ゼルの危機は2度訪れる
──夕暮れ時
妙な胸騒ぎを覚えて幕屋へと帰ってきたカリオン。
出迎えた者達の応対もそこそこに幕屋へと向かったのだが、その中にゼルの姿が無いことに気がついた。
「父上はどちらに?」
押し寄せる不安を噛み殺して穏やかに問うたカリオン。
だが、その問いに誰かが答える前に、幕屋周辺へ騎兵が押し掛けてきた。
「我が王よ!」
割れるような拍手と喝采と、そして王を歓呼する声が木霊する。
この日一日。
フレミナの北方騎兵をほとんど戦闘不能にしてしまった若き帝王は、多くの騎兵達による万雷の拍手と歓呼を受けてしまった。
「諸君。今日も一日ご苦労だった。ゆっくり休んでくれ」
皆に労いの言葉を掛けたカリオンは、その間にゼルの行方を誰かが教えてくれると期待した。しかし、その答えがイワオを含め居残りを行った参謀達による報告で明らかになった時、それを聞いたカリオンは、突然こめかみを押さえガクリと膝をつき倒れかけた。
「兄貴!」
「陛下!」
一斉に駆け寄ろうとした者達を制したカリオンは天を仰いだ。
その耳の中には、あの鐘の音が鳴り響いていたのだ。
「大丈夫だ。ちょっとめまいを覚えただけだよ。空腹だからね」
低血糖を装ったカリオンだが、蒼白になった顔色はごまかしきれ無い。
「父上はどこまでいかれた?」
「それが、輸送団を蹴散らしてくると……」
若き参謀は事もなげに言い切った。
カリオンの顔色は青から赤へ一気に変わった。
「なぜ止めなかった!」
珍しくカリオンが声を荒げ、幕屋に残っていた参謀陣が一斉に驚く。
今の今までカリオンがこんな態度をとった事など一度もなかったからだ。
「まぁまぁ……」
自らに王を宥めにかかっているジョージ。
だが、カリオンの興奮は全く収まる気配がなかった。
「今すぐ! 今すぐだ!」
緊迫したカリオンの声に緊張が走る。
側近だけで無く近衛師団の高級将校達が色めき立つ。
「ソティス城の裏門に見張りを出せ。輸送団の到着を向こうが知っているなら応援が出ているかもしれない!」
若き帝王が何を危惧しているのか。
その実体を皆が理解した。
「……その通りですな」
決してでくの坊では無いし、ゼル抜きでは何も出来ない存在では無い。
その事実に皆が安堵する。しかし、それでもカリオンの慌てっぷりは異常だ。
「夜陰に乗じて出迎え騎兵が出たなら挟み撃ちにされる!」
この時点でカリオンが何を感変えていたのかを、近衛師団の騎兵将校もやっと理解した。カリオンは本気でゼルを失いたくないのだと、そう思ったのだ。
「直ぐに行け!」
ジョージの命で手の空いていた騎兵が数騎出て行く。
それを目で追ったカリオンは、イライラしつつも幕屋の中を歩き回った。
──考えろ…… 考えろ…… 父のように……
その姿は正にゼルのようだと皆は思っていた。
ただ、表だっては分からぬが、若き帝王はかなりご機嫌斜めに陥っている。
もしかしたら粛清の嵐となるやも知れない。
臣下の者達の顔色が変わりつつあるのを、今のカリオンは気が付いて居ない。
いつもならすぐに気が付くカリオンが……だ。
この席にいた参謀達は悟った。
幼い頃からゼルのフリをするヒトの男を父だと思って大きくなった少年は、正に本物の父親を心配するように忙しなく幕屋の中を歩き回っているのだと。
そして、そんな姿に背筋を薄ら寒くする参謀たちは、カリオンの中にある一種の幼さを見ていた。そんなに心配しなくても……と、ある意味では呆れていたのだ。
だが、この場にいる人間でカリオンとゼルの真実を知る者はいない。
その分だけ余計にカリオンは気を回さねばならないのだ。
だが、そんな余裕など今のカリオンには一切無い。
──急げ! 急げ! 急ぐんだ!!
――この鐘の音が無くなる前に!
いまこの時もカリオンの耳には、割れんばかりに鳴り響くノーリの鐘の音が聞こえていた。あのビッグストンの教授陣が若き士官候補生を扱く最中に見せる怒号のような勢いだ。
――大丈夫です ゼルさま 間に合わせます 手下を急がせます
カリオンは心中でそう呟いた。
そして、運ばれてきたワインに手を伸ばす事無くお茶を煽り、あり合わせの軽食をつまんで戦衣の外套を羽織った。
「王よ! どちらへ!」
「父を追う!」
「え?」
「手空きで食事を終えた者から我に続け!」
「いくらなんでも闇夜では無理ですぞ」
「士官は何故に地上航海術を学ぶ! 明朝までに必ず追いつくぞ!」
幕屋を飛び出したカリオンは、他のどんな馬よりも飼い葉を食み終えたモレラのもとへとやって来た。
「モレラも解ってるのか?」
モレラは大きく嘶いてカリオンの問いに答えた。
早く乗れと言わんばかりにカリオンの肩を甘噛みしている。
「モレラ。疲れているだろうけど…… 頼むよ」
カリオンはモレラのたてがみを優しく撫でた。
その手が気持ちよかったのか、モレラは大きく首を振ってカリオンに甘えた。
ただ、歴代の太陽王が愛馬としてきた血統を受け継ぐモレラは、すぐに仕事の顔に戻り、両の前足を跪かせカリオンに『乗れ』と傅いた。
「よしっ! 行こう!」
馬周りの者達が素早く乗せた鞍の鐙へ足を掛け、カリオンはマントを翻しモレラへと跨がった。その背中に漂う緊張感に、カリオンを止めに来たジョージや騎兵士官達が言葉を失っていた。
「諸君。私の我が儘に付き合わせて済まない。だが……」
緊迫した空気を纏っているカリオンの姿に皆が息を呑む。
今まで見た事の無い張り詰めた表情の若き王を見た者達は、これからただ事では無い何かが発生するのだと気が付いた。
「事態は緊急を要する。未曾有の国難と捉えよ。私は一足先にここを出る。仕度を終えた者からモレラの蹄の跡を追ってまいれ! 良いな! あの頭脳を失うのはル・ガルの国難ぞ!」
手綱をかえしたカリオンはモレラを繋いでいた縄を断ち切った。
「いざ!」
馬房を飛び出したカリオンは一気に速度を乗せてかけ出した。
少なくとも二十騎ほどがカリオンの直下について一緒に駆けていった。
そして、騎兵陣屋各所が大騒ぎとなり、アチコチから怒声まがいの声が飛んだ。
馬と自分の補給を終えた者から飛び出していって、闇を照らす月明かりの導きに沿いかなりの速力で闇夜を駆けていった。
――父上……
――どうか……
――どうか……
――ご無事で!
いつの間にか涙を浮かべていたカリオンは。
その涙を拭って馬上槍の留め金を外した。
まだ身体の温まってない筈なモレラだが、カリオンの意志を知ってかギャロップで駆け続けていたのだった。
青い顔をしてゼルを追い掛けるカリオンが夜の闇を突き進んでいる頃、
当のゼルはソティスから北西へ二十リーグ近くを進出していた。
鍛えられた軍馬は一時間で四リーグ程度を走りきる。
休息を取りつつ、それでもかなりのアベレージで突き進んでいたゼル。
その一行はソティスから見て、西部にあたるミール高原へと差し掛かっていた。
「さすがにこの辺りは寒いな」
「高原地帯ですからなぁ」
白尾種の参謀は名をクラウスと言うそうで、道々その軍歴を聞いていたゼルはクラウスが決して順調に軍務の途を歩んで来た訳では無きことを知った。
「しかしまぁ」
「イヌの軍人などこんなものですよ」
「だけど、大したもんだと思うよ」
「それを言うならあなたの人生は文字通りの波瀾万丈ですな」
「そうかな?」
「そうですよ」
クラウスは胸甲騎兵から始まり、一時はシュサ直卒の騎兵団に居たらしい。
だが、軍改革の中で通常よりも百年近い早い時期に引退を余儀なくされた。
ただ、多くの少年達が憧れる騎兵連隊だ。
少しでも最前線に居たいと願ったクラウスは猛勉強の末、参謀見習いとして近衛騎兵連隊へ職を得たのだという。
「全ては王の御子だ。誰も苦労し無いで済む世界にしたいものだ」
「そうですなぁ。しかし、あなたが言うと妙に説得力がある」
「ヒトの世界だって数えきれないほど理不尽な死を迎えた人がいたってことさ」
「なるほど」
妙な説得力と言ったクラウスは、ゼルの横顔をじっと見た。
カリオンに似ているがやはり別人という部分もある。
かつては本物ゼルにも面識を持っていたクラウスの場合、ゼルのふりをする五輪男はやはりカリオンとは別人に見えていた。
「どうやらアレらしいな」
ボソッと呟いたゼルは隊列を止め馬から降りると、闇の中を素早く動いて物陰に身を隠し様子を伺った。ふと、遠い日に何度も経験した尾行と張り込みを思い出し、暗闇の中に忍び笑いを浮かべる。
「ザッと二万騎…… と言うところでしょうな」
「あぁ、しかし、ずいぶん多いな。油断しきっているが、それにしたって多すぎるだろう」
音を立てずに振り返ったゼルはクラウスの顔をじっと見た。
クラウスは牙を見せて大きく口を開き、愉快だと言わんばかりに笑っている。
「相手にとって不足ないですなぁ」
「そういう問題じゃなかろうて。いくら補給部隊とはいえこっちは五千だ」
「兵力差四倍なら十分可能な数字でしょうな。なんせこっちは百戦錬磨の国軍騎兵ですぞ?」
胸を張ってそう言い切ったクラウス。
ゼルは暗闇越しにジッとフレミナの輸送団を見た。
「このまま朝を待とう」
「夜襲ではないのですか?」
「騎兵の練度に不安はないが、幾ら何でも荷が勝ちすぎている。それに、下手に撃ち漏らしてソティスまでたどり着かれるのも面倒だ」
「少々増えても問題ありますまい」
「まぁ確かにそれもそうだが」
暗闇の中、老参謀を捕まえたゼルの個人講義が始まった。
もっとも。
ゼルにしてみれば自分よりよほどベテランなクラウスだ。
そんな存在に講釈を垂れられるほど偉いわけではない。
場数と経験を積み重ね、体力的に続かなくなり始めた騎兵が参謀役に収まる。
それこそある意味で、一番理想的な流れなのだろう。
「……フレミナの北方騎兵がこの輸送隊の全滅を把握して無い場合、補給を信じて無茶な戦い方をする事になる。当然、こっちの勝機は大きくなる」
「ですな」
「だが仮に、この輸送団が全滅するか、さもなくばそれに近い被害を被った場合、北方騎兵がその情報を把握した時点で彼らは糧秣の限界時点での撤退という選択肢を取る公算が高い」
「それはなぜですかな?」
「まずひとつは、少なくともフレミナの切り札だろう。無為に失うのを歓迎する王がいるなら、そいつは破滅願望があるか相当の馬鹿かのどっちかだ。そして、別の可能性もある」
「べつ?」
「あぁ。ひとつの可能性として、全力を挙げて輸送団を守ろうとする可能性だ」
ゼルの推測にクラウスがうなづく。
「参謀学の教授として赴任願いたいですな」
「褒めてもらったと思って喜んでおくよ」
「いや、本当に褒めていますから」
軽い調子で会話し続けたゼルだが、クラウスは後方へ手早く指示を出した。
今夜はここで野営する。明朝早くに一斉襲撃するので支度せよ、と。
「撃ち漏らして情報を持ち帰ると彼らの方針が変わってしまう。それが困るというわけですね」
「まぁ、そういう事ですね。ついでに言うと希望は無茶をさせる劇薬ですから」
「ですなぁ」
手持ちの簡単な携帯食料をモソモソと食べたゼルは、辺りを確かめ明朝の襲撃手順を確認した。
何としてもソティスヘ到着させるわけにはいか無い。
フツフツと湧き上がる闘争本能は、寒空の下だというにもかかわらずゼルの体を温めていた。
ただ、よる年波と言うものの影響だろうか。
ゼルは肝心な情報をひとつ忘れてしまっていた。
そして、ここで野営している一夜が運命を分けることになる。
ただ、それは後から気がつく類のことであって、今この時のゼルは明朝の襲撃を楽しみに眠るのだった。