生命の正体
ルフが帝都にやって来て早くも1週間。
研究員の一人となった彼は、着々と経験を積んでいる。
はじめこそ実力的にもう一息だったが、今は研究者然とした姿になっていた。
魔導の研究に関わる者が最も必要とするもの。
それは、常識に捕らわれない洞察力と、そして抜け目ない勘の鋭さ。
トラという種族の中にあって、奇跡的にその両方をルフは備えていた。
そして彼は、ある意味でトラらしい、持ち前の押しの強さがあった。
言い換えれば、空気の読めさ無さと無鉄砲さ。
カリオンはそれを気に入っていた。
――この部屋に自由に入ることを許す
カリオンは妻リリスの眠るその部屋に入ることをルフに許した。
帝后リリス妃の眠る部屋は、魔素が異常濃度で漂う魔界状態だ。
それ故に、ルフは異常な速度で実力を付けつつあった。
元々に身体の強いトラだからこそ、それを為し得る余地があったのだろう。
「これは?」
その部屋の中。
ルフが興味を示した先には、ハクトの持っていた金の懐中時計があった。
リリス妃のベッドサイドに置かれたそれは、定期的なねじ巻きを必要とした。
「これはな、時計と言うカラクリだ。時を計れる代物だよ」
だが、それによりこのカラクリは細い針を正確に駆動し、時を計っている。
そして、その効果により時計を見る者すべてに、時間経過を教えていた。
「手にとって良いですか?」
「あぁ、構わぬよ」
その時計と言うカラクリを取ろうと帝后の傍らまで来たルフ。
だが、突然の目眩に襲われた彼は、たたらを踏んで片膝をついた。
僅かな所作でしか無いが、床へと接近したルフの目には魔方陣が見えた。
それは、極々薄い墨で書かれた、非情に複雑で精巧な魔方陣だった。
「……そうか、これか」
ルフのその所作が、この部屋の秘密を暴いたのだ。
「気が付いたかね」
ルフへと声を掛けたハクトは、悲しみに顔を歪め溜息を吐いた。
死臭腐臭が日増しに濃くなっていくリリス妃だが、ルフは気が付いていた。
通常と比べ、その腐敗速度が大幅に遅いと言う現実に……だ。
「この部屋の中は……」
「そうだ。時間の流れが遅いのだよ」
ハクトは自慢げな表情で床に視線を落とした。
大きな複数の同心円と、その内縁に接する五芒六芒の星。
更には、五角形と六角形とが複雑に絡み合い、その隙間には複雑な文字がある。
ただ、それはただの装飾に過ぎないとルフは見抜いた。
本当に重要なのは、その六芒と五芒の内側にある小さな魔方陣だ。
複雑な魔導線で結ばれた座と呼ばれる小円が、複雑にリンクしているものだ。
そしてそれは、一件シンプルなように見えて恐ろしく複雑に絡み合っている。
「……カバラですか」
ルフは真面目な顔でそう言った。
随分前に一度だけ見た魔導書の挿絵を覚えていたのだ。
手持ちの資金が足らず買うのを躊躇った異常な内容の書物。
パラパラと捲ったページには、時間や光や生命への干渉方法が考察されていた。
言うまでも無く、それらは通常の方法では干渉できない物ばかり。
それ故にその内容を強烈に覚えていたルフ。
だが、それを聞いたハクトは、その顔から一切の表情が消えた。
「おぬし……小僧の分際で案外博識じゃの」
頭から小馬鹿にされた様なものなのだが、ルフは怒りを覚える事は無かった。
このウサギの男の中身は、実はとんでも無い化け物だと知っているから。
トラと言う種族はその身体的な強さもあって、余り魔法が得意では無い。
魔法の研究をするなら力業で解決してしまおうと言うのがトラの方針だからだ。
だが、そんなトラにあって、ルフは魔法に興味を持った。
そして、独自の研究を続けた彼は、いつの間にかトラの中で一目置かれていた。
ただ、それはあくまでトラと言う種族国家の中での話しでしかない。
ルフは文字通りに世界の広さを実感していた。
「生命の樹と呼ばれるものは……偶然手にした魔導書で読みました」
「……然様か」
生命の樹。或いはセフィロトの樹と呼ばれる魔方陣。
命と魂とを根本にした、複雑な生命概念の説明に使われるものだ。
「おそらく、それを書いたのは我々の師、オズだろう。私も持っているが――」
チラリとセンリへ目をやったハクトは、表情ではなく声音を変えた。
心理的な有り様の変かを表すもので、それはルフでは無くセンリ向けのものだ。
「――生命というものの本質へと迫っている良書であり、また、魔導という力への考察を重ねた素晴らしい研究だ。そして、教科書でもあるな」
ハクトはセンリから目を切り、遠い目になって言った。
その瞼の裏に描かれるのはどんなシーンだろうか。
ルフはそのウサギの小男の中身に思いを馳せていた。
―――――――― 帝國暦340年4月19日
王都ガルディブルク
研究員となったルフは、尾頭の三賢者から直接教えを受けていた。
カリオンの元へと馳せ参じた魔導家の中で、最も経験浅く若いからだ。
自らの研究を長くやってきた者は、どうしたって自らの見識にの上に立つ。
積み重ねてきた実験と研究の結果が、その研究者の常識に化けているのだ。
だが、幸いにしてルフはまだ魔導研究が10年程度の新人でもあった。
それ故に、なんの先入観も無く、見たモノ聞いたモノを素直に吸収できる。
魔導研究にあたる者は、この部分が猛烈に重要なのだった。
「生命とは何だと思うかね?」
ハクトは突然そう切り出した。
リリスの眠る部屋は、それ自体が研究室だった。
その室内にはハクトとウィル、そしてセンリの三人が常時陣取っている。
大陸中から僅かずつ運ばれてくる魔素を注ぎ込み続けられるリリス。
その身体が魔素で崩壊しないように、器から溢れてしまわないように。
三人は交代で細心の注意を払って魔方陣を制御していた。
そして、3人はそれと同時にルフを仕込んでいた。
いや、指導していたと表現する方が余程正しいのだろう。
話を振られたルフは一瞬だけ考え込み、シンプルに述べた。
「命は身体を動かすもの。魂は命を奔らせるもの。そう書いてありました」
「うむ。魔導書の受け売りでしかない回答だな。だが、学校の答案なら満点だ」
ハクトはシンプルな言葉でルフを褒めた。
この異常な濃度の魔素に当れば、酒に酔ったような状態になりやすい。
ましてや一般人と違い、曲がりなりにも魔導の心得がある存在なのだ。
魔導に身体が慣れている者は、普通それだけで不利となる。
精神を励起され、錯乱状態や酩酊状態へと陥りやすいのだ。
だが、ルフは正確に知識を暗喩して見せた。
記憶を辿り、魔導書の文言を正確に思い出してみせたのだ。
その姿はハクトやセンリをして、将来有望だと思わせるに十分なものだ。
「ただし、ここで必要なのは学校的な模範解答では無い」
ハクトはスイッと話を横へ転がした。
怪訝な表情で話を聞いているルフは、押し黙って続きを待った。
「命は身体を動かすもの。あぁ、そうだろう。そして、それを溜めておくのが魂というなの入れ物だ。身体から魂が抜け落ちると、身体を動かす命も消え失せる」
数歩まえに出たハクトは、まるでどこかの教授のように振り返った。
そして、ビシッと効果音でも出るかのようにルフを指さした。
「では改めて問う。その命とは何だ?魂とは何だ?それを考えたことはあるか?」
空は青く雪は薄雲の様に白く、太陽は眩く輝く事を疑う者はいない。
木からリンゴが落ちる事も、当たり前の事だと認識している。
だが、それらに対し『なぜ?』と問いかける事こそ、研究の本質。
皆がそれを『当然』と思っている事に情熱を注ぎ研究するのだ。
「命の本質とはなんだ。それは何処から来るのだ。名立たる魔道家たちがその謎に迫り、その多くは時が足らずに死に絶えるか、もしくは狂を発する。結果、我々はまだその本質には迫れていないのだよ」
わかるかね?
ハクトの表情には相手を試すような色が浮かんでいた。
ただ、ルフは一つの仮説を立てていた。
かつて読んだ魔道書の中に書いてあった一文がそのヒントだった。
「自分が覚えている限りですが、あの魔導書には命の正体を神世の世界の力だと書き記されていたかと……そして、身体と言う器から零れ落ち、神世の世界へと返れない命が死霊。魂と呼ばれるものの本質は人間そのもの」
ルフの回答にハクトは大きく頷き、そして腕を組んでハクトを見た。
そこには、僅かな苛立ちと落胆の色が滲んでいた。
「あんた……死霊を見た事があるかい?」
センリの吐いた言葉にルフが総毛だった表情を浮かべ首肯した。
命の入れ物である魂を失った存在が、魔素を探して彷徨う姿を何度か見ていた。
「あれは……出来れば出会いたくない存在です」
この世の全てを恨むかのように、悲しげな声でうめき声を上げる存在。
心の弱い者がその声を聞けば、それだけで悲鳴を上げて死にかねない。
ルフの言葉にセンリが笑みを浮かべ、『そうだろ?』と言った。
「死霊が何故産まれるかも知っているかね?」
センリに続きハクトがそう問うた。
ルフは硬い表情のまま、何度が首肯した。
多くの魔導家にとって、死霊とは本気で忌み嫌う存在だ。
世界を彷徨う大半のレイスは、道を踏み外した魔導家のなれの果てだからだ。
実力に富む魔術師だった存在も、研究の果てに精神をおかしくする事がある。
結果の出ない研究と無駄な実験を繰り返すウチ、完全に精神が破綻するのだ。
そんな話しは魔法と魔術に携わるものなら、誰だって知っている笑い話。
だがそれは、なぜ魔術師が人里離れた所に住まうのかの本質でもある。
魔法の暴走で、埋葬されていた死体が起き上がるなんてのはまだ良いほうだ。
研究結果が出ないままに年齢を重ね、やがて狂を発した魔術師が禁忌を犯す。
つまり、自らへの不死魔術を施術してしまう。
そして……
「……生命の禁書にある禁呪を験したって事ですよね?」
「そうさ。結果の出ない研究の果てに、アレを試しちまうバカがいるのさ」
センリの言うとおり、魔道家たちの間には禁呪として伝わる魔術体系がある。
それは、俗に生命の禁書と呼ばれる、魔道家の触れてはならない領域の魔術だ。
魂と身体とを切り離してしまい、実体の無い朧な姿と成ってしまう禁呪。
ごく稀に見られる死霊の正体でもある。
生命が身体を離れた瞬間の快楽は、筆舌に尽くしがたいのだと言う。
そして、魔道家が我に返ったとき、魂の抜けた身体は腐り落ちている。
自由を謳歌したホンの一瞬も、実は幾日も経過しているのだ。
故に、そんな魔道家の命と魂は、新しい体を求めて彷徨う。
死にたての死体を捜し、そこに乗り込もうとするのだ。
だが、そんなレイスなど可愛い存在がもう一つある。
それこそが、禁呪を禁呪たらしめている存在……
「死霊より……やばい存在も知ってるかい?」
ヒヒヒと心底嫌な笑いをこぼし、センリはルフを試した。
それは、ある意味で魔導家にとっては麻薬であり劇薬だからだ。
「腐敗の王……」
「……そう。口にするのも憚られるものさ。腐った死者の王こそ――」
心底忌々しげに言葉を吐くセンリは、室内にいたウィルを見た。
転生の秘術を極めた当代切っての天才は、腐敗の王の秘術から見つけたのだ。
「――欲望に負けたバカな魔術師のなれの果てさ」
センリは心底嫌そうに、忌々しいと言わんばかりに吐き捨てた。
そして、センリだけで無くウィルとハクトも深い溜息をこぼした。
魔導家達が心底忌み嫌う腐敗の王。
それは、ある意味では魔術を極めた者のみがたどり着ける到達点でもある。
だが……
「たしか――」
ルフは記憶の中に残る禁書の一節を思い出した。
「――生ける者を憎み、大地の恵みを腐らせ、世を乱し、世界を終わらせる存在」
「そうさ。だから、全ての魔導家は、あの存在を許しちゃいけない」
センリは嫌そうにぼやいている。
だが、その中身には拭い切れに悲しみが溢れていた。
ルフはそんなセンリの姿に違和感を持った。
一体何があったのだろう?と考えたのだ。
「我々魔法使いは、あの腐敗の王を滅する為に存在する」
唐突にそう切り出したハクトは、もう一度深く深く溜息をこぼした。
そんな姿のハクトを見ていたセンリは、悲しみに顔を歪めた。
「魔法使いは魔術の極みに至った魔術師を滅する為にいるのさ」
センリは小さな声でそうぼやいた。そんな姿に、ルフは話の核心を見た。
それぞれが得意な分野を持ち、己の魔力だけではなく、良き隣人を使役する。
結果として言える事は、魔術家同士の力比べでは絶対的に有利だった。
己の魔力の枯渇を考える事無く、いくらでも大技が繰り出せるのだから。
だが、それがセンリをして禁呪を蔑ませる理由ではない。
腐敗の王として転生ではなく腐った肉体にしがみ付く者の至る結末。
それは詰まり……
「誰だって夢見る事さ。不老不死を実現したい魔導家なんか山ほどいる」
「だが、そこで道を踏み外し、安易に腐敗の王へと堕ちてしまう魔導家は多い」
センリとハクトの二人が言葉を交わし、そしてルフをジッと見た。
お前はそうなるなよ?と、釘を刺されているかのようなものだ。
「で、命の本質……そう、神世の力だ。じゃぁ、その神世の力とはなんだ?」
ハクトの問いにルフは一瞬言葉を失った。
そして、やや間を開け、静かに言った。
「我々では……この世界に居る者には見る事も掴むことも出来ない物では?」
ルフの言葉にハクトは『フム……』と応えた。
ただ、言葉を飲み込んだルフに続きセンリがボソリと言葉をこぼした。
「良い読みしてるねぃ……」
結局のところ、多くの魔導家が寄って集って研究した結論はそこだった。
どう頑張っても実態の掴めない物。どれ程に分解しても正体が無い物。
ある魔導家は死に際し書き残した文献でこう述べている。
――――これは乾燥した水である……
この世界の論理科学には、まだ虚数と言う概念が無い。
数学的な手法が確立されていないのだから、ある意味当然でもある。
だが、概念としてのみ存在する矛盾の塊は、多くの魔道家を引きつけてきた。
命の正体を知りたくて、幾つも危険な研究や実験を繰り返してきた。
何故なら、それこそが魔素の正体だと経験的に知っていたからだ。
「このかさなり娘の身体には、複数の魂が存在している。そして、その1つは空っぽになった魂だ。普通なら空っぽの魂なんかすぐに消えちまうのさ。だけどね、かさなりは特殊なのか、その空の魂が何故か残ってるんだよ。だから……」
リリスへと歩み寄ったセンリは、ジッとその寝顔を見ていた。
ただ純粋に眠っているようで、その顔色は土色とも灰色とも付かぬ状態だ。
死んではいないが、生きている訳でも無い。
その二つの状態も重なっているリリスは、強制的に魔素を補給している状態だ。
「魂と身体を繋ぎ止めるものが分かれば、それを繋ぎ替えれば良いのさ。そこまでは解ってるんだよ。屍霊術の研究から解った事だ。魂と身体のどっちかが欠けていても、濃い魔素環境の中では身体が動くってのもね」
センリの言葉に驚愕の表情を浮かべるルフ。その内容は余りに常識外れだ。
だが、それでもルフは続く言葉を待った。常識を疑う事こそ研究の根幹だ。
「我らの師であった尾頭は……」
その言葉はセンリでもハクトでも無い男が切り出した。
帝后リリスの傍らにあって、魔素の補給を司る魔法使い。
ウィルケアルヴェルティだ。
「……魔導の始祖ですね」
「そうだ。尾頭もまた不老不死を研究していた。魔の導きを受けた者なら、誰だって一度は思う究極の研究だろう」
「そうですね……」
ルフは己の事として、その言葉を噛みしめた。
トラの中にあって魔導の切っ掛けを得たルフは、魔導の世界へとのめり込んだ。
今までは出来ない事が出来るようになった後、多くの魔術師は万能感を得る。
ただそれは、傍目に見れば大いなる勘違いに気が付かない愚か者でしか無い。
神の摂理はどうやっても飛び越せない。その事実を見逃してしまうのだ。
事実、ルフも同じ事を考えた。いずれ迎える死さえ無ければ……
「死なぬ存在となれば、いつまでも研究できる。私もそう考えました」
素直な表現で自らの恥部を述べたルフ。
その肩をウィルはポンと叩き、言葉を続けた。
「尾頭はこう考えた。一人の人間が持つ魂は1つだけ。だが、ごく稀に複数の魂を持った存在が産まれる事がある。尾頭はそれを研究し、1つの仮説を立てた」
ウィルはピンと一本の指を立て、説明を続けた。
「人は必ず死ぬが、同時に必ず生まれ変わる事が解っている。前世の記憶を持ったまま産まれてしまう子がいるのは、君も知っているだろう?」
同意を求めたウィルに対し、ルフは『もちろんです』と応えた。
その回答に笑みを返したウィルは、スッとリリスの傍らを離れ部屋を歩いた。
「その、前世の記憶はどうやって保持されるのか? 尾頭はそこを研究し、前世の魂がまだ残って居ることに気が付いた。つまり、複数の魂は共存しうると言う結論に達した。だが、それこそが泥沼の始まりだった」
やや離れた所でクルリと振り返り、建てていた右手の人差し指を折ったウィル。
キツネのマダラな男は豊かな表情だが、今は悲しみに満ちていた。
「尾頭は複数の魂が搭載された人間の製造を目指した。今にして思えば、それは狂った研究だったよ。何せ、身籠もった娘を診察すると称して、多くの魔法的な実験を行ったのだからな」
まるで罪の告白のようにして、ウィルは痛みを呟き続けた。
それを黙って聞くルフは、魔導家が狂ってしまうと言う話を思い出していた。
「だが、どうやっても複数の魂は共存しない。同じ形の湯飲みを重ねれば、すぽっとはまって重なるように、魂は一体化してしまう。だが、この研究は1つの画期的な事実と突き止めた。命と魂は別と言う事だ。魂とは身体に備わる命の器に過ぎない」
ウィルの言葉にルフが表情を変える。
あの高価すぎて買えなかった魔導書の講義がここで行われていた。
「もちろん、魂が1つ分と言う事は命も一人分しか溜める事が出来ない。尾頭はそれをも研究し、1つの結論を得た。命の本質とは魔素という事だ。だから空っぽになった魂に命となる魔素を注ぎ込めば生きながらえる筈。そう仮定した」
ウィルの言う魔素とは、すなわちこの世界に普遍的に存在する物だ。
異なる世界線では『マナ』や『オド』と称されるものだ。
「命は種族を越えても基本的には同じものでしかない。それを知った尾頭は、禁断の研究に踏み入れていく。同じ種族で魂の複数搭載はどうやっても不可能だと結論づけた尾頭は、種族の壁を越えて子を作ることに没頭する。種族が違えば、魂が違うと仮定したのだよ」
ルフはびくりと身体を震わせ、リリスの寝顔を凝視した。
イヌの女の特性と共に、ヒトの面影が残っている顔だ。
リリスの顔を見たルフは、次にセンリを見た。
センリの顔はどう見たってネコその物だった。
「じゃっ! じゃぁ!」
「いや、帝后陛下はそんな低俗なものでは無い」
「低俗?」
オウム返しで聞き返したルフ。
それに応えたのはウィルでは無くハクトだった。
「然様。ただ単に種族の違う男と女が交わっても子は為されない。まさに神の定めというものだろう。尾頭は軽い気持ちでそれを打ち壊す魔法薬を作った。強制的に子が為される薬だよ。だがな――」
ハクトは右目に掛けていたモノクルをおろし、ハンカチを使って拭いた。
その行いは、心のあり方を落ち着ける為だとルフは思った。
「――それで産まれてくる子は化け物ばかりだった。母親の腹を食い破って産まれてくる事も多々あった。人ならぬ存在として獣の様なモノが生まれ落ち、程なくして死んでしまうばかりだった。普通の方法では無理なのだよ」
ハクトの目がウィルを捉えた。
まるで罪の追及を行うかのような鋭い眼差しに、ウィルは一瞬だけ気圧された。
「尾頭はその魔法薬を改良する事にした。化け物とは言え種族を越えて子が出来るのは間違い無いと解ったからな。幾度も実験が繰り返され、その都度に化け物が産まれて来た。尾頭は我々三人を使役し、その化け物を滅し続けた」
辛い告白を続けたハクトは、深く溜息をこぼし黙ってしまった。
そこには本当に辛い記憶があるのだろうとルフは思った。
だが、その沈黙を破ってセンリが切り出した。
どこかきつい口調ではあるが、それでも沈黙よりは良かったのだろう。
「やがてね、尾頭はその魔法薬の改良を完成させたのさ。曲がりなりにも人の姿をして産まれてくる者。人の姿と知恵と、そして、ものを学習出来る存在だ。これが1つの到達点さ。尾頭は泣いたよ。夢が一歩進んだってね。だけどそれは、地獄へと続く道だったんだ」
地獄……
その言葉はルフをして、どう反応して良いのかを考え込ませるものだった。
センリは沈痛な表情を浮かべ、ハクトとウィルは押し黙っている。
だが、ルフの内心には1つのイメージが浮かび上がった。
姿を知らぬ存在だが、それでも想像は付く事だ。
尾頭と呼ばれる存在は、その前進した夢に喰われたのだろう。
パンドラの匣から最後に飛び出てくるモノは、希望という名の化け物だ。
夢や希望を感じられるなら、人間は少々の逆境や苦痛にも耐えてしまう。
だが、限りある命を無駄にしかねない部分でもあるのだ。
「……その夢が眼を曇らせたのですね?」
ルフの言葉にセンリは一言『そうさ』と応えた。
そして再び重い沈黙が部屋を埋め、ややあってハクトが切り出した。
「尾頭は狂喜したのだよ。かさなりが誕生し、後は魂を移すだけだとなったのだからね。だが……」
ハクトの目が中を泳ぎ、そのままウィルへと注がれた。
眼差しの先にいるウィルは腕を組んだまま部屋の床を見ていた。
「……出来なかった」
ウィルはボソリと呟いた。
全く感情を感じさせない声で、絞り出すように呟いた。
「出来なかったんだ……まだ水の入った湯飲みから空っぽの湯飲みへ水を移すようには……できなかったのさ」
――出来なかった
ルフは内心でそう復唱した。それはつまり、現状における手詰まりを意味する。
魂をつなぎ替える事は出来ない。故に、この娘はこのまま死ぬしか無い。
それを先延ばしにする為、時間の流れですらも減速させているのだ。
だが、それも既に時間切れと言って状態になりつつある。
リリスの身体は徐々にだが腐り始めていた。
「では…… どうすれば?」
ルフは、恐る恐るな調子で問いかけた。
こう言う部分で率直に質問出来る面の皮の厚さもまた必要な事だ。
「尾頭もそれを考えた。考えて考えて考え抜いて、で、1つの結論に至った」
ハクトは勿体ぶったように話を切り、磨いていたモノクルを右目に戻した。
そして再び、深く深く溜息をこぼしてから、ジッとルフを見て静かに言った。
「魂から魂へ命が移せないなら、魂をつなぎ替えてしまおうと、そう結論づけた」
再び室内に沈黙が流れた。
それは、ルフをして痛みを感じるほどの静けさだった。
帝后リリスを救う方法は無い。そう結論付ける言葉だからだ。
「太陽王の耳には……入れられませんね」
なんとなく気落ちした言葉でそう呟いたルフ。
自分自身でも驚くばかりだが、ルフは救う手立てが無い事に落胆していた。
魂をつなぎ変えれば人格が換わってしまう事を意味する。
つまり、王の愛する妻は永遠に失われ、異なる人格が一人歩きするだけだ。
強い衝撃を受け正体の抜けた者が、記憶を失って別人になるように……だ。
「いや、王の耳には既に入っている」
ハクトは悪びれもしない態度でそう言った。
驚いて顔を向けたルフは、どこかにやついているハクトを見ていた。
「では……」
「魂の繋ぎ換えも不可能だった。だから、再び魔法薬の研究を行ったのだ」
「最初から……ですか?」
「そうだ。全く異なる手法でかさなりを研究したのだ」
やや首を傾げ言葉を聞くルフ。
その姿が面白かったのか、センリもまたニヤケた面で言葉を継いだ。
「魂の多重搭載は実現出来る。尾頭はソレが確認できただけでも前進だと言い切ったのさ。で、今までとは違う手段で種族の壁を乗り越える薬を目指した。アレコレと実験を繰り返し、幾つも辛い現実にぶち当たったが……」
センリは視線をウィルへと向けた。
何かのアイコンタクトなのは間違い無いが、ルフは中身の言葉を待った。
それはつまり、『お前が言え』というキラーパスだ。
何かのカミングアウトを促しているのだとルフは思うのだが……
「……その研究の過程で、尾頭は気が付いたのだ。むしろ、なんで気が付かなかったのか?と自己嫌悪されていた。不老不死というモノの真実。いや、核心部分だ」
唐突にそう切り出したウィルは、ジッとルフを見ながら言った。
今までにない重い口ぶりから、その話の中身が相当重いのだとルフは覚悟した。
「今までの記憶を保持したまま転生すれば、それは不老不死と同じでは無いか?」
ルフは呆気にとられて正体が抜けた様にウィルを見ていた。
それが話のオチでは無いと確信しつつ……だが。
「尾頭はかさなりでは無く時間の研究に没頭し始めた」
「何故ですか?」
ウィルの言葉に思わず質問を返したルフ。
その質問はある意味で問題の核心だった。
「尾頭はこう考えた。転生し、失敗したときには時間を巻き戻そう。そして、転生自体をやり直そう。成功するまで何度でも時間を巻き戻し出来る仕掛けを考えた」
ウィルの目がルフをジッと見ていた。
それは、ルフの反応をジッと確かめる様だった。
「だが、一朝一夕に出来るモノでは無い。やがて尾頭は研究の完成を見ずして寿命を迎えてしまった。床に伏せ、世界を呪うようになってしまった。そして」
ウィルの目がセンリを見た。
その僅かな視線のやり取りに、センリが僅かな首肯を返した。
「尾頭はやっちまったのさ。更に古い時代からの知恵を込めた指輪。死者の指輪を開放した。その結果、尾頭は本来最も忌み嫌う存在になってしまった」
センリの言葉にルフはゴクリと生唾を飲み込んだ。
それが何を意味するか理解したからだ。
「……腐敗の王にね」