大人と子供
太陽王が倒れた!と大騒ぎになってから三日目の昼下がり。
小春日和の暖かな空気が山の冷気を追いやってからと言うもの、チャシの中には春の暖かな空気が何処からとも無く吹き込みつつあって暖かな午後だった。
この日。太陽王シュサはシウニノンチュチャシの中庭で剣を振っていた。運動不足が祟ったわいと自嘲していた一匹のイヌは、豪壮な設えの大剣を素振りしていた。そして、そのシュサ王を取り囲む側近衆は大いに狼狽していた。
つい先日、酒の飲み過ぎによる卒倒を起こしたばかりだというのに、『もう良い』と言って剣を振っていたのだった。チャシ常駐の医師も側近も王を止められなかった。
「我が王よ!」
「だから大袈裟過ぎると言うておろうに」
心配を重ねる側近衆の眼差しになかば呆れつつ、しかし、赤心を持って支えんとする臣達を優しげな眼差しで見ていた。
「しかし父上。仮にも太陽王が倒れたなどと他国が聞いたら、それこそ彼方此方で大騒ぎになる上に、戦の回数が増えますぞ」
息子ノダの諫言も一理ある。どうもアージン一族と言うのは、こういう部分を適当にすませてしまうきらいがある。本来であれば城詰めの典医を呼び出し、キチンと診察を受けるべきなのだが、当の太陽王は『面倒だ』の一言で済ませてしまった。
「王が倒れたからといって一々大騒ぎするようでは、それこそル・ガルも永くはないぞ。粛々と次の王を立たせ、連綿と続いて行けばよいのだ。それこそが強い国、大きな国の証ではないか。余はそう考えるが」
胸を張って言い切られては臣も二の句を継ぐ事すら出来ない。二代目太陽王でありシュサの父トゥリが心血を注いで作り上げていった法体系は、ル・ガルの根幹を護る大きな柱となっていた。
王は二〇〇歳で時期王を指名すべし。時期王は摂政として。相国として。丞相として。帝王学を学び王を支えるべし。王たる者はその手に国を持て余すならば、身を引くべし。
シュサもまた三人の息子をそれぞれ摂政や相国、丞相の立場に付け、それぞれに経験を積ませていた。何時斃れても次の王が直ぐに決まる様に。三兄弟の誰が時期王となったとしても、残りの者が王を支える様に。兄弟で王の座を争って国が荒れぬ様に。
三代続いた太陽王の中でも最も心配性とも言えるシュサの手は、抜かりなく次の一手を指していた。
「まぁよい。ではガルディブルクへ向かうぞ」
急な出立を通達するシュサ。だが臣達は一斉に反対する。
「王よ! せめて明日にしましょう」
「そうですとも! 途中で休む事にでもなれば妙な噂が立ちます」
「シウニノンチュからガルディブルクまでは二〇日の道のり」
「病み上がりには厳しいですぞ!」
臣の心配は尽きない。割と心配性なシュサも、これには苦笑いを浮かべるしか無い。しかし、人一倍心配性なシュサ故に気になる事もあった。四年近くも留守にしているガルディブルクがどうなっているのか。それをこの目で確かめねばならない。
決して臣下の者を信用していない訳では無い。だが、権力を持った者は時に思わぬ暴走をする。まして、多数の血族が集まって作った国家なのだ。突然魔が差して妙な気を起こす輩が現れないとは限らない。
全ては臣民の安寧のため。王は王の勤めを果たさねばならない。父トゥリが常々言っていた言葉をシュサは思い出す。
だが……
「シュサじぃ!」
中庭で剣を振っていたシュサを見つけたエイダがやって来た。
満面の笑みで走ってきたエイダは隠していたちょっと短い木刀を取り出して、やおら斬りかかったのだった。
「えい!」
「わっはっは! エイダに斬られてしまったわ!」
会話だけ聞けばとんでもない身内の下克上なのだが、孫と遊ぶ好々爺の戯れ言なのだから始末に悪い。
何処か引き攣った笑いを浮かべる重臣達を他所に、シュサは孫を抱えて遊んでいる。
ゼルとワタラが仕込みつつあるエイダの剣術は、歴戦の勇士でもあるシュサが見ても将来が楽しみなレベルになりつつあった。
「よーし! もう良いぞ!」
「もう終わり?」
「そうじゃ! ワシも帰らねばな」
「……シュサじぃ帰っちゃうの?」
「じぃじも忙しいでな」
「やだ! じぃじとお風呂入る!」
プクリと可愛く頬を膨らませるエイダ。
可愛い孫にせがまれれば祖父としては嫌とは言えない。
万が一にもエイダが突然……
『 じ ぃ じ 大 嫌 い ! 』
……とか言いだした場合。
その腹いせに周辺国家の一つや二つが突然滅亡しかねない。
或いは、国内に粛清の嵐が吹き荒れるかもしれない。
祖父にとって初孫はもっとも弱い交渉相手だ。
その動向一つで世界を震え上がらせる太陽王の、唯一無二の弱点とも言える。
「貴様ら! これは卑怯じゃ」
臣下の者も止め得ぬ太陽王だが孫には弱かったらしい。
可愛い盛りの四歳児を抱えたシュサ王は、孫を抱き上げ居室へと戻ってゆく。
「ガルディブルクへの出立は明日としよう。仕度せい」
「御意」
軍務諸省の行軍参謀は片膝を付いて応じた。その表情にはホッとしたものがあった。
エイダを抱えて廊下へ消えていったシュサを見送った後、その壁の影からゼルとワタラが姿を現す。五輪男はいつもの様に面帯を付けていた。
「ゼルさま。御助勢かたじけなく存じます」
深々と頭を垂れた行軍参謀にゼルは『待て待て』の仕草だ。
「エイダを使おうって言いだしたのはワタラだよ」
「おぃちょっと待て。まるで俺が犯人じゃ無いか」
「言いだしたのはお前だぞ?」
「採用しないって選択肢もあったはずだ」
気の置けない会話をするゼルと五輪男。
そこへ割って入る行軍奉行はホッとした表情を浮かべている。
「ワタラ殿の発案であれば、さすがと言わざるを得ませんな」
「王もまだ無理をするべきで無いと思う次第です。北伐の疲れも残っておられるでしょう」
「然様に。王も若くは無いのです。ノダさまを始めご子息衆に妻も子も無い今、王が斃れられたらル・ガルが困ります」
臣下の心配はそこへ集中している。現状、シュサの血を引く父系子孫は一人も居ない。
過去何代にもわたって様々な繰り返されてきた王権の継承を争う内乱は、都市国家同士の同盟や戦争。そして、都市国家の統合と分離独立を行わせる原動力だった。
幾たびも血と涙が流され、イヌはその都度に大きく疲弊していた。だからこそ初代太陽王ノーリは統一国家を作り強力な支配体制を作ったのだった。
「しかし、ノダ様も無責任だな」
「おいおい。ノダの悪口は言うな」
「いや違うって。悪口じゃ無い」
ゼルと五輪男の会話はちょっと声が大きかったのか。
何処から聞き覚えのある声が響く。
「やはり無責任だと思うか?」
姿を現したのは普段着のノダ。
シュサ王臣下の者は敬意を示すのだが、ゼルと五輪男は平然としていた。
「ノダ様はまず奥方を娶られるべきではと」
五輪男は遠慮無くそう言い切った。
「そうだな。しかし、年がら年中、戦に走り回っている男に嫁がされる女はたまったモノではあるまいて」
「それは仕方が無いでしょう。それでもなお必要な義務を果たさねばなりませんし、むしろ王族に連なるものの義務では無いでしょうか」
「そう言われると辛いな」
「言が過ぎたる事をお詫びいたします」
「いや。耳の痛い言葉を言ってくれる者は必要だ。ゼルが羨ましい」
そんなノダの言葉にゼルが肩を竦めた。
「なんならワタラをやろうか? 俺の耳には痛すぎる」
「はっはっは! それは良い案だ。だが、エイダは納得しまいて」
どちらかと言えば父ゼルより影武者ワタラに懐いたエイダの存在は、ある意味で皆の悩みの種でもあった。
「きっとあれだよ」
嗾けるような目をした五輪男。
面帯の下にある表情はきっと笑っている。
ノダもゼルもそう直感する。
「エイダには父親の愛情が足りないんだよ」
そんな言葉をサラッと吐いて、五輪男はゼルの胸を小突く。
父親の義務を果たしていないと痛烈な批判をしているようにも見える。
「そんなこと言ったって仕方が無いだろ?」
眉を寄せて怪訝な表情のゼル。ちょっと不機嫌とも言える。
だが五輪男は一切手を緩めず畳み掛けた。
「そうか? 俺にはエイダから逃げ回ってるようにも見えるけど?」
何となく余所行きな言葉遣いにも見えて、その実は痛烈な批判。
だが、磐石な二人の信頼関係は、こんな会話をも許される。
「王の血筋を引く物はどれも常に一匹のイヌでいるべきだ。そうノーリ王は言い残された。最後の最後で決断を下すイヌはその責任を取らねばならない」
「誰かに。上手いこと立ち回る奴に言いくるめられては困るからな」
どうだ!とばかりに五輪男を見返すゼル。
しかし、篭った声で僅かに笑った五輪男は反論する。
いや。この場合は諌言すると言うべきだろう。
だが、五輪男は声色を変えて小芝居を演じ始める。
腰の曲がった小うるさい年寄りの仕草だ。
「君の父上はゼルじゃ無いんだよ。君は天涯孤独だ。どうだ?上辺だけの父親なんかうっちゃって、私と天下を取ろう!」
ぺロリと面帯を挙げた五輪男はゼルの前で腕を組んだ。
「そんな風に言い寄る奴がエイダにちょっかい出すと困るんじゃないか?」
処分したければしろと言うポーズだ。
どんな仕打ちも甘んじて受けるぞ!と裂帛を見せた。
「なぁ、ワタラ」
おもむろに口を開いたノダは五輪男の肩に手を置いた。
その僅かな動きに五輪男は過言を悟る。
「お前も心配なのは解るが……」
「ヒトの寿命はイヌのソレに比べ大幅に短いんですよ」
「…………そうだな」
「エイダの生涯がいかほどに成るか私にはわからない。だけど、せめて幸せな生涯でいて欲しい。父親に愛されない息子がどれほど哀れかを自分の事として知っているから、その分余計に言葉がきつくなるのでしょうけどね」
父親を知らずに育った五輪男はエイダを不憫に思っている。
その場に残っていた太陽王臣下の者たちはそう理解した。
「ヒトの生涯か…… 考えてみれば無事老衰で死んだヒトを見た事が無いな」
ノダはふとそんな言葉を漏らし黙ってしまった。その沈黙が重すぎたのか。ノダの付き人をしていたトウリは五輪男とゼルを順番に見てから、控えめに声を発した。
「ワタラ殿はもしかしたら」
ジロリと向けられた五輪男の視線に押し負け、トウリは一歩下がった。ヒト風情がと何処か飲んで掛かっていたつもりだったトウリは、幾度か目のやり取りで五輪男にやり込められた事があるのだった。
「続きを承りたい。トウリ君」
五輪男の言葉にやや気圧されたトウリ。
だが、意を決し胸を張った。
「エイダの成人を見届けられない故の言葉ですね」
五輪男は満足そうに頷いた。
本来、イヌの成人は十五歳だ。その歳で一人前と認められ、二十五歳までには独り立ちして世間へ出る。
しかし、王族の、それも直系子孫ともなれば話は変わってくる。立太子の儀は十五歳で行うのだが、王権を担う王族の一門としての立場を確立するのは百歳になった時だ。
ソレまではトウリと同じ様に様々な事を学び続ける運命にある。また、そうでなければならないと言うのが歴代太陽王の経験則でもある。誰かの利や益や、そして損失を考えるのではなく、ル・ガル全体の利益を鑑みて決断を下さねば成らない。
その為には、損得を超えた厳しい局面での微妙な判断を迫られた時の胆力を錬成しなければならない。だからこそ、イヌは『百歳までは、まだ小僧』と言う認識で一致している。そして、百を超えたイヌが決断したならば、それを尊重しようと言う空気だ。
「エイダが大人になるまでにイヌの社会で生き抜く知恵を身に付けねばならない。あの子もマダラだから色々と困った事態に直面するだろうさ。その時の為にね」
五輪男はふとゼルを見た。
そこには先ほどのような裂帛も決意も無く、純粋な信頼が有った。
「ゼルは父親らしくあって欲しいと思うんだ。父親に認められてこそ息子は育つんじゃないかなと。おれは…… いや、俺も父親を知らないから、余計にそう思うんだ」
なにか眩しいものでも見るかのように目を細めた五輪男は、そのまま俯いてしまった。思い出したくもない様々な事をいっぺんに思い出して、それに打ちのめされている。
痛々しい空気が流れ、ノダもゼルもトウリでさえも、次の言葉を思い浮かばすにいたのだが。
「あの子が大きくなる頃、この国はどうなっているんだろう? そう思うとなかなか辛いんだよ。何処まで行っても親子の縁は切れない筈だから、父親は息子に愛情を注ぐべきだ。その子が父親になった時の為に……ね」
はっきりと言い切った五輪男は、再び顔をあげた。
迷いも躊躇いも無い真っ直ぐな眼差しは遠慮なくゼルを貫いた。
「あの子の父親を出来るのはゼルだけだ。それを忘れないでほしい。親の愛を知らない子は、必ずどこか不安定で人間的に足りない部分が出来てしまう。そしてそれを埋めるために、予想外の行動をするもんだ。それを防げるのもゼルだけだ。そうだろ?」
腕を組んでいた五輪男の姿を皆が妙に大きいと感じている。
身体格好までゼルと大して変わらない五輪男だが、その居住まいはゼルよりも二周りほど大きく見えた。落ち着き払い、冷静に辺りを観察する姿は老練なイヌのようでもある。イヌの三倍の速度で老いて行くヒトは、イヌよりも三倍濃い人生を送るのだった。
「そうだな。ワタラの言うとおりだ」
ゼルは僅かに頷く。頷きつつ、何処か遠くを見た。複雑な生い立ちを見せるエイダは、これからきっと幾つもの修羅場を潜らねば成らないのだろう。その時、人間的な裏支えとなるのは親の愛情であり友の信頼であり、そして、妻の愛だ。
「あの子には必要なんだ。ゼルが」
「あぁ。肝に銘じておこう」
ソッと面帯を降ろし黒子に戻った五輪男がスッと一歩下がった。
何時ものように、ゼルのすぐ隣に居る相談役のワタラへと戻ったのだった。
「良き相棒よの」
そう呟いたノダの言葉には、隠しきれない嫉妬と羨望の色が滲んでいた。