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ル・ガル帝國興亡記 ~ 征服王リュカオンの物語  作者: 陸奥守
少年期 ~ 出逢いと別れと初陣と
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八歳の夫婦

 ゼルが出征してから二カ月。

 五輪男の書いた手紙がエイラに届いた。


 出掛けた先でも文字の練習を欠かさない五輪男のまめさにエイラが笑う。

 どこまでも真面目な男の書いた文字は、どこかチャラいゼルのそれに比べ特徴的だ。

 文字のフォルムそのものに五輪男の為人(ひととなり)が滲み出ていた。


「順調の様ね」

「そうですね。星の巡りも良いし天候も安定している。あまり心配は無いでしょう」


 ゼルと五輪男はシウニノンチュに残っていた一個連隊を率いて出撃していった。

 定数三千人強なのだが、街の警護に人員を残した関係で二千人弱と言う定数欠損を起こしている。

 だが、山岳地域を苦にしない屈強の男たちは、順調に山や森の中を掃討し続けている。

 何度か送られてきたゼルとワタラの報告を読むエイラの言葉に、エイダとリリスは安堵していた。


「あなたの言葉を信じるわよ?」

「歓迎いたします」


 ウィルとの緩い会話をしつつ、エイラは遠くの空を見ていた。

 雲ひとつ無いシウニノンチュの空は、青く深く黒々と沈むような印象だった。


 ふと、ワタラが言った空の果ての話をエイラは思い出す。


『空はドンドンと登って行くと、その内空気が無くなるんですよ。そして、上に飛び上がっても落っこちなくなるんです』


 世界の果てには何があるのだろう?

 馬か船が自力以外の手段全てな世界だ。

 想像力の果てるところが、世界の果てより手前にまだある世界だった。


「ところで子供たちは?」

「さて、今何処でしょうね?」

「子供たちの世界の果てかしらね」


 ウィルは空中に小さな印を切って、それから魔力回路を開いた。

 空中に映像が浮かび上がり、遠見の魔法でリリスの姿が映し出された。

 肩を触れ合わせるようにして座っているリリスとエイダ。

 だが、その視点位置は酷く高い。


「これは…… 大鐘楼だわ」

「遠くが見える場所ですな」


 街で一番高いところに行ったエイダとリリス。

 二人で梁に腰掛けて、街の遠く遥か彼方を眺めていた。

 

 甘く熟れた夏みかんの実を食べながら、エイダはリリスと遠くを見ている。

 空高いところを飛ぶ鳥が鋭い鳴き声を響かせている。

 僅かしかない雲が流れ、暑い風が吹きぬけていった。


「今日も帰って来ないね」

「そうだね」


 ウィルの授業をリリス一緒に聞く様になったエイダだが、何日かに一度は聖導協会の大鐘楼へ登っていた。街の中ではここが一番高い場所なので一番遠くが見えるのだ。


 振り返ればそこには統一王ノーリの作った鐘がある。中央平原(ミッドランド)を平定し、フレミナ族との決戦に勝利したノーリが(こしら)えて戦勝記念に奉納したという鐘。

 この鐘はエイダが生まれた日、誰も引き紐を引いて無いのに鳴り続けたらしい。

 そんな話を聞いたからだろうか。

 エイダにとってこの鐘は親近感を感じる友人のようなものだった。


「この鐘でしょ? エイダが聞えるって言う鐘は」

「うん」


 リリスとエイダは鐘をジッと見た。

 子供の小さな身体などすっぽりと入ってしまいそうなサイズの鐘だった。


「どんな時に音がするの?」

「なにか事件がある時とか、人が死ぬ時とか。あと、良く無い事が起きる時かな」

「そうなんだ」


 エイダの耳にだけ鳴り響く鐘の音。

 その音がする時は、だいたい良くない事が起きる。

 まるで未来を知っているかのように、鐘はエイダに教えるのだった。


「あのね。実はとう様が出発してから何日目か後なんだけど……


 遠くを見ていたエイダはおもむろに内緒話を切り出した。

 思い詰めたような表情のエイダをリリスがジッと見る。


 ゼルがワタラを連れ出征して行ってから三日目の夜のことだった。

 突然鐘の音がエイダに聞こえ、そしてゼルが矢を受けて死ぬ夢を見たのだった。


「……ほんとに?」

「うん」


 広い広い平原を進むゼルとワタラ。

 揃いの甲冑を身につけ、同じ漆黒のマントをはためかせている。

 その頭には顔まですっぽりと隠す兜を乗せている。

 傍目に見ればどっちがゼルでどっちがワタラだか解らない状態だ。


 そこへ突然、矢が飛んできた。

 その矢はワタラの兜をかすめ地に落ちた。

 その僅かな様子にゼルの護衛達は一斉にワタラを囲んだ。

 敵に本物を覚らせない手順の一つだった。


 だが、この時。

 ワタラを囲んだ護衛達は相手が全くの素人だと認識していなかったようだ。

 あっと言う間に矢が降り注ぎ、護衛達が必死で矢を叩いた。


 その最中、的をはずした矢がゼルの肩口へ突き刺さったのだ。

 自力で矢を引き抜いたゼルは『大事無い』と言い平然としていた。

 だが、暫くして突然馬から落ちたのだった。


 矢に毒が塗られていた。

 従軍していた軍医が慌てて薬草を使ったのだけど、毒は既に全身へ回ってしまった。

 ゼルは寒気に震えながら譫言を繰り返した。


『エイダ…… エイダ……』


 そこでエイダは目を覚ました。

 泣きながら飛び起きて、そして遠くの空をみたのだった。

 払暁の空に一筋の流れ星が横切って、エイダはゼルが死ぬ事を確信した。


「とう様はガタガタ震えながら、最後にワタラの手を取って言うんだ」

「なんて?」

「エイダとリリスを頼むって」

「……ゼルさま」


 エイダの手がギュッとリリスの肩を抱いた。

 僅かに震えているエイダをリリスも抱きしめた。


「ねぇリリス。この事は誰にも言わないでくれる」

「うん」

「ほんとだよ。絶対内緒だよ」


 リリスはまっすぐにエイダを見て頷いて、そして、エイダの肩を抱いた。

 その様子に少しだけエイダは安心した。


「どっか行こうよ」

「え? どこへ?」

「エイダしか知らない場所がいい」

「リリスは後でおこられない?」

「大丈夫」


 リリスは精一杯の笑顔でエイダを見た。

 自分に気を使っているんだと子供心にエイダは思った。

 その気遣いに答えなきゃいけないことは分かっている。

 リリスのリクエストにエイダはしばらく考えた。


「よし! 霧の谷へ行こう!」

「霧の谷?」

「うん。近くに滝があって、いつも霧が出てる谷なんだ」


 エイダはリリスの手を引いて走り、レラにまたがって街を出た。

 いつもと違う方向へ走り、尾根を越えてボルバに流れ込む小川沿いに走った。

 見事な馬裁きを見せるエイダの背中にリリスは張り付く。

 

 やがて川沿いにうっすらと霧が漂い始めて、リリスはエイダの服をぎゅっと握った。

 その僅かな仕草に、エイダはリリスの不安を悟った。


 だが、その霧の中でもレラを操ってエイダは走りつづける。

 ふとリリスが気が付いた時、辺りは真っ白な霧の中だった。

 自分たちの周りは禄に視界がない、ミルクをこぼした様な霧の中だった。


「……すごい。真っ白」

「滝があるから霧が晴れないんだって」

「ずーっと?」

「前に風の強い日、一度だけ霧が無かった事があったけど」


 遠くに滝の音が響く場所だった。レラの足が半分ほど隠れる草原だ。

 しばらく進んでいくと、大きなイチイの樹があった。

 そこで二人は馬から降りた。

 イチイの樹が先端まで見えないほどの霧に包まれた草原だった。


「この樹は草原の真ん中に生えてるんだ。一本だけ」

「そうなんだ」

「滝の音がするほうへ行っちゃダメだよ。いきなりガケになってるから」

「うん」


 エイダはイチイの樹にレラの手綱をくくり付け、腰から小刀を出した。


「ここで待ってて。ちょっとサワツルゴケの実を取ってくるから」

「……うん」

「絶対ここから離れちゃダメだよ。迷子になるから」


 少しだけ不安そうな返事をしたリリス。

 エイダは精一杯の笑顔で言う。


「レラ! リリスのそばに居るんだぞ!」


 そのまま霧の中へ消えていったエイダ。

 リリスは不安そうにその背中を見送った。

 樹の周りではレラが盛んに草を食べていた。

 草には霧の雫がたくさん付いて水分が多いのだろうか。

 レラはイチイの樹のウロに溜まった水を飲んで、また草を食べ始めた。


「ねぇレラ。お腹空いてるの?」


 リリスは近くの草をたくさんちぎってレラに食べさせた。

 レラが好きそうな柔らかい草の青葉を引き抜いては食べさせた。

 ムシャムシャと食べ続けるレラを構いながら時間をつぶしていたリリス。

 ふと見ると、イチイの樹に真っ赤な実が付いていた。


「レラ。これも食べる?」


 イチイの若芽と一緒に真っ赤な実の付いた部分を与えたリリス。

 レラは同じようにむしゃむしゃと食べてしまった。


「レラは食いしん坊だね。フフフ」


 楽しそうに笑ったリリス。

 レラはその後もムシャムシャと葉っぱを食べ続ける。

 やがて繋がれた辺りの葉っぱを食べつくし、レラは小さく嘶いた。


「そうだね。エイダ遅いね」


 再びレラが嘶いた。

 さっきよりも大きな声だった。

 その僅かな違いだが、リリスはレラの異変を感じ取った。


「レラ? どうしたの?」


 再び嘶いて、それから大きく首を振り、身体をゆすって嘶いた。

 何度も何度も同じ動作をして、だんだんと苦しそうになり始めている。


「レラ? レラ?」


 だんだんと不安になり始めたリリス。エイダはまだ戻ってこない。

 レラは苦しそうに大きく息をしながら、フラフラと歩いている。


「ねぇ? レラ? どうしたの?」


 不安そうに声をかけたその時だった。レラは突如大量に嘔吐した。

 吐き出される胃の内容物には真っ赤な血が混じっていた。

 何度も何度も嘔吐を繰り返し、しばらくして、ストンと腰を突いてしまった。

 そしてそのまま地面へ倒れ動かなくなった。


「レッ! レラ! レラ! レラァァァ!」


 レラの腹をゆするリリス。

 レラは苦しそうに再び嘔吐した。

 何度目かの嘔吐の後、レラは動かなくなった。


「レラ……」


 言葉に出来ない不安感に駆られたリリスは精一杯叫んだ。


「エイダ! レラが大変!」


 遠くからは滝の音が聞こえている。

 相変わらず視界は真っ白だった。


「エイダァァァ!!!」


 涙目になってリリスは震えた。エイダはさっきどっちへ行ったんだっけ?

 霧の中で辺りを見回すリリス。草原の中に咲くサワシロスズの花が風に揺れた。

 真っ白の花が霧に解けていくようで、より一層不安になったリリス。


「……エイダ!」


 涙声になったリリスはエイダの名を呟いた。

 相変わらず遠くから滝の音が聞こえてくる。


 ――――エイダを探しに行こう! 

 ――――このままじゃレラが死んじゃう!


 そう決心したリリスは勇気を出して霧の中を数歩進んだ。

 途端に視界がホワイトアウトしてしまい、方向感覚を失ったリリス。

 だが、立ち止まったらダメだと思い、とにかくまっすぐ歩く事にした。

 しばらく進んで何も見えず、不安のほうが大きくなって来た道を戻る。

 

 だが、歩いても歩いても、レラが横たわってるはずのイチイの樹が無い。

 再び振り返って歩き始めたリリスは同じようにしばらく進んだ。

 しかし、やはりイチイの樹が無い。


 ――――場所が分からなくなった!


 不安は恐怖を呼び、僅か八歳の幼子はパニックを起こす。

 理屈ではなく恐怖に駆られて走り始めたリリス。

 もはや自分がどこへ向かっているのか分からなくなっていた。


 ふと、耳の中にエイダの声がよみがえる。

 『絶対ここから離れちゃダメだよ。迷子になるから』

 エイダの優しい声を思い出してリリスは泣きじゃくって走った。


「エイダ! エイダ! レラが! レラが! エイダ!」


 場所も方向もわからず、真っ白な草原の中でリリスは立ち止まった。

 もう家にも帰れない。そんな絶望に駆られた少女は草原に立ち尽くした。

 絶対に離れちゃダメだと言われ、迷子になるからと言われ。

 それでも走り出してしまった自分の浅はかさを少女は思い知った。


「……エイダ」


 一言そう呟いたリリスは、泣きながらとぼとぼと歩き始めた。

 何の当てもなく。真っ白な草原の中を。フラフラと、適当に。





 同じ頃。





 イチイの樹へ戻ってきたエイダは、レラが大量に嘔吐してるのを見つけた。

 吐き出された内容物の大量の草の中に、イチイの実が入っているのを見つけた。

 イチイの樹はその葉と種子の部分に毒がある。

 馬を下駄代わりにしている者なら誰でも知っている知識。

 実の部分こそ甘いが種子は人にも馬にも猛毒だ。

 だから馬は自分からイチイの木を食べない。

 

 だが、軍馬の血を引くレラは人に与えられるものなら何でも食べる。

 飼い葉おけに入っているものを全部食べて水を飲んで寝るのだ。

 だからエイダはすぐに悟った。

 

 リリスがレラに間違って実を食べさせ、レラが嘔吐して気を失ったのを見たのだ。

 そしてそれをレラが死んだと勘違いして、パニックを起こし走り出してしまった。

 かつて自分も同じ事をしたことがあるのだから、間違いないと悟った。


 イチイの実の急性中毒はサワツルゴケの実を食べさせると良い。

 そうヨハンに習っていたエイダはサワツルゴケの実を自分の口で噛み砕いて、そしてレラの口の中へと入れてやった。

 ゆっくりと飲み込んだレラは身体を震わせて再び嘔吐を始めた。

 これをするなら助かるから問題ない。

 そう言われたのを思い出し、何度か繰り返したエイダ。


 五回もやった後には、レラがシャンとした顔になり始めた。


「よし!」


 しっかりとイチイの樹に手綱を縛り付け、エイダは再び小刀を抜いた。

 霧の中で小刀の刃に耳を当て、僅かな音を聞き取り始める。

 金属の表面で残響する音を探しだす手法は、父ゼルが教えていたのだった。


 刹那、エイダの耳が何かを捉えた。

 衣擦れの音だった。


 ――――こっちだ!


 霧の中を歩き出したエイダは五歩ぶん歩くごとに草を抜いていく。

 草原の中に土が見え、それが目印になるのだった。


 ――――どこだろう?


 僅かな音を探して歩くエイダ。

 ややあって霧の中にリリスの匂いを捕らえた。

 鼻が利くイヌなら嗅ぎ分けられる匂いだった。


「リリス!」


 精一杯大きな声で叫んだエイダ。だが、その声は滝の音にかき消されてしまう。

 それからまたしばらく歩き、やがて草の中にリリスの強い匂いを感じた。

 草の中にリリスの漏らしたオシッコが残っていたのだった。

 あまりの恐怖に漏らしたのだと気が付いたエイダは、地面に這いつくばって匂いをたどって行った。

 

 マダラの姿をしていても、イヌはやっぱりイヌなのだ。

 その僅かな匂いをたどって行くと、どこからか女の子の泣き声が聞こえた。


「リリス!」


 再び精一杯叫んだエイダ。

 今度はどこか遠くから声が聞こえた。


「エイダァァァ!!!!」


 目をつぶって音のする方向へ歩き始めたエイダ。

 ワタラの教えた闇の中の歩き方だ。


 ――――いいか? 音は二種類しかない。安全な音と危険な音だ。

 ――――音を聞き分けるようになると良い。暗闇の中で生き残れる。


 再びエイダは叫ぶ。


「リリス!」

「エイダァ!!!」


 今度は随分近くで声がした。

 だがその声は動いていた。


「リリス! リリス! 動くな! 動くな! 止まって!」

「エイダァァァ!!!!!」

「止まるんだ! 必ず見つけるから! 必ずそばに行くから! だから動くな!」

「エイダ! ここ! ここに居るの!」


 目をつぶったままエイダは草原を歩いた。

 何歩か歩いて草を抜き、そして再びリリスの声がする方へ向かって。


「リリス!」

「エイダ!」


 だいぶ声が近くなった。

 慎重に草を抜きながら歩いていくエイダ。

 やがて、草むらの中にうずくまって泣くリリスの声がはっきり聞こえだした。


「リリス! もうそこへ行くよ!」

「エイダ 早く来てよぉ!」


 慎重に音を探りながら歩いていくエイダの身体へ、急に何かがぶつかった。

 驚いて目を開けたエイダ。そのまん前には泣きじゃくるリリスが居た。


「エイダ! レラが!」

「レラにイチイの実を上げたろ。あれ食べると泡を吹いてひっくり返るんだ」

「レラ死んじゃった!」

「死んでないよ。死んでない。もう大丈夫。レラのところへ行こう」

「でも、どこだか分からない」


 泥汚れの付いた服で泣いているリリス。

 エイダはそんなリリスをギュッと抱きしめた。


「大丈夫だよ! 僕が付いてる!」


 エイダはリリスの手を引いて歩き出した。

 自分で引き抜いた草の目印を一つずつ埋めながら。


「リリス。あそこから絶対動いちゃいけないって言ったじゃないか」

「でも、怖かったの」

「だけど、絶対動いちゃいけないんだよ。霧の中は目印がなくなるから」

「どうやって私を見つけたの?」

「音を探したんだ。ワタラが教えてくれた」

「ワタラが?」

「そう。そして、霧の中で迷子にならない方法も」


 草を引き抜いた目印をたどって行ってイチイの樹まで戻ってきたエイダ。

 レラは元気になっていて、再び草を食べていた。


「たくさん草を食べてたみたいだね。それでレラは助かったよ」

「ごめんねレラ」


 リリスは優しくレラの身体をなでた。

 そんなリリスの頭をレラが小突く。

 馬の愛情表現だった。


「リリスにもハイ」

「なにこれ?」

「サワツルゴケの実だよ。甘くておいしいんだ」


 小刀で割って食べたリリスとエイダ。

 甘い実の味にリリスはやっと笑顔になった。


「さて、帰ろうか」

「うん」

「リリス」

「なに?」

「また今度ここへ来たときは、迷ったら動いちゃダメだよ」

「うん。分かった」

「必ず見つけるから、だから迎えに行くまで待ってて欲しいんだ」

「うん。そうする」

「絶対だよ?」

「うん。絶対待ってる!」


 レラの上に乗ったリリス。その前にエイダが跨った。

 霧に沈む草原だが、エイダは迷わず走り出した。


「なんでエイダは帰り道が分かるの?」

「心の中で強く念じるんだ。鐘よ導け!って。そうすると、鐘の方向から音が聞こえて来るから、それに向かって走るんだ」


 霧の中を走っていくレラ。

 やがて霧がだんだんと薄くなり、小川沿いの小道へ出た。

 太陽が降り注ぎ、青い空が見える。


「僕の話を信じる?」

「うん。だってエイダは嘘を言ってないもん」


 レラの馬上。リリスの口がエイダの耳近くへ寄った。


「私ね。嘘をついてる人が解るの」

「ほんとに?」


 リリスはこくりと首を縦に振った。


「嘘をついていると、その時に鈴の音がするの。チリチリってうるさい鈴の音」

「じゃぁ」

「うん」


 リリスはどこか困った様な顔をした。


「ガルディブルクのおうちにいるとね。毎日毎日鈴の音ばかりするの。だから、本当はここへ逃げてきたの」

「どうして」

「お母様の声に鈴の音が聞こえたから。お父様の声にも」

「なんで? なんでリリスに嘘をついてるの?」


 リリスはちょっと俯いてから精一杯涙目になって、そしてエイダに抱きついた。

 いつも感じるリリスの匂いの中に花の香りでは無い生き物の香りをエイダは感じた。

 レラを止め、エイダはリリスを自分の前に座らせた。


「私のお母様はたぶん…… ヒトなの」

「うそだ! うそだよ! そんなの!」


 リリスは首を左右へ振った。

 驚くエイダを前にして、リリスは涙を流した。


「お母様がね、私に言うの。あなたはイヌだからって。だけど私は知ってるの。私はどこへもお嫁に行けないし、イヌじゃ無いから誰も貰ってくれないし」


 驚きのあまりにリリスをジッと見たエイダ。

 そのエイダの前で涙をボロボロと流し泣き出したリリス。

 エイダはどうして良いか解らないまま、リリスを力一杯抱きしめた。


「わたしは……


 なにかを言おうとしたリリスの口をエイダの唇が強引に塞いだ。

 びっくりしたリリスだけど、エイダにされるがままに任せた。


「他に誰か知ってるの?」

「ウィルは知ってる。わたしが間違った事を言うと、ウィルはいつもすぐに『違う』って言うんだけど」


 リリスはもう一度首を左右へブンブンと音が聞こえる程に振った。


「ウィルが何も言わなかったのはこれだけなの。だからきっと」


 エイダはリリスの目をじっと見た。

 耳の中に鐘の音が聞こえた。

 

 何時もの物悲しい音じゃなく、祝福するような音だった。

 間違い無くエイダにしか聞こえていない音だった。

 その時、エイダには全てが真っ直ぐに繋がるイメージを持った。


 リリスの顔に掛かる髪を掻き分け、まだあどけなさの残る少女の顔を見つめた。

 流れる涙を指で拭いながら。


「リリス」


 エイダの声にリリスは目で答えた。


「僕の本当のとう様はワタラだ」

「……エイダ?」

「僕の言う事に鈴の音は聞こえる?」

「聞こえない」

「じゃぁ、きっとこれは本当なんだ!」


 リリスの顔を強引に引っ張ったエリスは、その頬に自分の頬を付けた。

 柔らかくて優しくて良い匂いがするリリスの頬に、エイダは癒やされる。


「よかった」

「なんで?」

「ワタラが父さまだったら嬉しいってずっと思ってたんだ」


 エイダの目が遠くを見た。

 思い詰めたような表情にリリスはエイダの懊悩を見た。


「僕がまだ歩くように成る前、シュサじぃとワタラの話を聞いたんだ。ワタラに無理を言ったってシュサじぃが、謝ったんだ。そして、死ぬまで内緒にしてくれって。僕は死ぬまで独りぼっちだと思ってた」


 一人ぼっちの意味をそのままストレートに理解したリリス。

 エイダの目がまっすぐにリリスを見ていた。


「リリス! 大好き!」

「わたしもエイダ大好き!」


 まだ幼いエイダに夫婦と言う特別な関係を理解出来る訳はない。

 だが、エイダはこの時、目の前の女の子が生涯を共にする存在だと思った。


 それはゼルとエイラの関係だ。

 どんな事でも隠さず話が出来る二人だ。

 エイダは思った。

 間違い無く最高の『友達』だと。

 涙ではなく笑顔が溢れたリリス。


 その一部始終を見ていたウィルとエイラ。

 遠見の魔法とて万能ではなく、二人は首を傾げていた。


「なんの話をしたのかしらね」

「遠見の魔法は音を聞き取れませんからね」

「声を聞く方法は無いの?」

「お嬢さまが首に掛けている首飾りが魔力媒体ですからねぇ」


 溜息混じりなウィルの言葉にエイラも苦笑いだ。


「音を聞くなら別の物が必要です」

「そうなんだ」


 残念そうなエイラは三白眼でウィルを見た。

 疑うような眼差しとも言えるのだが。


「どうかされましたか?」

「王都で一番の魔法使いにも出来ない事があるんだってびっくりよ」

「魔法使いは神では無いのです。不可能は確実にあります。それをどう減らすかが魔法を研究する者にとって永遠の課題なのです」


 どこか嘲笑気味なエイラの言葉だったが、ウィルは真摯に答えた。

 誠実な言葉を一つ一つ積み重ねる事でしか人の信頼は得られない。

 ウィルは長い長い人生の中で、そう結論を得ていたのだった。


「お、二人が動きましたね」

「まるで夫婦ね」

「しかも理想的な夫婦です」


 ウィルの魔法越にリリスを見たエイラ。

 ある意味でエイダ以上にリリスを嫁だと認識していた。


 風を切って走っていくレラ。

 その背に乗って笑うエイダとリリス。

 お似合いにお二人じゃ無いかとエイラは感極まって見ている。

 声は聞こえなくても、何を話しているのか位は解る。

 楽しそうに笑う二人は草原の中を駆けていった。


「ずっと一緒だよ!」

「うん!」

「ずっとだよ!」

「ずっとだね!」

「ずっとだ!」


 風のように走るレラが(いなな)いた。

 二人の誓いを祝福するように。

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