表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
157/665

リリス・覚醒

~承前






「兄貴! 待った!待った! ちょっと待った!」


 イワオの叫びを背中に聞きつつ、トウリは屋敷を飛び出した。

 血の付いたブロードソードを片手に……だ。


 寝静まった街を掛けていくトウリの目は、完全に狂を発した者のそれだ。

 寝間着姿のままにガウンを羽織り、スリッパ履きのままで走っている。


「兄貴!」


 斬られた女中の断末魔を聞き、イワオは部屋を飛び出した。

 そのイワオが見たものは、返り血を浴びて真っ赤に染まったトウリの姿だ。

 異常なほどの大きさまで目を見開き、肩を上下させて息をしている。


 その姿は心の弱い者ならば卒倒しかねない。

 だが、本当に問題なのはトウリの口走る言葉だ。


 ――――カリオンに騙された!


 大きく目を見開いたまま、ワナワナと震えるトウリ。

 その姿に『兄貴! しっかりしろ!』とイワオが叫ぶも、その耳には入らない。


 ――――あいつに殺される!


 トウリは突然走り始めた。

 屋敷を飛び出し、寝静まったガルディブルクの街を駆け抜けていく。


 街を行く見回りの騎兵はトウリの異様な姿に警戒をあらわにした。

 そして、城へと走って行くその後ろにつき、まるで護衛するようにしている。


 城の中にはシャイラがいる。

 騎兵たちはそれを知っているのだ。


 ――――サウリクル卿が走っているのだから異常に違いない


 指揮命令系統が単純化され、尚且つそれぞれ各々の正気を担保としたシステム。

 その最大の欠点がここで自体を複雑にしていた。


「トウリ卿を止めてください!」


 イワオは声を嗄らして叫んだ。

 今の状態で城へと行けば、絶対に悲惨な事態となる。

 だが、騎兵たちはそのイワオの声を無視していた。


 ヒトの叫びだからと言うのもあるが、それ以上に言えるのは……


 ――――あとで責任を取らされかねない


 そんな警戒だ。

 少なくとも返り血を浴びて先を急ぐのだから、城で何かが起きて居るはず。

 この数週間はトウリ卿が繰り返し刺客に襲撃を受けているのは周知の事実だ。


「兄貴! 待ってくれ! 落ち着いて!」


 必死になって走るイワオだが、半狂乱状態のトウリは異常な速度で走って行く。

 そもそもに体躯があって地力に勝る獣人なのだから、その速度は凄まじい。

 徐々に引き離されつつあるイワオは本気で焦り始めた。


 ――やばい!


 そんな時だ。


「卿の身に何が起きた!」


 後を追うイワオに対し、槍を持った騎兵が尋ねてきた。

 状況を飲み込めない者にしてみれば、貴重な聴取の機会だ。


「サウリクル家に侵入者があり――


 説明を始めたイワオだが、その時点でハッと気がついた。

 そして『魔法か何かで――』と叫ぶと同時に馬へ飛び乗った。

 驚いた騎兵がバランスを崩して落馬し、そこへ再び叫ぶ。


「――狂を発し自分を失っておられる! それを止めねば王が危ない!」


 ビッグストンでの馬術教育では群を抜く成績のイワオだ。

 馬を走らせ一気に城へと速度を上げる。


 城への最短距離を行くトウリとは違い、イワオは一つ隔てた通りを走った。

 さしものトウリとて、鍛えた軍馬より速く走る事は出来ない。

 トウリを追い越し、石畳の道を駆け抜けたイワオは、城の正門前にやって来た。


 深夜と言う事もあって正門は閉じられている。

 正門の警備詰め所へやって来たイワオは馬から転げ落ちるように降り立った。


「夜分に恐れ入ります! 緊急事態です!」

「如何な事態か!」

「たった今サウリクル邸に刺客が入り、魔法か薬物かはわかりませんが、トウリ卿は狂を発せられ、太刀を持ってここへ来ます。それを止めてください!」


 何度もイワオの姿を見ている正門衛兵も、さすがにその言葉には即答を避けた。

 だが、城へとイワオが入ったとき、通りの向こうにトウリが現れた。

 誰がどう見たって異常な姿。返り血を浴びて異常な風貌をしていた。


「お待ちくだされ! お待ちくだされトウリ卿!」


 正門の衛兵は慌てて大扉を閉めた。

 スリット上になった巨大なフェンスの正門だ。


「フアァァァァァァ!!!!!!」


 異常な叫び声を発し、トウリは一切速度を落とさずに走ってくる。

 そして、そのまま正門へ激突すると、跳ね返されてフラフラと後退し転げた。

 だが、再び立ち上がって正門へ剣を振り下ろしている。


 父カウリから受け継いだ巨大なブロードソードは幾つも火花を発している。

 強靭無比である正門は折れる事も切れる事も無い。


 だが、トウリは誰もが間違いなく狂っていると判断するような姿で剣を振った。

 凄まじい音を発し正門の扉が歪み始め、衛兵がさすがにまずいと判断していた。


「お待ちください! お待ちください丞相!」


 必死でトウリを止めにいった衛兵だが、トウリはその衛兵を袈裟懸けに斬った。

 2人3人と斬り捨て、篭った濁声で叫んだ。


「今すぐ戸を開けよ! 我を誰と心得る!」


 その異常事態に気がついたのか、次から次へと城の中から衛兵が飛び出した。

 トウリは正門にある鉄扉を大太刀で殴りつけながら叫び続けた。

 濁った眼で城の中へと消えて行くイワオを見つめながら。


「早く扉を開けよ!」


 多くの衛兵が『お待ちください! どうか!』と叫ぶ中、トウリは一歩下がった状態で、ブロードソードを上段に構え、その位置から力一杯に降りぬいた。


「エェイッ!」


 ブンッ!と音を立て太刀が振り下ろされた。

 戦場で幾多の敵を屠ってきたカウリの大太刀だ。

 鎧ごと敵兵を切り裂いた事だって一度や二度ではない。


 その太刀が唸りを上げて振り下ろされた時、正門がズバッと切り裂かれた。

 眺めていた衛兵たちが唖然とする中、トウリはその正門を乗り越えた。


「トウリ卿! お待ちを!」


 慌ててその身を止めようとした衛兵は、トウリの大太刀で一刀の元に斬られた。

 口元からはよだれを垂らし、瞳孔の開ききった異常な目をしていた。


「ジャマヲスルナ!」


 今まで聞いた事の無い声が響く。それは生理的に恐怖を感じる声だ。

 或いはそれは、到底トウリのものとは思えないひどい声だ。

 皆が恐怖に後退るなか、肩で息をするトウリは再び幽鬼の様に走り始めた。


「カリオンに騙された…… カリオンに…… おのれぇぇぇ!」


 城の正面階段を駆け上がり、議事堂の前を横切ったトウリ。

 その途中で出会うもの全てを切り殺しながら、トウリは走った。


 玉座回廊を抜け、王のプライベートエリアへと出てから、トウリは足を止めた。

 そして、異常な気配を察したかのように息を整えて再び前進する。


 その先には太陽王の私室があった。

 私室の前には最強のエリートガードである近衛兵が居るのだが、そこには――


「イワオ。そこをどけ」

「兄貴! どうしたんだよ!」


 イワオは丸腰でトウリの到着を待っていた。

 その背後には4人の近衛連隊剣士が待っていた。


 城の中と言う事で優雅な衣装を身にまとっているが、その腰には剣を佩ている。

 一騎当千な剛の者の中から選りすぐられた、ル・ガル最強の剣士たちだ。


「良いからそこをどけ!」

「兄貴!」


 数歩前に歩み出たイワオは、王の私室からトウリを遠ざけるべく圧を掛けた。

 絶妙の間合いで警戒感を覚えさせぬよう、慎重に慎重を重ねていた。


「偽りの王は要らないんだ!」

「兄貴! 目を覚ませ!」


 きつい調子でそう叫んだイワオ。

 だが、その上から調子な言葉がトウリの劣等感を煽ったらしい。


「やかましいわ! 俺に意見するな!」


 トウリはイワオへと斬りかかった。

 凄まじい音を立てて振り下ろされる大太刀は、イワオの鼻先を掠めた。

 その太刀筋の全てを見切り、寸前でかわしながらイワオは叫び続けた。


「兄貴! 落ち着けって! おかしいよ!」

「やかましいわ! 私は正常だ!」


 百選練磨の近衛兵が息を呑むほどの太刀筋をトウリは見せた。

 ビッグストンで鍛えられずとも、実戦の中で磨かれたトウリの剣は凄まじい。


 だが、本当に恐るべきはその太刀を全て見切り、寸前でかわすイワオだ。

 神業レベルなイワオの見切りは幾多の戦歴を誇る近衛剣士ですらも息を呑む。

 最小限の体術でかわし続け、トウリの体力が尽きるのをイワオは待っていた。


「兄貴! 落ち着けって! 俺の話しを聞いてくれ!」

「黙れ!」


 冷静さを失ったトウリをイワオは煽り続けた。

 完全に異常な状態となっているトウリなのだから、その剣は単純で芸が無い。


 そもそもに型も何も無い実戦剣術だ。それはつまり太刀行きの速さが全て。

 つまり、その代償として体力を消耗し、事実、トウリは肩で息をしていた。


「邪魔をするなイワオ!」

「その状態の兄貴を王に会わす訳にはいかないんだよ」

「なんだと!」


 僅かな間に息を整えたらしいトウリは、再びイワオに斬りかかった。


「お前も偽者か!」

「バカを言わないでくれ!」

「イワオが私を止めるはずが無い!」


 ブンッ!と音を立てて振りぬかれる太刀は、イワオを追い詰めていく。

 下がりつつその太刀をかわし続けたのだが、そのイワオの背に衛兵が当った。

 小さく『あっ』と声を発したイワオだが、そこへ胴薙ぎの打ち込みが入る。


 イワオはグッと力を溜めて飛び上がり、その太刀をかわした。

 だが、その背後に居た衛兵は、その太刀を浴びてしまい、瞬時に絶命した。


「仕方ないか……」


 衛兵の持っていた剣を抜いたイワオは、トウリの剣を受け流し始めた。

 最小限の動きで剣を払い、流してしまうイワオの剣技はトウリを焦らせた。


 城詰めな多くの剣士に教えを受けたイワオの剣だ。

 その柔軟自在な剣捌きに、トウリの剣は完全に翻弄されていた。


「どいつもこいつも私を愚弄しおって!」


 トウリは完全に冷静さを失っている。

 いや、失っているのは冷静さではなく正常な精神だ。


「衛兵殿! 弓隊を!」

「……やむを得ませんな! 承知!」


 私室の前に残っていた三人の衛兵が駆け出して行った。

 唐突に部屋の扉が開き、コトリがひょっこりと顔を出したのだった。


「何の音で――


 コトリが最初に見たものは、胴体部分から断ち切られた人間の死体。

 そして、抜き身の剣を持ったイワオと、その差し向かいに成っているトウリだ。


「……え?」

「バカッ! 閉め――」


 イワオが慌てて戸を閉めようとしたとき、そこにトウリの大太刀が降り注いだ。

 凄まじい音を立てて振り下ろされたその太刀は、コトリの前髪を掠めた。

 ギリギリのところで一瞬だけ顔を引いたコトリは見事にそれをかわしたのだ。


「とっ! トウリ様?」

「そこをどけコトリ!」


 再び大太刀を振りぬいたトウリは、コトリを力尽くで後退させた。

 そして、返す刀でイワオを牽制すると、王の私室へと入って行った。


「待て! 兄貴待て!」

「やかましい! 止めるな!」


 煌々と明かりが灯る部屋の中には、ソファーの上にリリスがいた。

 下腹部に手を沿え、涙を浮かべてトウリを見ていた。


「兄さま」


 嬉しそうに笑みを浮かべたリリスの頬を涙が伝った。

 夢にまで見た新しい命がその身体に宿ったのだ。


「お前は誰だ?」


 狂気の混じった異常な相貌のトウリは、静かな声で言った。

 大きく見開かれた眼の中は、開ききった瞳孔が異常な輝きをみせていた。


「……兄さま?」

「お前は一体誰なんだ?」


 リリスに剣を向けたトウリは、ダラダラとよだれを垂らしながら震えていた。

 だらしなく開かれた口の中も纏っている寝巻きも、見事な返り血で汚れている。


「お前たちは一体何者なんだ! なぜ私を騙そうとする! この偽者めぇ!」


 ガクガクと震えるトウリは大きく剣を振りかぶってリリスへと切りかかった。

 だが、その前に立ちはだかったのはコトリだった。


「トウリさま! お気を確かに!」

「やかましいぞ曲者め!」


 物凄い音を立てて振り下ろされた太刀は、コトリの上に降り注いだ。

 イワオはその瞬間にコトリの確実な死を予見したのだが……


「キャッ!」


 小さな悲鳴をあげ驚いたコトリは、振り下ろされた太刀を手で払っていた。

 刃の側面を裏拳で叩き、その軌道をそらして床へと振り下ろさせた。


 両刃に仕立てられた大太刀だが、コトリはその刃を横へと倒して踏みつけた。

 幾ら膂力に余裕のあるトウリとはいえ、こうなっては剣を振り上げられない。


 ――えっ?


 流石のイワオも一瞬何が起きたのかを理解出来なかった。

 ただ、冷静にその瞬間を思い出した時、コトリが何をしたのかを理解した。

 トウリの振り下ろした大太刀の側面を素早く裏拳で叩き、軌道をずらしたのだ。


 ――信じられねぇ……


 その反らした軌道を目で追い、床について一瞬だけ手が痺れた時に足で蹴った。

 大太刀は床に転げ、その刃の上にコトリは体重を掛けた。そして……


「ッテイ!」


 コトリの鋭い声が響いた。

 左脚で刃を踏みつけつつ、右脚でトウリの顎先を蹴ったのだ。

 いわゆるチンフックの要領だが、正気を失っているトウリには効き目がない。

 かなりの勢いで蹴りが入ったというのに、トウリは咆哮を上げた。


「ウォォォォォォ!」


 力業で剣の柄を持ち上げたトウリ。その勢いにコトリは吹き飛ばされた。

 ただ、空中で姿勢を変え、クルリと回ってネコのように着地する。

 その見事な身体捌きは、紛れもなくリベラの教えた体術だ。


「ダメか」


 小さな声で呟いたコトリは、身に纏っていたメイド衣装の中から手甲を出した。

 それは騎士が手に纏うガントレットの様に肘先から指先までを覆うものだ。


「デイッ!」


 鈍い唸りを上げて振り下ろすトウリの一撃をコトリは難なく片手で止めた。

 いや、正確には止めたのでは無く、そのベクトルをねじ曲げたのだ。

 振り下ろされた太刀の運動エネルギーを上手く反らしていた。


「ダメ! 冷静さを失ってる! どうしたの?」


 まるで嵐のように襲い掛かるトウリだが、その全てを難なくいなすコトリ。

 唖然としつつもサポートに出ようとしたイワオは手短に言った。


「器から水がこぼれた。兄貴の心が限界だったみたいだ」

「……なるほど」


 繰り返し繰り返し襲い掛かられる心理的なストレス。

 連日のように受けていた仕事上のストレス。

 そして、毎晩のように浅い眠りを繰り返す睡眠不足。


 トウリを蝕んだその全てが狂を発するのに十分な威力と言う事だ。


「兄さま! 兄さま! 落ち着いて! 私よ! わかるでしょ!」


 流石のリリスも焦り始めた。

 どう見たってまともじゃ無い状態の兄トウリは、コトリが良い様にあしらう。

 ただ、それでも体力に余裕のあるトウリは、諦めずに次々と剣を振っていた。

 それを受け流すコトリがジリジリと後退するほどの威力で。


「邪魔だ! どけ! そこの偽者を成敗する!」


 トウリは血走った目でリリスを見ていた。

 次々と繰り出される一撃を受け流しつつ、コトリは無念の後退を続ける。


「チキショウ! 仕方ねぇ!」


 トウリの後方からイワオが襲い掛かった。

 鋭い踏み込みで膝裏を蹴り上げれば、重心が抜けてトウリは後方へと転ぶ。

 だが、その状態で尚も太刀を振り回し、イワオを退けた。


「邪魔をしおってからに!」


 勢いで飛び起きたトウリは、上段から一気に太刀を振った。

 その太刀行きは想像を絶する速度でリリスに襲い掛かった。


 ――あっ!


 コトリは自らの危険を考慮する事無く、その太刀の下へ身を晒した。

 そして、鋭い打ち込みで太刀の軌道を変えていた。


 一瞬でも油断すれば自分が斬られる間合いだった。

 だがそれでも、コトリは迷う事無くそれをやった。

 積み重ねてきた経験が自信となって支えている。


 ――怖くない……

 ――怖くない……


 言い聞かせる様に呟いて、そしてコトリはトウリを突き飛ばした。

 後退させて距離を取り、対応策の仕切り直しする為に……だ。


 だが。


「あっ!」


 リリスが短く叫んだ。

 そして、真っ赤な霧が漂った。


 コトリは最初、自分がどこかを斬られたのだと思った。

 だが、身体の何処にも痛みが無く、また、血が流れた痕跡も感覚も無い。

 つまりソレは自分では無い。故に怯む必要もない。


 だが、確実に赤い霧は舞った。

 と言う事は、誰かが斬られたと思って良い。


 ――まさかっ!


 慌てて振り返った時、リリスは左手を押さえて立っていた。

 床には無造作にリリスの手首が落ちていた。


 ――うそ……


 リリスが斬られた。それも、実の兄であるトウリに。

 ただ、何故か最初にコトリが考えたのは『まずい!』だった。

 なにがどう拙いのかを言葉で説明している間合いでは無い。


 コトリの胸の奥にある何かが疼いた。

 そして、何一つ関連だって系統だった思考が出来ぬまま、一つの結論を見る。


 ――秘密を守らないと……


「この偽者め! リリスとカリオンに子が出来るはずが無い!」


 トウリはそう口走って再び剣をかざした。

 その刃先には真っ赤な血が付いていた。


「リリスとカリオンは、イヌでもヒトでも無い筈だ! それに何故子が出来る!」


 振り上げた剣を振り下ろしたトウリ。コトリはその太刀筋を再び手で払った。

 その後方ではイワオがトウリの背中目掛けて鞘を振った。

 正中線への一撃は息を詰まらせ動きを鈍らせる。


 ここを何とか乗り切らないと危ない。トウリでは無くリリスが危ない。

 イワオとコトリの二人は言葉にせずとも、一つの危惧を共有した。


 ――リリスが覚醒してしまう……


 それが何をもたらすのは一切解らないが、一つだけ確かな事がある。

 カリオンを含めたヒトならぬ者達の覚醒を、このトウリは知らない筈だ。


 サウリクル家の縁者でそれを知るのはウィルケアルヴェルティのみ。

 あとはエイラくらいなモノ。


 ――場合によっては……


 イワオは覚悟を決め、剣先をトウリの背に向けた。

 頸椎部分へと突き立てれば即死は間違い無い。


 ――兄貴……


 イワオの脳裏には、屈託無く笑い合った時代の楽しい残照が蘇った。

 それは、覚悟を決めたイワオの手を止めるのに十分な効果を発揮した。

 一瞬の間に猛烈な逡巡を経験したイワオだが……


「キャア!」


 振り上げられた太刀から身を守ろうとリリスは両腕を前にだし頭を守る仕草だ。

 その時、リリスの左手首から鮮血が迸り、襲い掛かったトウリの顔面に飛んだ。

 ピチャリと水音が響き、トウリの視界が無くなった。


「うわっ!」


 ――まずい!


 イワオはトウリの首筋に手を掛け、フルパワーで後方へと引き倒した。

 その腕に込められた力は凄まじく、体重に勝るトウリを難なく引き落とした。

 ソレはまるで山肌を駆け下りてくる土石流の様な、暴力的な力だ。


 後ろへとひっくり返ったトウリは強かに頭を打った。

 視界に星が飛び、グルグルと目が回った。

 だが、その一撃でトウリの心が一瞬だけリセットされた。


「……あれ?」


 口の中には猛烈な鉄の味がする。

 ゴクリとそれを嚥下したあと、一瞬の間を置いてそれが血であること理解した。

 そして、頭を上げたとき、そこには手首を押さえて震えているリリスの姿。


 思考的な空白はゼロベースでの考察を積み上げた。

 そして、自らがやらかした事の全てを知らぬトウリは声を上げた。


「リリス!」


 血を分けた妹の血を浴び、トウリの憑き物が落ちた。

 冷静さを取り戻したトウリは飛び起きてリリスへと駆け寄ろうとした。


 だが、その動きをイワオが止めた。

 トウリの前にはコトリも身体を挟んだ。

 2人とも『マズイ!』と気が付いていた。


 始まってしまったのだ。

 リリスの覚醒が……


「ナゼ……」


 それは霧に覆われた湖の畔で、白いヴェールの彼方から聞こえてくる様な声。

 透明感のある風音のような、透き通って不透明な霧の様な響き。


「ナゼナノ……」


 切り落とされた左の手首に右手を添え、リリスの顔が引きつっていた。

 カタカタと小刻みに震えながらも、リリスはジッと兄トウリを見ていた。

 その目には、トウリと同じ狂気の色が宿っている。


「姉さま! ダメ! 落ち着いて! ダメ!」

「姉貴! 待って待って!」


 コトリとイワオが同時に声を上げる。

 だが、ソレを止めるほどのものではなかった……


「ナゼ!」


 抑えていた左手首から白くて細い手が生えてきた。

 ただ、それは変身していく始まりに過ぎなかった。


「なっ! ……なんだ なんだアレは!」


 トウリが悲鳴のような声を上げた。

 リリスの背がぼこりと膨れ、そのまま身体が上に引き延ばされた。

 両手も両脚も見合う長さに伸びたと同時、全身を真っ白い毛が覆った。


 それは、降り積もった雪の白さにも勝る、純白の姿。

 ガルディアラの女王とでも呼ぶべきだろうか。そんな姿だ。


「ばっ! バケモノめ!」


 思慮の浅さは悲劇しか生み出さない。

 無能な人間の狼狽は残念な結果にしかたどり着かない。


 天上に頭がつかえそうなサイズになったリリス。

 だが、そもそもにスタイルの良い、線の細いシルエットは引き継いでいる。


 ただ、冷静さを取り戻したとはいえ、ただの凡人に過ぎないトウリには……


 ――兄貴には無理だ!


 イワオはそう直感した。

 無能な人間は懇切丁寧に説明されなければ理解出来ない。

 そして、理解しきれないときには自らの無能を恥じずに説明が足らぬと怒る。


 そこで今何が起きていてどう対処するべきか。

 往々にして最悪の選択をしてしまう。

 それが無能者の証……


 寝転がっていたトウリは、再び飛び起きて太刀をとった。

 そこにいたのが妹リリスであるはずなのに、トウリは太刀を腰ダメに構えた。


「偽者め!」


 トウリは突進した。一瞬の隙を突かれたイワオもコトリも対処できなかった。

 何より、自分の身に何が起きたのかを理解出来ないリリスもだ。


「だめ!」「待って!」


 コトリとイワオが同時に叫んだ。

 だが、トウリの足は止まらなかった。

 その鋭い剣先はリリスの下腹部へと突き立てられた。

 新しい命が宿った筈の、リリスの腹へと突き刺さった。


「ばけも――


 何かを叫ぼうとしたトウリだが、その声は途中で掻き消された。

 その身体は鞠の様に飛び、壁にたたきつけられて崩れた。


 巨大化していたリリスの手は巨大な鈍器でしかない。

 リリスはまるでコバエでも払うかのようにトウリを弾いたのだった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ