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シャイラ逮捕

~承前






「サンドラ。一つ聞くけど良いかな?」


 そう問いかけたカリオンの声は、シャイラに語りかけていたモノとは全く違う穏やかなものだった。決して酷い扱いはしない。そんな姿が透けて見えるようなモノだ。


 シャイラは一瞬それが何を意味するか理解できなかったが、直後にハッと気が付いてしまった。

 最初からサンドラはカリオンの側に居たのだ。最初から話が出来ていて、フレミナサイドから見れば、間者に等しい存在だった。


「サンドラ…… あなたまさか……」


 シャイラはそれ以上の言葉がなかった。

 信じていたのに……と、そう叫びたいのだろう。


 だが、全ては手遅れだと気が付くのに時間は掛からなかった。


「叔母上さま。フレミナによる逆怨みの復讐劇はもう終わりにしましょう。全く不毛で非生産的です。この国が…… ル・ガルが疲弊してしまいます」


 サンドラの言葉にシャイラの心の中の何が音を立てて壊れた。

 ガラガラと砂塵を巻き上げて壊れたそれは、長らくシャイラの心に巣くっていた黒々しい悪意の塊だった。


 思うようにならない人生そのものを恨むかのように、シャイラの人生はすべてを憎んできた。だが、仮にもフレミナの中でザリーツァ一門に属する以上は、無様な姿を晒す事すら出来なかったのだ。


 だからこそ、彼女は強気で振る舞いつつ、カウリにちょっかいを出し続けてきた。表だって言えない分だけ、毒々しい悪意を内に秘めた妖艶な姿になって、まるでただの愛人のように振る舞ってでも、すべてを腐らす毒であり続けた。


 その全てが今、砂上の楼閣であったことを突き付けられたのだ。

 余りにも無慈悲で無惨な現実が、シャイラの前にあった……


「私の人生は全てが無駄だったのね……」


 ウフフと上品に笑ったシャイラは、そのままに涙をこぼし始めた。

 溢れ出てくるその涙は、王権に負けた事だけではない何かがあった。


「私だって……」


 シャイラの目に狂気の色が浮かぶ。

 それは、純粋な女の情念かもしれない。


 どれ程望んでも手に入れられなかったものがある。

 自分一人でどれ程努力しても、どれ程頑張っても駄目なものだ。


「人を育てるって楽しいことよ。沢山の子供たちを育ててきたからよくわかる。だけどね。自分の子供を育てた事はないのよ。私だって……」


 流れる涙を隠そうともせず、シャイラはただただ泣き続けた。

 だが、流れ出ていくのは涙ではなく、人としての矜持かもしれない。


「嘘よ…… こんな酷い人生なんて嘘よ…… そう言ってよ。あなたなら出来るでしょ。ねぇ! カリオン! あなたなら出来るでしょ! 私だってザリーツァの一門なのよ! なんでこんなに我慢しなくちゃいけないのよ! なんで…… なんで私ばっかりこんなに我慢しなきゃいけないのよ!!」


 始まった……

 誰もがそう思った。


 フレミナに限らず、人間ならば誰しも持っている癇癪のようなものだ。

 思うようにならない現実を前に、ヒステリックな叫びを上げる事は多々ある。


 だが、フレミナ一門の中でザリーツァは特にそれが酷い。


 癇癪を起こしヒステリックに叫ぶだけでなく、時には床に寝転がって子供のように手足をジタバタとさせて悔しがる。床に敷かれたカーペットを掻きむしり、その糸くずを口に運んで誰かに浴びせかける。


 フレミナはそれを『持って生まれた支配者の気質』と言うが、実際は単純に我が儘を丸出しにした姿でしか無く、しかもそれは上位に完全服従を求められるザリーツァ一門の中での狂った悪しき伝統のようになっていた。


「叔母上。残念ですがあなたの我が儘に付き合っているほど余裕はないのですよ」


 幸いにしてシャイラはまだそれを堪えていた。

 だが、いつそれが吹き出すか解らない状況だ。


 上手く切り抜けたいと誰もが思う中、カリオンだけが余裕ある姿を見せていた。

 シャイラにとって聞きたくない言葉を吐き、シャイラの心の弱い所をあおり立てている状態だ。それはまるで、早く爆発しろ!と、早く無様な振る舞いを見せろ!と、そう言外に言っているようなものだ。


「……そう。解ったわ。仕方が無いわね」


 あっさりとした口調でシャイラは呟いた。

 誰もがそれを意外だと思う中、シャイラは涙を流しつつも笑い始めた。

 楽しくて笑うのでは無く、毀れるような笑いだ。


「とんだ道化だったのね。私の人生なんてこんなモノよ」


 引きつるように頬肉を歪ませ、感情から来るモノでは無く振るまいとして強引に笑おうとする姿。大公爵の一門として、跡継ぎの無い中で必死に頑張ってきたウェスカーの当主が見せる『意地』と『心意気』だ。


「私は生まれたときに毒を仕込まれたの。将来、どこかの家に嫁いでも子を為さずに終わり養子を迎えるように仕込まれたの。少しずつ少しずつ、フレミナがル・ガルを乗っ取るように。ル・ガルを立ち枯れさせ、フレミナ一門が支配出来る様に」


 ハッ……と自嘲するように笑い、どこまでも蔑むような眼差しで姪サンドラを見たシャイラ。その両眼には激しい呪いの炎が揺れていた。世の全てを恨み、憎み、蔑むような眼差しだった。


「カウリは上手かったわ。私を上手に転がして、ル・ガル名家のどこにも嫁がずに済むように愛人にされて飼われて、おまけに、姉さんの…… ユーラの産んだ子には太陽王の試練を受けさせず、気が付けばゼルの子が太陽王よ。あの…… 顔を見るだけで虫酸の走ったマダラの男の倅が太陽王よ!」


 シャイラの言い放った言葉には、太陽王カリオンの逆鱗が幾つも含まれていた。

 それは間違い無く地雷になる様な言葉だが、シャイラは全部承知でそれを踏みに行ったのだ。それも、勢いを付け、飛び上がって踏みつけるような仕草だ。


 ――斬れ……


 シャイラはそう言っている。

 誰もがそう思っていた。そして、それを望んでいるのだとも……


 ――絶対何か企んでいる……


 リリスまでもがそう思う姿。

 シャイラは嘲笑うようにカリオンを見ていた。


「早く斬りなさいよ」

「……いけませんな。叔母上」


 カリオンは冷徹な声を発してシャイラの言葉を切った。

 何を企んでいるのだ?と、誰もがそう思うような振る舞いだ。

 当のカリオンだってそう気が付いていた。


「ジョージ。謀反人を…… 捕縛せよ」


 カリオンの言葉に誰もが耳を疑った。前代未聞の政治ショーが始まったのだ。

 太陽王は大公爵家の当主を謀反人と呼び、捕縛を命じた。

 それはつまり、アージン家の『身内』ですら切り捨てると宣言したに等しい。


 従来なら、アージン家に連なる者には一定の配慮があった。

 不逮捕特権とまでは行かなくとも、罪を軽くする配慮を見せていたのだ。


 だが、謀反と呼んだ以上、それは内乱罪が外患誘致罪だ。

 審判の場に引きずり出された罪人の中で、前記の二罪については如何なる理由があろうと弁護は認められない重罪だ。


 つまり……


「叔母上。あなたを謀反人として処罰します。それなりの覚悟を持って行っていたことでしょうから、当然異論はありませんね?」


 カリオンが見せていた余裕の根源はそこだったのか……と、誰もがそう思った。

 王に斬られて死んだなどという名誉ですらもカリオンは奪い取ったのだ。


 そして、身体を張って抵抗を見せたウェスカーの当主は、その肩書きや特権や、もっと言えばウェスカー家その物を失って、罪人になって死ぬ。

 太陽王は堂々と大公爵を取りつぶす大義名分を手に入れ、大公爵家最後の女当主は、その無能と失態を歴史に永遠に刻むことになる……


「大したモノねぇ~ 感心するわ。ホント、凄いわね。ゼルもエイラも凄い人間を育てたモノだわ。こりゃ、ル・ガルは安泰ね。この薄汚いマダラ男が死ぬまで滅びそうに無いわ」


 心底嫌だと言わんばかりに声音を変えたシャイラは、ウンザリとした表情でカリオンを見ていた。役者が違うと痛感したのだ。そして……


「この子には太陽王ですら役不足ね。世界を焼き払ってでも手に入れなさいな。世界の全てを統べる究極王があなたにはふさわしいわ」


 顎を引き、上目遣いにカリオンを見たシャイラ。

 その姿はまるで、男を誘う遊女のようだった。


「違う世界線の上なら、私もあなたの世界征服に参加できたのにね」

「何を馬鹿なことを……」

「あら、私は本気よ。世界を統べる王の近くに侍られるなんで女の本望だわ」


 シャイラはチラリとリリスを見てから、心底嫌そうな顔をして言った。

 見る角度によっては、底意地の悪い老婆のような姿にも見えるシャイラだ。

 相手が最も不機嫌になるような醜い姿を選んで、そう振る舞っていた……


「どこの馬の骨とも解らない下賤な女を拾って、おまけに、私がどれ程望んでも手に入れられなかった妻の座を与え、その女が産んだ娘が太陽王の后とかね。ホントにもう…… 悔しいって気すら起きないわ。負け犬は素直に退場するわよ」


 シャイラはあくまでカリオンを煽ることを選んだ。

 審判の席に引きずり出されるなら本望。

 斬られて死ぬなら、それも本望。


 公衆の面前で太陽王夫妻を徹底的に辱めて死んでやる。

 そんな姿が垣間見えるのだった。


「私を辱めるのはともかく、妻とその母を辱めるのは…… 感心しませんなぁ」


 カリオンは内心の不満を押し殺して、穏やかな言葉を吐いた。

 絶対に本音を悟られまいと振る舞ったカリオンだが、シャイラはそんなカリオンに向かって醜くニヤリと笑い、そして突然の大声で叫んだ。


「見た? ねぇ見た? 今の見た?」


 シャイラの目は、部屋の片隅に居るサンドラとトウリを捉えていた。

 愉悦に満ちた表情を浮かべ、シャイラは勝ち誇った様に笑い声を上げた。


「サンドラ! よく見な! これが太陽王って呼ばれるペテン師だよ!」


 何を思ったか、シャイラそんな言葉を吐いて怒りを露わにした。

 カリオンに向かって堂々とペテン師を侮蔑の言葉を吐きかけたのだ。

 その言葉は、流石のカリオンも表情を変えた。


 だが、シャイラは怯む事無く叫び続けた。

 あらん限りの大声で、部屋中に響くように。


「トウリ! アンタもだよ!」 


 いきなり名を呼ばれたトウリは驚くより他ない。

 だが、シャイラはそんな事を意に介さず叫んでた。


「お前達夫婦がどうなろうと、この男には関係無いんだよ! 私と同じさ! カウリと同じさ! 王が安泰なら手下がどうなったって良いんだよ! その証拠に」


 シャイラはカリオンを指さして、恨みの籠もった上目遣いで睨み付けた。

 気品や矜持と行ったモノの全てを失い、まるで羅刹のような姿だ。


「自分の女房やその母親の事ですら、このマダラ男は眉一つ動かさないんだよ! 自分以外がどうなったって、この男には関係無いのさ! 自分だけが良ければそれで良いのさ!」


 甲高い声でヒャッヒャッヒャと笑いだし、シャイラは勝ち誇った姿を見せた。

 それは、カリオンをして『ハッ!』とさせるシーンだ。


 ――――いいかエイダ

 ――――敵に情けを掛ける必要はない

 ――――犯罪を犯した者もそうだ

 ――――純粋にその存在が害悪かどうか判断すれば良い

 ――――そして罪を犯して尚悪びれぬ者は絶対に更生しない

 ――――社会にとって害悪な存在は消し去る方が良いんだよ

 ――――罪を犯した者に権利など無いのだ


 真剣な表情でそう切り出したゼル。カリオンの胸の中にゼルが姿を現した。

 遠い日、越境窃盗団を追い詰め、一人残らず首を刎ねようとしたときの事だ。


 ――――死の淵に立った人間がとる行動は二種類に分けられる

 ――――まずは必死で命乞いをして助かろうとする人間だ

 ――――この類いの存在は損得を考えて判断すれば良い

 ――――まだ使えると思えば生かしておいてやるのも手だ

 ――――消耗を前提とした使い方が出来る存在になる

 ――――良いか悪いかじゃない

 ――――時にはそう言う事も必要なんだ

 ――――だが、もう一つの種類は厄介だ


 まだまだ幼いエイダは、それを黙って聞いていた。

 正直、半分も意味が解らないことだった。


 だが、それでもゼルの講義は続いた。解らなくても良いのだ。

 心の中にそれが留め置かれれば、必要なときにひょっこりと出てくる。

 そしてその意味を何よりも深く理解する。


 必要な時にその知識が有るか無いかで、話の中身は大きく変わってしまう。

 将来の為に知識の種をまいた父ゼルの深謀遠慮をカリオンは実感した。

 ただそれは、カリオン自身が成長しているからこそ気が付くことなのだが……


 ――――それはな、死んでも目的を果たそうとする奴だ

 ――――死ぬと解っていながら愚直に目的を果たす

 ――――死んだ後でも影響を与えられるようにする

 ――――その類いは厄介だ

 ――――だから、心を鬼にしてでも、そんな奴は斬り捨てろ

 ――――将来の禍根の種だ


 ゼルの言葉を思い出したとき、カリオンは目の前の叔母シャイラを斬る覚悟を決めた。先に斬るべきだったとも思うのだが、どうしたってそれは出来ない相談だ。

 そもそもは合法で確実に殺す事を考えていたのだ。カリオンでは無くル・ガルの法を以てシャイラを処断する作戦だったのだ。


 ――今さら遅いか……


 自らの判断の遅さを呪ったカリオンだが、手順の変更は必要だと気が付いた。

 ここで自らのスタンスを明確にしておく必要があると、そう思ったのだ。


「叔母上…… いや、裏切り者と呼ぶべきか」


 穏やかな声で切り出したカリオン。

 周囲に居たものは、太陽王の声音が変わっていることに気が付いた。


「どうしたの? はやく斬りなさいよ」


 狂気の笑みを浮かべたシャイラは、甲高い声でカリオンを煽った。

 蔑むような眼差しで見下すように笑っている。


「そんなに死にたいですか?」

「斬られて死にたい人間が居るわけ無いじゃない!」

「でしょうね」


 カリオンの内でグルグルと空転していた歯車は、カチリと音を立ててはまった。

 全てがスムーズに回転し始め、思考の堂々巡りから脱出したのだ。


「ジョージ……」

「ハッ!」


 ゆっくりと振り返ったカリオンは薄笑いを浮かべていた。

 その傲岸なまでの笑みは、支配者の冷笑と呼ぶべきモノだ。


「何をしている。早く捕縛せよ」

「……よろしいのですか?」


 好戦的なスペンサー一門にある男らしく、ジョージもまたカリオンに斬らなくて良いのかと言外の問いかけを行った。如何なる理由があろうと、例えそれが仇敵であろうと、死には名誉が付与されるべきだ。そんな常識の中で生きている生粋の騎士は、王に直接斬られて死んだと言う名誉を与えろと言ったのだ。


「勿論だ。審判の席へと出ていただき、呵るのちに厳正な処分をくだす」


 カリオンはそんな言葉を吐きつつも静かに笑った。

 貴族の名誉を守るのでは無く、平民と同じように殺してやる……と。

 ある意味では、最もまともではない方法で殺してやると。


 背筋を伸ばし、胸を張り、僅かに顎を引いて三白眼に睨み付けるカリオン。

 その全身から発せられるどす黒い怒りの瘴気が誰の目にも映るようだった。


「王陛下。どうかお願いです」


 そんなカリオンにサンドラが声を掛けた。

 何を言うのかと皆が見つめる中、サンドラはわずかに震える声で言った。


「どうか…… お怒りを鎮め下さい…… 叔母上の命だけはどうか」


 サンドラの始めたシャイラの助命嘆願に全員が顔色を変えた。

 誰よりもシャイラが驚きの表情になっていたのだ。


「あなた! まだ私に生き恥をさらせと!」

「負け犬の姿をしてでも生きているから意味があるんです!」


 サンドラは平然とそれを言い切った。

 トウリの元へと嫁いでまだ10年少々。その間に彼女自身が世界を学んでいた。

 そもそもにフレミナの政治闘争の駒として使えるよう、高度な教育が施されたのだから、カリオンやリリスと接するようになってから彼女の学んだことは余りに広く大きいモノだった。

 そしていま、彼女はフレミナの復讐闘争よりも、ル・ガルという国家の生存闘争を優先することを選んだ。まだまだイヌの国は脆くひ弱で不安定だ。ネコだけでなく周辺国家による強力な武装闘争を挑まれれば、一気に崩壊しかねない。


「全てが太陽王に恭順し、国家が強力に纏まって一丸となっている姿勢が重要なんです。国家では無く国民の為に。無辜の市民の為に努力している太陽王の手を、つまらぬ私怨でこれ以上煩わせる方が余程恥です」


 きっぱりと言い切ったサンドラの言葉に、甲高くヒステリックな声で大笑いを始めたシャイラ。手を叩き大笑いするその姿は道化その物だ。


「そんな事はどうだって良いんだよ! 市民だ国民だなんて、どうだって良いんだよ! おまえはまだそんな事も解らないのか! 馬鹿な娘だ!」


 ゲラゲラと笑い続けたシャイラだが、ややあってその笑いが止まった。

 これ以上なく冷たい眼差しでサンドラが見ていたからだ。


「なに見てんだい! 何とか言ってご覧なさいな。バカ娘」


 勝ち誇った様に喚いたシャイラだが、サンドラは冷静な声で切り出した。


「そうやって我が儘一杯に振る舞う頭のおかしい者ですら、太陽王は法による支配で適正な処分をくだし厳正に対処する。フレミナがただの馬鹿の集まりでしか無いということを、これ以上なく雄弁に語る証拠です」


 静かな口調で言ったサンドラに対し『なんだと!』と声を荒げたシャイラ。

 そもそもに恥という言葉の捉え方が全く違うのだから、話が噛み合わないのは仕方が無いのだろう。だが、自分の思うようにならない事を上手く躱す術を知らぬ者ばかりな社会では、誰かの我慢が社会を支えているのだった。


「私に恥を掻かせるな!」

「恥は掻くものです。掻かされるものではありません」


 ヒステリックなシャイラの叫びに、サンドラは冷静な声で返した。

 どれ程恥ずかしい振る舞いであっても、誰にも指摘されなければ恥では無い。


 フレミナの社会は、そんな狂った思想のまま300年を過ごしてきた。

 愚か者達の悪意を煮詰めた蠱毒の壷なのだった。


「王陛下…… どうか…… 生まれてくる我が子を王の身元に差し出しますので」


 サンドラの手が触れている下腹部は、よく見れば僅かに膨らみ始めていた。

 トウリとの間に子が出来た。誰もがそう気が付く仕草だ。


「この子を王の御身のまわりにお使い下さい」


 我が子を人質に出すから身内を助けてほしい。

 サンドラのそんな嘆願は、他の誰でもないシャイラの心に劣情の炎を灯した。


「カリオン。俺からも頼む。俺にも数少ない身内なんだ」


 サンドラだけでなくトウリまでもがカリオンに頭を下げた。

 シャイラはそれが非情に腹立たしいのだが、同時にはたと気が付いた。

 これで窮地を脱出できるかも知れない……と。


 計算高い女の勘がそう言っているのだ。

 これは静観するべきかも知れないと、そう思っていた。


「……そうか」


 カリオンは小さな声でそう呟いた。そして、ふとリリスを見た。

 なぜリリスを見たのか、カリオンにも解らなかった。だが、その視線の先に居たリリスは、非情に不本意そうな顔をして兄トウリを見ていたのだった。


 ――あぁ……

 ――そうか……


 リリスにしてみればシャイラは不倶戴天の敵に等しいのかも知れない。

 母レイラに辛く当たり、その精神を蝕む原因になった存在とも言える。

 出来るものなら、この手で殺してやりたいと思う人間だった。


 ――そりゃ気に入らないわな……


 だが、よりにもよって兄トウリまでもが助命嘆願しているのだ。

 全部知っている筈なのに命乞いをしているトウリに、リリスがキレかけていた。

 だが……


「……ねぇ、カリオン」


 そのリリスが最後に口を開いた。

 どんな言葉が飛び出すのだろうか。カリオンだけで無く皆がそう思った。

 だが、その言葉は全員の度肝を抜いた。ある意味で予想外中の予想外だった。


「世が世なら、シャイラ叔母様は父さまの正妻だったのかも知れないの。ほんの些細な運命の差でこうなったの。だから、少しで良いから慈悲の心で…… ね」


 不本意で不機嫌そうな表情だが、それでもリリスまでもが助命嘆願した。

 何よりそれに驚いたカリオンだが、再び叔母シャイラを睨み付けたカリオンは、その意図に気が付いた。一瞬にしてトウリやサンドラの努力をひっくり返すような一撃だと知ったのだ。


「……あッ アンタまで……」


 これ以上ないくらいに厳しい表情になったサンドラは、大きく目を見開き、割れそうな程に歯を食いしばり、口元から涎をダラダラと流しながらリリスを見た。

 これまで散々罵倒し、内心で馬鹿にしてきた存在からも情けを掛けられたという事実に、シャイラの心が耐えきれなかったのだ。


「ヒィィィィィヤァァァァァァァァァァアアアアアアアアアア!」


 言葉にならない悲鳴を叫んだシャイラは、両手で頭を抱えて気が触れたように暴れ回り、ややあってから頭を掻きむしりはじめた。髪留めが解け、長い黒髪が纏められていた癖を残したままに垂れ下がっていた。

 狂を発して暴れるままのシャイラは、頭を振り回して髪を暴れさせ、そのまま床に倒れた。そして、拳で床を叩きながら叫び始めた。


「悔しい! 悔しい! なんでよ! なんで! 悔しい! なんで! 悔しい! チクショウ! 悔しい! あのバカ男! 悔しい! あのバカ女! 悔しい! あのバカ野郎! 悔しい! 悔しい!」


 火の病だ……


 誰もがそう思った。

 フレミナに生まれた者の中で、特にザリーツァの者が色濃くそれを持っているとされる火の病。己の感情を制御出来ず、突然癇癪を起こして暴れ回り、やがて卒倒するか失神するか、あるいは、突然死することがある。

 ある意味で死んでくれた方が楽なのだが、困った事にザリーツァの一門は生命力が強いと言う笑えない事実が有るのだ。一人残らず滅んでくれれば後顧の憂いもないのだが、そうも行かないのが世の中だった。


「……みんな殺してやる」


 倒れていたシャイラが立ち上がったとき、手の中には小さな刃があった。

 髪留めの中に仕込まれている小さな刃物だ。ただ、それは本来暗殺に使う為の暗器で、毒を塗られたその刃で切られれば数分で絶命する代物だった。


「死ねぇぇぇぇ!」


 狂を発した者特有の酷い声でリリスへと走って行ったシャイラ。

 カリオンやウォークやオクルカまでもが『しまった!』と焦りの色を浮かべた。

 リリスが危ないのでは無い、シャイラが危ないのだった。


「姫。どうかお下がりを。ちょいと仕事でごぜぇやす」


 リベラが選んだのは…… 紐付きの球だった。

 鋼線の先端に鉛の分銅を付けたその球は、恐ろしい唸り声を上げて空を切った。


「ギャン!」


 シャイラの声が漏れると同時、その右肘があり得ない角度に曲がった。

 鈍い音を立てて肘の関節がへし折れたのだ。そしてその直後、今度は右の膝が折れまがり、シャイラは前へと倒れた。手首の反し一つで分銅球を旋回させたリベラは、シャイラの機動力を奪った。


「そんなに死にてぇなら…… 死なしてやることも出来ますぜ」


 再び手首の反し一つで球を旋回させたリベラ。

 その球がシャイラの側頭部を叩く直前にカリオンが叫んだ。


「やめろリベラ!」


 咄嗟に球の軌道を変えたリベラは、不思議そうにカリオンを見た。

 シャイラはとうに意識を失っていた。


「その女は罪人だ。審判の場に引き渡す。その上で情状酌量するかどうか決める」


 短く『へい』と答えて暗器をしまったリベラ。

 あくまで方針を変えないカリオンの姿勢に全員が驚く。


 だが、カリオンは決めていた。

 辿り着くべき結果は、最初から決まっていたのだから。

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