次元の魔女<04>
~承前
水面に立つその姿に、ジョニーはすっかり心奪われた。
それはまるで、寝物語に出て来る妖精の様だと思った。
鶏の卵ほどでしかない姿だが、それでも立派に人の姿をしていた。
まだ幼い子供の体型そのものだが、紛れもないイヌの姿をしているのだ。
「怯えてるのか?」
「迷っているようにも見えるな」
ジョニーの言葉にアレックスがそう返してきた。
小さな姿をした子供は、どこか不安そうな様子で辺りを見ていた。
「ここはどこ?」
小さな声だが、それでもちゃんと聞き取れるのはさすが夢の中だ。
ジョニーが見ている前、オクルカは水盤に近寄って腰を屈めた。
「そなたがこれからやって来る世界ぞ」
オクルカは静かな口調で言って聞かせた。
そのオクルカをつぶらな瞳が見上げていた。
「……僕は産まれて良いの?」
その小さな子供は不思議そうにオクルカを見上げ、それからカリオンを見た。
この場においての権力順序を理解しているのかとジョニーは驚く。
「なにか心配事でもあるのか?」
カリオンは優しい声音で問い掛けた。
出来る限り子供が怖がらないように、そっとだ。
だが。
「僕が産まれたら……世界が壊れちゃう」
子供はモジモジとしながらも、はっきりとした口調でそう言った。
世界が壊れるってどう言う事だ?と首を傾げたジョニー。
不意に目をやったアレックスも考え込む素振りだった。
「なぜ世界が壊れるのだ?」
「僕は……破壊と渾沌の申し子だから」
カリオンの問いに対し、子供はそう答えた。
そして、一度足元を見てから、もう一度カリオンを見上げた。
「お父様もお母様も僕は産まれて来ちゃいけないって」
まるで救いを求めるような眼差しの子供はジッとカリオンを見ていた。
ただ、カリオンはやや困った表情で言った。
「あのふたりがそう言ったのかい?」
「うん」
「なんでそう言ったんだい?」
「カリオンって人に迷惑をかける人間じゃ困るって」
「……そうか」
子供の言葉にカリオンは苦笑を浮かべ、その実を思った。
トウリとサンドラのふたりは、カリオンの役に立つ事を愚直に願っている。
それは、あの二人の罪の意識ゆえだとカリオンもわかっていた。
リリスの身篭った子は死に、リリスも死に、カリオンはひとりだ。
そんなカリオンの為に、養子となる子をサンドラは産むと誓った。
始祖帝ノーリの血統は絶えるが、ノーリの弟サウリの血が残る。
そして、ノーリもサウリも同じ男を父として生まれた異母兄弟だ。
フレミナの血が混ざる事になるが、それもまた時代の流れ。
カリオンはそれを問題にしていなかった。
「ならば、何の心配もなく産まれてくると良い」
「え?」
カリオンの言葉に驚いて顔を上げた子供は、呆然とした表情でカリオンを見た。
だが、その眼差しの先にいるカリオンは、静かに笑って言った。
「余がそのカリオンだ」
「あ……」
パッと表情を変え、子供は花のように笑った。
まるで太陽のような笑みだとジョニーは思った。
「余はそなたの養父となる。余は太陽の地上代行者ぞ。何の心配も要らぬ」
まるで眩しいものでも見るかのように目を細めた。
「いいの?」
「あぁ。良いぞ。何も心配は要らぬ」
子供はコクリコクリと頷き、そのままスッと消えてなくなった。
その姿を見送ったカリオンは、リリスをギュッと抱き締めた。
「さて。どうするか」
「未来の子供に逢えたってって凄いね」
「あぁ」
水盤に翳していた右手を引っ込め、リリスはカリオンの背に手を回した。
細身で華奢なその身体つきに、ジョニーは遠い日に見たレイラを思った。
「ただ、少々気がかりですな」
オクルカはやや沈んだ声でそう呟くように言う。
それは当のカリオンですらも思っていた。
「遭っちゃったって事にならなきゃ良いな」
アレックスは際どい言い回しで本音を言った。
子供が言った内容に懸念を持っているのだ。
「世界が壊れるってどういう意味だ?」
「……なんとも言えんな」
ジョニーの言葉にカリオンが応える。
世界が破局を迎えるのか。それとも、この国に災難が降りかかるのか。
少なくとも、あまり良い事では無いのは確かだ。
そうでなければ、世界が壊れる……などと表現するはずがない。
「まぁ、いまから困る事は無い。困った時に困れば良いのだ」
何となく蟠った重い空気を吹き払うようにカリオンは言った。
その姿を眩しそうにウォークが見ていた。
カリオン政権は磐石だ。
それを見て取ったジョニーは、ル・ガルの繁栄が続く事を確信した。
「さて、続きは何が見られるんだ?」
「そうだな。リリス、続きをやってくれるかい?」
ジョニーは期待を込めた言葉を言い、カリオンはリリスにそれを促した。
黙って頷いたリリスは再び水盤に向かい、意識を集中して術を使った。
言葉やジェスチャーや、そう言ったわかりやすいモノではない。
自己対話のような深い集中力と干渉力を必要とする術だ。
リリスは自然と真剣な表情になり、皆は黙ってそれを見つめた。
「……うーん」
水面を見つめていたリリスはフッと顔をあげ、カリオンを見て首を振った。
それは否定を意味するジェスチャーだが、何をどう言いたいのかはわからない。
「どうした?」
「わからないけど……何かが邪魔をしている」
「なにか?」
「うん」
リリスの邪魔をする程の存在がいる。
ジョニーはそれを知っただけでも儲け物だと思った。
この世界は広く、まだまだ自分の知らない事はごまんとあるのだ。
妻を労わるようにしているカリオンと、その期待に応えようとするリリス。
このふたりが磐石で愛に結ばれていると知れただけでも今宵は満足だ。
「そろそろ終りにしようか」
「……ごめん。やっぱり月が弱いんだと思う」
「仕方がないさ」
「でも……」
何かに懸念して居るらしいリリスの様子が変だ。
そう思ったジョニーだが、無駄に口を挟まない方が良い事もある。
「ならば、コレは片付けましょう」
オクルカは水盤へと近寄って手を伸ばした。
その時、それは起きたのだった。
「ん? なんだお前たちは」
水面の向こうに人影があった。
イヌのようにも見えるし、それ以外の様にも見える。
それほど大きな体躯ではなく、また、強靭そうな身体でもない。
だが、そこには桁外れな魔力の存在があるらしい。
オクルカの用意した水盤を遥かに凌ぐ大きさの水盆越しだとジョニーは気付く。
「……ほぉ。コレだけの事をする者が我ら意外に居るとは」
「だが、おぬしらには少々過ぎた持ち物じゃ」
この独特のイントネーションには聞き覚えがある。
ジョニーは必死で考えたのだが思い出せない。
「面白いモノをもっておるのぉ」
「だが、身に余るものじゃ。こちらへよこせ」
「いまにおぬしの身を沈めてしまうぞぇ」
水盤の向こう側。
水盆を取り囲む者達の姿が一瞬だけはっきりと映った。
思わず『あっ!』とジョニーは叫んだ。
それは、ル・ガルの当方に暮らす種族。キツネだった。
ル・ガルとは全く異なる社会文化と魔術文化を持つ種族だった。
「ほれ……」
キツネの1人が水盆に符術の札を浮かべた。
次の瞬間、水盤の水面から激しく炎が立ち上った。
「そうか。そなたらは夢中術でやっておるのか」
「夢の世界でなければ出来ないようではまだまだじゃの」
「身に余るモノなど棄ててしまえ」
全く無警戒な様子でキツネの1人が水盆に手を突っ込んだ。
その手は水盤の上にヌッと突き出てきて手招きをした。
だが、その直後にオクルカが叫んでいた。
「ふざけるな! させるか!」
オクルカの腰から漆黒の剣が抜かれた。
それは、見ているだけで背筋が寒くなるような禍々しさに溢れた剣だ。
光を一切反射することのない、まるで深い闇のような剣だ。
その剣が一閃したとき、水盤から突き出ていた手が切り落とされた。
ポチャリと音を立てて水に沈んだその手首は、水盤の向こうのキツネが取った。
「なんと言う禍々しきものよ」
「この距離にあって手首を落とすとはの」
「そうか。イヌの国の次元の魔女とはそなたのことか」
キツネたちはこちらを見ながら思い思いに声を上げていた。
その姿を凝視していたジョニーは、『ヒッ!』と短く悲鳴を漏らした。
赤袴に白装束のそのキツネは女だ。
若い女にも見えるが、それは妖術の類だとすぐに気が付いた。
そのキツネには、尻尾が7本あったのだ。
「バケモノめ……」
ジョニーがそう漏らした時、水盤がバンッ!と音を立てて弾けた。
夢の中へ直接攻撃してきたと気が付いたとき、ジョニーはハッと目を覚ました。
レオン家邸宅の奥深くにあるジョニーの寝室には小さな灯があった。
その灯がフニャリと姿を変え、キツネの形になった。
――マジかよ……
思わず息を呑んだジョニーの目の前、炎の形をしたままのキツネが言った。
――――いずれその身を焼き滅ぼすほどの災厄がそなたに訪れる
――――それは、あの存在自体がありえない者達の起こすことだ
――――お主は取り殺されるぞぇ
炎がフッと元の形に戻った。
薄暗い部屋の中、ジョニーはジッと闇を見ていた。
あの水盤の向こうに居た、七尾のキツネを考えながら……