エイダの本音
~承前
一瞬の静寂が無限に続くと感じさせる光景だった。
まるで紙屑の様に宙を舞ったトウリは、ドサリと音を立て床に落ちた。
イワオとコトリは一瞬顔を見合わせて、アイコンタクトを交わす。
二人ともその目には『ヤバイ』という意思表示が滲んでいた。
ただ、それの意味する所は、トウリの身の危険という事では無い。
その身体を弾き飛ばしたリリスは、純粋な怒りに狂っていた。
凶暴なまでに興奮しているその姿には、見る者を縮み上がらせる。
このままではトウリが危ない!
「姉貴!」
「姉さま!」
イワオとコトリはほぼ同時に声を掛けた。
とにかく今は必死で声を掛けるしかない。
正気に返ってもらわねば、トウリがとどめが刺されると言う事だ。
変身してしまった後にも正気を保ち冷静で居るには訓練が必要だ。
自分を強く持ち、心の奥底からわき上がってくる攻撃衝動を抑えないと危ない。
怒りと憎しみとに身を任せ、破壊の限りを尽くしかねないのだ。
――考えてる場合じゃ無い!
コトリの心の中に何かのスイッチが入った。
リリスは興奮状態でトウリの元へ行こうとしている。
なんの根拠もないが、息の根を止めに行くのだとコトリは思った。
「待って! ダメ!」
覚醒し巨大化したリリスの腰へ、コトリがグッとしがみ付いた。
他に手段が無いのは分かっている。こうなってはもう、声など届かない。
――仕方ないか……
覚悟を決めてグッと力を入れたコトリ。
身に纏っていた城女中向けの黒いワンピースは、その背からバリッと破れた。
そして、その中からはリリスと同じ純白の毛並みが姿を現す。
「ネェサマ」
コトリの姿もまたグングン大きくなっていた。
純白の体毛に覆われた化け物が2体、部屋の中にあらわれた。
――やっちまったか……
一瞬だけイワオは焦った。
ここで人が入ってきたなら、もはやどうにも誤魔化せない。
とにかく止めるしか無いのだが、それと同時にイワオは感心していた。
自分の力で覚醒し、その力を制御下に置いているコトリの精神力に……だ。
それはきっと、あのリベラが与えた試練の結果だとイワオは思った。
リベラは命懸けのトレーニングをコトリに課していた。
一瞬でも油断すれば自らの命に以上を来すハードなものだ。
その訓練を積み重ねる中、コトリは今まで経験した事の無い集中力を発揮した。
幾度も繰り返した激しい訓練の最中、コトリは自らの意志で覚醒していた。
余りにも偶然が積み重なり、気が付いた時にはコトリは変身していたのだ。
「ねぇさま! 待って! 落ち着いて! 大丈夫だから!」
その姿はリリスと同じ白い体毛に覆われたオオカミの姿だ。
ゼルの血筋のどこかにあったオオカミの血が顕れたのだ。
コトリは密かにその姿に自信を持っていた。
大きな声では言えないが、美しい姿だと自負していた。
ただ、そのコトリが抑えているリリスは、コトリ以上に美しい姿だ。
それは、当のコトリ自信が勝てないと直感するほどに……だ。
そして――
「やっぱだめか…… 仕方ねぇ」
――ッチ!
舌打ちしたイワオは上半身裸になってリリスの前に立ちはだかり力を込めた。
リリスやイワオと同じように、その身体を変化させて姉を止めに掛かった。
並の力や手段で止まるような存在ではない。
それはもう当人たちが一番良く分かっている。
「アネキ! 正気に返ってくれ!」
必死でそう呼びかけつつ、イワオもリリスの動きを抑えた。
二人掛かりで事にあたるが、リリスの力は予想をはるかに超えた。
「姉さま!」
コトリの声が震えている。かなわないかも知れないと震えている。
それほどに自体は逼迫しているのだが、こうなっては人も呼べない状態だ。
「兄さま! 助けて!」
コトリの悲痛な叫びが響いた。最早他にリリスを止められる者はいない。
リリスはうわごとの様に『私の子が……』と、繰り返している。
それは純粋な母親としての感情なのかも知れない。
或いは、子を護ろうとする母性本能だろうか……
ただ、正直今はそんな事などどうだって良い。
リリスはただただ純粋に、自分の子を殺そうとした『敵』の排除に掛かった。
床に崩れたトウリはグッタリとしていて微動だにしていない。
――死んだかも……
コトリもイワオも、口に出さないまでもそう思っていた。
そして、むしろその方が好都合だ……とも。
リリスの変身してしまった姿をトウリは見ているのだ。
この情報が外に漏れると、これから先が色々まずい。
自分たち二人だけがそうだと知れ渡るならまだしも、リリスまで……
「許さない…… 許さない……」
リリスは同じ言葉を繰り返し呟いていた。
こうなってしまっては、もはやまともな意思疎通など出来ない。
太陽王の后が化け物だと知れれば、それは国民に動揺と混乱をもたらすだろう。
――何とかしないと!
焦るコトリは力をグッと込めた。同じようにイワオも力を増した。
必死になって押し留めようとするのだが、そんな2人を腰に巻きつけたまま、リリスは遠慮なく前進した。その歩む先にいる、グッタリとしたトウリ目掛けて。
トウリは城の壁にたたきつけられ、後頭部と脊椎の辺りをパックリと割ってしまっている。鮮血の溜まった床に寝転がり、びくびくと痙攣している。
リリスの裏拳に殴られた胸部は大きく凹んでいて、飛び出していたはずの口周りが頭蓋骨にめり込んでいる。
――急がないと死ぬ……
いや…… 既に死んでいるかも知れないとコトリは考えた。
だが、平穏に遺体を収容する為にもリリスを止めねばならない。
そして、出来るものならもう死んでいて……と願った。
「姉さま!」
コトリの声に悲鳴染みた色が混じる。あと三歩でトウリに手が届く。
もうダメだとコトリは思った。トウリの死体を貪り付いて食べかねない。
恐ろしい事態になるのは間違い無い。
「姉貴! 頼む! 落ち着いてくれ!」
リリスの腰にタックル状態で抱きついたイワオは、城の壁に足をつけてた。
突っ張り棒の状態になって、始めてリリスの前進が止まった。
だが、その背中をリリスの拳が叩いた。両手を組み合わせたハンマーパンチだ。
その凄まじい力で背中を叩かれたイワオは、衝撃の激しさに膝を付いた。
覚醒者同士による初めての戦闘とも言える事態は、城中に地響きを響かせた。
「姉貴! 姉貴! ねぇちゃん!」
トウリの叫びが轟く。だが、もはやどうにもなら無い。
獣の様な唸り声を上げ、リリスはトウリを殴り続けた。
イワオの背に激しい痛みが走り、その痛みにグッと力が増した。
「ガァァ!」
リリスが酷い唸り声を発した。
イワオがグッと力を入れたとき、腹部に刺さっていた剣が押し込まれていた。
変身してしまった後ならば、まるで腹に刺さった棘のようなモノだ。
だが、如何なる生物とて身体の中から発せられる痛みには弱い。
それは、変身してしまった覚醒者とて同じことだった。
――もしかしたら……
――いや…… でも……
イワオの脳裏に恐ろしい事がイメージされた。
この剣を殴りつければ、痛みに負けて後退するかも知れない。
だが、いま現状とて姉リリスの身ごもった命がどうなったのか微妙なのだ。
――コレは最後の禁じ手だ……
イワオはそう覚悟を決めて、身体を僅かにずらした。
痛みに驚いたリリスが一瞬力を抜き、数歩後退したからだ。
だが、その後退はリリスの更なる怒りを買ったらしい。
基本的には温和で朗らかなリリスだが、その奥底には激しい人格が潜んでいた。
生物の本能的な攻撃性をむき出しにしてリリスは怒り狂った。
「姉き…… グフッ!」
グッと腰を入れた右フックが決まった。
怒り狂ったリリスによる強烈な一撃だ。
片膝だけ着いていたイワオは、ついに両膝を着くに至った。
ただ、リリスの怒りは収まらないらしく、雄たけびをあげ両拳を握った。
そして、両膝を着いたイワオへ向け、つるべ打ちの様に殴り続けた。
「ねぇさま! ねぇさま! ダメ! ダメ! 止めて!」
懇願するように叫ぶコトリは、グッと力を増した。
腰へ回していた両腕に力が加わり、突き刺さった剣の脇から血が吹き出た。
それはかなりの痛みを伴ったようで、リリスは悲鳴のような叫びを上げた。
「ねぇさま! 落ち着いて! おねがい! おちついて……」
コトリは泣きそうな声で懇願した。
悲鳴染みた声を上げつつも、リリスが再び前進したからだ。
純粋な怒りと憎しみがリリスを突き動かしている。
そしてその手は、ついにトウリへと届いた。
大きく節くれ立った手は、ボロボロになっているトウリを掴みあげた。
「ダメェェェェ!!」
コトリは絶叫するしかなかった。
リリスが力一杯にトウリを投げようとしたからだ。
ただ、その手は止まる事も無く、リリスは腕を振った。
「姉貴!」
イワオは必死に手を伸ばし、その手を止めに掛かった。
完全に止まる事は無かったが、それでも大幅に勢いを殺いだ。
フワリと舞ったトウリの身体は、宙を飛んで寝室入り口のドア辺りに落ちた。
その鈍い音が響くと同時、寝室の戸が開いた。
扉の向こうにはカリオンが立っていた。
「まさかとは思ったが……」
カリオンの隣にはウィルが居た。そして、その向こうにはリベラも。
リベラはこのシーンを知らなかった。だが、見てしまったものは仕方が無い
カリオンは一瞬の内に対処を考えた。情報を漏らさぬ方法だ。
リベラをこの場で殺してしまうのも一つの手だが、この腕は惜しい。
ただ、あまり長いこと考えて居る時間も無い……
「戸を閉めろリベラ! 何人だろうと部屋に入れるな!」
そう叫ぶと同時、カリオンは振り返ってリベラを部屋の外へ押し出した。
そして『絶対に人を入れるな。誰にも言うな』と念を押す。
過去、様々な事柄を経験してきたリベラもさすがに引きつった顔をしていた。
ただ、カリオンの表情から何かを察し『承知いたしやした』と応えた。
「頼む……」
小さく一言伝えたカリオンは、気を入れてリリスの前へと進み出た。
見上げるほどの体躯だが、その身体には輝くような白い毛があった。
――そうか……
――女は白くなるのか
カリオンは状況を忘れ感心した。
コトリが覚醒したのは既に知っていたのだ。
そして、コトリも兄カリオンにだけはその姿を見せていた。
イワオには見せていなかった姿だが、カリオンには見せたのだ。
故に、カリオンはそう予測を立てていた。
もしリリスが覚醒したなら、その身体は白くなるだろうと思っていた。
だがこの事態は、そんな想像を軽く飛び越えるモノだ。
投げつけ損ねたトウリに再び手を伸ばしたリリスは、両手で掴む事を選択した。
まるで雑巾でも絞るかのように捻れば、トウリは確実に絶命する。
「リリス!」
カリオンは叫んだ。
自らの経験として、親族の声だけはその耳に届くと知っていたから。
だが、その声を聞いた筈のリリスは全く反応していない。
トウリを叩き付けようとして邪魔をしたイワオを殴っているだけだ。
打たれ強く逞しいイワオだが、さすがにこの勢いで殴られれば辛いようだ。
「リリス! こっちを向いてよ!」
カリオンは粘り強く呼びかける事にした。
自らの経験として、今のリリスは頭の中が真っ白の筈だ。
――呼びかけるしかない……
覚醒した自らを父ゼルが。いや、五輪男が呼びかけたように。
真っ白になっている意識のどこかに声が引っかかるまで、呼ぶしかない。
「リリス!」
だが、呼びかけられたリリスは全く反応していない。
激しい息遣いをしながら、腹部から血を吹き出しながら、怒りに狂っていた。
――どういうことだ……
どうしようもこうしようも無い。
ただただ、呼ぶしか無い状況がもどかしい。
「リリス! 僕だよ! エイダだよ! 忘れたのかい?」
咄嗟にそんな事を口走ったカリオン。
その叫びにリリスがピクリと反応した。
見上げるような位置にあるリリスの顔が下を見た。
真っ赤になったその眼がカリオンを捉えた。
「リリス! どうしたんだ!」
なんら怯む事無くカリオンはもう一度叫んだ。
両手を広げ、『良く見ろ』のポーズだ。
「泣いてるのか? 迎えに来たよ!」
リリスは幾度か瞬きをし、そのまま動きを止めてカリオンを見ていた。
無表情なリリスの目に感情らしきものが蘇った。
「待ってたんだろ?」
「……エイダ」
その表情から厳しさが抜けたのを皆が気付いた。
コトリもイワオも一瞬だけホッとした。
「そうだ!」
「エイダ……」
リリスは手にしていたトウリを見てから、もう一度カリオンを見た。
その表情に悲しみの色が混ざったのをカリオンは見逃さなかった。
「カリオン……」
「リリス!」
「カリオン!」
「どうしたんだい?」
「ごめんなさい…… カリオン…… ごめん……」
トウリをまるでゴミの様に投げ捨て、リリスはその手で顔を被った。
その時始めてカリオンはリリスの腹部に剣が突き立てられているのを知った。
――うそだろ……
カリオンはその剣の柄を握った。
「リリス! 痛いだろ?」
「……ごめん」
「抜くよ!」
「うん……」
グッと引き抜いたカリオンは、それが叔父カウリの剣である事を知った。
そして、ボロボロになったトウリの姿から、何が起きたのかを察した。
この数週間、トウリがどんどん蝕まれていたのをカリオンは知っていた。
ただ、迂闊な事は出来ない状況だったので、なるべく休みを取らせていた。
しかし、そんなトウリの心の器から、状況的なストレスが溢れたのだ……
「リリス……」
優しく呼びかけたカリオンの声に、リリスは手をどけた。
そこには身体を変身させたカリオンが居た。
覚醒者の身体でリリスを抱き締め、優しい声で言った。
「リリスも覚醒してしまったね。でも大丈夫だ。俺がそばに居る」
「……うん」
「落ち着いて。ゆっくり息をして。そうすれば元に戻る」
「でも……」
リリスは自分の下腹部を押さえた。
そこに居たはずの新しい命が……
「落ち着いて…… 落ち着いて……」
全身を被っていた毛がサラサラと消えて行くカリオン。
少しずつ縮んで行くその前でリリスも縮み始めた。
だが……
「上手くいかないね」
「……ごめんなさい」
「大丈夫だよ……」
「ごめんなさい……」
顔だけは元に戻ったリリスだが、そのからだから毛が消える事は無かった。
元のサイズに戻ってなお、そのしなやかな体からは真っ白い体毛が消えてない。
「カリオン…… 私には出来ないかも」
その下腹部からドッと血を流したリリスは、カリオンの腕の中に崩れた。
全身から力が抜け、意識を失い掛けていた。
「ウィル! エリクサーだ!」
「はい」
サッと駆け寄ったウィルは懐からエリクサーの小瓶を取り出した。
薄青の小瓶に入った魔法薬はカリオンの手で開けられリリスの口へと注がれる。
「ウィル! トウリ兄貴にも早く!」
「はいっ!」
全身大怪我で重症のトウリは、ウィルによりエリクサーを飲まされた。
まもなく黒とも灰色ともつかぬ物を吐き出し、トウリはバタバタと痙攣した。
「ぐああぁ!」
身体中の骨が一気に快復したのだが、だからと言って痛くないわけではない。
激しい痛みが全身から襲い掛かり、トウリは正気を失いかねない痛みに狂った。
「ぎゃぁぁ! うぁぁぁ!!グググググァ・・・・」
次から次へと様々なものを吐き出し、トウリはその上で暴れ狂った。
まるで全身に火のついた牛の様に暴れ続け、やがて納まっていく。
「はぁはぁ……」
荒い息をしつつもトウリは平静を取り戻した。
「大丈夫ですか。トウリ様」
「……ウィル」
「全ては悪い夢です……」
「あぁ…… だが……」
トウリは正気を取り戻していた。
そして、フラフラと立ち上がってリリスに歩み寄る。
カリオンに抱かれたリリスはまるで獣のように全身を毛に覆われていた。
裸の姿だが、それは美しい光沢のある純白の姿だ。
「リリス」
「……兄さま」
「俺は…… 何て事をしてしまったんだ」
正気に返ったトウリは、ガクリと膝を付いて震えた。
リリスの血を浴びて、まるで付き物が落ちたかのようになっていた。
「カリオン。俺を斬ってくれ」
「兄貴……」
「俺は全ての面でお前に劣る。そんな俺の劣等感が全ての原因だ」
項垂れて涙を流し始めたトウリ。
リリスはそんな兄トウリに手を伸ばした。
「兄さま…… 兄さまもカリオンには必要なのよ」
「……リリス」
「普通の人の感覚を持っている人がカリオンには必要なの」
弱々しく微笑んだリリスの手がばさりと床に落ちた。
身体から力が抜け始めたリリスにカリオンの顔色が変わった。
「リリス! リリス! しっかりするんだ! リリス!」
エリクサーを飲んだ筈のリリスだが、その好転反応と言うべきモノがない。
カリオンもウィルもひきつった顔でリリスを見ている。
そのリリスは笑みを浮かべていた。
「死んじゃった……」
「えっ?」
「死んじゃったの。ここにいた子が」
リリスは自分の腹に手を添えた。
そこにはグジュグジュと血を滲ませる傷があった。
確かにエリクサーは効いたらしい。だが、傷は完全には癒えなかった。
「私は…… 私はやっぱりダメみたい」
「何を言ってるんだ」
「私にはカリオンを支えられないかも」
リリスは泣きそうな顔でそう呟いた。
しばらく前に言ったリリスの言葉の真意をカリオンはようやく理解した。
リリスは不安だったのだ。心配だったのだ。
太陽王の后として、この座にあって見合うだけの能力があるのか。
そのプレッシャーに抗うだけの実力があるのか。
祖国と民族の為にボロボロになって尚努力を惜しまない夫カリオンだ。
その姿勢と精神の強さに、リリスは己の未熟さを恥じていたのだ。
だからこそ……
「あなたの子供が……」
「この子はもう無理かも知れないけど、でも……」
リリスをギュッと抱き締めたカリオンは、その耳元で囁いた。
甘く優しいその声音は、凍り付いた様なリリスの心を溶かした。
「また頑張ろう。俺も頑張るよ」
「カリオン……」
「リリス。大事な事だからよく聞いて」
顔を放したカリオンは、リリスの顔の真ん前で囁いた。
「トウリ兄貴と同じように、俺にはリリスも必要だ」
「カリオン……」
「エイダにはリリスが必要なんだ」
リリスの頬に自らの頬を寄せ、カリオンはリリスにだけ聞こえるように囁いた。
小さな声だが、リリスの耳にはその言葉が聞こえるように……
「カリオンを演じ続けるのは疲れるんだ。だから、エイダに戻った時の為に」
「……うん」
「余の妻はそなただけぞ…… 余は如何なる女性をも望まぬのだ……」
芝居がかった様な言葉を吐いたカリオン。
リリスはそれがエイダの恥隠しだと気が付いていた。
「カリオン……」
「どんな事が起きたって、リリス以外に僕の妻が勤まる人は居ないよ」
真面目な顔でそう呟いたカリオンは、リリスをギュッと抱き締めた。
その腕の中、リリスは物欲しそうな表情でカリオンを見た。
愛する妻のそれが何を意味するのか、理解しないカリオンでは無い。
もう一度ギュッと抱き締め、そして優しくキスをした。
小さな声で『ごめんなさい』と呟いたリリスは、そのまま意識を失った。
エリクサーを飲んだはずなのに、その身に好転反応が無いままだ。
理解しがたい自体を前にカリオンは首を傾げる。
だが、その眼差しの先にいるリリスは、眠れる美女のままだった……