ル・ガルの歴史(前)
エイダとウィルの喧嘩から二週間が経過した。
相変わらずリリスはウィルからモノを教わる毎日だった。
だが、そこに僅かな変化が起きている。ウィルが居ない時間、リリスはエイラと過ごしていた。
チャシの中でエイラと共に過ごし、女性らしい振る舞いとは何かと言う部分をあれこれと学んでいたのだった。
ガルディブルクに暮らしているとき、リリスの母親はどんな生活をしていたのだろうかとゼルや五輪男は訝しがった。それ位、リリスはこの世界の女性が持つべき能力の大半を持っていないのだった。
刺繍や裁縫といった衣装関連の知識に始まり、ドレスの選び方や礼装の着こなし方。それだけでなく、テーブルマナーや会食パーティーの席上での振る舞いなどだ。
ウィルは言う。
「お嬢様のご母堂はちょっと特殊なんですよ。まぁ、カウリ様も物好きと言う事ですが」
それ以上の事を言わないし、ゼルや五輪男が尋ねてもはぐらかしてしまう。
いよいよこの子はおかしいという印象を持ったゼルだが、エイラは楽しそうだった。
「楽しいよ? だって娘が出来たみたいじゃない!」
僅か十日足らずの間に、エイラはリリスの母親のようになっている。
エイラとリリスは二人して余所行きの御洒落をし、チャシ城下の喫茶店へ出かけて行ってお菓子を食べて帰ってくる事も有った。警護の者にしてみれば、はっきり言って迷惑以外の何物でもないのだが、エイラもリリスもそんな日常を楽しんでいた。
気になる相手を母親に取られてしまって、尚且つ父ゼルや家庭教師ワタラの特訓を受けるエイダ一人だけが、不満を抱え込んでいた。
ある日、意を決したエイダはリリスの部屋を訪ねた。
リリスがウィルの授業を受けている午前中にだ。
ワタラ――五輪男がそうである様に、リリスもウィルから文字の書き方や基本的な算術知識や、そして、様々な事象を正しく見ると言うレクチャーを受けている。その全ては将来の為に真贋を見極める目を養う授業だった。
コンコンとドアをノックしたエイダ。部屋の中からはウィルの声が聞える。
エイダは何となくドアを開け中を見た。大きな灰盆を使って授業をするウィル。
エイダはそんなシーンに衝撃を受けた。
紙が貴重な世界であるからして、書籍それ自体がとんでもなく貴重である上に、ノートや帳面といったモノがとんでもなく高価なものだ。黒板などを使って学校は授業をするのだが、それを書き写して学ぶのではなく、とにかく暗記するしかない。だから、ウィルが行っている授業は、エイダにとっては新鮮な光景だった。
「良いところに来たね。エイダ君」
ウィルから名前を呼ばれ、エイダはビクッと身体を振るわせた。
「何をしているのですか?」
「今はイヌの国の歴史を学んでいる」
「れきし?」
「今まで何が有ったのか?と言う事だ」
ウィルはエイダを手招きした。
「一緒に考えよう」
誘われるがままに部屋へと入ったエイダ。
その姿を見たリリスがニコッと笑って椅子を半分譲った。
リリスのとなりに座ったエイダ。
とても綺麗な花の香りをフワリと感じた。
「エイダ君はル・ガルの歴史をどれ位知っているのかな?」
「父上から教えてもらったのは、今まで四度、ル・ガルが戦争をした事です」
「そうだ。これをル・ガルでは祖国防衛戦争と言う」
ウィルは大まかな大陸の地図を灰盆へ描き二人へ見せた。
「最初。オオカミは小さな都市を一つの国にしていたんだ。その都市ではオオカミだけではなく、様々な種族が暮らしてきた。仲が良かったり悪かったりしたが、まぁ、概ね平和だった時代だ」
大まかに描かれた地図をウィルが線で割った。
北部地域。中央平原。東部森林地帯。西部草原地域。
現在のル・ガルを形作る国の形だ。
「君らは自分達の事をイヌと呼ぶ。だが北部地域ではオオカミと呼ぶ。元々のイヌはここシウニノンチュから南側にいたシウニン族が主流だった。ここからさらに北の山岳部と東部森林地帯に暮らしていたフレミナ族は自らをオオカミと呼んだ。最初に都市国家の合同体を作ったのはオオカミだったんだ。だからイヌ以外の種族国家はル・ガルをオオカミの国と呼んでいる」
ウィルは灰盆の地図に幾多の矢印を書き加えた。
現在のシウニノンチュがあるエリアから放射状に矢印が広がっていく。
「統一王ノーリはその父ビルタや祖父エラスタの頃からフレミナ族との戦を繰り返し、その都度にシウニン族は疲弊してきた。そして帝国歴前148年頃。遂に双方三万の兵力を揃え決戦に至ったんだ。ノーリの父ビルタや多くの兄弟が死んだ戦いだった。だが、シウニンは勝利した。そしてノーリは統一王となり、生き残った弟サウリと共にフレミナ族の姫を娶ってオオカミの王となった。フレミナ族の街へはサウリが入った。ノーリがイヌの王。そしてル・ガルの帝を名乗ったので、フレミナ族を預かる形になったサウリはオオカミ王を名乗った。それ以来、ル・ガルの帝はオオカミ王を相国として臣第一に迎える約束になったのだよ」
ウィルは次にノーリの家系図を書き始めた。
ノーリから続くシウニン族の家系が姿を表す。
そして、フレミナ族に行ったサウリはシウニンから人を入れず、家系的にシウニン族とは隔絶した家系を作り上げていた。
その二つが再び出会ったのはサウリの血統ゼルとシュサ帝の娘エイラだった。
そして異なる血統に分かれたノーリとサウリの父ビルタの血の結晶がエイダだ。
リリスは何か眩しいものでも見るかのようにエイダの横顔をみた。
その凛々しさに、胸を振るわせながら。
当のエイダもまた自分の存在が何を意味するのかを、まだ幼い頭で理解する。
なぜシュサ帝が自分を可愛がるのか。
シュサだけでなく、叔父カウリもまたエイダを可愛がる。
つまり、自分かシウニン族とフレミナ族双方の血をひいていることに、少なからぬ衝撃を受けていた。自分はル・ガルを形作る全てだと言うことに。
「統一王ノーリは国家の形を強力に作っていった。最初はここシウニノンチュがル・ガルの都だった。だが、程なく都市としての限界を迎えノーリはガガルボルバに舟を浮かべて河が尽きるところへ旅立った。ガガルボルバが海へ注ぐ所。この大陸、ガル・ディ・アラの要。巨大な中洲へ街を築く。それがル・ガルの都ガルディブルクだ。最初からオオカミの、イヌの都を目指して作られた完全計画都市だ。莫大な人口を集める街になった」
ウィルの地図にガルディブルクが姿を表した。
ガガルボルバの中洲をはみ出しどんどん肥大していく巨大都市。
気が付けば当初の中洲から五倍程度に拡大していた。
「だが、この辺りからル・ガルの災難が始まる。最初は西部地域を舞台にした多種族軍との争いだ。これをフェラム戦役という。彼らはイヌが着々と国家を作っていく事が怖かった。ノーリは全くそんなつもりが無かったのだが、彼らはいずれ今住む場所を追われると考えた。そして、その恐怖は他の種族へ伝染した。フェラム戦役から六年後。東部森林地帯を住処としていたキツネやタヌキやサルも多種族連合軍を作って合戦に及んだ。これをニンストリール戦役と呼ぶ。そして、南方海洋の数中で暮らす種族国家がル・ガルの海上交通を妨害し始める。これに対処するべく戦ったのが南洋戦役だ。まぁ、これはまともな戦にならなかったのだがね」
ウィルは灰盆の中をかき混ぜていったん地図を消し、改めて地図を描く。
その姿を見ているエイダは質問を始める。
「なんて他の種族はイヌが怖いんだろう?」
ウィルはその問いに満足そうにしている。
「イヌ以外の種族は思ったんだ。自分たちの同意も無く、勝手に都市国家をまとめるなってね。ネコやトラは束縛を嫌うんだよ。それがどんなに無駄で自分勝手な主張であったとしても『嫌なモノは嫌なんだ』だけで抵抗する。だから話し合いの余地も無い。嫌だからやめれば良い。そうしたら自分たちは黙るってね」
その言葉にリリスは首を傾げた。
「ネコとかトラって馬鹿なの?」
「馬鹿とかそう言う事じゃ無いんだ。誰かが勝手に決めると言うのが嫌いなんだ。理屈じゃ無くて好き嫌いの話だからネコやトラは折れる事が絶対無い。自分たちが嫌だと思うモノは、絶対に。絶対に受け容れない。だからイヌの側はそっちを無視して国家形成を進めたんだよ。イヌは国家形成が必要だと思ったからやってたんだね。まぁこれも好き嫌いってことだね。好きとか嫌いっていう心の動きを感情というんだけど、双方がその感情をぶつけ合うんだから、折り合いなんて出来るはずが無いんだよ」
今度はエイダが言う。
「どっちかが根絶やしになるまで続くんだね」
「そうだね。だけど実は、その抵抗運動が一番ひどかったのは北部地域だったんだ」
ウィルの地図にル・ガル以外の勢力が登場し始める。キツネやトラやネコだ。
そして、その地域から小さな矢印が伸びた。
この流れはかつてのフレミナ族やシウニン族と同じく、戦の流れだ。
扇の大陸西部で肥沃な地域に農業地帯を作っていたトラは、ネコ以上にイヌへ抵抗した事が見て取れる。
「最初は個別に様々な争いをしたのだけど、いつの頃からかネコがイヌ以外で最初の統一国家を形づくった。ただね、ネコらしいと思うのは、あの国に国号が無いんだよ。面倒を嫌い楽して暮らすのが何より大事なネコらしい事だ。やがてネコ以外にも続々と種族国家が誕生していった。ただ、イヌ以上に協調や絆を大事にする種族はウサギ位なモノだったんだね。まともな国号を持つ国はなかったし、国家形態を整えた国も無かった。だから皮肉にもル・ガルが全ての手本だった。法を定め国家指導体制を作り国王も国家の一機関に過ぎないと定めたのはイヌだけだ。だから他の種族国家では国王がどうしようもない馬鹿で愚かなことを繰り返しても、民衆は我慢するしかない。国王が愚かで妄執に取り付かれたら、民衆は不幸を味わう。だが、時々それのトバッチリでイヌがひどい目に遭う。それが」
ウィルの地図に描かれた矢印が一斉にル・ガルへ突き刺さった。
「祖国防衛戦争の始まりだ」
地図の矢印はル・ガルを蹂躙した。
周辺部の都市が次々と他種族国家軍に蚕食されル・ガルは縮小していく。
西部草原地域は半分近くがネコとトラに。東部森林地帯はキツネ達に。
そして北部地域はクマやウサギの闊歩を許した。
「最初の会戦がどこだったかは未だに分からない。ただ、最初は穏健な対応だったノーリ帝の姿勢が悲劇を生んだ。イヌが弱腰だと見た他種族国家が一斉にル・ガルへ襲いかかったんだ。最初の祖国防衛戦争は七年に及んだ。沢山死んだよ。兵士も民衆も。そしてノーリ帝は学んだ。ル・ガルの民衆が平和を享受する為には戦争に備えないといけないとね」
ウィルの地図で蚕食されていた地域が段々とイヌに奪回されていく。そして、当初と同じ体制に成ったとき、灰盆にノーリの子トゥリの文字が浮かび上がった。
「ノーリ帝は戦の終了と同時に王太子の中から三人の時期王候補を選んだ。そして、その最有力となったのがフレミナ族の姫との間に生まれたトゥリ帝だった。じつはこの時点でノーリは既に病に倒れていた。ひた隠しにしてきたんだけど、ある日突然それが他国へバレてしまって、そしてその日から第二次祖国防衛戦争が始まった。この時、総元帥となったのは丞相だったトゥリ帝だった。東西種族の挟み撃ちに遭い、おまけに北方系種族の魔法攻撃にあった。軍は大混乱に陥り、僅か二週間で五個師団が壊滅した。だけどね、トゥリ帝の発案で魔道師の里を包囲殲滅し形勢は逆転。五年後には東方種族を海の向こうへ押し出して海峡を挟み睨み合う状態にまでなった。これでいったん平和が訪れた」
灰盆の中のトゥリの文字が消え、次に西部地域の地図が描かれた。
「第二次祖国防衛戦争は初めて国家軍同士の戦争だった。ネコとトラの連合軍と戦ったんだ。彼らもまた魔道師の支援を受けていた。だがある日、魔道師の姿がぱったり無くなったんだ。結局帝國歴八十一年にネコやトラの国家と暫定国境線を策定し戦は終わった。あとで知ったんだけど、魔道師はネコやトラの国家に莫大な謝礼を要求したらしいね。その影響でネコの国などは国家基盤が傾くほどだったと言うよ」
ウィルの授業を聞くエイダの目が輝いている。リリスもだ。
決して華々しい訳では無いが、それでも活きた歴史の話は心奮わせるモノらしい。
「その翌年。ノーリ帝は二百三十歳で亡くなる。その時、トゥリ帝は前帝ノーリへ明元帝の諡号を送り、ル・ガル市民は市民尊称として『太陽王』を送ったんだ。それが今のシュサ帝が太陽王と呼ばれる理由だよ」
地図が灰盆から消え去り、エイダとリリスがウィルを見た。まるで話の続きをせがむように。
「祖国防衛戦争と言っても他種族から見ればル・ガルの成立自体が良い迷惑だと、そう言われてしまっていた。そもそもイヌが勝手に国を作ったとね。だけど実際には都市国家が様々な種族を内包していた頃から軋轢はあったんだ」
「あつれきってなんですか?」
「そうだね。折り合いのつかない揉め事って感じかな。様々な種族同士で意見が分かれすぎたんだ。悪いことに全部が全部、自分の意見が一番正しいって信じちゃった」
「だから戦争が無くならないんだね!」
何かに気が付いたエイダは元気よく言う。ウィルはエイダの言葉に驚いた。
戦争の真実をこんな幼い子供ですら気が付くとは……
だがしかし、被害妄想に取り付かれると後が面倒だとウィルも気が付く。
これから未来を担う子供たちは、出来る限り中立的なのが望ましい。
「エイダ。なんでイヌは戦争をするんだい?」
「他所の国がちょっかいを出すから」
「なぜ?」
ウィルはエイダの思考を深くするべく更に考える事を要求した。
だが、その答えをエイダが考える前にリリスが応えた。
「イヌの国が怖いんだ」
ウィルの目が興味深そうにエイダを見た。
リリスの答えにどんな反応をするのかをジッと見ている。
「じゃぁ、怖くないと手を出さないかな」
「それは無いと思う」
「でも、イヌが怖いんだろう?」
「うん。たぶん」
リリスとエイダの会話が続き、ウィルはそれをじっと眺めている。
子供たちに考えさせ、ディスカッションを経る事で擬似的に経験を積ませる教育だ。
「じゃぁ二人で考えよう。どうやったら戦争は終る?」
答えの出ない会話のラリーが続き、ウィルはちょっとだけスパイスを加えた。
「イヌが勝てば終るね」
「どっちかが諦めてやめると終るかも」
エイダもリリスも基本的には勝ちきると言うスタンスだ。
どうにも危ういと感じたウィルは、子供の鼻っ柱をへし折る作戦に切り替えた。
「本当かい?」
「ウーン」
エイダは短く唸り、リリスは首をかしげた。
「負けたほうはいつまでも恨むよね」
戦争の敗者。負けた側の真実。
復讐に猛る昼と諦観の夜を越えて牙を研ぐ者たち。
報復戦の連鎖をどう断ち切るのか。
それは言葉で教えられるほど生易しいモノではない。
「そうだ。根絶やしにすれば良いんだ!」
エイダが楽しそうに言う。
リリスも頷く。
「だけど、そうしたら他の国はもっとイヌを怖がるよね」
ウィルは素早くブレーキを掛けた。
単純で無用心な一手は、身を滅ぼす最短手だ。
「じゃぁ全部イヌにしちゃえばいいんじゃないかな」
リリスも割と好戦的な言葉だ。本質的にはイヌもオオカミも変わらない。
相手を噛み殺して、その肉を喰らって生きた獣の習性を色濃く残している。
「でも、水の中にイヌは行けないし、空の上に飛ぶ事も出来ないよ?」
「じゃぁ……」
「さぁ考えよう」
応えに困ったエイダとリリスを見ながら、ウィルは更なる思考を求めた。
「全部見せちゃって、イヌもイヌ以外もル・ガルで生活すれば良いんだ」
エイダの出した答えにウィルは満足げに頷く。
意中に期待した回答だった。
「そうだね。実はトゥリ帝もそう考えた。皆が仲良く平和に暮らすなら、明け広げに開かれた社会が重要だと考えたんだ。だからトゥリ帝は最初にお金を統一したんだ。まだ都市国家でバラバラだったお金をトゥン通貨に統一した。どこに行っても同じお金が使えるようになった。イヌがインチキしてると思われないようにね。そして、お金を統一した後は病院を作った。国民全部が自由に使えるようにル・ガルじゅうへ作った。まだある。国民全部に学校を作って学ぶことを義務にした。歴史を学んでおけばウソや偽りに怯えて相手を信用しないって事が無くなると思ったんだ。だけど……」
ウィルは再び灰盆へ地図を描いた。そこには大きな矢印が幾つもル・ガルへ突き刺さっていた。
第一次と第二次の祖国防衛戦争とは比較にならない大きな流れ。
エイダもリリスもそれを悟った。
「第二次祖国防衛戦争から約九〇年経った帝国歴一五八年。トゥリ帝がシュサ帝を相国と丞相の兼任として摂政に就けた帝国歴一五二年から六年後だ。ル・ガルの内外で一斉に他の種族が蜂起を始めた。イヌのやり方を他へ押し付けるな!と怒ったんだね。これを第三次祖国防衛戦争と言う。この戦は本当に酷い戦いだった。イヌの半分近くが何らかの形で死んでしまったり怪我を負ったりし、国内は大混乱に陥った。それをトゥリ帝は立て直したんだ。一〇年続いた戦を終わらせるだけでなく、国内の色々な歪みを治したんだよ」
ウィルの説明を聞きながら、エイダとリリスは自分たちが生まれる遥か前の歴史に思いを馳せていた。