マグナ・カルタ(大憲章)
帝國暦340年1月15日。
この日、ガルティブルク城下の大広場には多くの市民が詰めかけていた。
市民達はその誰もが、この一週間ほどの間に王都で広まった噂話をしていた。
曰く、捕縛されたシャイラ女史の処罰が発表される……と。
或いは、帝后を斬りつけた真犯人が発表される……と。
どうもそれは、錯乱したトウリ・アージン卿らしい。
城詰めの者達が何人もそれを見ていたらしい。
太陽王はそれを口止めしているが、上手の手からも水は漏れるものだ。
そんな無責任な噂ばかりが飛び交っていたのだが、実際、市民の本音は別だ。
――――やっぱりダメだった……
王都市民の誰もが同じ事を思っていた。
ただ一人としてそれを口にしないで居るが、懸念は一つだ。
帝后リリス妃の死去が公式に発表されるかもしれない。
刺客に斬りつけられ、一度は快復した筈の帝后。
だが、その身を斬りつけた刃は、とんでもない呪物だそうだ。
傷が癒えて尚、ゆっくりとゆっくりと身体を蝕んでいくものかも知れない。
そして遂に、まだ若き帝后の身体を蝕みきり、その命の炎を消してしまった。
広場にいる市民達は、ヒソヒソと声を潜めて事が動くのを待っている。
空を見上げ、そびえ立つ王城のデッキに王が立つのを待っている。
過去、このル・ガルの歴史が動くときはいつもそうだった。
だから今回も一緒だろう。そう思っていたのだ。
だが……
「諸君、道を空けていただきたい」
緑色をした膝まである詰め襟の上着をまとう若い男が現れた。
その肩に下がる飾緒は8本を数える最高階層の実務官僚だ。
――ウォークさまだ……
誰かがそう言葉を発した。
太陽王カリオンの侍従長であり、また、カリオン政権の官房長。
軍務では無く事務実務の全てにおいてを任される若き英才。
なにより、未だ独身という事実が若い身空の女達に夢を見させていた。
平民出身ながら、太陽王の片腕として国を動かす存在がそこに居る。
その事実に卒倒しかける者まで現れていた。
「これより、我らが太陽王の詔を発付いたします」
ウォークは群衆の視線を一身に浴びつつ、広場の高札に公示を張り出した。
――――――――帝國暦340年1月15日 午前10時
――――太陽の愛と恵みとを根幹とする恩寵により、太陽王は公布する
そんな書き出しで始まる太陽王の詔は、次々に張り出され広げられた。
多くの群衆が貪る様に読むのだが、人集りの後方では見る事すら出来ない。
それを見越したのか、ややあって広場の中に大きな荷車が現れた。
荷車にはその詔を書き写されたものが山積みとなっていた。
「凄いぞこれ!」
各所から一斉に声が上がり、やがてその声は大きなどよめきとなっていた。
後の世で大憲章と呼ばれる、世界で最初の成文憲法。
ル・ガルの人民と、それを統べる太陽王との契約を明記したものだった。
そしてそれは、このガルディアラ大陸の各所へと送られていた。
カリオン王の命により、ル・ガルの各都市でも一斉に張り出されていた。
山にへばり付く鉱山街にも、海を望む港町にも、耕作地帯の農村にも。
全ての都市や集落や、裏街道の寒村にまで……だ。
北の果て。
フィーメ峠を越えたフレミナの街では、多くのフレミナ人民がそれを見た。
世界を統べる太陽王が、フレミナの代表を王と認めた一文をだ。
――――フレミナ地方を統べるフレミナ人民の王
フレミナ市民はその一文に戦いの終わりを知った。
滅亡への恐怖が薄れ、安心して暮らせる日々の到来を実感したのだ。
また、戦いの終わりを知ったのはフレミナ市民だけでは無い。
王都を遠く離れた各地で。地域の拠点となる都市の中で。
古の香りを伝える旧都や巨大な城塞や、要衝となる砦で。
多くのところで市民はその文章を目にしていた。
――――西方草原地帯を統べるグリーンランド公
――――中央平原地帯を統べるステップ公
――――太陽の示す地全てを導くソレイユ公
――――白き大地を護るノースランドの民の代表
――――砂と岩の地を目指すアッバースの民の王
王を支える枢密院の面々。
この帝國を支える公爵家の所領では、各居城の前で市民がその一文を眺めた。
ある意味で、公爵は王を支えて当然だと思われているフシがあった。
だが、カリオン王はそんな公爵家に配慮を見せた。感謝を見せたのだ。
――――それらに支えられるル・ガルの太陽王は全ての市民に挨拶する
最初の数行を読んだだけで、多くの市民はカリオン王の意図を理解した。
フレミナの独立を認め、事実上の同盟国となったル・ガル。
一統出来ないのであれば、同じ理念を共有すれば良い。
それが太陽王カリオンの求めたものだ。
そして、公爵五家は王に支配される存在では無く、王を支える存在だと。
王とは絶対神聖な不可侵の存在では無く、多くの市民と共にある存在だと。
それを宣言する為に、王は丁寧で簡潔な表現を持って、市民に呼びかけた。
――――我が忠勇なるル・ガル各騎兵団の長
その一文に、国内各所へ分散駐屯する騎兵団の長は涙した。
例えそこが、王都から遠く離れた通し番号を振られた小さな拠点であっても。
王の目はその小さな拠点に居る少数の騎兵たちに届いている……と。
そなたらの忠勇と努力と自己犠牲の精神を見ているのだ……と。
国軍に所属する全ての者が奮い立っていた。
――――ならびに、それらを支える独立都市の長
そう。騎兵団がその規模と練度を維持する為には、街の支えが要る。
規模の大小に拘わらず、騎兵団を支える街の負担は決して小さくない。
だが、誰かが支えねば、騎兵団は維持されない。
そしてそれは、国軍の弱体化に繋がり、民族の滅亡への第一歩だ。
故に、各都市を預かる長達は、血の滲むような努力を続けていた。
国が健やかであって欲しい。
何の不安も無く、明日が当たり前のように訪れて欲しい。
その為の必要経費なのだから、皆が懸命の努力を続けていた。
そして、国を支える暴力機関が国軍ならば、その反対の組織も存在する。
――――諸々の教会の大司教、司教、僧院長、僧
――――また、公を支える侯、伯、卿、そして判事
聖職・公職にある者達もまた市民を支え、導き励まし、そして見守る存在だ。
太陽の光と熱とを根幹とする太陽崇拝の教えは、市民の心の支えだった。
だからこそ、カリオンはそんな者達にも配慮を見せた。
彼らは神の御使いであり、使徒であり、代弁者だ。
王は彼らにも一定の配慮を見せなければならないのだった。
――――及び、すべての代官
教会や公爵伯爵、僧達、警察機関にある者達。
そんな国家機関の者達からの庇護を受けられぬ者達の為に代官が居る。
代官は王に代わり地域の安全を保つ活動を受け持つ保安官だ。
だが、その次の一文には、多くの市民が頭をひねった。
――――ならびに、この世界を自由に生きる魔導家たち
魔導家たちへですらも呼びかけているのだ。しかも、その扱いは保安官と同等。
つまりは、彼らにもル・ガル市民としての扱いを保証していた。
――――そして、このガルディアラに暮らす、善良にして忠勇なる全ての人々
最後に書かれていたのは、権力を持たざる階級の人々。
だが、彼らが存在するからこそ、権力は存在し得る。
そんな人々に対し、太陽王が呼びかける形を取っていた。
――――太陽王は神の御心を拝察し、余と余の全ての祖、そして家族
――――また、余の子孫や人民の将来のため
――――イヌを導く神と神聖なる教会とが永劫の繁栄を確実とするため
――――余の統べるこのル・ガルの改革とより良い未来のため
――――余は畏敬するべき諸師父、すなわち我が師らの忠言を取り入れ
――――時間を掛け吟味した物を公布することを欲するもの也
それは、国家と国民とを守る、法と秩序の原則が謳われる前文だ。
それが何を意味するのか。多くの市民はそれを理解出来なかった。
過去4代続いた太陽王は、明文化された憲法の整備を行うことが無かった。
どちらかと言えば習慣法であり、過去の判例を集めたものが法だった。
困った局面にどう対処したのかと言う前例主義が法だったのだ。
それに対し現太陽王であるカリオンは、立場各々の権利と義務とを明文化する。
国を支える五侯爵の存在を確定させるだけでなく、その根拠を作る。
なにより、全ての市民に対し、その庇護の手を差し向けると宣言した。
――――余は全ての市民に対し、以下の法を提案する
――――これは案であり確定せしむるモノではない
――――異論を持つ者は、遠慮する事無く申し出よ
――――市民からの声を集め、余は更に検討する
その文言には、国内各地の駐屯所や公的機関の前に意見箱を設置するとあった。
国民の声を太陽王が直接聞く。それはル・ガル史上空前の出来事であった。
――――太陽王万歳!
城下大広場の中、何処かで誰かがそれを叫んだ。
それは細波のようで、大きなうねりのようで、人々の口を移って行った。
全ての人民へ愛と感謝と真心とを届けようとした太陽王の真意。
その大きな波動が人々の心に届き始めた。そして……
――――あぁ慈しみ深き全能なる神よ
どこかで誰かが謡い始めた。
始まりはたった一人の小さな声だった。
だが、歴史はそんな小さな一言から動く事もある。
たった一人のちっぽけな言葉が大きなうねりになる事もある。
――――我らが王を護り給へ
次のフレーズに至った時には、既に両手の指では納まらぬ数が謳っていた。
蒼天に輝く太陽へ拳を突き上げ、全ての民衆が等しく戴く太陽への感謝そ沿え。
――勝利をもたらし給へ
歌声は絶叫へと変わり、そして、老若男女の隔てなく、みなが叫んでいた。
空に輝く太陽に向かって、我らの願いよ届けとばかりに叫んでいた。
――――神よ我らが王を護り給へ
――――我らが気高き王よ
――――永久とこしえであれ
広場から溢れた声は街の中に広まっていった。
王都ガルディブルクの各大辻や会堂所や、待ちの至る所に高札が翳されていた。
そして、そのどこであっても、街の中に歌声が流れていた。
――――おぉ 麗しき我らの神よ
――――我らが君主の勝利の為に
――――我らに力を与え給へ
カリオンは城のバルコニーに出てその声を聞いていた。
姿を見せれば大混乱になるのだろう事は想像に難くない。
故に、姿を隠し、市民声を聞いていた。
自らの行った振る舞いが、一歩進んだ事を確信しながら。
――――王の御世の安寧なる為に
――――神よ王を護り給へ
「概ね、受け入れられたと考えて問題ないか?」
城へと戻ってきたウォークに向け、カリオンはそう言い放った。
どこか不安げな様子が見え隠れしていて、ウォークは首を傾げた。
「概ねではなく大部分と言って良いでしょう。少なくとも現状では――
ウォークの分析を聞いていたカリオンは、バルコニー側をチラリと見た。
城下の大広場からは、相変わらず市民たちが大音声で歌っていた。
「――支持し歓迎する声の方が大きいと思われます」
「……そうか」
腕を組み、遠くを見るようにして思案に暮れるカリオン。
その背中には、隠しようの無い戸惑いと逡巡が滲んでいた。
「恐れながら、陛下」
「ん?」
「なにか…… 懸念でも?」
カリオンの姿に何となく妙な胸騒ぎを覚えたウォーク。
常に威風堂々、鷹揚と振舞っているカリオンが消えていた。
まるで、自信無さげに答案用紙を差し出す学生のようだ。
懲罰となる事態を引き起こし、学生指導教官の前に立つ子供のようだ。
世界を統べる太陽王ともあろう存在が、ここでは見る影も無く気を揉んでいた。
「そうだな…… まぁ要するに」
カリオンは上着のポケットから、丸めておいた書類を取り出した。
その紙面に踊る文字には、カリオンの心からの願いが書かれていた。
便宜的に大憲章と呼ばれるその文は、イヌの社会そのものの明文化だ。
「……我らイヌの社会が成り立った遠い時代から、世代を跨ぎ、時代を超え、幾多の指導者と代表と公と、そして民衆に支えられる太陽王を経て紡がれてきたイヌの社会を律する慣行と習慣として保持される社会的な合意を、ここに明文化する」
静かに読み上げたカリオンは、顔を上げて遠い空を見た。
イヌの社会を統一した始祖帝ノーリ。社会を安定させたトゥリ。
国家防衛のために奔走し、国軍の安定に腐心したシュサ。
歴代の太陽王は、国家と国民の平和と安定に努力してきた。
先帝ノダはネコとの闘争に奔走し、フレミナを牛耳る層を暴き上げた。
4代にわたる太陽王の積み上げてきた実績を、カリオンは纏める立場だった。
「この大憲章こそが社会を支配する根本であり、我らの社会は個人の信じる正義と公共社会が共通して保持する福祉厚生の一般的な常識で補足され、全ての国民の合意と承認とをもって変更を受ける場合がある」
顔を横に向けウォークを見たカリオン。
その表情はまるで戦闘中のようだった。
「この法の下に、王も貴族も平民も支配を受ける。世界をより良くする為に」
発表されたその文章は、カリオンが草案を書きあげ、枢密院が修正を加えた。
その文章には王ですらも国の機関として明記されていた。
だが、その文章を国民が受け入れぬ時、王はどう振る舞うべきなのか。
カリオンはその問いに対し、明確な回答を思い浮かべられないでいた。
民衆の言葉に耳を傾けるべきなのか。それとも、説得するべきなのかをだ。
「民衆を説得しようとして、ならば王は要らぬとなった場合――」
カリオンの持つ疑念の確信をウォークも把握した。
果たしてその場合は、国民を罰するべきか。
それとも、王が素直に退位するべきか。
「――余はどうすれば良いと思う?」
カリオンの懊悩にウォークは驚いた。
そして、この稀代の王の情の深さにも驚いた。
自らが思うように振る舞えば良いだけであるが、それを良しとしないのだ。
王はあくまで民衆の声に耳を傾けるべし。そして、それを叶えるべし。
遠行されたゼル公の振る舞いに、心魂から感化されていたのだ。
「恐れながら申し上げますが……」
ウォークは半ば呆れながらも口を開いた。
お前は馬鹿かと言いださんばかりの呆れた口調でだ。
だが、当のカリオンは真剣になって話を聞いている。
次の一手を指南されるかの様に……で。
「王は王の理想を追い求めれば良いのでは?」
「余の……理想か」
「そうです。結果としてそれが国民の望まぬ形になるのだとしても……です」
ウォークの赤心を感じ取ったカリオンは、小さな声で『そうか』と呟いた。
ただ、カリオンの奥底にある恐怖をウォークは見抜いていなかった。
将来、何らかの形で奸臣が表れ、カリオンのそばに立つかも知れない。
難しい問題で判断に迷ったカリオンを誑かすように、佞言を吐くかもしれない。
佞言は忠に似たり
父ゼルの遺して行った言葉は、まだカリオンの耳に残っている。
心の弱まった時にそんな言葉を聞けば、安易な道を選んでしまうかも知れない。
だからこそ、行動原則が必要なのだとゼルは言った。
自らの判断基準となり、また、行動を縛り導くもの。
カリオンはそのプリンシプルの中に今回の回答を見つけられないでいた。
「いずれにせよ、話を進めましょう。問題はそれに当った時に解決を考えれば宜しいのでは無いでしょうか。何も今から困る事はありません」
あっけらかんとした調子で言い切ったウォークは薄く笑っていた。
王の不安を和らげる為ならば、多少の嘘も方便のうちだった。
「……そうだな」
やや沈んだ声でカリオンは応えた。だが、モタモタしてられないのも事実だ。
意を決したように踵を返し、ウォークを従えて城の奥へと進んで行く。
若き王とその従者が向かったのは、いまだ眠れる美女なリリスの部屋だ。
自らの居城であるのだから、カリオンは何処へ行こうと自由だ。
城の各所に立つ衛兵の敬礼を受けつつ、足早にプライベートエリアへと向かう。
「彼らは受けてくれるだろうか」
ボソリと呟いたカリオンの声に、ウォークは表情を曇らせる。
今回の大憲章案公開と同時、カリオンは世界中の魔導家達へ声を掛けた。
センリの使った魔導伝達は、一定の能力を持つ者にしか聞けない手段だ。
それ故、そのカリオンのメッセージを受けられるのは上級者ばかり。
言い換えるなら、鼻っ柱の強い実力者ばかりと言う事になる。
「釣り針のエサは特上品なのです。上手く釣れてくれますよ。心配し過ぎです」
こんな時のウォークが見せる笑顔には、まだあどけなさの残る無用心さがある。
だが、それは同時に見る者を落ち着かせ、安心させる説得力でもあった。
「……そうだと良いが」
ウォークを視線を交わし、不安げな言葉を吐いたカリオン。
今日は朝からずっとネガティブだとウォークも危惧するが、それも仕方が無い。
いくつかの扉を越え、ぶ厚い緞帳で遮られたエリアへと足を踏み入れた2人。
その眼差しの前には巨大な天蓋付きのベッドが現れた。
シルクのヴェールが掛けられたそのベッドには、リリスが横たわっている。
「お変わりございやせん」
「……そうか。ご苦労」
恭しく慇懃に頭を下げたリベラは、ベッドサイドを離れた。
帝后を護る最強にして最後の刃である男は、一日中ここで待機していた。
ただ、その近くに居たセンリとヴェタラ。
そしてウィルとハクトの4人の他に、見慣れぬ人影があった。
黒いローブに身を包み、深いフードで顔を隠した存在。
3人ほど立っているその者達は、その体型から女だとわかる。
そして、なだらかに下がった肩と張りの無い胸を見れば、老婆だった。
「太陽王陛下」
「御声に導かれ参上いたしました」
「まず先に御声掛けいただけますれば、すぐにでも参内いたしたのですが」
順繰りに声を漏らした老婆の声には聞き覚えがあった。
ミタラス女学院で娘達を指導する、あの白薔薇の魔法杓を持つ者たちだ。
リリス自身が名誉総裁を務め、またOGでもある学院の魔女たち。
世界の理や人体と生命の基礎知識や、それだけで無く様々な知識に明るい者達。
魔女や魔道師とは、魔術に長けている存在と言うだけでは無い。
様々なジャンルにおける高度な学問的知識を持ち、立体的な思考を持つ者達だ。
そして、そんな魔女達の近くに見覚えのある姿があった。
カリオン自身がハッとするような存在だった。
「……母上?」
カリオンが表情を変えて視線を送った先、ベッドの向こうにはエイラがいた。
ヴェール越しにその表情を見たカリオンだが、母の顔は悲壮だった。
「なんで言ってくれなかったの?」
抗議がましい声でそう言ったエイラ。
学院の総長となった時から、彼女は学園の中で寝起きしていた。
そして、今さらに思えば、母エイラにすらもリリスの件を伝えてなかった。
「……思い浮かばなかったよ」
素直にそう言ったカリオンは、未だ母に叱られる子供だった。
ただ、そうは言ってもやはり太陽王という肩書きがある。
カリオンは黙ってリリスの傍らへとやって来た。
「リリスを救いたいんだ」
「……出来るの?」
「いや、それは解らない。だからね……」
ヴェールを潜り中へと入ったカリオンは、リリスの傍らへと腰を下ろした。
ぐっすりと眠るようにしているリリスの胸は、緩やかに上下している。
「世界中から知識と知恵とを集める事にした」
リリスの頬に手を寄せ、カリオンは悲しげな眼差しで愛する妻を見た。
やや冷えているその頬に、眠り続ける悲しみを感じた。
「……それって」
「魔術は何も特別な物じゃ無い。この世の理を外れる物でも無い」
不意に顔を上げたカリオンは、センリの目を見ていた。
やや不機嫌そうにしているネコの女だが、その眼差しには優しさがあった。
「ウィルの手引きでここへと来ている魔導家達が協力してくれる」
カリオンはリリスの手を持ち上げ、自らの頬に当てた。
その手からは、ごく僅かに花の香りがしていた。
はて、この香りはどこから……と考え、ハッと気が付いた。
リリスの下に居る女官達とセンリが拭き清めているのだ。
それも、わざわざ花を摘んできて、その香りを添えて。
愛する妻は未だに多くの者に支えられている。
いや、支えられていると言うより愛されているのだろう。
だからこそ……
――正念場だ
カリオンは覚悟を新たにしていた。
ここで怯む訳には行かなかった。
初志を貫徹する心の強さが求められていた。
「まずは……あの魔法薬の研究をしようと思う」
カリオンの吐いた言葉に、エイラは表情を変えて息子カリオンを見た。
自らが生み出したその存在は、ある意味でイヌならぬ化け物だ。
そして、その化け物は自らの存在の根本に至ろうとしている。
愛する妻を助ける為に、いかなる者をも犠牲にする腹なのだ。
「なら、私を研究なさい」
「……母上?」
「あなたを産んだのは私なのよ?」
あっさりとそう言ったエイラは、室内に居た者達をグルリと見回した。
そのどれもが引きつった様な顔で帝母エイラを見ていた。
「レイラはレイラに出来る形で役に立ったのよ」
「母上……」
「私は私に出来る形で役に立とうじゃないの」
フフフと笑って、ネコの女を見たエイラ。
その眼差しは、百選練磨な筈のセンリですらも、僅かに気圧されていた。
「……王を守る藩屏だって言うのかい?」
冷酷さを感じさせるセンリの低い呟きに、皆が訝しげな視線を向ける。
だが、その言葉を聞いたエイラは構うことなく言い切った。
「例えそれが何であれ、役に立って死にたいだけよ」
王の私室に居た者達全員がぎょっとしたようにエイラを見た。
その言葉はまるで自殺願望にも聞こえたからだ。
だが、エイラはセラセラと静かに笑っていた。
慈母の笑みを湛え、息子を見ていた。
「私に出来る事は少ないけど、他の誰にも出来ない事だってあるのよ?」
センリはどこか眩しげな眼差しでエイラを見た。
母は強しと言う言葉を思い出しながら……