手紙
幾度目かのデートの帰り道。エイダとリリスは農場の近くで人集りが出来ている所へ遭遇した。あの賊に追跡された時以来、常時護衛と称してお目付役のヨハンが付いてきているのだが、それはもうすぐに慣れた。
基本的には余り干渉しない方針と思われるヨハンは、ウィルや五輪男達から『子供がやりたい様にやらせて欲しい。危ない時だけ干渉して』と過保護を戒められている。
――――困難を解決する経験を積ませたいのです
ウィルの言葉はシンプルだった。ヨハンもそれは重々承知だった。
だが、五輪男はとんでもない言葉を吐いた。
――――多少痛い思いをさせたい。腕を折るとか足を折るとか。
――――魔法で回復出来る範囲なら死にかけたって良い。
――――無茶をして、その結果痛い目に遭って、それで学ぶでしょう。
――――リリスが死にかけるような事をやってくれるのが一番良い。
――――後悔は後から悔やむから後悔って言うんだと、そう学ばせたい。
最初、その言葉にウィルが一番驚いた。だがすぐに五輪男の真意を見抜く。
少々の事ではウィルがリカバリーしてしまうようでは、失敗したと子供達も思わないだろう。だからこそ、手遅れで取り返しが付かない事をしたと言う経験が必要なのだと。後から泣いて喚いて悔やんでも、全て手遅れで諦めるしか出来ない事を経験させたい。
黙って五輪男を見ていたウィルは、このヒトの男が自分とは違う手段で『王』を育てているのだと気が付いた。そして、心の内で唸った。
――――さぁエイダ。君の手腕を発揮させましょう
遠見の魔法でリリスとエイダを監視していた……
いや、見守っていたウィルは静かに笑った。
「どうしたの?」
最初に声を掛けたのはリリスだった。エイダのまたがる馬の後ろに乗った幼い娘。農夫達は最初に怪訝な顔をした。
だが、そのエイダのすぐ後ろにいたイヌの剣士や騎士達が同じ服装で付き従っているのを見れば、その正体は自ずと察しが付く。
「家畜が足りないんだよ。昨日の夜と比べたら三頭位減っているんだ。沢も森も探したんだけど、迷子になっている様子が無い」
農夫達がお手上げの姿勢でウンザリとしていた。
乳を搾り毛を刈って売る為の巻毛牛は立派な角を活からせて鳴いていた。
「ねぇヨハン。この牛だと柵を跳び越えるのは無理だよね?」
「そうですね。殿下の馬なら跳び越えられますが」
いつぞやの事を根に持っていると驚いたエイダ。軽いジョークのつもりだったヨハンだが、ばつの悪そうな顔をしたエイダを見れば、してやったりという所か。
だが、ヨハンが口にした『殿下』という言葉に、農夫はエイダとリリスの正体を知ってしまった。
「坊ちゃん。もぅすわげねンですが……」
農夫は酷い北部訛りだった。
初めて北部訛りを聞いたリリスは目を丸くした。
「うん。解った。チャシへ帰ったらそう報告する。ただ、本当にどこかで迷子になってるかも知れないから、探してみたら――
そんな事を言ってる時、遠くから若い男の声がした。
慌てた叫び声だった。
「居ったどぉー! 死んでらぁ! 腹っこねぐねってる!」
農夫が走り出す前にエイダは馬を返して加速させ、柵を跳び越えて農場を突っ切って行った。その後ろを見事な馬術でヨハン達が付いて行く。柵に囲まれた大きな放牧場を横切り森の入り口へ馬を寄せると、茂みの中にムワッとした血の臭いを感じた。
エイダの背に座っていたリリスの腕がギュッとエイダの胸を締めた。
「ヨハン。これ、刃物で斬ってるよね」
「そうですね」
馬を下りたヨハンがじっくりと牛の切り口を確かめる。少なくとも相当に刃の立っている長刀で無ければこうは斬れないだろうと言う切り口だった。
「ヨハン。チャシへ帰ろう。リリスも」
「……うん。でも、ちょっと待って」
ぴょんと馬から飛び降りたリリスは、近くの茂みから少しばかりの花を摘んできて牛の上に備えた。死んだ家畜にも花を手向ける心根の優しさに皆が驚く。
「……行こう」
「あぁ」
エイダの意思を汲んだのか、レラは腹を蹴られる前に走り出した。
勢いを付けて柵を跳び越えチャシへと向かうエイダ達を農夫が見送っていた。
■ ■ ■ ■ ■
同じ頃。チャシの中ではゼルと五輪男が珍しく口論していた。
話を聞いていたエイラは五輪男の側だった。
「いや、だからな」
「だからも宝もあるか。何の為に留守番扱いになってると思ってんだ」
「そりゃそうだが、これも王家の男の義務だぜ」
「義務というなら俺が行く。ゼルの身代わりだからな」
ゼルの手には数枚の手紙が握られていた。紙が貴重なル・ガルで手紙を差し出せるなど、相当限られた人間の特権と言って良い。普通は羊皮紙や牛皮紙、または木簡を使うのが一般的だ。そんな世界で遠慮無く紙を使えると言えば、それは察しが付く。
「ノダ兄さんもまめね」
「全くだ。心配なんだろうね、エイダが」
手紙の差出人は北伐遠征中のノダ。
貴重な紙という事もあってか、手短な内容だったが中身は重大だ。
────北伐中に賊を取り逃がした
――――シウニノンチュ生活圏へ侵入したから気をつけろ
要約すればそんな所だった。
「ちょっと前にエイダが連れてきた連中は人攫いけいだったな」
「あぁ。俺が最初に落ちたときに、何も解らず世話になったよ」
「ワタラが売られる前で良かった」
あっけらかんと笑うゼル。心配そうな五輪男とのコントラストがエイラには面白かった。
「で、だ」
ゼルは揉み手で壁のシウニノンチュ地図を眺めている。北方系種族との暫定国境までは森林地帯か山岳地帯。馬で回れば数日と言うところか。
「チャシに残っている騎兵と歩兵を引き連れ戦線を敷く。そのまま北へ押し上げ北部山岳地帯へ押し込み、そこから包囲の輪を閉じて一網打尽にしよう。取りこぼすと面倒を残す事になる。一気に攻め上って暫時殲滅して行くのが良かろう」
そんな言葉に五輪男は深く深く溜息を付いた。
「なぁゼル。俺の話聞いてたか?」
「当たり前だ。一緒に行くんだろ?」
「……あのなぁ」
「良い機会じゃねーか。ついでにアチコチグルグル回って女房探せよ」
ゼルの口から出た言葉に五輪男は隠し様の無い不快感を浮かべた。
この世界へやって来て早くも十三年になる。その間、ずっと探し続けているのだが手掛かりすらないと言うのは異常だと思っている五輪男は、ある一つの仮説を立てていた。
ウィルが研究する時間軸転移がもし本当に可能であるなら、それは何らかの偶発的原因で魔法が発動し、超自然的な力が励起されなくとも時間軸を飛び越えてしまうかもしれない。
つまり、妻琴莉は全く違う時間世界へ飛んでしまったか、さもなくば、とんでもない過去へ行ってしまったのかだ。もし仮に琴莉が過去へ飛んでいたら、何らかの痕跡を残しているかもしれない。そんな一縷の望みをかけて様々な文献や古老らからの聞き取りを行っている五輪男。
その姿勢をゼルやエイラは『ワタラは妻の生存をもう諦めている』と捕らえていた。本人は決してそんなつもりは無いのだが、周囲の印象はそんな程度だ。五輪男としては、多少早い時間軸へ落ちた琴莉が何処かで捕まり、売り飛ばされて何処かでまだ生きている。そんなシナリオを期待しているのだが。
「まぁ、ワタラの女房が居るかどうかはともかく。あ、いや、どうでも良いって意味じゃ無い。ただな、シウニノンチュへ盗賊団や女衒団が入り込んでいるのは問題だ。何らかの処置をしないと、実害が出てからじゃ困る」
この地をシュサ帝から預かる立場なゼルなのだから、住民サービスの一環として生活の安全を担保する事は任務の内と言って良いことだ。
「父上!」
悩まし問題を抱えていたゼル達のところへエイダが帰って来た。今日もリリスと手を繋いでやって来た姿に、ゼルやエイラが静かに笑った。
「どうしたエイダ。今日は早かったな」
不自然な笑顔のゼルにエイダとリリスは何かを見抜く。
「なにかあったのですか?」
不安げな声のリリスが先に訊ねた。
その隣でエイダも子供らしい不安げな表情だ。
「実はな。北へ行っているノダから手紙が来ている。盗賊団がここへ来ているかもしれないと言う事だ」
「あなた達も出かける時は気を付けなさいね」
ゼルとエイラの言葉にリリスとエイダが顔を見合わせた。
「さっき街外れの農場まで行ったら牛が殺されていたんだ」
「昨日の夜にはいた牛さんが今朝は居なくなっていて探したって」
エイダとリリスの報告に続いてヨハンが報告する。
「農夫の話では今朝方より牛の数が足らず、各所を捜索したら森の茂みの中に惨殺された巻毛牛の死体を発見したようです。各所に鋭利な切り傷がありました。腹部を完全に断たれており、泣き声を上げる前に殺されたようです。もし仮に職業剣士であれば相当の腕前です」
一度目を切って床に視線を落としたゼル。
隣にいたエイラは子供たちに歩み寄って二人の顔を抱き寄せた。
「あなた達も見たの?」
エイダとリリスが頷く。子供が見るべき光景じゃ無いと五輪男も思う。
トラウマに成らない様にしてやら無ければならない。そう気を使ったエイラ。
リリスは胸の前で左手の拳を右の手で包むようにして震えている。
「牛さんかわいそう」
「そうね。痛かったでしょうね」
「うん」
涙を浮かべているリリスを見ていた五輪男はふと、その仕草に妻琴莉を思い出した。
何か悲しい事があると、いつもあのポーズで涙を浮かべていた。リリスと同じ年端の頃から付き合っていた妻なのだ。ふと、エイダに猛烈なライバル心を感じた自分が可笑しかった。子供相手に大人げ無いなと苦笑いを浮かべ、その直後に雷に打たれるほど驚いた。
俯いて涙を拭ったリリスは、右手首を使って零れた涙を払った。やや下向きになったリリスの顔は、五輪男にとっては琴莉そのものに見えたのだった。イヌ耳と尻尾を持ち、口を開けばヒトとは違う歯並びで鋭い牙――犬歯――を持つリリスなのだが、その幼い顔立ちは子供の頃に見た琴莉とそっくりだった。
――――まさかっ!
――――いや違う。そんな筈は無い!
冷や汗を流すほどに驚いた表情の五輪男。その仕草にウィルが怪訝な顔をしている。
「どうか、されましたか? ワタラ殿」
「いっ いえ…… なんでもありません」
精一杯の作り笑顔でウィルを見た五輪男。
だが、不自然に緊張している姿は誰の目にも明らかだった。
「ところでウィルさん」
「なにか?」
「リリスの母親と言うのは」
「あぁ、彼女は特殊なんですよ。記憶が無いんです。相当な思いをしたのではないでしょうか。記憶が断片的で尚且つ掴み所の無い部分が多いんです。まるで夢物語を語ってるような部分があって、しかも、そのありえない記憶に本人が苦しむ悪循環です。私もあれこれ試したのですが、何も思い出せませんでした」
「そうですか」
「それがどうかしましたか?」
五輪男は少し首をかしげ、眉根を寄せて床を見た。
「まぁ、たわ言と聞いてください。子は親に似ます。これはそういう仕組みになっているんです。ヒトの世界での常識として、まぁ、説明すると長いんですが、そう言う仕組みになっているんですよ。ですが、新しい命が生れ落ちる時に引き継ぐ物は容姿といったモノですけど、後天的に受け継ぐモノもあります」
ウィルが興味深そうに話を聞いている。
「例えば性格。慎重な人と大胆な人。子は親に似るか正反対に成るかのどちらかが多いです。それともう一つあるんです。それは普段の仕草です。些細な事なんですが、その人を特徴付ける動きってあるんですよ。例えば、ゼルの場合、ウソをつくときは目から表情が消えます。隠し事が出来ないんですよ」
五輪男の言葉にゼルが驚いた顔をしている。
エイラは静かに笑っていた。
「それと同じでね。リリスの細々とした仕草を見ていると、妻を思い出すんです。本当に良く似ている」
「そうですか。他人の空似とは言え、恐ろしいことですね」
「全くです。ヒトとイヌの間に子供が出来る訳が無いのに。そう思って、今ふと思ったんです。リリスの母は妻の生まれ変わりじゃないだろうか?と。記憶を断片的に残しているんじゃないかと」
何気なく言った五輪男の言葉にウィルが微妙な表情を浮かべた。
何処かバツの悪そうな、少なからぬ狼狽の混じった表情だ。
五輪男の目がエイラを見た。エイラは目だけで『スルー』を意思表示した。
ホンの僅かな間の気まずい空気だたが、ゼルは声色を変えてエイダを抱き寄せた。
「エイダ。しばらくワタラと出掛けるが、あまり無茶をするんじゃないぞ」
「え? お出掛けって…… ワタラも?」
「あぁそうだ。それにヨハンも連れて行く。お前も見たと思うが、盗賊が入り込んだ」
エイダの顔から表情が消えた。
それを不思議そうにリリスが見ている。
「まだ本格的に何か悪さをしているわけじゃ無い。でもな、ちゃんと討伐しておかないと色々困る。お前が見たように家畜を殺されたりするのは始まりだ。その内、人攫いや農場荒らしがでる。街へ入り込んで強盗や泥棒をするかもしれない。だから早めに手を打つ。ここに残っている兵士を連れて行って来るから」
リリスの手を握っていたエイダは、その手をゼルの腰へ廻した。
ギュッと抱きしめて泣き出す一歩前になった。
「とう様! 行っちゃダメだ! いまは行っちゃダメ! いま行ったら死んじゃう!」
「だーいじょうぶだ! エイダは大袈裟だな。何を泣いてるんだ。死にはしない」
「違うんだ! とう様死んじゃうんだよ! いま行っちゃダメなんだ!」
エイダが迫真の声をあげてゼルを引き止める。
その姿にゼルは優しく微笑んだ。父を引き止める息子の迫真の演技に見えた。
だが、五輪男は過日、シュサ帝が倒れられた日の事を思い出す。
あの時にもエイダははっきりと言った。ゼルが戦で死ぬと。
五輪男もまた緊張した表情でゼルを見る。
「俺が言うのもなんだけど、やはりゼルは行くべきでないと思う」
「ワタラまでどうしたんだ」
「ヒトの世界じゃ虫の知らせっていうんだけどな。なんだかゼルの影が薄く見えるんだ」
五輪男の言葉に驚いた皆が床に落ちた影を一斉に見た。
開け放たれた窓から差し込む柔らかい光の中にうっすらと影が落ちている。
薄いといわれれば確かにゼルの影が薄い気もする。
乱反射の影響と笑う事も出来るレベルではあるのだが。
「さてはお前らグルになって俺をチャシに閉じ込めておく算段だな!」
アハハハ!と笑ったゼルだが、その後でグッと腕を組んでエイダを見た。
「エイダ! お前ももうすぐ十歳だ。俺もお前もマダラに生まれたから、何かと風当たりが強い。俺は十歳で初陣へ出た。マダラでも役に立てる事を皆に教えたかったんだ」
ゼルの手がエイダの頭に乗せられた。
不安げな表情でゼルを見上げたエイダ。
そのエイダの手をリリスが握り締めた。
「お前はお前を好きでいてくれる人を護らなきゃならない。もうちょっと大きくなったら護るモノもちょっと大きくなる。そして俺はいつの間にか、ここを。シウニノンチュを護らなきゃいけないんだ。お前もいつかそうなる」
エイダを抱きしめたゼルはリリスも一緒に抱きしめた。
「大人になると色々大変なんだ。だけどな。それから逃げちゃいけない。それに立ち向かえ。あとな」
エイダとリリスを順番に見たゼル。
優しい微笑みにエイダの眦から涙がこぼれた。
「リリスを大事にしろよ。ワタラは未だに後悔してるんだ。女の子は大事にしろ。一番大事にするから、男も大事にしてくれるんだ。面倒だよな。男って生き物は」
子供達を抱きしめていた手を緩め一歩下がったゼル。その表情には戦を前にした男の気迫が漲っていた。
「ヨハン! 戦の支度だ。ワタラも連れて行く。行軍の準備は三ヶ月。今すぐ掛かれ」
バルコニーへ出て谷間の街を見下ろすゼル。
その背中に決意の炎を五輪男は見た。
「ここもル・ガルだ。我らが祖国、イヌの国土を蹂躙する者は一切容赦しない。それがアージンの男に課せられた使命だ。いつか、俺の後に続け。良いな。エイダ」
眩しい空をバックにしたゼルの表情はエイダからは見る事が出来なかった。
ただ、決意を秘めたゼルのその立ち姿のシルエットを、エイダは終生忘れる事は無かった。