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「おそらく──僕のものです」
オフィス──宮殿内の執務室に静かに響いたその言葉に、ジゼルも、そしてジャックも肩を落とした。テーブルを挟んで反対側のソファに腰掛けるローレンス王子は、袋に入った件の指輪を指でつまみ、光に透かすようにして見ている。
「一ヶ月ほど前に、自分のカレッジリングをなくしたんです」
指輪をテーブルに置きながら王子は言った。背筋を伸ばし、重厚なソファに足を組んで座る姿は実に優雅だ。
この執務室も実に格調高い。調度品の一つ一つに歴史の重みを感じ、控えめながらも絢爛なインテリアは王家の居城にふさわしいものだ。
「なくした?」
「近々、ブライス校の創立百周年記念同窓会があるのですが」
ジゼルを見るとうなずいていた。確かにあるらしい。
「その時に出す記念誌に僕と同級生の座談会を載せるというので、カレッジリングを持ってブライス校に集まったんです」
今度はジゼルは首を横に振った。これは知らなかったらしい。王子と並んで記念誌に載るのだ。ジゼルには悪いが、きっとそれなりの地位にある者ばかりを集めたのだろう。
「座談会が終わり、解散というときになって、カメラマンが青ざめた顔で僕に言ってきたんです。指輪がなくなったと」
「ちょ、ちょっと待ってください。何故カメラマンが?」
「空き教室で写真撮影をするというので預けていたんです。ですが彼が机の上に置いて、わずかばかり席を外した間になくなっていたらしい」
「その教室というのは、誰でも入れる場所なんですか?」
「そうだと思います。旧校舎の一階でしたが、特に出入りを制限されているような場所ではありませんでした」
この場合カメラマンがもっとも怪しいが、誰でも出入りできるとなると断定はできなくなる。
「確かに彼にも非がありますが、彼も僕と一緒にあちこち探してくれました。それでも見つからなくて……平身低頭どころか今にも死にそうな顔で謝り続ける彼が不憫になりましてね。僕も諦めざるを得なかった」
カメラマンが盗んだのでなければ、彼はそれこそ血の気が引く思いがしただろう。何せ王子の大事な物をなくしてしまったのだ。時代が時代なら命で償うことも無きにしも非ずだ。その彼を不問に付したというのだから、ローレンス王子という人物はずい分と寛大なお人らしい。
「しかし何故その時すぐに警察に届け出なかったのですか? 窃盗の可能性もあるわけですし、すぐに現場を調べれば手がかりがつかめたかも知れませんよ」
「指輪ごときで大騒ぎして、警察まで呼ぶのは気が引けたのです。学校にも迷惑がかかりますしね」
「で、そのなくなった指輪を何故か死体が持っていたと……」
「教室から消えた指輪がどのようにして被害者の手に渡ったかはわかりません。ですが、指輪の本来の持ち主として、人一人の命が失われたことに心が痛みます」
王子は悲痛な表情で目を閉じた。王族としての模範的な振る舞いで、非の打ち所がない。
「一応……本当に一応なんですがお聞きします。この男に心当たりはございませんか」
ジャックは写真を取り出し、王子に見せた。
「マイルズ・ボーフォートという男なんですが」
「ありません。会ったことも、名前を聞いたこともないですね」
王子は写真を手に取ったが、一瞥しただけですぐに戻した。
「もう一つ。二週間前の水曜日、夜十二時から朝の六時まではどちらにいらっしゃいましたか」
さすがに日にちが経っているのですぐには出てこないと思ったのだが、王子はちょっと考えただけですぐに答えた。
「アリバイですか。その日なら……ああ、タイにいましたよ」
「あっ」
そう言えば、王子は一週間前に十日間の外遊の旅から帰ってきたのだ。二週間前となると国内にはいなかったことになる。ちょっと考えればわかることだった。
「大変失礼いたしました」
ジャックは深々と頭を下げた。
完璧なアリバイだ。指輪をなくしたという件についてはもう少し調べる余地はあるが、少なくとも王子自身が事件にかかわっているということはなさそうである。
ため息をつきながらジゼルを見ると、彼女も言うことがないという風に肩をすくめている。
「お聞きになりたい事というのは以上ですか」
「はい。突然押しかけてのご無礼、大変申し訳ありませんでした」
ジャックが再度頭を下げると、ジゼルとユージンもそれに倣って頭を下げていた。
「いえ。僕の指輪を被害者が所持していたということは、僕も全くの無関係ではありません。小さな手がかりから事件を解決していくのがあなた方警察官の仕事、僕も一市民として協力は惜しみませんよ。もっとも、あなた方が危険を冒してここまで来たということは──僕はこの事件の重要参考人らしい。違いますか?」
王子は薄い唇の端に笑みを浮かべた。その洞察力の鋭さには背筋が寒くなる思いだ。だが、王子はすぐに相好を崩した。
「もちろん、僕は何もしていませんけどね。でも僕自身が事件に関係者として関わることなど初めてだったので、不謹慎かもしれませんが楽しかったですよ」
確かに不謹慎ではあるが、この人にそう言ってもらえると気分がだいぶ楽になる。
「ところで、指輪は返してもらえないのかな」
「申し訳ありません。まだ捜査中の段階ですので、証拠品はお返しできないんですよ。ですが殿下の所持品として、事件解決後には早急にお返しできますよう上の者に伝えておきます」
「よろしくお願いします」
ジャックたちが席を立つと、王子は後ろに立っていたハリーを振り返った。
「ハリー──ああ、紹介がまだでした。彼はハリー・エイデン。僕担当の警護主任で、秘書も兼任してもらっています」
「エイデンです。以後お見知りおきを」
ハリーは三人と代わる代わる握手をした。
「彼らを門まで送ってくれ」
「かしこまりました」
「僕はまだ仕事があるので、ここで失礼します」
三人をドアまで送って、王子はふとジゼルを呼び止めた。
「ところで、君は記念同窓会に行くのかい?」
振り返ったジゼルは一瞬間を置いて答えた。
「……いえ、仕事がありますので、欠席するつもりです」
「そうか……それは君の友達もきっと残念がることだろう」
ジゼルの笑顔がまた引きつったのをジャックは感じた。しかもこの引きつり方は、ジゼルが怒り出す前兆だ。王子相手に、一体何が気に食わないというのだろう。
「今日は本当にありがとうございました」
ジャックは慌ててジゼルの腕を引っ張り、逃げるようにして執務室を出た。
宮殿を出て、通用門へと続く路を無言のまま歩いていると、前を歩くハリーがおもむろに口を開いた。
「殿下はああおっしゃっておりましたが……今後このようなことはなきようお願いします」
こちらを振り返った顔は柔和だが、目が笑っていない。
「まさか本気で殿下のことを容疑者扱いしているわけではないですよね?」
眼差し鋭く射すくめられると、ついつい怯んでしまう。
「も、もちろんです。指輪が殿下のものであることを確認したかっただけで……」
「指輪が殿下のものでも、事件には全く関係ないのですから、今後一切、事件の捜査でこちらに接触しないでいただきたい。殿下のお立場、そしてあなた方ご自身のお立場を良くお考えください」
わかってはいることなのだが、改めて言われると腹立たしいものがある。
権力を前にして正義を曲げるなどあってはならないことだ。だが現実問題としてその正義を貫こうとすると、様々な問題が障害となって立ちはだかる。
自分にもっと力があれば何とかなるのかもしれないが、警部補の身分ではどうにもならない。ハリーの言うとおり、これ以上王子に追及の手を伸ばすのはやめておいたほうがいいだろう。王子が無実であればあるほど、痛くもない腹を探られれば不愉快になるというものだ。
帰りの車の中で、ユージンも、そしてジゼルもジャックの考えに賛成してくれた。ただでさえ溜まっている仕事を放り出しているのだ。この件にだけこだわってばかりもいられない。被害者には申し訳なく思いながらも、三人はこの件を忘れることにした。