうか」
誰にだって不安はある。
その不安を乗り越えるのは気合と覚悟だ。
遠い日、リリスはビッグストン大講堂でカリオンと再会し、そこで腹を決めた。
公衆の面前で自らの全てを詳らかにしたカリオンの覚悟に絆されたのだ。
だからこそ、サンドラにもソレと同じセレモニーが要る。
「新年祝の席で発表すれば良いんじゃ無い? その時、他の貴族の反応を見れば良いよ。表だって反対するのなんて絶対居ないから。それに、居たら居たで――」
リリスは凄みのある笑みを見せてサンドラを見た。
「――私が取り殺してやるから大丈夫」
キヒヒと凄みのある笑みを見せたリリスは、文字通りに魔女だった。
夢の中と言う事を忘れ、サンドラはその姿に見入った。
「……サンドラ。形ばかりの夫婦かも知れないが、帝后の座に就いてくれるかい」
カリオンはトウリに目配せしてからサンドラを見つめて言った。
その顔にサンドラが見入ってしまうのは、ある意味やむを得ないことだった。
どこか神秘的で、ややもすれば物語に出て来る想像上の人物のようだ。
なにより、押し潰されそうなプレッシャーの中を飄々と生きてきたのだ。
全てに絶望しそうな現実と戦ってきた男なのだ。
「リリスさんが影の側から支えるなら、私は日の当る側でお支え致します」
「ありがとう……」
サンドラの手を取ってそこに自らの手を重ねたカリオン。
その表情には一抹の寂しさが混じっているのを皆が感じた。
「リリス。ゴメンよ。こんな事になって」
「良いのよ。それに、私より兄さんが心配よ?」
リリスはニコリと笑ってトウリを見た。
「嫉妬に狂って馬鹿なことしないでね?」
その言葉がいつまでもサンドラの心に残っていた。
周囲が思う以上にトウリは繊細でナイーブな存在だった。
二人の妻を気遣うカリオンは、間違いなく難しい舵取りを迫られる。
だが、同じようにサンドラは二人の夫を思わねばならない。
「ごめんなさい。あなた」
「バカ言うな。能無しの夫ですまなかった。お前は日の当たるところを歩け」
トウリの言葉に涙を溢れさせたサンドラ。
それを見たトウリは立ち上がり、妻をそっと抱きしめた。
「カリオン。サンドラを頼む」
「あぁ」
それは、ル・ガルの為に必要なことだ。
個人の思いや感情に関係なく、国家と国民にとって必要な事。
国家の命運を預かる者達は、その運命から逃れる事など出来ない。
――――大切にするよ
その言葉はサンドラの心を温めるスープのようだった。
「……この一年。いや今年から先、ル・ガルは大きく変わるだろう」
カリオンは広間に集った諸侯を前にそう言い切った。
太陽王による現状変革の通告は、唐突に始まった。
そしてこれは、王に反旗を翻しかねない者への最後通告でもある。
「諸侯らの協力無くしては出来ぬ事だ。次の100年を、1000年を。イヌの一族が安定した平和を享受する為の算段だ。利害の絡む事ではあるが、諸侯らの理解が得られると、余は嬉しく思う」
サンドラの肩を抱きながら、カリオンはそう言った。
諸侯らは拍手を送りつつ、微妙な表情になって王を見つめるのだった。