表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
163/665

不死者の女王


「……この辺りは暖かいな」


 独り言のようにカリオンは呟いた。

 長閑な景色の続く街道には、穏やかな空気が漂っていた。


 ル・ガル南西方向へと伸びる広域幹線街道の一つ。

 かつてはネコの国だった地域をイヌの騎兵の一団が進んでいる。

 いや、進んでいると言うよりは走っているという方が正確だ。


 今では第5次祖国戦争と呼ばれているシュサ帝の死んだ戦の激戦地。

 ブリテンシュリンゲンへと続く旧街道の上をカリオンは進んでいた。

 精鋭中の精鋭である近衛第1騎士団を周囲に従えていた。


「ネコは寒いのが嫌いなのですよ」

「なるほどな…… しかしまぁ」


 カリオンは困った様な表情で相手の顔を見た。

 そこには恰幅の良い、福々しい顔のネコが居た。


 馬上にあって威風堂々と周囲を睥睨するカリオン。

 その騎兵団列の中央には豪華な馬車が一台挟まれていた。

 カリオンの目は、その馬車の中へと注がれていた。


「いきなり押し掛け、道案内せよというのも迷惑な話だな。すまない」

「何を言うか。そなたは私の娘婿に近しい存在だ。私にとっても息子に近い」


 どこか嬉しそうに言ったネコは、ご機嫌な調子で寛いでいた。


 ル・ガル帝國の南西自治領において、行政本部のある街フィエンの顔役。

 カリオンの妻リリスの母、琴莉の保護者でもあった裏社会の巨人。


 クワトロ商会を束ねる男。

 エゼキエーレがそこに居た。


「こんな役ならお安いご用だ。いくらでも使い潰してくれて良いぞ」


 気安い調子で笑ったエゼキエーレは、福々しい笑顔で上機嫌だ。

 ただ、その眼差しの先に居るカリオンは、本来筋骨隆々としていた筈。

 だが、今は随分と痩せてしまっている。


 ――――妻を助けたい

 ――――力を貸してくれ


 フィエンの街に入るなり、何も言わずクワトロ商会を訪ねたカリオン。

 このフィエンゲンツェルブッハにおいて、誰も頭が上がらない存在を……だ。


 ル・ガル中央から派遣されるフィエン南西自治領総督の相談役。

 この地域の裏社会をしっかりと纏める顔役であり頭領。

 なにより、カリオン自身が親族と言いきる存在。


「頼もしい限りだ。恩に切る」


 カリオンは気易い笑みを浮かべエゼを見た。


 その表情には政治家や軍人や、況んや要するに厳しい表情と言った物が無い。

 純粋な『家族向けの顔』をしている姿に、エゼは王の孤独を見た。


「いえいえ、それに……」


 エゼは馬車の中でチラリと目をやった。

 そこにはネコマタのセンリが余所行きの格好で座っていた。

 普段着のどこか緩い姿では無く、太陽王に同行する者としてふさわしい姿だ。


「あたしが行かなきゃ意味がないだろ?」

「それもそうですが……ね」

「なんだい? ハッキリお言いよ」


 つかみ所の無いエゼの姿に、センリが少々不機嫌になる。

 そんなセンリを見つつ、エゼは細い目を三日月に曲げて言った。


「ネコの国の中枢に居るべき存在が太陽王の隣に居ると言うのが……ね」


 ネコの国のシステムを知る者なら、誰だって驚く光景だった。

 力の管理官が女王の夫、王婿の専権事項なのはカリオンだって知っている。

 かつてフィエンの街で一度顔を合わせているからだ。


 だが、カリオンは未だ女王を知らぬ。名前こそ知って居れども面識は無い。

 何よりも言える事は、ネコの国の中枢を知らぬのだ。


「お前さん。余計な事は言うんじゃ無いよ?」

「心得ておりますよ。私だってネコの端くれだ」


 センリの言葉にエゼキエーレが笑みを返した。

 その僅かな会話に、カリオンはふと僅かな可能性論を思い浮かんだ。


 このセンリこそが、ネコの女王かも知れない。

 そして、全部承知で太陽王の辛礎懊悩に酌みしているのかも知れない。

 或いは恩を売る為に動いているのかも知れない。


 悪く考える材料は幾らでもある。

 少なくとも、ネコの国との関係は良く無い。

 だが……


「全て知るべきとは思うが、知らぬ方が良いこともあるな」


 エゼとセンリの僅かな会話に、カリオンは様々な事を考え率直に物を言った。

 赤心をして人の腹心に置くとは言うが、イヌは常に本音で生きているとも言う。

 嘘をつかず、出任せも言わず、ただただ純粋に相手を思う。


「やっぱりイヌはバカだね」


 嘲るような言葉を吐いたセンリは、それでも優しい目をしていた。

 そこには後ろめたい悪意や仄暗い嘲りの色は無かった。

 純粋に相手の感情を思っている。或いは、それに感動している。


 ――この女もまた一角の人材だ……


 カリオンは改めてそんな結論に達した。

 そして、出来るモノなら手元に置いて相談役にしたいとも……











 ────────ル・ガル帝國 南西自治領 最南部

         ブリテンシュリゲン郊外

         帝國歴339年12月21日 午前11時前











「久しぶりだねぃ……」


 狭い馬車の中、センリはウーンと背筋を伸ばしてから辺りを確かめた。

 街道から枝分かれする道を進み、半ば廃道になった先で馬車は止まった。


 そこは枯れきった立木ばかりが並ぶ廃墟ばかりの街跡だった。


 馬車から降りたセンリは、なにも言わずに歩きだした。

 まるで勝手知ったる場所であるかのように、スタスタと遠慮無く……だ。


「ここは?」


 馬から下りたカリオンがセンリの後に続く。

 その後ろには一騎当千の騎兵たちが剣の柄に手を掛けて続いていた。


 どの顔にも在り在りと警戒の色が浮かんでいる。

 いや、警戒では無く狼狽といった風な状況だ。


 この廃墟の街には、明確な敵意があった。

 言葉に出来ない殺気が渦巻いていたのだ。


「……かつて、イヌの国で第2次祖国戦争と呼ばれた合戦があった」


 センリは足を止めて振り返り、カリオンをジッと見た。

 その目には、相手を射貫くような鋭い敵意があった。


 一瞬だけその意味を思案したカリオン。

 だがその直後、雷に打たれたかのように硬直し、足を止めて辺りを見た。


 王ならば当然に知っているべき歴史的な出来事がある。

 この廃墟群は、この街の跡はその舞台になった場所だ。

 カリオンの背筋にゾクリと寒気が走った。


 ――ラーダム!


 それは、イヌの国の歴史を紐解くと出てくる、避けては通れないモノだった。

 民族の存亡を掛け戦いを繰り返すイヌの歴史に現れる難題の存在と同義だ。


「……トゥリ帝の時代のものか」

「そうさ…… あの男は切れ者だった」


 空を見上げたセンリは、不機嫌そうに踵を返し、再び歩き始めた。

 乾いた土に足跡が連なり、一行は集落の跡を進んでいった。


 半ば崩れた家々の間を抜け、立ち枯れした花壇を眺め、荒れた石畳を行く。

 一体どこへ行くのか?と訝しがったカリオンだが、センリは独白を始めた。

 誰もが聞き耳を立てるような、そんな調子で……だ。


「まだまだ、世界には自由があった。辛い時代だったが、自由だった」


 センリは独り言のように呟き続けた。それはまるで、痛みの告白だった。

 同族の振る舞いから起きた、受け入れがたい結果への嫌悪と後悔の吐露。

 思うようにならない現状への苛立ちが引き起こした破滅的な結末。


 もっともっと、謙虚に冷静に。そして慎重に。


 理屈や理念よりも感情論が先走れば、出来る事も出来なくなるもの。

 イヤなものはイヤだと徹底的に突っぱねた結果、ネコは自滅していった。

 ただ、ネコの大半はそれを自らの行いの結果だとは考えていない。


 ネコを攻めたイヌが悪い。イヌが我慢すればネコは幸せだった。

 そのトンデモ理論を何ら疑うことなく本気で信じてる。

 そんなナチュラルな王様理論こそ、ネコ最大の問題だった。


「自由に生きたかっただけなんだ。ネコは」


 過去が輝いて見える時とはすなわち、心が弱まっている証拠だ。

 ネコの社会は限界を迎えている。ここにその証左があるとカリオンは感じた。


「ネコとトラはイヌと戦った。自由が欲しかったのさ。ただね、統制の取れたイヌは途轍もなく強かった。ネコは死にたくないと逃げだし、トラは名誉の為に死ぬ事を選んだ。もう負けるとなった時、そこに介入した者達が居た」


 ふと足を止めたセンリは、手近にあった廃墟の中を覗いた。

 崩れ落ちた屋根と腐って抜けた床が窓から見えた。

 戸板を突っ張り棒で上げるだけの窓だが、その戸板は既に失われていた。


「あの頃、誰よりも自由を謳歌していた魔法使い達だったのさ」


 センリの言葉にカリオンが唸った。

 トゥリ帝の時代。第二次祖国戦争の際に行われた戦闘詳報を習っていたのだ。

 ビッグストンで教えられたそれは、ネコとトラの連合軍を支援する存在だった。


 杖を振れば嵐を呼び、雷と火炎とを自在に操り、大地を振るわせ馬を止める。

 そんなお伽噺の中に出てくる魔法使いの存在がイヌの騎兵を苦しめた。


「では…… やはりこの集落跡は、その時の……」

「そうさ。あの男は切れ者の糞野郎だった。一番の弱点を遠慮なく突いたのさ」


 建物の中を覗いていたセンリが戻ってきた。

 その手に持っていたのは、乾ききってボロボロになったしゃれこうべだった。


「慈悲も容赦もない鉄火で街を焼き払ったが、そこには奴なりの愛があった。あの男は等しく均等に全て殺したのさ。例外を作らず、老若男女の全てを鏖殺したんだよ。生き残りが出ると可哀想だとね。酷い話だが……」


 どくろをポンと投げ渡したセンリは、溜息をこぼしつつ再び歩き出した。

 カリオンの手元に落ちたそのどくろには、眉間に穴が空いていた。


 カリオンはそのどくろを道の脇へと降ろして手を合わせた。

 それは、騎兵の矜持として持つべきモノ。死者へ最大の敬意を示すものだ。

 片膝を付いて手を合わせたカリオンは、騎兵として最大限の敬意を示した。


「……アンタも良い男さ。あの男に匹敵するくらいな」


 センリは目を細め、カリオンの振る舞いを讃えた。

 この世の頂点とも言うべき存在の男は、名も知らぬ者の死を悼んだのだ。

 例え意図的な振る舞いであったとしても、それはなかなか出来る事では無い。


「さて、前哨戦は終わりさ。いよいよ核心へ行こうかね」

「……核心」


 核心という言葉を聞き返したカリオン。センリは傲岸な笑みを湛えて振り返る。

 そして、その指がカリオンを指した。それはまるで刃だとカリオンは思った。


 思わず身をよじってしまい、少々無様な振る舞いを見せてしまう。

 だが、センリはそれを気にする事無く、不躾な調子で吐き捨てた。


「そうさ。ここにはおそらくアンタが一番知りたい事の全てがある。それを知る者は神をも恐れぬ所行を積み重ね、生命と魂の研究では、この世界で一番だろう」


 センリの言葉にカリオンは表情を変えた。

 生命と魂の研究といえば、すなわちそれは重なりの研究に他ならない。


 ――ここで生み出されるのか?


 母エイラと父五輪男が飲んだと言う幻の薬。

 生物の種という垣根を越え、あり得ぬ子を成すと言う魔法の薬。

 カリオンの頭脳は一瞬にしてフル回転し始めた。様々な可能性を考えたのだ。


 その生成源は、この街だったところで生み出されていたのかも知れない。

 トゥリ帝は全部承知で、この街を焼き払ったのかも知れない。


 ――あの魔法薬は危険なもの……だから?


 一瞬の間に数知れぬ膨大なシミュレーションを行ったカリオン。

 その結果、周囲への警戒が一時的に疎かになってしまった。

 普段ならあり得ない事だ。


 迂闊だったと我に返り、その原因を思案し始めるのだが……


「止まれ」


 まるで地の底から響くような低く籠もった声が響いた。

 カリオンは本能的レベルで足を止め、同時に腰を落として剣の柄を握った。

 鋭い警戒と研ぎ澄まされた感覚が何かを捉えた。

 だが、その眼前に現れたのは、まるで生気のないネコの男だった。


「この街は生ける者の立ち入る街では無い。今すぐ立ち去れ」


『なにを!』と、反射神経のレベルで剣を抜きかけ、それを寸前で押しとどめた。

 その男の目にも顔にも、全くと言って良いレベルで生物の気配が無かった。

 言うなれば等身大の人形だ。人に見えるレベルにまで作り込まれた人形。


「そなたは『この街は生ける者の立ち入る街では無い。今すぐ立ち去れ』


 まるでオウムのように同じ言葉を吐いたネコの男。

 そのネコは無表情なまま踵を返し、街の中へと歩いて行った。

 フラフラと重心の定まらない歩き方は、まるで泥酔者だった。


「……なんだ。アレは」


 それ以上の言葉を吐き出す事が出来ず、カリオンは固まっていた。

 街の奥へと姿を消したそのネコの背中には、黒い土汚れがあった。

 理解の範疇を飛び越える者が現れたとき、対処の選択肢は随分と限られる。


 斬るか、それとも、様子を伺うか。


 戦闘力的に押し返せるなら、様子を見るのが正しいと言える。

 だが、この場合は相手の実力も能力も掴めないし、理解し得ない。


「センリ。あれはなんなのだ?」


 わずかに震える声になっていたカリオンは、センリにそれを尋ねた。

 その声音には溢れるほどの警戒と狼狽が混じっていた。


「そうブザマな姿を晒しなさんな。アンタは太陽王だろ?」


 やはりどこか嗾けるような言葉を吐きだしたセンリ。

 その表情は愉悦を味わって満足している風なモノだった。


「人形さ」

「人形……だと?」

「そう」


 クククと相手を誹るように笑ったセンリは、やや首をかしげて言った。

 まるで嘲笑うかのような振る舞いに、近衛騎士が一瞬いきり立つ。

 だが、当のセンリの口から出た言葉に、全員が凍りついた。


「魂の入っていない人間を見るのは始めてかい?」


 ――え?


 カリオンは言葉がなかった。そして、近衛騎士の誰もが同じだった。

 センリは確実に『魂が入っていない』と言った。つまりそれは、死人の筈だ。

 だが、目の前に現れた男は、確実に生きていた。


「今の男は…… 死人だと言うのか?」

「お前さん、死んでる人間が喋ってるのを見たことあるのかい??」


 再びくすくすと笑ったセンリは、相手を小馬鹿にするような眼差しだ。

 だが、センリは二股の尻尾を弄りつつ、嘲るような笑みを浮かべた。

 それは、誰よりも長くこの世に存在していると言うネコマタの証だった。


「いいかい? 命と魂は違うんだよ」

「違う…… だと?」

「そうさ。命は身体を動かすもの。魂は命を奔らせるものだ」


 ――――わかるかい?


 そんな嘲りの混じった表情でカリオンを見たセンリ。

 カリオンは鋭い視線でセンリを見ていた。いや、睨みつけていた。


「命は身体の影響を受ける。体が傷つけば命は失われる。だけどね――」


 フゥと一つ息を吐いたセンリは、その視線を滑らせ街の奥へと向けた。

 先ほど歩み去ったはずのネコが戻ってきたからだ。


「――その命を身体につなぎ止めておく力が魂なんだよ。ただ、魂は命よりも身体の影響を受けちまうのさ。傷ついた身体を癒やす為に命が使われ、それが空っぽになると魂はどこかへ消えちまう。茶碗に入った水のようなものさ。この世界に残るのは、その魂が迸ったカスみたいなもんさ」


 僅かに考え込んだカリオンは、突然ハッと顔を上げた。

 自分自身の真実。妻リリスの真実に気がついたのだ。


「では、複数の魂を重ね合わせると言うのは……」

「気がついたかい?」

「……あぁ」


 センリは再びニヤリと笑った。

 だがそれは、嘲りや誹りと言ったモノではなく、満足げな笑みだった。


 難しい命題を見抜き、正しい答えにたどり着く能力。

 それこそが、研究者に必要な能力なのだ。


「魂を複数持っていれば、命の総量も多い。だから、普通なら死んでいるような状態でも死なずに済む」

「……だが、逆に言えば」

「そう言うことさ」


 再び相手を小馬鹿にする笑みを浮かべたセンリ。

 カリオンを見るその眼差しには、この化け物めという色があった。


「死にたくても、そう簡単には死ねない。苦しんで苦しんで苦しみぬいて、それでやっと死ねる、そんな呪いが掛かった存在。それが重なりだ。神の摂理を踏み越えた存在なんだよ。あんたは」


 なんら遠慮する事無く、センリは冷徹にそう言い切った。

 自らもまた重なりであると言い切っていたセンリが……だ。

 カリオンはセンリが何故ここを訪ねたのかを理解した。


 命と魂の研究。人の死をコントロールする事。

 それは、魔導に携わる者達共通のテーマだ。


 そしてそれは、禁断の領域と呼ばれる物事でもある。

 神の摂理への挑戦。魔導に携わる者は、大抵それを禁忌と呼ぶ。

 研究する事が憚られるような物事は、だいたい好もしくない結果に結びつく。


 そして、そのほとんどは研究者が狂を発して終りを告げる。

 魔の深遠に存在するのは、何人も手を触れられぬ神の摂理だ。

 その摂理を覗いた者は、誰も知らぬその深遠に覗かれるのだった。


 己の持つ、命と魂の形を……


「……どのような人物なのだ」


 カリオンの声音には、露骨に警戒する色が浮かんだ。

 ここまでの話を聞けば、おおよその見当が付くというモノだ。


 センリが案内しようとしている所には、とんでもない魔術師が居るはず。

 だが、それは禁断の領域へ手を出した存在で、少なくともまともでは無い。

 言葉は通じるとも話の通じない可能性も高いのだ。


「まぁ、一言でいうなら……『顔を合わせた方が速いな』


 何かを言いかけたセンリの言葉に介入し、言葉を上書きした存在が居た。

 驚いてそっちへと目を向けたカリオンとエゼの二人は、思わず息をのんだ。


 幾多の人形を従え、漆黒のローブを纏った妙齢の女がそこに居た。

 病的に白い肌と作り物然とした黒い髪の女だ。


「久しぶりだねぃ。お前さんは相変わらずだ」


 どこか呆れるような物言いでセンリは言葉を掛けた。

 その言葉を聞いた妙齢の女性は、妖艶に笑って言った。


「お師匠さまにおかれましても、何らお変わりなく……」


 妖艶なその笑みは、もはや不気味というレベルでのそれに変わった。

 あり得ない程に口元を歪ませ、愉悦を隠しきれないと言った風だ。


「ヴェタラ。こっちのイヌが誰だか解るか?」

「もちろんですとも」


 ヴェタラとセンリが呼んだネコは、クククと笑みを噛み殺した。

 そして、カリオンをジッと見てから、再び口元を手で隠し笑った。


 その振る舞いも雰囲気も、まさにセンリの生き写しのようだ。

 もっと言えば、その姿ですらもセンリのそれに見える。


 ――この女も人形か?


 一瞬だけそんなありえぬ可能性へ思いを馳せたカリオン。

 だが、ヴェタラはにんまりと笑って言った。


「今日、この日がくるのを千秋の思いで待ってましたよ……」


 噛み殺す笑いは、復讐の愉悦だろうか。カリオンは背筋の寒気を強くした。

 幾何かの魔導を得たカリオンには、ヴェタラの纏う瘴気が見えたのだ。

 黒とも紫とも付かない、僅かな霧のようなもの。


 だがそれは、心弱き者が正視すれば即座に血反吐を吐いて死ぬようなもの。

 恨みと憎しみと悲しみとを集め、時間を掛けて熟成させた悪意のかたまり。


「美しかったラーダムヴァンツの街を焼き払ったイヌの王の――」


 ヴェタラの目に狂気が宿る。

 男を誘う女の様な、妖艶な色を帯びた眼差しだ。


「――あの切れ者から数えて4代目の王」


 その言葉にカリオンの背筋が再び震えたが、怯えも慄きもこぼさなかった。

 世界を統べる、太陽の地上代行者。その矜持がカリオンの背を支えた。

 太陽王の肩書きに掛けて、それだけは出来ない。


「なるほど。全て御見通しと言うわけか」


 精一杯の強がりで含み笑いを浮かべたカリオンは、ジッとウェタラを見た。

 その姿はまるで幽鬼の様にも見えるし、或いは、生ける死者の様にも見える。


「フフフ…… 強がる殿方って可愛いわね。でも――」


 ヴェタラの口から漏れる言葉はまるで刃だった。

 その一言一言が、カリオンの正気を一枚ずつ削り取っていくかのようなモノだ。


 ――気を強く持て!


 丹田へ気を集中し、顎を引いて気合を練ったカリオン。

 だが、そんな集中など何の意味もないと知れるような一言が出た。


「――イヌとヒトの相の子と言うのは珍しいわね」


 カリオンの心から何かがフッと抜けた。

 辺りには近衛騎士団が居たのだが、幸いにして誰の耳にも入っていないらしい。


 ただ、ヴェタラはカリオンを値踏みするようにニヤリと笑っていた。

 その姿にカリオンは、ヴェタラが音をコントロールしたのだと気が付いた。

 内容までは理解出来なかったが、少なくとも太刀打ち出来る相手ではない。


 勝負を挑んでどうにか成る相手ではない。

 ならば、胸元を開いて事に挑むしか無い。

 カリオンは覚悟を決めた。


「余の正体を知るのなら話は早い。余と余の妻に、そなたの力を貸してくれぬか」


 下手な策を弄する事無く、カリオンは素直な物言いで依頼した。

 自らの正体を見抜くのだから、以来の中身をも知るだろう。

 カリオンはそんな確信があった。


「ネコの街を滅ぼしたイヌの王が、よりにもよってその街の生き残りに……」


 ヴェタラの表情が僅かに歪んだ。

 怒りを噛み殺している様にも見えるが、笑みの処置にも見える姿だ。

 ただ、今まで平坦だったヴェタラの感情が大きく動いたのは間違い無い。


「そなたが謝れというなら、余は率直に謝罪しても良い。だが――」


 カリオンは馬上マントの裾を払って胸を張った。

 グッと力を込めた眼差しでヴェタラを見据え、顎を引いた。


「――それは余の辛礎と引き替えだ」


 カリオンは敢えて傲岸な言葉を投げつけた。

 他ならぬ太陽王に頭を下げさせるなら、それ相応の代償が要る。

 ただ単に頭を下げさせようなどとは思うな……と、釘を刺した。


 ふたりの視線がバチバチと火花を散らすように交差する。

 そして、その当事者であるカリオンは、あくまで余裕ある態度を崩さなかった。


「……お前。ここから生きて帰れると思っているのか?」


 殺すぞ……

 貫くような気迫がヴェタラから漏れた。その身に纏う威圧感の色が変わった。


 カリオンの目にはそれが鮮血色に見えた。明々と燃えさかる紅蓮の炎に見えた。

 だが、そんなモノは今まで何度も経験してきたのだ。


 命のやり取りの現場で先頭に立ち、馬群を引き連れ戦闘に及んでいる。

 そして、歴代太陽王がそうであったように、カリオンもまた達観していた。

 己の生死ですらも政治的駆け引きだと割り切っていたのだ。


「むしろ、ここで余を殺して、その後そなたはどうするのだ?」


 カリオンの口から出た言葉は、ヴェタラの予測を飛び越えていたらしい。

 一瞬だけ対応が遅れ、次の言葉を吐くタイミングを逸してしまったようだ。


「王が死んだ程度で傾く程、ル・ガルは弱い国家では無い。すぐ新たな王が選ばれ、その元に結束するだろう。そして、ネコの国家を根絶やしにするかも知れんな」


 カリオンは涼しい顔でそう言い切った。

 実際問題として、カリオンの次に誰を王にするかは、相当揉めるだろう。

 だが、逆に言えばそれ相応の人材はいくらでも居るのだ。


 きっと帝國老人クラブの面々が頭をひねり、相応しい人材を王とするだろう。

 何も問題ないし、今を全うすることのほうが重要だ。

 自分の手を離れる事にまで気を巡らせても、得られるものは少ない。


「そなたは余を殺す。余はここで死に、ル・ガルは次の王を立てる。そして、最初の事業は余の死の報復だ。大義名分を得たイヌは遠慮なくネコを滅せるだろう。ならば余の死は意味を得る。価値を得るのだ。何も問題ない。さぁ――」


 カリオンは涼しい顔でヴェタラを見据えいった。

 なんら迷うことなく、晴々とした表情で……だ。


「――さぁ、遠慮なく……やれ」


 顎を引いたカリオンは、ヴェタラをジッと見据えて言った。

 いつの間にこんな渋い声を出せるようになった?と、エゼが驚く程に。


「アンタの負けだよ、ヴェタラ。背負ってるモノが違いすぎるのさ」


 毀れた笑いをこぼしながら、センリは歩み寄ってヴェタラの背を叩いた。

 奥歯を噛みしめるそのヴェタラは、恨みがましい目でカリオンを見ていた。


「そんな事言ったって……」


 カタカタと小刻みに震えるヴェタラは、悔しさに目の色を変えている。

 その身に纏っている瘴気のような殺気がカリオンの足にまとわりつく。


 ゾクゾクと背筋を冷やすような寒気が立ち上って来て、グッと奥歯を噛んだ。

 絶対に無様な姿を見せたくないと、裂帛の威を練り上げていた。


「そう言うな。これは勝ち負けの問題では無い筈だ。誰かの振るまいや思惑で何かが動き、それが次々に連鎖して事態が動く。余は学びを得た奨学の地でそれを覚えた。そしてそれこそが、後に歴史と呼ばれるモノなのだろう」


 カリオンの言葉は深く鋭い一撃をヴェタラへと叩き込んだ。

 その鈍い痛みと悔しさに、ヴェタラの表情は大きく歪んだ。


 人生経験で言えば、ヴェタラはカリオンを大きく凌ぐはず。

 だが、カリオンは何ら遠慮する事無く言葉を続けた。

 まるで老練な策士が相手の反応を確かめる様に……だ。


 オーバーキルになる様な一撃だが、逆に言えばトドメは確実に刺すもの。

 相手の戦意を削ぎ、抵抗心を消し去り、こちらの意のままに操る。

 そう言ったノウハウは、自然と身につけるモノであり、学べるモノでは無い。


「ヴェタラ。アンタが見たいモノ全てをこの男は持ってるぞ」


 怒りと悔しさに震えるヴェタラの耳元で、センリはそっとそう囁いた。

 その言葉にヴェタラの表情がスッと変わる。


「本当に?」

「あぁ」


 センリは腹黒さが滲み出る悪い笑みを浮かべ、ヴェタラの廻りを歩いた。

 それはまるでディテイラー(監督生)が下級生を叱りつける様な素振りだ。

 カリオンはその姿にビッグストン時代を思い出してほくそ笑む。


「アンタが長年研究してきた全てのモノを、この男は持っているのさ。だから」


 センリはヴェタラの耳元でヒソヒソと囁いた。

 その姿にカリオンは、センリの本質が人誑しだと気がついた。

 騙して、宥めて、賺して、そして相手を自分自身の意のままに操る。

 百戦錬磨の人生経験が持つ、恐るべき手練手管だ。


「……色々と腹に抱えてるのは解ってる。だけどね」


 ニヤリと笑ったセンリの表情には、策士の悪意が滲んでいた。

 ただ、実際そんな表情はヴェタラにもこぼれていて、2人の密話は続く。


「……解るだろ?」

「えぇ…… それはもう十分に」


 ややあって念を押したセンリの言葉にヴェタラが妖艶な貌をみせた。

 それは、男を誘う女の顔。まるで女郎蜘蛛の様に相手を絡め取ろうとする顔だ。


「いいさ。お前さんの辛礎とやら。あたしも力を貸そうじゃないか」


 ころりと態度を変えたヴェタラは、漆黒のローブを翻し振り返った。

 そして、自らの背後に居た人形たちにフッと息を吹き掛けた。

 次の瞬間、人形たちはその姿を維持出来なくなり、まるで砂の様に崩れた。


 呆気に取られるカリオンの目の前、人形は次々と砂に還っていった。

 ただ、心なしかその人形たちが笑みを浮かべているようにも見える。

 満足げな、満ち足りたかのような、そんな表情だ。


 ――この女は……


 カリオンは思わず息を呑んだ。

 いつの間にコレほど集まったのか?と驚くような数の人形たち。

 その数たるや、優に一個中隊は拵える事が出来ようかと言う数だった。


 この女はここで、この街の中でこんな人形達と暮らしていた。

 人の気配が全くしない街の中で、もの言わぬ人形たちとの毎日をだ。


 それを狂っているとか、いかれているとか、そう表現する事は容易いのだろう。

 だが、そんな狂気に駆り立てられた理由は、どうしても思い浮かばない。

 この街を焼き払ったイヌへの憎悪がそれをさせたにしたって……


 ――根が深いな


 カリオンの頭の中で、何かの歯車がカチリと音を立てて嵌った。

 この女を利用するのだと、心の何処かで決意した。


「……そなたの眷属を砂に還させてしまったな」

「良いのよ。どうせ砂から生まれたものよ」


 カリオンの表情が僅かに変わった。

 だが、問い詰めている時間は無いし、そんなつもりもない。

 簡潔にその答えだけを欲している状態だった。


「ヴェティ。アンタの悪い癖だよ」


 センリはヴェタラの事をヴェティと呼んだ。

 それがこの女のニックネームだと気が付いたが、それは実際どうでも良い。


 砂から生み出された使い魔とでも言うべきこの人形達。

 カリオンの興味はそこへ移っていた。


「……人の身体は何で出来てる?」


 ヴェタラは謎かけのようにカリオンへと問うた。

 極々当たり前の回答として『血と肉と骨』とカリオンは答えた。


「じゃぁ、その血と肉と骨は何で出来てる?」


 ヴェタラの問いが難しくなった。

 どう答えて良いのか解らず、カリオンはそのままに『肉は肉だろう』と答えた。

 だが、その答えを聞いたヴェタラは、あの嘲笑染みた顔になっていた。


「まぁ、普通はそう答えるだろうさ。だけどね……」


 ヴェタラはそこから怒濤のような言葉を吐いた。

 正直、カリオンが手に余す様な、余りに高度な魔法学の知識を……だ。


「血も肉も骨も、その根本になるモノは一緒なんだよ。神の摂理さ。目に見えない所まで砕いていったとき、最後に残るのは、小さな小さな、目に見えないくらい小さな砂粒だ。元素という小さな粒なのさ」


 カリオンは僅かに首を傾げた。ただ、そんなカリオンの背をエゼが押した。

 今まで完全に空気のようになっていた、気配を殺していたエゼが……だ。


「今はその授業を聞いている場合じゃ無いだろう? さぁ、城へ戻る時間だ」


 エゼキエーレはそれとなくカリオンに出立を促した。

 もはや時間がないと言う事をエゼはよくわかっているからだ。

 リリスの容体は日増しに悪化し、死の影は色濃くなっている。

 急がねば……と、その意識だけがエゼを突き動かしていた。


「その通りだな……」


 カリオンは左手をかざし、センリとヴェタラを誘った。

 いつの間にか緊張を取り戻したらしいその姿に、ヴェタラは息をのむ。


「そなたは始祖帝ノーリや次帝トゥリに対する感情もあろう。だが――」


 カリオンの真剣な眼差しがヴェタラを捉えた。

 強く澄んだその眼差しは、彼女の心を揺り動かした。


「――余は困っている。余の手に余る事が起きたのだ。故に、余はそなたの力を借りたい。その代償は可能な限りで用意する事を約束する。知と智を次の世代へ生かしてくれ」


 カリオンは率直な言葉でヴェタラのヘッドハントに掛かった。

 それはつまり、過去の太陽王が積み重ねた事の清算でもあった。


 遠い遠い昔からこの地に生きてきた魔法使い達と和解する。

 そして、ル・ガルの戦力として組みこむ。或いは、融合する。

 難しいのは承知の上だが、良き隣人として良き関係を築く。


「……お前さんは変わり者だね。だけど――」


 ヴェタラはカリオンの頬に手を添え言った。

 ゾクリとした感触が走ったカリオンだが、表情は崩さなかった。


「――アンタも良い男だよ。あのトゥリの様に」


 ヴェタラもまた素の言葉でカリオンを讃えた。

 言いたい事は色々あるが、一人の研究者としての興味が勝っていた。


 遠い遠い昔、英知の全てを独占していた、ある魔法使いの生み出した薬。

 生ける賢者の石と呼ばれ、歩く魔法辞典と呼ばれ、理外の存在と言われた男。

 全ての魔法使いの始祖であったオズの残したモノ。


「そなたも魔法薬を知りたいのか?」

「……当たり前じゃ無いか――」


 ヴェタラはクククと笑ってカリオンを見た。

 その眼差しがまるで相手を嘲笑するソレなのをカリオンは無視した。

 ネコの性として、最大限克つ無条件で追い求めるのは、己の興味だ。


「――私も作ってみたいんだよ。神の摂理を乗り越えるものを」


 ヴェタラの言葉に再び首を傾げたカリオン。

 実際の話、あの砂粒から作ったという人形が、神の摂理の外だ。


「アレで十分ではないのか?」

「まだまださ。だって魂が入っていない」


 ヘヘヘと笑ったヴェタラは、嫌味の混じる笑いを浮かべてカリオンを見た。

 その表情はまるで、子供達の寝物語に出てくる邪悪な魔女その物だった。


「命を魂に詰め込む事が出来て、初めてアタシの研究は完成だ。ただね、魂をどこから導き出して、身体にどう縛り付けるのかが解らないんだよ」


 ニマニマと笑いつつ、揉み手をしているヴェタラ。

 カリオンは自分自身が研究の対象であると知った。

 そして、場合によっては弄ばれる存在であるとも。


「ならば、それを余の元で研究せよ」

「元よりそのつもりさ。アンタに力を貸す以上、こっちにも旨みが無いとね」


 ヒヒヒと甲高い笑い声で笑ったヴェタラ。

 その姿に生理的嫌悪感を覚えたカリオンだが、顔にはギリギリ出なかった。

 油断をすれば寝首を掻かれる。それが実感出来ただけ危険と言う事なのだろう。


 多難な道になるのは解っていたが、想像以上になりそうだと溜息をこぼす。

 だが、そんなモノなど何の意味もない事なのだと気が付かされるまで、それほど時間は掛からなかった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ