意志
その頃……
「不要だからと斬り捨てるのは騎士道に悖ることだ!」
中州の中心ではフレミナ兵を中心に激しい口論が起きていた。
足手まといだから不要な女をここで捨てていけという者が喚く。
「仕切り直しが必要なんだ! 女を斬るのは人倫に悖るが!」
「ならば連れて行くのが良かろう!」
だが、それに異を唱える者も居る。
長らくカウリの家に奉公していた者も居た。
「やかましい! ル・ガル国軍がすぐそこまで来ているのだ!」
「だからなんだ! 抵抗し! 抵抗し! 抵抗するのだ!」
「時間がないんだ!」
幾人もの男たちが口論を続ける中、ユーラは平然とした姿でリリスやレイラの前に立っていた。リリスとレイラはユーラの一歩後ろにあって泰然としている。
「これも運命ね」
「えっ?」
驚きの声を漏らしたリリスだが、レイラはおもむろにコンパクトを取り出すと、少し薄くなっていたルージュを引きなおして仕上がりを確かめた。
遠い日、姉と慕ったネコのエリーゼから貰って以来、レイラはその時と同じ色のルージュをずっと使っていた。
「お母さ……ま?」
「最期の瞬間まで、女は綺麗でいたいじゃ無い」
「でっ! でも……」
「人間ね。誰でも生まれた時は素っ裸なのよ。だけど死ぬ時は精一杯着飾って化粧してね」
レイラはリリスの唇へ薄いピンクのルージュを引いた。
そして、自分の首元を飾っていた真珠のネックレスをリリスの首元へと巻いた。
「あの世に行く時だって、すれ違う男が振り返るくらいになっておくのよ」
「お母さま……」
「地獄の鬼だって色仕掛けが効くかも知れないんだから」
ウフフと笑ったレイラはリリスをギュッと抱き締めた。
「これも運命なら仕方がないわ」
「でも……」
「あとは、本気で好きになった人が助けに来てくれるのを祈るだけよ」
わかる?と、そう言わんばかりの目で微笑んだレイラ。
リリスは少し涙目になって首肯した。
「昔ね、お世話になった人に言われたのよ」
「……なんて?」
「どんな種族だって、子供は女が産むのよ。男の人には無理なの。そしてね」
少し乱れた髪を整え、レイラはリリスに微笑みかけた。
「王様だって乞食だって、産まれてくる時は裸なの。だからせめて、死ぬ時くらいは、目一杯着飾って誰よりも綺麗に化粧して、それで死にたいじゃない。せっかく女に産まれたんだから、みんなが振り返るようないい女で死ぬの」
ふと、レイラの中にあったアチェイロの人格が姿を現した。幾多の困難を乗り越えてきた苦労人な人格だ。そしてそれは、土壇場の土壇場で思い切ったことが出来る芯の強さを持っていた。
「きっと彼が来るわよ。顔色変えて血相も変えて、鬼神の形相でね」
どこか楽しそうにしながらレイラはユーラの背中を見つめていた。
どこまでも強い女だと、頼もしげな眼差しで。
そんなレイラとリリスの傍らでは、シルビアとオリビアのふたりが震えていた。
ある意味影の薄い存在でしか無いのだが、二人ともカウリの妻と言うより付き人なのだから巻き込まれたと言う方が正しいのだろう。ユーラは正妻としてこの二人すらも護らねばならない。
気を張って、意地も張って、そして立ち向かう姿勢を見せるユーラは、その背な越しにサンドラを呼びつけた。
「サンドラ! ここへ来なさい!」
「はい。お義母様」
「あなたも何とか言いなさい」
「え……」
言葉を飲み込んでしまったサンドラは、助けを求めるように周りを見回した。
巨躯の男達が女を殺してしまうか救出するかで言い争っている最中だ。
ひとつ言葉を間違えれば、そのまま八つ裂きにされかねない空気だ。
そんな中、義母ユーラは強い意志で立ち向かっている。
第二夫人であるレイラは泰然と運命を受け容れる姿勢だ。
どうしようも無く震えていたサンドラは、半ばパニックを起こし掛けていた。
「リッ…… リリス…… さん」
「なに?」
「あなたは怖くないの?」
サンドラの問いかけにリリスは真剣な表情で考え込んだ。
冷静になってみると、リリスには全く恐怖が無かった。
どうしよう……と、そんな戸惑いや困惑はもちろんある。
だが、従容と受け容れるしか無い『死』それに対し、リリスはなんの感慨も持っていなかった。あの霧の谷の草原で茫然自失になるまで打ちのめされて彷徨った恐怖に比べてしまうと、このピンチですらもあまり怖くは無かった。
「……怖くないと言えばウソかも知れないけど、でも、そんなでも無いな」
「ほんとに? だって今にもあのフレミナの男達が!」
助けを求めて縋るようにリリスを見たサンドラ。
だが、当のリリスは涼しい顔をしたままだった。
「あなただってフレミナの血が流れているじゃない」
「それじゃ…… 私が怖い? あなたを…… うらぎ……」
「なに言ってるのよ。あなたは大切な友達よ? 孤独な私の数少ない友達」
リリスは優しく笑ってサンドラの背中を抱きしめた。
「え?」
「裏切られるなんて思わないわ」
「でっ でも……」
「私やサンドラや、それだけじゃ無くて」
リリスは母レイラと義母ユーラを見た。年齢相応に老けてはいるが、それでも見た目以上に若々しい印象を振りまくふたりだ。過去、幾多の困難や重圧に晒されてきたふたりは、一人の男の妻として、ある意味では不倶戴天の敵であり、また、ライバルだったり寝所仇という関係でもある。
だが、そのユーラとレイラは驚く程に良好な関係を築いていた。太陽王の宰相として様々なプレッシャーに晒される夫カウリを支えている糟糠の妻たちだ。自分たちの関係で夫が憔悴しないよう、絶妙のバランスで上手く付き合っているのだ。
「私たちが出来る事は少ないけど、逆に言えば、私たちしか出来ない事がある」
決然と言い放ったリリスの言葉に、サンドラは帝妃としてリリスが背負っているモノの重さを初めて実感した。どれ程怖くとも余裕を持って振舞わねばならないプレッシャーの大きさだ。
――強い……
ふと、サンドラは思った。
一振りの剣など無くとも、充分に心の強さを維持することは出来る……と。そして、ただなんとなく今まで育ってきた自分自身を顧みて、その身を恥じた。
夫となったアージンの寵愛を独占し ゆっくりと王宮の中を浸食していく
深層心理の奥底にそんな思いを植え付けられ、自分の意志などなんら持たされることなく育ってきたサンドラ。彼女の人生はまるで誰かの操り人形だ。フレミナの未来を形作っていく者達の決めたレールの上を、上手に歩いてきただけだった。
――どうしよう……
土壇場でどう振る舞うか?などという決断は、今の今まで一度も無い。いつも誰かの顔色をうかがい、誰かの意向を考え、自分以外の誰かが望む『理想的な振る舞い』に自分を合わせてきた。
だがこの日。
サンドラは初めて自分の意志で未来を選択する機会に出会った。
自分の意志が未来を作る場面だ。生まれて初めての場面だ。
――私は…… この人を支えよう
自分よりも遙かに重き荷を背負う人生を選んだ人だ。
この人と共に歩むなら、きっとすばらしい人生になる……
サンドラは根拠の無い確信を心の中に感じた。
「私かリリスかは関係無く、仮にも王妃なのだから敬意を払いなさい」
サンドラは何を思ったか、突然そう啖呵を切った。
ル・ガルから見ればリリスが帝妃であり、フレミナから見ればサンドラは王妃となるはずだ。未来がどう転ぶかはサンドラには解らない。しかし、仮にも今は王妃なのだから、胸を張って良い筈だと思った。
「無礼者め!」
小気味よい口調で一喝したサンドラの声にフレミナ兵が一瞬ひるんだ。
だが、男尊女卑の思想傾向強いフレミナ一門の男達は、女に一喝されたのが気にくわないのか、再びいきり立って凶相を浮かべていた。
――まずい……
――皆殺しだ……
フレミナの兵が一斉に剣を抜いた。
斬ってしまえと言っていた男も、連れて行くべきだと言った男も。今は両方敵になった。そして、自らの悪手を痛烈に後悔した。だが、賽は投げられ、転がるがままになるしか無い。
「なかなか格好良かったわよ? 次はもっと上手くやりなさい」
「そうね。良い経験ね」
ユーラとレイラは顔を見合わせて笑った。
そして同時に、それぞれが自分の娘を自分の背に隠した。
斬るならまず私を斬りなさい。そう言わんばかりの振る舞いだ。
女を斬るのか?と一瞬だけ逡巡したフレミナの男達。
だが、その刹那、遠くから緊迫した声が響いた。
『敵襲! 敵襲! 全員注意!』
遠くから敵襲の声が響く。
そして、その場にいた全員が『え?』と言う表情を浮かべた。
誰かが指をさし、声の方向を見て何かを叫んだ。
そこには一気に渡渉したル・ガル騎兵の集団がいた。
漆黒に染められた揃いの甲冑に身を包む重装騎兵だ。
そしてその先頭には、真っ直ぐに切り込んでくるゼルの姿があった。