苛烈なる運命・後編
~承前
「……すまぬ。少々混乱しているから簡潔に答えてくれ」
カリオンはウィルを見ながら言った。その目には炯々とした疑惑の色があった。
手玉にとって弄んでいる。或いは弄ばれていると言う警戒感が滲んでいるのだ。
ただ、その眼差しを見たウィルは、ハタと気がついた。
カリオンは幼いときから他人の嘘や誤魔化しを正確に見抜く子だった。
だからこそ、誤解の目は早く摘まねば禍根を残す元となる。
何より、とんでも無い権力を持っている存在なのだ。
自分自身は元より、魔法使い全てが被害を被りかねないと考えた。
「……何なりと」
「そなたらの師である尾頭は、いったい何のために不老不死を求めたのだ?」
カリオンにはそれが理解できなかった。
ただ単純に欲で死にたくないと思った訳ではなさそうだ。
もっと大きな目標や夢があったのではないか?
なんの根拠もないことだが、直感としてそう考えたのだ。
「簡単に言えば限界への挑戦って所だろうさ。尾頭は別に高慢な目標があった訳じゃない。研究者の欲ってとでもいうのかね。ただ単純にやってみたいって……」
問われたウィルでは無く、その近くに居たセンリがそう応えた。
ただ、センリはそう言いつつも、ふと何かを思い出したように笑った。
「大事なことを忘れていたよ」
「……大事なこと?」
「あぁ。大事なことさ」
センリの目がウィルを捉え、そのウィルはハクトを見た。
尾頭の三高弟全員がアイコンタクトし、ハクトが呟くように言った。
「尾頭は……ヒトだった」
「……え?」
ハクトの言葉にカリオンは驚きの声を上げた。
そして、驚いたのはカリオンだけでは無かった。
この部屋に居た全ての魔術師達が一斉に引きつった表情になった。
全ての魔導の始祖がヒトだったと言う話は、誰もが初めて聞いたのだ。
「まさか……」
「そんな……」
「まさか……」
誰もがそう呟く中、ウィルはボソリと切り出した。
「尾頭は……自分の世界へと帰ろうとしたのです。ヒトの世界です。ただ、コレは後になって解った事ですが――」
ウィルはカリオンを見ながら真剣な表情で言った。
「――ワタラ殿やレイラさまが居た世界では無いようです。どうもヒトの世界というのは複数あるようですね」
ウィルの言葉にカリオンは首を傾げた。
「……どういう事だ?」
「尾頭はそれを世界線と表現しましたが……」
ウィルはリリスの傍らを離れ、すっかり模様の無くなった床に線を引いた。
そして、その前に立ち、聞き入る者達に講義を開始した。
「世界は1つでは無い。それはもはや説明する必要もないことでしょう。ヒトの世界からこの世界へと落ちて来た者達を見れば、それは自明の理と言える事です。ですが同時に言えるのは、ヒトの世界も1つでは無いと言う事です――」
ウィルは床に引かれた線の一つへと丸をつけた。
そして、その隣の線には三角を。その隣には四角を。更にその隣には星マーク。
その画を見る者は直感的に理解した。この世界がひとつでは無いと言う事を。
「――つまり、我々のこの世界が、たまたまヒトが居なかっただけのことです。尾頭はこの境を飛び越え、異なる世界線へとやって来てしまったのです。理由は解りませんが、本来は飛び越えられない壁を飛び越えてしまったのです」
ウィルの言葉を聞いていたカリオンは、ハッとした表情を浮かべていた。
その顔を見ていたウィルもまた、僅かに表情を変える。
長年顔をつきあわせ、膨大な話をしてきた者同士だからこそ……
「……もしやと思うが」
「恐らくは、王のお考えになったことが真実でしょう」
「では、父はそのとばっちりで……」
「恐らくは……」
グッと奥歯を噛みしめたカリオンは、己の無力さに震えていた。
どうにもならない事態で、どうにもならない事象が発生する。
そしてそれは、本人どころか数多の世界を横に貫く悲劇の根幹……
「……それ、なに?」
ヴェタラが素の言葉でそれを訊ねた。
魔道に関わる者ならば、誰でも知りたいと思う核心部分だと思ったからだ。
「この世界が幾つも存在すると言うのは、本当に良い表現です。そして――」
ヴェタラの声に応えたのはハクトだった。
両手を左右に広げ、まるで天秤の様にして見せた。
「――この世界の真実として、複数の世界線は絶妙のバランスで成り立っていると言う事です。異なる世界線へ何者かが転移した時、転移先の世界線では魔素が魂一つ分だけ多くなります。つまり、均衡が崩れるわけですね。それを補正しようとする力が働いた時、望まぬ転移が発生する。我々はそう考えています」
ハクトはカリオンをジッと見ながらそう説明した。
それを聞いていた太陽王の表情がグッと厳しくなるのを見ながら……だが。
「……では、単純に言えば、この世界からヒトの世界へと転移した者の影響か?」
厳しい表情のままカリオンはそう呟く。
だが、ハクトは首を振った。
「いえ、問題になるのは転移ではありません。要するに、何処の世界線でも、命の総量は決まっていると考えて良いと思います。天秤の双方が同じ重さなら釣りあうように、複数の世界であっても、いずれの世界においても命の総量が同じになるように、平均になるように……」
ハクトは広げていた両腕を閉じて、身体の前に大きな玉を抱える様を見せた。
まるで大きな樽でも抱えているかのような姿は、どこかコミカルでもあった。
だが、ハクトはその大きな玉が萎むような仕草を見せた。
「……あっ」
「そうです」
カリオンの呟きをハクトは肯定した。
僅かな間が開き、センリは何処でもないところを見ながら言った。
「この世界にある命と魂の総数は、尾頭のかさなりの研究で減ってしまった。それを埋め合わせる為に、異なる世界から呼ばれたのかも知れないねぃ……」
「いずれの世界線にしても、魂の総数は均衡が取れている平均状態と言う事です。ところが、この世界だけ減ってしまった……」
センリとウィルはそう説明した。
それを聞いていたカリオンは、リリスの傍らに腰を下ろしてリリスを見ていた。
健康的な肌色の頬に手を寄せ、苦悶の表情に悲しみを添えていた。
「なぁリリス。レイラさまと父上は、吸い込まれるようにこの世界へ来たんだよ……きっと……だけど、魂だけは向こうの世界へ帰ったことだろうさ……」
消え入りそうな声で『置いて行かないでくれ』と、そう呟いたカリオン。
奥歯を噛み締め、眠り続けるリリスの顔をジッと見ていた。
「……いえ、お嬢様は……いや、お嬢様だけでなく王陛下もこちらの世界の住人でしょう。ただ、ワタラ様とレイラさまは異なりますが――」
ウィルの言葉に顔を上げたカリオン。
その眼差しを受けたウィルは、怯むことなく言った。
「尾頭は常々言っておりました。この世界へと来てしまったのは単なる事故だと。来たくて来た訳では無いから、必ず自分の世界へと帰ると。ですが……狙って世界線を越える魔法は、結局形になりませんでした」
萎むように溜息をこぼし、首を振りながらウィルは言った。
「それどころか、迂闊に使えば、全く意図しない形で転移が発生する始末でした。尾頭は研究を続け、やがて一つの結論に達します。質量を持たない魂でしか、世界線は越えられない……と」
もう一つ溜息をこぼし、やや項垂れつつ言葉を続けた。
「全く異なる時代に、想定していない世界線から、乱数的なデタラメさで魂の跳躍を行ってしまう欠陥魔法しか実現出来ない。尾頭はそう自嘲していました。世界線を自在に越えられるのは、きっと神だけでしょう。そして、神の定めた摂理はどうやっても乗り越えられない。それでも神に挑んだ尾頭は、実験を繰り返しました」
不意に顔を上げたウィルは、カリオンを真っ直ぐに見ながら言った。
「尾頭は異なる世界から魂を召喚したんです。呼ぶ事が出来れば飛ぶ事も出来るはずだ……と、そう考えたのでしょう。その結果として私は違う世界線から次元の壁を越えてこの世界へとやって来ました。私を含めたこの3人は、全て別の世界から来た者たちです」
ウィルはついに自分自身のカミングアウトを行なった。
カリオンを含め誰もが驚きの表情になったのだが、ウィルの言葉は止まらない。
「私は異なる世界線の上にいた、実体の無い存在でした。その正体がなんだか分かりませんが、尾頭の研究によってこの魂がこの世界へと来たのです。そして、この世界の中で新しい身体を得て、尾頭の弟子となりました」
ウィルの目が室内にいたセンリとハクトに注がれた。
その2人もまた、薄笑いでカリオンを見ていた。
「私はウィルとは違う世界から来ました。私の始まりは、異なる世界にあった時間の管理者だった者です。その時代の記憶は殆どありませんが、確実に覚えている事が一つあります。それは、世界を流れる時間が止まった世界から飛んできたと言う事です」
時間が止まった世界と言う表現にカリオンは首を傾げた。
だが、そんな疑問を解消する前にセンリは口を開いた。
「あたしは……最初から男の遊び道具だったのさ。実体の無い……虚ろな魂だったようだ。男たちが喜ぶように作られた人形の中で、何も考えず房事ばかりの毎日を送るからくり人形だった。尾頭はそんなあたしにも知恵を授けてくれたのさ」
三高弟と呼ばれる者達にもストーリーがある。
カリオンは改めてその事実を確認した。
ただ、自分のいた世界へと帰る方法を探していた尾頭は……
「尾頭は結局出来なかったと言う事だな」
「えぇ。ですから、我らはその意思を継ぎ、帰る方法を探しています」
ウィルは胸を張ってそう応えた。
ただ、センリだけが微妙な表情だったのだが……
「寿命を迎えた尾頭は禁呪を犯し、それでも研究を続行しようとしました。その一環で最後には時間を大幅に巻き戻す研究をしていたんです」
ハクトは唐突にそう切り出し、カリオンの目がウィルからハクトへと移った。
その眼差しの先にいるハクトは、どこか遠い目をして語り続けた。
「尾頭は考えました。人生の終点に立ったとき、目的が達せられなければ100年ほど時間を前にまき戻し、人生をやり直す手立てを作ろうと考えたのです。言うならば時間の循環ですね。何か強力な媒体を用意し、そこに魔法を封じておいて、特定の条件が達せられない限り発動するようにしようとしたのです」
俗に死に戻りといわれるもの。尾頭が目指したのはそれだった。
幾度も人生をやり直す事によって、研究を加速させようとしたのだ。
「尾頭はその研究の中で、100年単位での巻き戻しなど出来ないと言う結論に達しました。戻せたところで長くても1日程度。不老不死の研究は、結局どれひとつとして形にならず、最終的に尾頭が得た結論は、別の誰かに記憶を引き継がせると言うモノだったんです」
ハクトは自らが研究し続けてきたテーマである時間に付いて、そう述べた。
そして、ある程度目鼻がついたと言う事を皆が理解していた。
こうしてリリスの時間を大きく巻き戻した結果こそが、ハクトの研究の成果。
なんだかんだ言って、ハクトは着実に結果を残していた。
「まぁ、研究に打ち込めば、色々と副産物的に色んな事がわかるのさ。それに、種族の壁を越えて子を成すってのは、尾頭の目的を達する手段の一つでも……」
センリがそこまで言いかけたとき、ルフはその話に割って入った。
ハッと気が付いた思いつきとも言えるのだが……
「師や王を前にコレを言うのは不調法ですが……」
やや緊張の面持ちなルフは、それでも胸を張って言葉を続けた。
それはまさに、トラの男の矜持だった。
何者をも恐れぬと言うトラの男の意地とも言える。
「その尾頭の大師匠の薬。もう一度作っちゃ見ませんか?」
ルフは大まじめな顔でそう言った。
トラの風貌は真面目な顔ともなれば相当な迫力と言える。
だが、ルフにはどこか憎めない愛嬌があった。
ただ……
「なにバカ言ってんだい」
毀れた様に笑いながらセンリがぼやく。
そして、その後を取るように、ウィルも言った。
「先ほど言った様に、神秘の魔法薬は尾頭の死によって、その調合法をも失ってしまったのです」
「へい。それは重々承知しておりやす。ですけどね、今しがたセンリ様が言われた通り、その魔法薬をもう一度作ろうって研究してくうちに、姫の事やらも含め、色々と学べるんじゃないかと。で、もっと言えば――」
ルフは一度言葉を飲み込み、身体の奥で練り上げていた。
それは、心魂から漏れ出る本音中の本音でもある。
「――もっと改良して、それこそ尾頭様の薬を越えられるんじゃないかと。化け物にならず、完璧な生物としての存在に……」
まだまだ何かを言い足りなそうだったルフ。
ハクトはそれを手で制し、静かな口調で言った。
「尾頭の秘薬は極限まで改良されている。化け物にならず、意志と情熱と夢とを持って明日を生きられる人間が。復讐の種族を重ね合わせた存在は、もう産まれているのだよ」
ほへ?
そんな効果音が付きまといそうな表情でルフはハクトを見た。
ただ、その直後に『あぁ、なるほど』とトーマが呟く。
ルフは驚いてトーマを見るのだが、そのトーマは太陽王を見ていた。
「尾頭の秘薬は極限まで改良を受け、もはやこれ以上何を望もうかと言うところに在ります。ル・ガルを統べる太陽王とそのお后さまは、ヒトの血が混じった究極の魔法生物なのですよ」
ハクトの言葉にルフが驚愕の表情を浮かべている。
だが、ハクトの言葉は終わらなかった。
「本来の目的である、同じ種族同士のかさなりはセンリが。時間を飛び越える術についてはこの私が。そして、記憶を引き継ぎ永遠の命を導く方法はウィルが。我ら3人で世界の最後の難関全てを解き明かしたと言って良い」
ただ、それを聞くカリオンは、青褪めた表情でリリスの頬に触れていた。
「……究極の生物かも知れぬが、究極に無能な王やも知れぬな」
首を振りながらそう呟いたカリオンは、涙を堪えるような姿だ。
愛する妻を前に、無力感に打ちひしがれている姿だ。
「……かさなりは他の魂から命を拾う事が出来るはず。だけど、異なる種族ではそれが出来ない。魂の形が違うと言うなら、二つ魂を持ってる意味は無いですよね」
唐突に切り出したルフは、誰に話しかけると言うわけでもなかった。
身振り手振りを交え、自らの論理的思考を再構築して行く姿だ。
「それじゃ、かさなりにはならない筈だ。伝説にあるかさなりってのは、完全な不老不死であり、こっちの魂がからになっても、別の魂の命を使って生きられる筈。尾頭の師匠の作った薬が完璧ってのは言い過ぎじゃぁねぇんですか?」
食い下がるようにして、ルフは続けた。
その言葉をウィルやハクトは黙って聞いた。
ただ、センリだけが冷ややかな視線であったが。
「もう一度、かさなりを作ってみやしょう。その上で、複数の命を持つかさなりの魂が切り替えられないか……試してみやしょうよ。やる前から諦めてちゃ何も出来やしないじゃないですか!」
ルフの言葉が熱い。
ウィルとハクトは顔を見合わせ、視線でそんな会話をした。
だが、そんな僅かな振る舞いに気がつく事無く、ルフは熱く続けていた。
「もう一度、その神秘の秘薬を作り、かさなりを生み出しましょう。で……」
ルフはカリオンとリリスを見やり、更にヒートアップした。
誰が見たって興奮していると、そう思う姿だった。
だが。
「いまさらアレを作ってどうだと言うのだね。くだらない研究だ」
容赦なく斬り捨てるようにハクトはそう呟いた。
そして、懐中時計を取り出し、その蓋を開けて溜息を漏らす。
「もう時間が無い。今回の旅も無意味だったかも知れん。だが、得られたモノもあるのだ。今までは誕生しなかった新しい王を見た。カリオン王は私が繰り返した数千回の人生で初めて誕生した王だ」
誰もが驚きの表情になったのだが、ハクトは遠慮する事無く続けた。
「今回もまた目的に達せられなかった」
「……目的?」
それを聞きかえしたウィルにハクトは力なく微笑み掛けた。
「あぁ。今回も尾頭を再召喚する事は出来なかった。人は言うだろう。くだらない人生だったと『ちょっと待てよ。そりゃねぇぞ。なにがくだらねぇだよ!』
ルフはハクトの言葉を遮って叫んだ。
「もういっかいやってみようぜ! 尾頭が作った時代に比べて、今は魔術師の頭数だって増えてんだ! 俺たちはあんたらに比べりゃ経験も浅いし知恵も少ねぇけど、その分だけ頭数があらぁ! もしかしたら出来るかもしれねぇ!」
より一掃大きな声を出し『だいたい!』と叫んだルフ。
大柄なトラの男はリリスとカリオンを指差し叫んだ。
「尾頭の研究のなれの果てなんだろ? この2人が困ってんじゃねぇかよ! ここで見捨てるのかよ! ここで見殺しにするのかよ! ここでやめたら俺たちなんだよ! 魔術の深遠を極めようとかどうとか小奇麗なこと並べてるわりにゃ――」
ルフの足が床をドンと踏み鳴らした。
何をそんなに熱くなってるのか?と訝しがるトーマはチラリとハクトを見た。
黙って話を聞いているハクトは、無表情にルフを見ていた。
「――ただの諦めの良い馬鹿じゃないか! 尾頭の研究の成果なんだろ? ここまで作ったものを全部捨てちまうつもりかよ! 今日の今日まで2人は一緒に生きてきたんだぜ! コレは全部魔道に携わる連中がやってきたことだぞ! くだらないなんて言うなよ! 立派な成果が目の前にいるんだよ!」
熱く熱く叫び続けたルフは、ガクリと両膝をついた。
悔しさに震えるように両手を握り締め、顔をしかめていた。
「なんで見殺しにするんだよ…… 運命に逆らうのが魔法じゃねぇかよ……」
奥歯を喰いしばったルフは、肩を震わせながら言った。
その声までもが震えていた。
「神は全知万能かもしれねぇ…… けどよぉ――」
クワッと顔を上げたルフは、恐ろしいほど真剣な視線でハクトを見ていた。
「――その神って奴に喧嘩売ってみようじゃねぇか! アンタの作った摂理って奴を飛び越えて見せらぁ! 本当に神ってやつが天なる父って言うなら、その父の摂理を飛び越えりゃきっと褒めてくれるぜ! よくやったってな!」
一息の間を置いたルフは、室内をグルリと見回した。
尾頭の三高弟は、僅かに表情を変えていた。
それが良いんか悪いのかは判断がつかないことだ。
だが、トラの言う種族の矜持として、ルフは胸を張って叫んだ。
たとえ相手が何人だろうと、気にいらねぇの一言で意地を張るのだ。
「子供は親に挑むんだよ!」
裂帛の言葉は室内に衝撃波を産んだらしい。
誰もがハッとした表情になったのだが、それでも次の言葉が出てこなかった。
『君は若いな……』
年齢を重ね無駄を嫌うようになった老人は、誰もがそう思うのだろう。
だが、研究の成果として生み出したと言う言葉は、ウィルの胸を叩いた。
「……ルフ」
最初に口を開いたのはカリオンだった。
「もう良い……」
「……はい?」
「もう……良いのだ」
リリスの頬にそっと手を触れたカリオンは、静かにそう切り出した。
「槍を揃え居並ぶ騎兵など何も怖くは無い。余は統べる騎兵を引き連れいくらでも駆けて見せよう。だが――」
カリオンは崩れるようにリリスへと頬を寄せた。
イヌの鼻ならば、時間を巻き戻したとはいえ、リリスが放つ死臭を嗅ぎ分ける。
「――妻とは……幼い日に約束したのだ。霧に巻かれ方位を失い、宛てなく彷徨う事になっても、余が必ず見つけると。必ず助けると。だが……」
その言葉を聞いていたウィルは、カリオンへと歩み寄って肩を叩いた。
遠い日、この子は理不尽と戦うべく、自らに戦いを挑んだ。
勝てぬと解っていてなお、驚くべき踏み込みを見せ、みぞおちを叩いたのだ。
だが、やはり勝てないと知った少年は、その場でパッと方針を切り替えた。
それも、齢僅か8歳と言う驚くべき年齢で、最善を希求したのだった。
「リリス……どこに居るんだ……返事をしてくれ……」
泣き出しそうな声で語りかけるカリオン。
その声音はルフやトーマをも涙ぐませた。
「いま助けに行くよ……そこを動くなよ……勝手に死ぬんじゃ無い……」
カリオンの両手がリリスの両頬を捉え、その唇にカリオンが唇を重ねた。
ややもすればそれは死体でしかない筈のリリスだが、カリオンには妻なのだ。
「……そうですね」
ウィルは小さな声でそう言った。
「先ずはやって見ましょう。尾頭の秘薬の作り方は大体見当がつきます。王の権限を持ってすれば、全国から材料が集められるでしょう。かさなりをイチから生み出し、それを研究しましょう。お嬢様には……リリス様にはもう時間がありません」
ウィルは静かにそう言った。
だが、確かな決意が込められてるのは誰にでもわかるほどに伝わっていた。
そして、そう言う決意は伝染するものだ。ハクトもまた『そうだな』と呟いた。
「一度に60日も巻き戻すから影響が出るのだ。長くても5日程度にしておいて、マメに時間を巻き戻そう。なにもせずとも、また30日は何とかなるだろう。5にちに一度であれば150日は時間的猶予がある。半年経てば収穫も終る事だろう。その時点で再び30日を巻き戻せば、1年の猶予と言う事になるな」
ハクトはウィルを見つつ、そんな算段を重ねた。
ただ、それに口を挟んだのはヴェタラだった。
「あの、差し出がましいようですが…… 時間を止めておくのは出来ませんか?」
ヴェタラは誰もが驚く言葉をはいた。
想定外の言葉にハクトはややうろたえて反応する。
「時間を止める事は不可能だ。巻き戻す事は出来ても停止は出来ない」
「……そうですか。時間を停止させておけば、身体が腐る事も無いかと……」
そんな言葉を吐いていたヴェタラは、ハッとした表情でカリオンを見た。
「いっそ…… 魂を引っこ抜いて、人形にしてしまうのはどうでしょう?」
その言葉にカリオンは表情を変えた。それも、飛び切りに不機嫌な表情だ。
だが、それでも王の矜持として取り乱す事こそ無い。
『それで?』と、暗い声音で続きを訊ねた。
「はい。お后様を人形の身体に入れ、身体の方は氷室に……」
ヴェタラの言葉に『なるほど』と言葉を返すハクト。
社会的な常識として、低温の方が食品は傷まず長持ちする。
それと同じ事をヴェタラが提案したのだ。
だが……
「……世の我儘とは思うが、リリスはここで寝かしておきたい」
カリオンはやや強い口調でそれを言い、室内をグルリと見回した。
「ウィル……」
「はい」
「ハクト」
「はい」
「センリ。そなたもだ」
「……なんだい?」
カリオンは腕を組んだまま、険しい表情になって言った。
それは、文字通りな王の勅命だった。
「ルフの提案した件。検討してはくれぬか?」
カリオンはもう一度かさなりの研究をしろと命じた。
次の一手を思案するには、残された時間は少ない。
ならば、決断は早く、動き出しも素早く……だ。
「畏まりました。では……」
ウィルは最初にそう返答した。
そして、ハクトとセンリに決断を促した。
「……引き受けましょう。ただ……」
ハクトはそこで言葉を切り、センリへと視線を移した。
その視線を受けたセンリは、微妙な表情になっていた。
「アンタは覚悟をしておいてくれ。これは――」
センリはリリスの傍らにある時計を見た。
ハクトの持ち込んだその時計は、コツコツと時を刻んでいた。
「――時間との戦いなんだ」