表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
143/665

リベラの実力


 ガルディブルク城の太陽王執務室は、行政エリアの最上階にあった。

 このフロアの下には貴族院と衆議院が交互に使う議事堂だ。


 それは、このル・ガルと言う巨大国家の中枢とも言える場所。

 そしてカリオンにとっては、主戦場ともいえる場所だった。


「この夏は厳しそうだな」


 各方面からの膨大な報告書は、官僚たちの手によって再編集を受ける。

 報告書をファイルしただけなら、優に数千項となるような代物だ。


 それを王都の各教育機関において教育された者たちが再編集する。

 分析を経た統計資料として上げられる報告書は、ほんの数項に過ぎない。


 だがそれは、莫大な実務機関のスタッフが苦労を重ねて報告するモノだ。


「……だけど、生育は順調だし、大きく天候が崩れなければ豊作よ」


 国民の胃袋を預かるリリスは朗らかに言った。

 やはり、先ずはメシだ。腹いっぱい食べる事だ。

 国民の不平不満は数あれど、最大要因はそこに尽きる。

 ただ……


「市場価格の調整が難しいですな。大きく値崩れすれば農家を直撃します」


 農政と財務を見ているアッバースは怪訝な調子でもらした。

 市場価格の不安定は農家の収入に直結する。

 店頭価格の下落を能天気に喜んで良いのは5歳までと言われる所以だ。


 市場での価格が下がれば、それは農家の収入を脅かす事になる。

 そして、農家の収入が細れば、自然と支出を絞る事になる。


 農業に従事する者達は国家の根幹と言って良い部分だ。

 その彼らの収入が目減りすれば、農業を支える付帯産業に影響が出る。

 結果、様々な工業製品を製作する職人や工人と言った者たちの収入に影響する。


 また、農家のキャッシュフロー悪化は銀行業務などにも影響を及ぼす。

 収穫期の収入を前提に農家は銀行から金を借りるのだ。

 その返済の原始となる収穫が捗れば心強いが、市場価格の下落は歓迎しない。

 結果として収入は目減りし、返済計画が狂いだし、農家は首を吊る事になる。


 経済は循環している。安売りという行為は、緩慢な経済の自殺に過ぎない。

 その一大原則から目を背け、安売りに現を抜かす者をバカと言うのだ。


「なかなか難しいな」

「全くです」


 カリオンのボヤキにサダムが答えた。

 僅かな沈黙を挟み、カリオンが『ならば―― 

 と、そういい掛けた時だった。











 ――――――――帝國暦338年8月17日

             ガルディブルク城 太陽王執務室











「何者だ!」


 突然ジョージが叫んだ。

 執務室の中に何人かのオオカミが飛び込んできたのだ。

 その姿にカリオンはピンと来ていた。


 青い瞳と黒い体毛を持つオオカミ。

 先日、療養所でジョージ達が手に掛けたザリーツァの者どもだ。


「貴様らどうやってここへ!」


 執務室の中では、流石のカリオンも丸腰だ。

 この室内で武装しているのは、丞相であるジョージだけだった。


「お命頂戴!」


 突然侵入してきた賊は、小弓に矢を番えて引き絞った。

 小弓とは言え、至近距離なら人を絶命せしむる威力がある。


「リリス!」


 カリオンはリリスの頭を押さえてテーブルの下へと隠した。

 まずは遮蔽物の蔭に入れるのが定石だからだ。


 しかし、その僅かな間に弓は引き絞られ、そして放たれていた。

 一瞬の出来事にカリオンは面食らっていた。


「ッ!」


 まるで雲でも掴むかの様に腕を振ったカリオン。

 その手には矢が捕まれていた。

 偶然にもカリオンは飛翔する矢を捕まえていたのだ。


「バカなっ!」

「ハッハッハ! 余は人一倍強運の持ち主ぞ」

「ならば!」


 小弓を持っていた男の隣。

 背の低い男は細筒を口に宛がい、息を吸い込んだ。

 それは、間違い無く吹き矢だとカリオンは断定した。


 ――こやつら!

 ――手練れか!


 筒の向きから弾道を予測し、カリオンはテーブル上のファイルを手にした。

 飛んできた吹き矢を撃ち返す為だ。


 ――やばいっ!


 シュッと音を立てて放たれた吹き矢は、驚く程の速度だ。

 半ば運任せでファイルを払ったカリオン。

 鈍い音を立てて吹き矢は撃ち返されていった。


「大丈夫?」


 テーブルの下に頭を隠していたリリスは、ひょっこりと頭を出した。

 辺りの様子を伺うのは半ば本能的なことだからだ。


「ダメだ! 隠れて!」


 再びその頭を押し込もうとしたカリオン。

 それに気が付き侵入者を見たリリス。

 彼女は自分に向け吹き矢が構えられている事に気が付いた。


「キャァ!」


 リリスは慌ててテーブルの下へと隠れた。

 ただ、その隠れ際の悲鳴により、執務室の戸がけり破られるように開いた。


 開いた先にいたのはリベラだった。

 腰を落とし、臨戦態勢になって立っていた。


「しつこぉござんすねぇ……」


 上着の内に突っ込んだ手を引きぬくと、リベラの指股にナイフがあった。

 都合4本のナイフだが、左右に手を振りつつ1本ずつそれを放つ。


 ――――シッ!


 リベラの口から息が僅かにもれた。

 細作は声を発さず仕事をこなすもの。

 本来ならありえないことだ。


 だが、ここで行なうのは暗殺や間諜ではなく防御活動だ。

 姿を隠す必要性よりも、相手を確実に屠る事が大事だ。


「ギャァァァ!!」


 濁り篭った悲鳴が響く。

 リベラの放ったナイフは吹き矢使いの目に付き刺さった。


 離れた位置から小さな目を狙って当てる技量に皆が舌を巻く。

 隣室で控えていた従者のコトリもだが……


「すぐに楽になりやすが…… 少々やかましゅうござんすね」


 フワリと飛び上がったリベラは、鋭い蹴りを放って頚椎をへし折った。

 てこの原理と単純な衝突力でオオカミの太い首がポキリと折れた。


 ただ、さすがネコだと皆が感心したのは、音を立てずに着地したリベラだ。

 空中で舞うリベラは、フワリと柔らかい身のこなしで床に足を着いた。


「……すごい」


 小さく呟いたコトリ。

 くるりと廻ったリベラの耳は、その呟きを捉えていた。


 頭の上に小さく載るネコの耳たぶは、イヌと違って左右に回転する。

 身体を捻る事無く音を拾うネコのそれは、細作に最も重要な資質だった。


「これが…… 細作稼業ってもんです」


 声を絞り小さく言ったリベラ。

 仲間が瞬時に絶命したと見た侵入者は、執務室の文官を盾に取り矢を番えた。

 小刻みに動く侵入者はリベラのナイフに狙いを定めさせないでいる。


 だが、リベラは投げナイフではなくフォールディングナイフを取り出した。

 そして、全開に為らない状態で刃を広げ固定し、明後日の方向に投げた。

 クルクルとスピンしながら飛んで行くナイフを侵入者が目で追う。


「愚かな!」

「……そうだな」


 ニヤリとリベラが笑う。

 その直後、中途半端に広がったナイフは、空中で魔法の様に反転した。

 ブーメランの様に返ってきたその刃は、侵入者の首筋をかすった。


「バッ! バカな!」


 一撃で絶命せしむる威力ではない。

 しかし、出血は止めねば為らない。

 焦った侵入者が傷口を触った時、ザラリと言う感触があった。


「まさかっ!」

「流石でござんすねぇ」


 そのナイフの刃先には、猛毒な鬼茄子の実から採った汁を塗ってある。

 ただそれは、毒や痺れやそう言った直接的に危険なモノではない。

 たが、鬼と名の付く物だ。まともな物の訳が無い。


 鋭いスパイクの付いた実を付ける植物。

 それは、ダチュラとも、或いはキチガイ茄子とも呼ばれる植物だ。

 白や桃の可憐な花をつけるその植物の実には、高濃度アルカロイドが含まれる。


 LSDなど幻覚系麻薬の主成分となるアルカロイドだが、鬼茄子は少し違う。

 キチガイナスビと呼ばれるだけあって、本当に人間をおかしくするのだ。

 心の内にある潜在的恐怖心や嫌悪感といったものを数千倍に加速する。


 その結果……


「やっ! やめろ! やめてくれ! ヒャハッ! ヤメレグルアデロロロロr


 番えていた矢を捨て、その矢じりで自らの眼球を穿り返しはじめた。


「だめだ! ちがうんだ! ひがふんば ふばばばばばばばば――


 侵入者は支離滅裂な言葉を発しながら、自らの胸を矢じりで突き刺した。

 幾度も幾度も執拗に突き刺し、幾多の鮮血を撒き散らせてなお突き刺した。

 やがて限界を超えたのか、床に崩れて倒れたのだが、それでもなお痙攣した。


「ヒベロバルゴハデロヌズウェソアウアウアウアウアウアウアァァァァァァ


 白目を剥き、狂ったように暴れているのだが……

 その姿はもはや人の尊厳も何もあったモノではない。


 一言でいえば狂人だ。


「バカな……」


 最後の一人は立派なサイズのナイフを取り出した。

 ナイフと言うよりも小刀に近いモノだ。


 スッと腰を落とし、ナイフ使いらしく低く構えて距離を詰める。

 その物腰はヴェテランの空気だった。


「……真打でござんすか」


 リベラは腰裏辺りから小さな球の付いた紐を取り出した。

 球の反対には小さなリングがある。リベラはそこに指を通した。


「良い機会ですぁ…… ちょっと、芸をお見せいたしやしょう」


 右腕を横へと伸ばしたリベラは、その紐につけられた球を廻し始めた。

 ひゅんひゅんと風を切って回転するその球は、風を切って回っていた。


「ッセイ!」


 侵入者は鋭く踏み込んでリベラに襲い掛かった。

 その踏み込みはヒトの目では捉えきれない速度だった。


 しかし、コトリは不思議な感覚を得ていた。


 ――踏み込む……

 ――ここで止まる……

 ――身体をかえして……

 ――ここでナイフを振る……


 侵入者の動きが手に取る様に解るのだ。

 微動だにせず極限の集中を見せているコトリは、次の一手が見えていた。


 ――踏み込むフリをして一旦止まって……

 ――もう一度踏み込む!


 ソレと同じ動きを侵入者が見せた。

 回転している球の軌道よりも近いところに入ったのだ。


 高速回転している球が当たれば、それなりに痛いはずだ。

 ましてや、鈍く光るその素材は間違い無く鋼だろう。


 もっとも、その一撃は最大効率として回転軌道上の一撃を受けた場合だ。

 現状の様に、軌道の内側へ入ってしまえば……

 しまえば……


「アッペシッ!」


 振り回していた紐の途中にリベラは手を挟んだ。

 手に当たった部分からカクリと折れた紐により、球の角速度はグッと上がる。

 回転半径が小さくなった分、鋼の球は運動エネルギーを速度に変えた。


「さて……」


 無表情のまま球を逆回しにし始めたリベラ。

 紐の先端で風を切る音だけが相変わらずに響く。


 球の一撃を受けた男は、額の辺りから血を流していた。

 リベラの一撃を見たのだから、コレで迂闊に踏み込むことも出来なくなった。


「では、こちらから行かしていただきやしょう」


 リベラは回転していた球の軌道を器用に変えた。上回しから下回しへ。

 そして、その紐を押さえていた指をスッと緩めた。


 突然回転半径が変わり、球は遠心力に引かれ侵入者の鼻先を叩いた。

 真っ直ぐに飛んでくる球は、その距離感を掴みづらい。

 決して軽くない一撃が鼻先に入り、その威力で牙を折った。


「チキショウ!」


 侵入者は明らかに冷静さを欠いている状態だ。

 所詮は球ッころだと開き直ったのか、一歩下がってから突進の体勢になった。


 ――突っ込んでくる!


 コトリは一瞬だけ息を呑んだ。

 いくらその芸が器用でも、人を絶命せしめる一撃には見えないのだ。


 リベラは侵入者の鼻先を叩いた長さのまま、紐を振り回した。

 球が放つその空裂音は、何とも嫌な響きを放ち始めた。


「さて、勝負でござんすね」


 それまではフンフンと回転する音を聞き分けられてた。

 だが、ここに来てリベラは驚く程の速度にまで向上させた。

 ヒュヒュヒュヒュと連続した音が響いた。


「ッテイ!」


 ナイフを構え真っ直ぐに突進した侵入者。

 その速度は間違い無く立派なものだ。

 ただ、その襲い掛かった先に居たネコの男は、侵入者の理解を超えていた。


 鋼の球は外を回って侵入者に接近した。

 その軌道の内へ侵入していたアサシンは、勝利を確信した。


 ただ、つい今し方リベラが見せた、鋼の球の軌道を変える方法を思い出した。


 そして、己の悪手を思い知った。

 この武芸は、こうやって誤断を誘うのが戦術なのだった……


      ……ゴキッ


 鈍い音が響いた。

 鋼の球はリベラの手によって急激に軌道を変えていた。

 そして、一気に速度を増したその球は、侵入者の側頭部を強撃した。


 顎関節が砕け散り、奥歯や頬骨が一気に陥没し、左眼球が飛び出した。

 それでもなお運動エネルギーは失われ切らず、リベラは再び加速させた。


 さらに速度を上げたその球の軌道を左の手で変え、今度は下から撃ち上げた。

 マズルの先端へと延びる顎骨全てを完全に粉砕し、顔全体を上へと向けた。


「……まだまだ」


 再び球の軌道を変えたリベラは、回転方向を器用に変えた。

 そして、左回りに変わった球を使い、侵入者の右頬を砕いた。

 強い一撃は右眼球を押しつぶし、侵入者の視界を奪った。


「王陛下。こやつはどういたしやしょう? 始末しても良うござんすか?」

「……いや、捉えよ。吐いてもらおう」

「御命のままに」


 回っていた球の軌道をもう一度変え、リベラは侵入者の腹を打った。

 振り上げ方向だった軌道は、侵入者のみぞおちを強く叩いたのだ。


 激しい一撃に胃の内容物を吐いたその男は、自分が吐き出したその上に崩れた。

 両眼を失い、視界の無い状態では戦闘など出来ない。だが……


 ――自決する!


 コトリはとっさに飛び出し、侵入者の持っていたナイフを奪い取ろうとした。

 その動きにジョージやリベラが自決を知った。


 リベラはコトリを押さえ、ジョージは手にしていた剣で侵入者の手首を断った。

 手を失えば自決は出来ぬだろうし、舌を噛み切るにも顎が役に立たない。


「これが…… 太陽王か」


 侵入者は痛みに呻くこと無くそう言った。

 厳しい訓練の積み重ねにより辿り着いた境地だろう。


 だが、この場にいたエリートガードは、侵入者の予想を遙かに超えていた。


「然様にござんす」


 球付きの紐を懐へと戻したリベラは、静かにそう答えて侵入者を縛り上げた。

 吐瀉物に汚れた姿だが、一切の躊躇が無かった。


「……恐ろしい存在だな」


 吐き捨てる様に言った侵入者は、ガックリと項垂れた。


 これから待ち受ける恐るべき尋問は、死んだ方がマシという痛みの極地だろう。

 依頼者やその目的や、本来は喋っていけないことまで全て吐かされる事になる。


「同業の誼。この場で殺してくれ」

「それは出来やせん。素直に洗いざらい吐いてくれれば済む話でござんす」


 ガックリと項垂れたまま侵入者は押し黙った。

 依頼者を売ることは、細作稼業にある者にとって死を意味する。

 ましてやその依頼者がザリーツァの一門であろう事は間違い無い。


「……チクショウ」


 ぽつりと漏らして、そのまま衛兵にしょっ引かれていった。

 リベラはそれを感情の無い眼差しで見ていた。


「あの…… リベラさん」

「細作稼業に身を落とす事はありやせん。おやめなさい」

「でも……」


 俯いたコトリは思い詰めた様になっている。

 そしてふと、その目は兄カリオンを捉えた。


 衛兵を集め細かに指示を出すジョージの隣に立ち、黙って話しを聞いている。

 ただ、その手は傍らに立つリリスの手に重ねられていた。


 強い存在である兄カリオン。

 コトリはその兄をジッと見ていた。


「兄の…… 役に立ちたいの」

「ですが……」

「捨てられるのが怖いんです」


 コトリは何処まで行ってもヒトでしか無い。

 自らの呪われた出自をまだ知らないのだ。


「……さようですか」


 リベラとてコトリの真実を知るわけでは無い。

 ヒトは何処まで行っても奴隷でしか無い。


 例えそれが耳に心地よい『資産としての奴隷』と言われたとて……だ。

 生殺与奪の全てが主の手に握られているのだから、自由などある訳がない。

 だからこそ……


「私は…… 兄様の所に居たいのです。だから、役に立ちたいのです」


 真剣な眼差しで見ているコトリに対し、リベラは対応を思案した。

 ヒトの身でネコと同じ事が出来るとは到底思えないのだ。

 それに、リベラの技量はこの道300年近い研鑽の末のものでもある。


「この道を究める前に寿命を向かえるやも知れません」

「何も出来なかったと悔いて死ぬより、努力が足りなかったと悔いて死にたい」


 何処までも純粋な眼差しで言い切ったコトリ。

 リベラは説得が無理である事を察した。


「私のこの芸は人を殺める為のもの。純粋に戦うならば女騎士を目指しては?」

「……剣を捧げることに異論はありません。ですが」


 コトリは思い詰めた様な表情でリベラを見た。

 その顔に浮かぶ決意の色は、言葉では表現できないものだった。


「ですが…… なんですかい?」

「私は王を守る最後の楯になりたい」


 コトリの呟いた言葉にリベラは背筋が痺れた。

 もうすっかり遠くなってしまった日、自らが言った言葉を思い出したのだ。

 ネコの国の片隅で、親も兄弟も知らぬ浮浪者として生きていた幼き日々だ。


 石畳に溜まった雨を舐めて喉の渇きを癒やした日。

 何日もモノを食べて無く、ゴミ捨て場には生ゴミ1つない貧しい街だった。


 飢えと渇きと疲労と絶望と、何より、産み落とされたことに対する怒りと。

 自分で死ぬ事も出来ずに、ただ最期の時を待つばかりで路地裏に居た日だ。


 ――――ぼうや

 ――――大丈夫かい?


 顔を上げたリベラが見たのは、裕福な形をした紳士だった。

 上等な馬車に乗っていたその男性は、自らの息子に財布を開けさせた。


 ――――そこのパン屋に行ってパンを有り金全て買っておいで


 何が起きるか理解出来なかった幼い子は、その日初めて人の優しさに触れた。

 食べろと言って渡されたパンは、初めて食べた味だった。

 焼きたてのパンは良い匂いがすることをリベラは初めて知った。


 ――――美味いか?


 嬉しそうに頷いたリベラの頭を撫でた老紳士は、そのまま馬車に乗り込んだ。

 路地裏の子供達が争う様にパンを食べるなか、リベラはその馬車を追った。

 自分に差し伸べられた救いの手が奇蹟だと言う事を、幼いながらに理解した。


 ――待ってください!

 ――待って!

 ――おねがい……


 路地裏に転んだリベラは、それでも立ち上がって必死に走った。

 その出会いが自分にとってチャンスなんだと確信していたから。


 ――――どうした坊や?

 ――――早く戻らねばパンが無くなってしまうぞ?


 老紳士の優しい言葉に、リベラは頭を振った。

 そして、泣き出しそうな顔で言った。


 ――ボクを飼ってください

 ――何でもしますから


 必死の形相でそう言いきったリベラ少年は、薄汚れた顔のままだ。

 だが、その老紳士は小さく溜息を吐きながら言った。

 全く違う声音になって、恐ろしい形相で。


 ――――おぃガキ

 ――――世の中って奴をなめんじゃねぇ

 ――――何でもするって言うなら……

 ――――それ相応の報いがあるぞ?


 学の無いリベラは、それでも頷いた。

 この未来の無い所でのたれ死ぬなら、意味のある死を……と。

 幼いながらにリベラ少年はそう願ったのだ。


 ――――やれやれ……

 ――――気まぐれで小汚ぇガキを拾っちまったぜ

 ――――まったく……


 ブツブツと文句を言い続ける老紳士は、リベラ少年の首筋をひょいとつまんだ。

 そして、馬車の背にある荷物台に放り込み、『大人しくしてろ』と言った。

 それがこのネコの国屈指の細作であるリベラトーレの始まりだった。


 幼いリベラ少年を拾ったのは、エゼキエーレの父。

 馬車の御者台に座っていたのは、若き日のエゼキエーレ。

 色と酒と暴力の街、フィエンゲンを取り仕切る3大ファミリーの1つ。


 ディア・デ・ムエストル


 血と恐怖と金の力でその組織を支配する親子だった。

 リベラはその組織の中でエゼキエーレに忠誠を誓った。

 そして『我が主の最後の盾として死ぬ事を神に誓う』と宣誓していた。


「あっしもね、この道に入った一番の理由はそれですよ」

「そうなんですか?」

「えぇ、そのものです」


 リベラは何も言わず、再び球付きの紐を取り出した。

 そして、その紐を短く持ち、目の前でブンブンと回し始める。


「よくご覧なせぇ」


 リベラは口元に羽のペンをくわえた。

 そして、段々と回転する球を近づけていく。

 シュッと音を立てて、その球にペンが線を書き込んだ。


「これをコトリさんにお預け致しやす」

「……はい」

「同じ事が出来たら、弟子にいたしやしょう」

「本当ですか!」


 思わず明るい声で叫んでいたコトリ。

 リベラもニコリと笑っていた。


「えぇ、二言はございやせん。ただ」


 目を細めて笑うネコだか、その直後にその表情が厳しく変わった。

 リベラの姿から驚く程の殺気が漂ったのだ。


「三日で出来る様になりなさい。それが出来ねば弟子は無理です」

「……わかりました。頑張ります」


 決然とした表情で頷いたコトリ。

 離れた場所でそれを見ていたカリオンは、コトリの成功を祈った。

 決して簡単なことじゃないが、集中すれば出来る筈だ……


 カリオン自信がそうである様に、コトリもまた容易く出来てしまうだろう……

 そう確信していた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ