すべてのはじまり
「お客様にご案内いたします。当機はまもなくいたしますと着陸の為、高度を降ろしてまいります―――
キャビンアテンダントのアナウンスが機内へ流れると、今まで静かだった機内に賑やかな生活音が流れ始める。
成田空港発の国際便は十二時間に及ぶフライトを終え、異国の地へ鋼鉄の脚を降ろそうとしていた。
「飛行機事故って離発着の時が一番多いんだってな」
テーブルの上に遊び道具をいっぱい並べていた五輪男は、一つ一つ片付けなからそう呟いた。
「ほんとに? 変なフラグ立ててない?」
どこか不安げで、そしてあきれ気味な言葉を吐いたのは妻の琴莉。
思えば既に十七年の付き合いになるふたり。
生まれ育った家が隣通しと言うことで、物心ついた頃から兄弟の様に育っていた。
互いが互いを『異性』として認識し始めた頃から、ふたりはそれがごく当たり前のように、見上げる空が青い事に違和感を感じないように、互いを伴侶であると認識していた。
それ故に、ふたりとも大学を卒業する前に「結婚しょうか?」と言い出したのは自然な流れだった。
ほんの僅かな気の迷いで先延ばしを考えたなら、違った結果になっていた事だろう。
総ては神の御手の上の事である――
「あれ?」
「どうした?」
「なんか光った」
「外?」
「うん」
琴莉の手か五輪男の手をギュッと握った。
その手に琴莉の恐怖心を感じた五輪男は、そっと肩を抱いた。
「気のせいだよ。飛行機はちゃんと飛んでるし、問題ないさ」
緊張感のまるで無い五輪男だが、それが精一杯の強がりだったと認識せざるを得ない『事件』は唐突に発生する。
通路側に座っていた五輪男の目が窓の外を見た時、飛行機のすぐ近くを眩く光る物体が通過していった。
大地を目指して落ちていく眩い物体は、やがて雨の様に幾つも落下していく。
「マジかよ」
「隕石?」
「たぶん」
窓側に座る琴莉の肩を抱いた五輪男は、力一杯に抱き寄せた。
理屈抜きで「ヤバい」と直感していた。
手と腕の中にある大切なものを誰にも取られたくない。
そんな強い意志を琴莉は感じた。そして、その力強さに安堵を覚える。
大事にされている安心感は、言葉よりも振る舞いの方が強く伝わる事もある。
五輪男の腕に手を添えて窓の外を見たとき、眩い光がまた一つ落ちていった。
「流星群かな?」
ボソッとつぶやく五輪男の言葉に琴莉は身を固くした。
言うまでもなく直撃を受ければ墜落は免れない。
天文学的な可能性とは言え、その可能性はゼロではない。
最後は運でしかない。当たれば終わりだ。
「当たるかな」
琴莉の言葉は恐怖に震えていた。
むしろ震えるなという方が無理だろう。
絶対的な死の恐怖が、間違いなく目の前に無造作に置かれているのだ。
飛行機のすぐ近くをまばゆい光が通過した。
わずかではない衝撃波は遠慮なく機体を揺らす。
琴莉の耳に五輪男の喉の音が届く。
つばを飲む音までもがリアルに聞こえる。
そして、その時はおとずれた。
窓の外を見たふたりは眩しく光る死神の鎌を見た。
激しい音と振動が遠慮なく機体を揺さぶる。
何が起きたのかを把握する前に、ふたりは結果を受け入れるしか無いという事を嫌というほど認識する。
破壊された機体の隙間から負圧に吸い出されたふたりは空の上にいた。
足元には何もなかった。まったくの空中でふたりは顔を見合わせた。
「琴莉!」
「いわ君!」
空中に幾人もの姿を見た。
まったくの自由落下で遥か遠くから海面目掛けて放り出された沢山の人びと。
もはや救いは無い。死は免れない。
どうこうと考える前に、五輪男は精一杯手を伸ばした。
「ことりぃぃぃぃ!!」
自由落下を続けるふたりを月明かりが照らしている。
こんなにも明るいのかと驚く五輪男は、後少しのところで琴莉に届かないイライラを感じた。
ただ、そんな感情を爆発させる前にやるべき事がある。
もう少し。あと少し。あと、数センチ。
五輪男は空中で平泳ぎを試みた。何をジタバタしてるのだろう。
我が身を振り返って考えるヒマなど無いはずなのだが。
「あっ!」
五輪男と琴莉は同時に声をあげた。
指先が触れたのだ。ほんの僅かな接触だ。
だが、そんな一瞬をふたりは抱き締めあったような事に感じた。
「待て! ことり! 身体を広げて!」
空中でバランスを崩した琴莉は偶然にも最大効率で身体に風を受けた。
グッと減速した琴莉を五輪男が抱きしめる。
「琴莉は俺のもんだ! 誰にもやるもんか!」
力一杯に妻を抱きしめた五輪男が叫んだ。
琴莉の目に涙が溢れた。
「ごめんな! 琴莉! ごめんな! こんな事に!」
「一緒なら怖くないから! 大好き! 愛してる!」
「俺もだ! 愛してるよ! 琴莉を世界で一番愛してる!」
周りの事など全く目に入らなくなった五輪男と琴莉。
だが、過酷な運命は愛し合うふたりを容赦なく揺さぶる。
「死んでも一緒に居ような!」
「もちろん!」
そんな言葉を交わした直後だった。
形容の出来ない衝撃波が琴莉の背中を叩いた。
五輪男の目に眩い光りの柱が通り過ぎる。
目の前を隕石が通過した。
しかし、五輪男にはもうそんな事など、どうでも良い。
「あっ!」
短く叫んだ五輪男の腕が空を切った。
衝撃波に弾き飛ばされ五輪男と琴莉は再び引き離された。
五輪男の胸の中に琴莉の温もりが残っていた。
「待て! 待ってくれ! 行くなよ! 琴莉! 行くな!」
「ありがとう! ありがとう! さようなら!」
「そんな事言うな!」
「大丈夫! むこうで 天国で待ってる!」
「あっちもそっちも関係ねー! 俺は今お前と居たいんだ!」
僅かに血を吐きながら落ちて行く琴莉。
ヘッドダウン姿勢の五輪男よりも早く落ちて行く琴莉。
水面に映る月明かりを五輪男はヤケに眩しいと感じた。
だが、加速していく琴莉を懸命に追いかける五輪男は、それを考える余裕がない。
必死に手を伸ばした瞬間、もう一度だけ指先が触れた。
そして五輪男は見た。水面に光る月明かりの反射とは違う、眩く輝く光の球を。
言葉では表現出来ないその不思議な光。海面ではなく空中で光る正体不明の光球に琴莉が吸い込まれて。
「ざっけんな! クソッタレ! それは俺のもんだ!」
無意識に五輪男は叫ぶ。
だが、そんな五輪男の耳に琴莉の声が届く。
「愛してる。ずっと愛してる」
空耳じゃない。
間違いない。
五輪男はありったけの声でさけんだ。
「まて! 琴莉! 行くな! 待ってくれ! 俺を置いて行かないでくれ!」
たが、琴莉は光に吸い込まれ消えていった。
最期に見た琴莉は笑っていた。
愛する妻の笑顔を見た。
敗北感と絶望感が襲いかかってくる。
だが、五輪男はもう全てを受け入れるしかなかった。
水面に光る月明かりは眩いほどた。
――――あぁ 俺は死ぬんだな
その時ふと五輪男は思った。
きっと琴莉は大丈夫だと。
あの眩い光は超自然的な何かだ。
強く生きてくれよ。俺の分も。
最後にそう祈った五輪男の意識が薄くなり始めた。
深い深い水に潜って行くような感覚が続き、やがて五輪男の意識は途切れた。
――――五年後
扇形に広がる大陸、ガル・ディ・アラ。
その中央を流れる大河ガガルボルバの河口付近には世界最大の都市がある。
イヌの国。ル・ガル帝國の首都。ガルディブルク。
人口三百万に達するその街は、この日、不思議な現象を体験した。
誰一人として操作していないにもかかわらず、教会の鐘や城の半鐘や都市部の時を告げるチャイムまでもが自然に鳴り響いたのだ。
それだけではなく、そもそも花吹雪く常春の都と謳われたガルディブルクにあるすべての木々や果樹や植物が花を咲かせた。
空は青く澄み渡りきって、青さの中に黒さを混ぜた遠い遠い空の果てを思わせている。
「なんとも素晴らしいではないか。この上ない吉兆ぞ」
ガル・ディ・アラに栄えるオオカミの国。
ル・ガル帝国の帝王シュサ・ダ・アージンは感嘆を漏らした。
ガッシリとした体躯に皇帝の証である真紅のマントを羽織り、ガルディブルクの居城にて空を見上げていた。
漆黒の体毛に覆われ、頭頂部には鋭くそびえる立ち耳。
前へと伸びたマズルからは鋭い牙と長い髭を垂らしたオオカミの風貌だ。
「して、いかな吉兆であろうかの」
帝王の側近として並び立つ男。
カウリは花の咲き乱れる街路樹を眺め、そう漏らした。
どこか競うように咲き乱れる花々は、短い命を煌かせる様に美しく競い合っている。
それはまるで、戦場にて武勇争いを繰り広げる歴戦の兵達が、自らの武を誇るようにしているようにも見える。
だが、戦場での手柄争いが死に直結するように、いっせいに咲き乱れる花々はこの年再び花を付けるのが辛かろう。
それでも咲いていると言うのだから、もしかしたらこれ以上無い凶兆かも知れない。
帝王の相国としてシュサ帝を支える男は、心配性なその性分を発揮してしまう。
「カウリ。こんな時は喜んでおけ。咲くなと言っても花は咲いてしまうのだからな」
ワッハッハ!と威勢良く笑った稀代の武帝はゆっくりと階段を降りて行った。
まもなくル・ガルでは北方地域に存在する反ル・ガル組織や盗賊を討伐する遠征が始まる。
扇の南が海と言う事もあって東、西、北の各方面で年度毎に順送りでの遠征を繰り返しているのだ。
「あんまり楽観過ぎると今度こそ死んでしまうぞ? ダー」
シュサ帝の諱はダリムと言う。真名でもある諱はフルネームで呼ぶ事は無い。
多くの臣下が『帝王陛下』または『シュサ様』と呼ぶ中、カウリだけは『ダー』と呼んでいる。
その姿にル・ガルを支える者たちが帝王と相国の特別な信頼関係を見て取っているのだった。
「気にしすぎだ! 人はいずれ死ぬんだ。早いか遅いかでしかない」
「そりゃそうだが」
「それよりもほれ、出発じゃ。今年は忙しいぞ!」
再び豪快に笑いながら歩いて行くシュサ帝。
数日後。遠く北の地へ向かって行軍するシュサ帝は、北部最大の拠点シウニノンチュからの報告を受け取った。
待ちに待った日がついにやって来た。
シュサ帝の一人娘。エイラが男の子を出産したとのことだ。
馬を進める皇帝の行き足が何時もより格段に早くなり、歩兵が大変であったと後の年代記に記された。
イヌの国を統一した王。ノーリ・ウ・アージンの玄孫。
国境を画定させ中興の祖となった王。シュサ・ダ・アージンの孫。
魔道王、或いは魔王そのものと呼ばれ、この世界の全てを手に入れた男。
他国からは憎しみを込め暴狼王と呼ばれた悲劇の男。
カリオン・エ・アージン。
後の征服王『リュカオン』の誕生であった。