サンドラの行方
~承前
ゼル稜が北東に約10リーグ。
中洲を形作る川沿いに5リーグほどあるき、合流する小さな川の畔から沢道沿いに5リーグを行った辺りでカリオン一向は小休止を入れていた。
日の出と同時に動き始め、簡単な携行食だけを口にしての沢登りだ。疲労は嫌でも蓄積し、運動不足な者ならば膝が笑い始める頃合ともいえる。
「平気か?」
「楽しいよ!」
そもそもが坂と斜面の町、シウニノンチュ育ちなカリオンは坂を苦にしない。
まだまだ若いと言う事もあり、馬を降りた騎兵たちを率いて山へのアタックを率先して行なっている。一軍を率いる者がへばる事無く果敢に山へと挑むなら、率いられる者は付いて行かない訳にはいかない。
山岳地帯出身な者たちを選抜しての行動だが、リリスは全く弱音を吐かず、一行に同伴して山へ突入していた。
「ウィル!」
「方向は間違いありません。ただし、まだ距離があります」
ウィルは北東を指差し、進路を示した。沢沿いに登っていく小道は、やがて雲の中へと消えていた。もう随分と高度を稼いだ筈だが、山の頂は見えなかった。
「よし! 前進再開!」
息を整えたカリオンは前進の再開を命じた。
先頭に立っていたジョージは全員にゆっくりと歩き出し、50人ほどの突入チームは山道を歩き出した。随分とガレている荒れた道だが、その踏み跡は明確に残っていて、定常的に人が歩いていると思われた。
「見て! 奇麗な花!」
「……ほぉ。こりゃ見事だね」
三つに割れた赤紫の小さな花が斜面一杯に広がっている。
香りこそ無いものの、その可憐な姿は目を楽しませるのに十分だ。
「カタクリの花です」
花を見たウィルは、そう即答した。
そして、手近なカタクリを穿り返すと、地下の球根を取り出した。
「この球根は食用できます。山岳地帯では貴重な食料になります」
「そうなのか…… しかし、せっかくの花が勿体無いな」
「ですから、これを食べるのは花が終わってからですね」
なるほど……
そう頷いたカリオンは再び山道を歩き始める。
この前進が悲劇を招くか、それとも必要な結果に繋がるか。
未来を知る事は誰にも出来ない。
百戦錬磨な陰陽師であるウィルでさえも……
――――――――前夜遅く
遠見の水盤を見つめていたウィルは、深い深い集中を解いて言葉を発した。
――――サンドラ様は……
――――深い闇の中に居られます
遠見の魔法を広い範囲に拡大するのは、深い集中力を必要とする。
老いたれども、ウィルはそれを事も無げに行なう。
それを可能とするのは、類稀な経験の為せる業なのだが……
――場所は?
カリオンの問いにたいし、ウィルは深く水盤を覗き込んで思案した。
周りで見て居るものにはただの水盤でしかない。
だが、膨大な魔力を注ぎ込んでいるウィルにとっては、テレビのようなモノだ。
遠く離れた場所に居るはずのサンドラを探し、ウィルはウーンと唸る。
――――失敬……
水盤の周りをぐるりと廻るウィル。
それにあわせカリオンたちも廻っている。
何週か水盤を巡ったウィルは、ふと足を止めた。
荒地の東側に広がる深い山の方向だ。
――――ッチ……
小さく舌打ちしたウィルは、足元に居た地虫を摘みあげた。
身体の両脇に幾つも脚の付いた、あまり気持ちの良い存在ではない地虫だ。
その頭を落とし、何ごとかを唱えてウィルは水盤に投げ込んだ。
小さな波紋が広がっていき、やや進んだところで水面がポツリと盛り上がった。
――――ここから北東へ凡そ10リーグ
――――理解しがたい山中です
――――暗くて何も見えませんが……
思案しているウィルは考え込み始めた。
静かにうなり、原因を探っている感じだった。
――どうした?
ウィルの集中力を遮らぬよう、カリオンは静かに声を掛けた。
身体の内より涌き出でる魔力は、その制御に深い集中を必要とする。
まるで瞑想中のように思案するウィルは、自在に魔力を操っていた。
もう少しで何かが見える。
そんな状態のまま、思うように行かずに苦しんでいる。
だが、そんなウィルを黙って見ているほうは、さらにもどかしいのだった。
――――うーん
静かに唸ったウィルは、突如として水盤を跳ね上げた。
バシャリと音を立てて水がこぼれ、同時にウィルは眉間を押さえた。
――――やられました
小さく呟いたウィルはガクリと膝を付いて崩れた。
――ウィル!
慌てて駆け寄ったリリスに抱き抱えられ、ウィルはその場に寝かされた。
眉間を押さえたままのウィルは弱々しい声で言った。
――――深く潜りすぎました
――――完全な闇の中に居ます
――――明るくなってから……
消え入りそうな声で『もう一度』と呟き、ウィルは気を失った。
そんなウィルを野営地で毛布に来るんだカリオン。
――ジョージ
――明朝日の出と共に行動を開始する
――北東山間部へ入るので支度するんだ
カリオンはそう号令を発し、そのままリリスの肩を抱いて眠ってしまった。
山岳地域への突入は、体力勝負になるのだった。
――――――――それから8時間後
「こりゃ、日頃の運動不足に効くな」
「しかも山道だからね。兄貴は膝に来るんじゃ?」
騎兵とて運動不足になる事もある。一緒に来ていたトウリは弱音を吐いた。
乗馬と言うのは案外全身運動だが、登山と言うのは足腰を直撃するモノだ。
まだ若いカリオンもリリスも軽快に山道を進んでいく。
トウリもまた気合と根性で登っていく。
ただ、その後ろを行くリベラとウィルは、かなり辛そうだった。
「寄る年波には勝てそうにありやせんぜ」
「リベラさんはそれでも動けてますな」
「旦那は厳しそうで」
「私も歳です」
瞬間的に極限の集中力を発揮せねばならない魔法使いは、ローブ一枚が標準だ。
肩へ食い込む僅かな重みにも集中力を乱され、魔力の暴走を招きかねない。
それ故に、魔法使いは極限の軽量装備で事に挑む。
ただ、そんな軽量装備であっても、魔法使いには厳しい道のりだ。
体力的に余裕のある若さでもないのだから、ウィルには辛い。
だが、ただひとえにリリスのガードとしてここにいる。
「ウィルもリベラも大丈夫?」
人生のヴェテランなふたりを気遣うリリスは、母レイラと同じように振舞った。
その姿にウィルは目頭が熱くなる想いだ。
「お嬢様…… 立派に成られましたね」
「それじゃ答えに成って無いよ」
フフと笑ってリリスは進んでいく。
城の中で身を包む上等な仕立てのワンピースではなく、張り上げの乗馬パンツに詰襟の上着姿だ。兄トウリのお下がりで貰ったビロードの乗馬ハットは今も大切に愛用している。
見る者を圧する帝后としての姿ではないが、それでも見る物が見れば、そのまとう空気には他を威するオーラがあった。
「陛下!」
前方から声が掛かり、カリオンは『どうした!』と返す。
パーティー全体が圧縮され、その中でカリオンはリリスと共に上がっていく。
「何があった」
「これを!」
ジョージと共に騎兵が囲む中、そこには全身穴だらけの死体があった。
みすぼらしいその衣類は、山窩である事が読み取れるモノだった。
「サンカか」
「はい」
ややあって偵察に出ていた者が戻ってきた。
慌てた調子で戻ってきて、そのままカリオンに報告する。
「こちらに正体不明の物があります!」
偵察した騎兵がジョージとカリオンを連れ斜面を走る。
強い膂力で平然と斜面を走るカリオンは、茂みの中にある物を凝視した。
「これは……」
それは金属と正体不明な素材で作られた努弓のような物だった。肩当の付いた『ソレ』は、肩当の反対側にどんぐり程の大きさの穴があった。塊になったソレからは、剣の柄のような物が突き出ている。その柄には小さなレバーがあり、怒弓の様に指で引く形だ。
「ヒトの世界の武器ですな」
一目見たリベラは、そう即答した。そして、その塊状の物を持ち上げ、肩に当てて構えた。誰もいない方向へ向け、柄に付いたレバーを引いてみる。その物体は死んだように何の動作もせず、沈黙したままだった。
「弾が入っていないようです」
リベラはその物体をひっくり返したりして検めた。
すると、柄状になった辺りの隣に、何かを差し込んでいたと思しき口があった。
「それはどういう代物なんだ?」
ジョージも興味深々に眺めるソレには、読めない言語であれこれと書いてある。
リベラは黙ってそれを地面に置いた後で言った。
「ヒトの世界の銃と言う武器です。先ほどの死体は、これが放った鉄の礫を受けて死んだのでしょう。木の板など簡単に貫通する代物です。これで攻撃されてしまうと、剣も槍も太刀打ち出来やせん」
迫真の様相で概要を伝えたリベラは、それを恭しくカリオンへと差し出した。
「これは、城の中で保管するべき代物でございやす。少なくとも、表に出して良いモノではございやせん」
小さく『そうか』と答えたカリオンは、その塊に付いていたベルトで背負った。
そんな使い方をする限りは、戦太刀と変わらないような気がするのだが……
「とにかく先に進もう」
「そうですな。山中で日暮れは困ります」
再び前進を再開した一向は、休みを挟んで5時間近く歩いた。
過去には幾度も盗賊狩りをしているカリオンだが、これほど深い山の中へ分け入ったのは初めての経験だ。様々な気配のする山中は、多種多様な生き物たちのゆりかごだった。
――ん?
カリオンの鼻が何かを捉えた。
クンクンと臭いの元を探すように鼻を鳴らす。
気がつけば全員が同じ事をしていた。
森の中とはいえ、イヌの鼻は微小な臭いをかぎ分ける。
どこかに何かがいる。あまり良い臭いではない存在だ。
「これはなんだ?」
臭いを確かめているジョージは、鼻先を空中に向けクンクンと鼻を鳴らした。
何処から漂ってくるその妙な臭いは、死臭とは違う嫌な臭いだった。
「……これ」
最初にその正体に気が付いたのはリリスだった。
僅かに険しい表情となって山道を歩き始めた。
「ねぇ…… カリオン」
「どうした?」
歩きながらカリオンを呼んだリリスは、背後の気配に注意しつつ言った。
「この上のどこかに、生理中の女がいるよ」
「……そうか。言われて気が付いた」
その独特の生理臭は、男では中々気が付かないケースが多い。
表現しづらい、鉄臭い臭いとも違う、一種独特な匂いだ。
ただ、リリスの怪訝な表情は、それで解けなかった。
「しかもこの人、どこか病気だ」
「病気?」
「婦人病系の……ね」
「と…… 言う事は」
リリスは黙って頷いた。
女性にしかない器官があって、そこを病むと独特の臭いを発するようになる。
しかも困った事にその臭いを発するときは、大体が死を免れない時だ。
「急ごうよ」
「あぁ」
「もしかしたら、恩を売れるかもね」
何気なく発したリリスの一言だが、カリオンはつくづくと思った。
女は抜けているようで強かだ。しかも、逆境に強い。
弱みが多いようで強みも沢山持っている。
男が思うほど女は弱くない。
膂力や腕力に劣っていても、それを補って余りある才能がある。
表裏一体と言うべき存在を甘く見れば、それは男にとっても不幸なことだ。
「近いね……」
グングンと登っていくリリスの足取りは軽やかだ。
涼しい顔で難なく付いていくカリオンだが、山岳地帯出身の者でも遅れを出し始める速度だ。若い部類のトウリも舌を出し始め、リベラやウィルは押して知るべしである。
「リリス。もう少しゆっくり」
「……あ、そうだね」
速度を落としたリリスはそれでもかなりの勢いで登っていく。
ややあって、段々と臭いがきつくなり始め、勘の鈍い者も気がつき始めた。
明らかに『ヤバイ系』の臭いだ。腐敗臭と言っても良いレベルだ。
「これさぁ……」
「多分、腐ってる」
「なにが?」
「臓腑が……」
医療水準がそれほど高くない世界ゆえ、ガンなどの病は死に直結する。
また、感染系の業病などは、どうやっても集落から切り離される運命だ。
大多数を護る為に少数を斬り捨てる。冷徹な判断が無ければ、出来ない事だ。
だがそれは、絶対的に必要な事だ。全てを助けられない以上は……
「捨てられた村かな」
「……考えたくないが、可能性はあるな」
かつてゼルはエイダに教えた事がある。
ヒトの世界では、政治とはこんな字を書くのだ……と。
そして、政治の政とは斧を正しく使うという意味だと。
出来る事を行い、出来ない事は切り分け、治める。それが政治。
だから、斬り捨てられる側に、より手厚く手を差し伸べろ……と。
無駄話をせず高度を稼いでいくカリオンとリリス。
そのふたりの鼻は、もはや焼け付くレベルの死臭を捉えた。
さっきまでは違う臭いだったはずだ。
だが……
「リリス……」
カリオンは表情を変えてリリスを呼んだ。低く轟く様な声だった。
そして、その手を引き寄せてリリスを自らの背に入れた。
「そこから出るな」
「……ウン」
腰に下げていたレイピアの抜け止めを外し、カリオンはいつでも剣を抜ける体勢になった。その背中にいたリリスは、カリオンの身体から猛烈な闘気が立ち上がるのを感じていた。
「陛下!」
追いついたジョージやトウリ達も、その臭いに顔をしかめた。
だが、行かない訳にはいかない。全員が同じ感覚を共有した。
ここは、何らかの『お籠もり山』だ……と。
訳あって死を待つ者が来る所だと。
「行くぞ」
カリオンは先頭に立って進んだ。
臭いのする方へ向かって歩きだした。
一歩一歩確かめる様に進んでいくカリオン。
不明瞭な踏み後を辿って行くと、突然視界が開けた。
日当たりの良い斜面にはいくつかの平場が点々と存在していた。
「……ここは」
麓の側から見えないところに出来た山の斜面の見晴台。
その台一つ一つにムシロで囲われた粗末な小屋があった。
所々にはどす黒い染みが出来ていて、それは明らかに……
「業病だ」
トウリがそう呟いた。カリオンは初めてそれを見た。
粗末なムシロ小屋の中から出てきたのは、鼻先や耳たぶが腐って落ちた者だ。
立派な犬歯も抜け落ち、指先や足には瘤がが出来、歩くのもままならない姿だ。
酷く咳き込み、黒い汁を吐き出して悶える者が居る。
うつろな眼差しで遠くを見ているものがいる。
全身の毛が抜け落ち、肌を晒している者が居る。
――これでも生きているのか……
振り返ったカリオンはリリスをウィルへ預け、一歩踏み出した。
「陛下! お待ちを……『止めるな!』
ジョージの声を無視してカリオンは進んだ。
そして、ムシロ小屋の並ぶ通りに出たカリオンは辺りを見回した。
死を待つばかりになった者達が、身体中を包帯で巻いて横たわっていた。
地べたの上にゴザを敷き、その上で静かに『最期の時』を待っている。
まだ動ける者は、何処からか取ってきた球根を鍋で煮ていた。
他に食べる物が無いのか、草の葉や木の若芽を入れて一緒に煮ていた。
決して良い匂いでは無いが、無性に空腹を感じる匂いだ。
「これがそなたらの夕餉か?」
ゆっくりとカリオンを見上げた男は、声では無く笑顔で答えた。
その隣で寝ていた男は『そいつはもう声が無いんでさぁ』と呟いた。
「ここは、なんなのだ?」
「おまんさぁは?」
「余は太陽王カリオン・アージンである」
カリオンが胸を張ってそう答えた。
だが、その鍋をかき混ぜていた声を失いし者は露骨に警戒の色を浮かべた。
そして、寝ていた者達が次々に起き上がり、剥き出しの敵意染みた物を見せた。
「世界を統べるイヌの王が、かような世界の果てにいかなご用か?」
何処からかしっかりした声で問いかけが流れた。
その声の主を探す事はせず、カリオンはしっかりとした声で言った。
「サンドラという女性を探している。この地にいるはずと占いに導かれた」
「それは……」
何事かを回答しようとした包帯巻きの男は、答えを保留した。
その奥から本人が出てきたからだ。
窶れた姿のサンドラは酷く咳き込み、黒い血を何度か吐いて出て来た。
城を出る時の旅衣装ではなく緩い寝間着を纏っている。
そして、どちらかと言えばふくよかで福顔だったサンドラだが、いまは見る影も無く痩せ痩けていた。
「サンドラ!」
トウリはその姿を見るなり駆け寄ろうとした。
だが、そのサンドラはやせ衰えた両手を突き出してトウリを止めた。
「来てはダメ!」
走り寄ろうとしたトウリを制し、サンドラは数歩下がった。
その身体はまるで雪のように白く、手首も足首も糸の余に細い姿だ。
長い髪は半分程度が抜け落ちていて、青白い肌には生気が無い。
――レイスか……
そう呼ばれる幽鬼の姿をカリオンは思い出す。
この余に未練を残し死んだ者は、幽鬼となって歩き続ける。
自分が死んだ事も気が付かず、生まれ故郷を目指して幽鬼は歩いて行くのだ。
「どうしたんだ!」
「肺病なの……」
普通の薬では治せない病がこの世界には何種類ある。
熟練の医療魔術師とて、どれ程に術を練っても効かない時だってある。
それこそトラおたふくの様に、エリクサー以外効かない病魔もあるのだ。
「労咳……」
リベラはそう呟いた。
肺病と業病は、如何なる病でも一発で治すエリクサーが歯が立たない事が多い。
文字通り、持って生まれた業の病。
業病は、身体中が腐って死んでいく。
そして、肺病は肺を患い、酸欠で死んでいく。
命の炎画が消える直前の辛さは、如何なる病をも凌ぐと言うが……
「ここへ居てはダメ! 今すぐに降りて! そしてもう来ちゃダメ!」
サンドラは涙を流しながらそう言った。
すぐ近くに居た者も同じように言った。
「ここは死を待つ者の憩う地でございます。王様は平地のお城がよろしいのでは」
嫌みでもやっかみでも無く、さっぱりとした気風で啖呵を切った業病の男。
そんな存在が山ほどここには居るのだとカリオンは知った。
そして、強い視線を幾つも浴びながら、これを何とかしなければいけないと。
コレこそ大切な事だと気が付いた。
「君らは…… サンカか?」
「へい。あっしらは山窩でございます」
スパッと言い切った男は、匙をあげて汁の味を確かめた。
幾多の薬草が煮込まれた薬膳はに、多くの者が集まり始めた。
「コレが世界の底辺か……」
「初めて見たよ……」
カリオンとトウリは顔を見合わせて言った。
急ぎ改善するべきテーマは、こんなところにも転がっていたのだった。